私は宇宙にははじまりが無いと思っている。
始まりも終わりもない世界であると。
しても地球の始まりはあると。
それに生命の始まりも、
地球生命のです。
ここに私の思考の核心がある。
ひとつ「こと」は起点がなければ捉えられない、
ひとつ「こと」は終点がなければ定められない。
ゆえに人は始まりと終わりをつくる。
ここに思考がはじまる。
そして語るのです。
・・・・・
この世界は始まりも終わりもない。
ただ「場」があるだけ。
そこに「ものごと」がある。
「ものごと」は一体のもの。
「もの」だけで「こと」がなければ空に如かず。
「もの」は「こと」があってはじめて実となる。
そも一体なのだが物ではなく事こそ実を現わす。
ゆえ世界とは「こと」の「ば」である。
それは漢字では事場だが、これは事端としても同じ、
それをなぜか言葉とする。
音としてはすべて同じで「ことば」である。
「場」は一つであり全体を指している、
「葉」は「は〃」で無数を指している、
なるほど日本語はそも「そもそも」をしめしている。
その根本の力を「神」と表わすことも含め。
てか言葉を持ったヒトは伝えることを知る。
それを重ねて語ることを覚える。
これを覚えて思考がすすむ。
ときにできる物語りがある。
それは「はじまり」の物語りである。
起点を想う心がそれを創りだす。
てかこれは実としてあったもの。
その終点はまだ見ぬ未来である。
この語りがヒトをヒトとして人間に。
これは俗に神話と言われるもの。
神話はゆえ歴史でもあり、それは繋がってるのです。
神話は歴史であり歴史は神話である。
さらにここから宗教・哲学が起こる。
それは現今の科学にいたる。
さてもここに落し穴がある。
そも言葉は、人間の言葉は、虚構であるということ。
現実を写してるだけである。
虚構とは嘘ではありません、のように構えたものである。
あくまで構えだと謂うこと。
それを心得ていればいいが。
してもこれは魔法の道具になる。
この道具は実はなにも創らない。
でも育てられるのです、
てか作ることもできる、
場に潜む力を利用して。
それが人間の力である。
それだけが人間の力である。
そういうことですから、
ゆえそれを魔法と言う。
・・・・・
これは私の思想である。
でも私がつくったものではない。
そも日本の歴史伝統文化に内包されている。
そして何より言葉に込められている。
その言葉に生きているから、
それを取り出しているだけ、
私なりにですが。
人間は言葉の生き物である。
でもその言葉は同時に足枷にもなる。
これはもういつも言ってること。
大日本(おほやまと)はそれを心得ている。
ゆえ言葉と生きていても尚言葉に囚われず。
それが宗教への向き合い方に現れる。
俗に無宗教と言われる。
それはそうです、
宗教がなる遥か以前の心映えで、
はじまりの物語りが出来る前の、
その心のまにまに生きるのです。
事の場で言の葉に出会った頃の、
その心を持って。
柿本人麻呂はそれを歌っている。
それは万葉集の中にて。
しきしまの大和の国は、
言霊の幸はふ国ぞ、ま幸くありこそ、
と。
北畠親房は言っている。
その著神皇正統記にて。
大日本者神国、
おほやまとはかみのくになり、
と。
以て件の如し。
始まりも終わりもない世界であると。
しても地球の始まりはあると。
それに生命の始まりも、
地球生命のです。
ここに私の思考の核心がある。
ひとつ「こと」は起点がなければ捉えられない、
ひとつ「こと」は終点がなければ定められない。
ゆえに人は始まりと終わりをつくる。
ここに思考がはじまる。
そして語るのです。
・・・・・
この世界は始まりも終わりもない。
ただ「場」があるだけ。
そこに「ものごと」がある。
「ものごと」は一体のもの。
「もの」だけで「こと」がなければ空に如かず。
「もの」は「こと」があってはじめて実となる。
そも一体なのだが物ではなく事こそ実を現わす。
ゆえ世界とは「こと」の「ば」である。
それは漢字では事場だが、これは事端としても同じ、
それをなぜか言葉とする。
音としてはすべて同じで「ことば」である。
「場」は一つであり全体を指している、
「葉」は「は〃」で無数を指している、
なるほど日本語はそも「そもそも」をしめしている。
その根本の力を「神」と表わすことも含め。
てか言葉を持ったヒトは伝えることを知る。
それを重ねて語ることを覚える。
これを覚えて思考がすすむ。
ときにできる物語りがある。
それは「はじまり」の物語りである。
起点を想う心がそれを創りだす。
てかこれは実としてあったもの。
その終点はまだ見ぬ未来である。
この語りがヒトをヒトとして人間に。
これは俗に神話と言われるもの。
神話はゆえ歴史でもあり、それは繋がってるのです。
神話は歴史であり歴史は神話である。
さらにここから宗教・哲学が起こる。
それは現今の科学にいたる。
さてもここに落し穴がある。
そも言葉は、人間の言葉は、虚構であるということ。
現実を写してるだけである。
虚構とは嘘ではありません、のように構えたものである。
あくまで構えだと謂うこと。
それを心得ていればいいが。
してもこれは魔法の道具になる。
この道具は実はなにも創らない。
でも育てられるのです、
てか作ることもできる、
場に潜む力を利用して。
それが人間の力である。
それだけが人間の力である。
そういうことですから、
ゆえそれを魔法と言う。
・・・・・
これは私の思想である。
でも私がつくったものではない。
そも日本の歴史伝統文化に内包されている。
そして何より言葉に込められている。
その言葉に生きているから、
それを取り出しているだけ、
私なりにですが。
人間は言葉の生き物である。
でもその言葉は同時に足枷にもなる。
これはもういつも言ってること。
大日本(おほやまと)はそれを心得ている。
ゆえ言葉と生きていても尚言葉に囚われず。
それが宗教への向き合い方に現れる。
俗に無宗教と言われる。
それはそうです、
宗教がなる遥か以前の心映えで、
はじまりの物語りが出来る前の、
その心のまにまに生きるのです。
事の場で言の葉に出会った頃の、
その心を持って。
柿本人麻呂はそれを歌っている。
それは万葉集の中にて。
しきしまの大和の国は、
言霊の幸はふ国ぞ、ま幸くありこそ、
と。
北畠親房は言っている。
その著神皇正統記にて。
大日本者神国、
おほやまとはかみのくになり、
と。
以て件の如し。
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