創価学会の信仰に功徳はあるか?

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222.もう一度、創価の「善悪」という決めつけを考える。(地獄、境涯、宿業、罰など)

2007年11月14日 01時00分25秒 | 創価学会
●創価学会の教える、単純な”決めつけによる”善悪や単純な”決めつけによる”十界は信用することが出来ない。

 創価学会の信仰に功徳はあるか? 33.創価学会の「悪」「仏敵」とは何か?創価の勘違い。 この記事では創価学会の「悪」「仏敵」と”決められた”相手に対して対話がなされていない、創価学会本部や日蓮正宗トップがお互いに全く説得や対話がなされていない事を書きました。後者は他の記事にいくつも書いています。

 創価学会や日蓮正宗系の人には師弟不二や法主絶対論を教えられているので、それと一緒に教わったり学んだりした「トップの対話拒否」から一方的にコメント禁止、削除なども一つの傾向としてあるのかもしれません。

 今では問題を感じている「これだけは言っておきます」「言い切る」という言葉は私自身も当初もくじ1、2の頃には多用していますし学会員に共通するキーワードなのかもしれません。人に言い切る事を”決めてしまう”のはいかにも恰好良いようですが、言って、切って、見捨てる傾向が学会員には強い気がします。

 しかし創価学会や日蓮正宗のやりとり、あるいは創価とアンチ創価のやりとりを見て罵倒が飛び交うのは問題です。特に宗教者側が切れる事が多く、また説得できていないのは呆れます。
 ネット弁慶ならぬ聖教新聞弁慶、自画自賛は自分の宗教団体ですからあっても不思議ではありませんが、信徒に法戦や対話、戦いを要求して学会本部が何もないのは異常でしょう。
 ネットだけでなくリアルでも説得が上手くいかないのは当然の様な気がします。
学会本部は新聞上の説得も失敗しているのではないでしょうか?聖教新聞弁慶というのは、一個人の友情の復活や対話継続失敗もその辺に一因があるのかもしれません。

 やはり聖教新聞などで「その様にしか、それしか、」教わっていない事が問題だと思います。

気長にのーんびりと話し合いを続ける事が「ケースバイケースで友を作る、様々な立場の友人を作る」事なのかもしれません。

 創価学会本部の様にいつまで経っても敵と呼ばれる人を誰も説得できないのはおかしいです。やはり、それほどまでに「我々が正しい」「自分が正しい」と”決まっている”のであればきちんとオープンに説得すべきでしょう。

創価学会の場合は批判者や退転者が「悪」であり「敵」であり「仏敵」であり「魔」であり地獄の○○と決められています。
創価学会は池田氏が永遠の指導者であり、最も「仏の境涯」に近いとされています。
子供は「池田先生の様なリーダーになれ」、創価班などでは「先生をお守りしろ!」といわれますよね。

創価学会の言う敵とか悪ってそんな単純なものでしょうか?

●もう一度、「善悪」について考える。境涯、宿業、宿命など安易に”決めつける”事。結論づける事。

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 ブッダは歩むブッダは語る 友岡雅弥 著 第三文明社(P18)

「悪」とはその様に単純なものでしょうか。貧困と空腹のどん底でストリートチルドレンがつい店先のオレンジに手を出した。もちろん、盗みは悪い事です。しかしこの場合、100パーセントの悪をこの子に負わせる事が出来るでしょうか?その子の事を考える時に私たちの胸は痛みます。「善悪」とはそのような「痛み」を持って考えるべき問題なのです。「痛み」を感じることなく誰かを「悪」と決めつける。「痛み」を感じることなく自分のやっている事を「善」と思う。これこそもっとも避けなければならない態度でしょう。全くの悪もなく全くの善もない。ゼロと100%の間に真実は漂うのです。
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上記の文章で「悪」は「地獄の因」とか「地獄」とかに置き換えても宗教的な意味は成り立つと思います。文章としてはおかしくなりますが、私の言いたいニュアンスは解って頂けるのではないでしょうか?

要は安易に人を決めつけて良いのか?ということです。

●十界の六道を目的として”決めつけて”言及するならば、それは差別。

創価の言う「悪」とはその様に単純なものではない、と書きました。では十界はどうでしょうか?

 地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏というのは仏教徒にとって菩薩、仏は言っても良いと思います。
菩薩道や菩薩、などの 仏にはほど遠いけど。。。という場合によって仏という単語は使いません。という謙虚な感じがしますし、仏道修行とか仏とは人を救う過程の中で説明のために使われるのは構わないでしょう。

 私はギャンブルは全く駄目ですが、プロのパチンカーだっています。ギャンブルやっていたら餓鬼、畜生、修羅、でしょうか?それは周りから見たらその人のイメージでしかないですよね。本人は生活かかっていますし、楽しいのかもしれません。
 生活がかかっているのは現代人の大人ならば誰でも当たり前です。世界中の人が(例えば)修羅になってしまいます。
そういえば東大を出てプロの麻雀士になった人もいた気がします。頭良いから声聞、縁覚???でも餓鬼、畜生、修羅??

 現代社会はもっと複雑であり、現代人の心の中はもっと複雑な思いがあると思います。

○「十界互具」

 仏法者にいわせると「十界の中に十界があるのが百界」が上記のことに当てはまると思います。
「十界互具」とは「十界それぞれに十界が具わっている」ということです。「十界の、どの一界にも十界が具わっている」

その構造は当たっているかもしれませんが、この世の中にはたった十しかない立場や境涯しかないのか?ということです。

もちろん、カルト思考のないまともな仏教徒の人が十界や十界互具を説明するのは何の問題もないと思います。当然その先の説明があるでしょうし、MCしないでしょう。過去の教えは過去の教えとしてきちんと説明できれば意味はあると思います。

●地獄の因つまり因とは因果の因、原因の因。地獄の境涯と人を”決めてしまう”こと。

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 日蓮自伝考 山中講一郎 著 水声社(P356)

 「日蓮も又かくせめらるるも先業なきにあらず不軽品に云く「其罪畢已」等云云、不軽菩薩の無量の謗法の者に罵詈打擲せられしも先業の所感なるべし何に況や日蓮今生には貧窮下賎の者と生れ旃陀羅が家より出たり心こそすこし法華経を信じたる様なれども身は人身に似て畜身なり(創価学会版御書P958)」

 しかしここで重要な事は「其罪畢已(ございひっち)」を必ずしも弟子達に要求していないことである。日蓮は「其罪畢已(ございひっち)」にみられるような因果論を「常の因果」と共に乗り越えて勧心本尊抄に消化して、それを弟子達に与えようとしたのであった。
(中略)
 いわゆる「常の因果」観には大きな欠点がある。法華本門を標榜しながら爾前経(にぜんきょう)の歴行修行に逆戻りしてしまうことが一つ。そして更に大きな問題は社会性を欠落させて差別思想の温床となってきた歴史的事実である。仏教者がこの事実を正視しない限り真に社会に潜む悪と対峙することはできないであろう。

 佐渡御書においては「常の因果」を通常の善悪による因果とし日蓮の因果を謗法による因果としている。これは日蓮がその因果を我が身に引き受けている事によって成り立っている。そこでは社会的な問題は発生することがない。しかし末流の人々が、自らを高見において不用意に他者に突きつける時、謗法による因果といえども差別を生み出し社会的罪悪をもたらすという構造は変わらない。
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 日蓮自伝考 山中講一郎 著 水声社(P362)

 罰ということについては、立教開示以来、日蓮の終始語る所ではある。ところが意外なことに日蓮は信徒や庶民に対して「罰を受ける」とか「それは罰だ」といったことは一度もない様である。もちろん事故や病気で倒れた人に「罰だ」といった事もない。
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上記の文章で「罰」は「地獄の因」とか「地獄」とか「悪」に置き換えても宗教的な意味は成り立つと思います。文章としてはおかしくなりますが、私の言いたいニュアンスは解って頂けるのではないでしょうか?

要は安易に人を宗教的差別で決めつけて良いのか?ということです。

●結論

大事なことは苦しんでいる人を安易に地獄とか餓鬼とか決めつけたり結論づけたりするのではなく、(低い境涯だと思うのであれば、なおさら。)その人に近づいて関わり救うことが必要でしょう。”決めつけることが目的でなく”救うことが目的です。見下す目線の救う、というよりはお互いに助け合う。。。。がいいのかもしれません。

'07.11.14 本文全面修正
'07.11.12 追記
'07-11-11 20:40:06 初稿
コメント (1)
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