創価学会の信仰に功徳はあるか?

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477.日蓮宗の開目抄、日本語訳 (c)日蓮宗 2003

2019年05月14日 22時38分07秒 | 日蓮宗の文献、教学など
開目抄より  (c)日蓮宗 2003

迹門方便品(ほうべんぽん)は一念三千・二乗作仏を説(とい)て爾前二種の失一(とがひと)つを脱(のが)れたり。しかりといえどもいまだ発迹顕本(ほつしやくけんぽん)せざれば、まことの一念三千もあらはれず、二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし。根なし草の波上(はじよう)に浮(うかべ)るににたり。本門にいたりて、始成正覚(しじようしようがく)をやぶれば、四教(しきよう)の果をやぶる。四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぬ。爾前迹門の十界(じつかい)の因果を打ちやぶて、本門十界の因果をとき顕(あら)わす。これ即ち本因本果の法門なり。九界(くかい)も無始の仏界(ぶつかい)に具(ぐ)し、仏界も無始の九界に備(そなわり)て、真(まこと)の十界互具・百界千如・一念三千なるべし。

日蓮宗の日本語訳 (c)日蓮宗 2003

法華経の迹門の中心をなす方便品は、一念三千の教えと二乗作仏(声聞乗・縁覚乗に在る者も真の仏道を達成できるという仏陀の導き)を説いたので、法華経に至る前段階の経典がもっている二種類の失点のうちの一つをまぬがれることができた。しかしそうはいっても、まだ迹門の教えをひらいて本門の主旨を顕らかにしていないから、真実の一念三千も明らかにされるに至らず、したがって、せっかく説かれた二乗作仏の根底が明確にされないから、決して定まったことにはならない。あたかもそれは、水面に浮かんだ月の影を見るようなものであり、根無し草が波の上に浮かんでいるようなものである。しかし、本門に至って、釈尊はたまたまブッダガヤの菩提樹の下で覚りを開いたのではないことが明らかにされれば、釈尊の教えは蔵教(ぞうきよう)・通教(つうぎよう)・別教(べつきよう)・円教(えんぎよう)という四つの教えに集約されると理解してきたことは、表面的なものであることがはっきりし、それらの四教による限りでは釈尊の覚(さと)りを示すには充分でないことが明確にされるならば、四教が示した覚りに至る修行の道筋も否定されることになる。こうして、法華経の前段階の諸経典や法華経の迹門に説かれた「十界の因果」は充分に確立していないとし、仏界の確立を中心とする「本門の十界の因果」が説き明かされた。これがすなわち本因(ほんいん)・本果(ほんが)の教えである。ここにおいて地獄界から菩薩界に至る九界は無始の仏界(永遠なる仏界)に包まれ、仏界も無始の九界(永遠の衆生)の中におのずから備わっている救済の様相が示され、真実の十界互具・百界千如・一念三千が明らかにされるに至ったのである。

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