私は10代の頃から内得信仰をして20代で入信しています。
●内得信仰時代
10代の頃は創価学会(以下、創価)と日蓮正宗(以下、正宗)は蜜月時代だったので、日顕の呼び方を御法主日顕上人猊下とか教えられました。尊敬語として破綻しているとても変な日本語ですよね。
「正宗だけが正しい宗教で、他は邪宗である。」
「大石寺に毎月一回は登山して大御本尊を拝みなさい。」これは複数の人から教えられました。
新聞啓蒙は事情があってしませんでしたが、内得信仰時代から可能な限りの勤行唱題、折伏、20歳になったら選挙活動もやっていましたね。
内得信仰時代の当初は御書全集も人間革命も数珠も本尊も所持しないまま、自分にできる活動をしていたわけです。
数珠と経本は隠し持つようになりましたが。。。
「仏法理解のための一問一答」も「改訂版 創価学会入門」もまだ持っていませんでした。
学生部幹部や男子部幹部に教わったことしか言えず、内得信仰時代からこの2冊は自分のためと折伏する為に必要だと思って、とても欲しくてしかたなかったです。この2冊の書籍無しで折伏していたんですからメチャクチャだったと思います。
内得信仰している自分に対しても男子部、学生部は折伏と選挙活動をするのはいいことだ。功徳がある!やって当たり前という雰囲気(集団心理)がありました。
折伏相手が一般仏教学や天台法華も知らない弱みに付け込んで、創価独自の仏教学を押し付け「言い切った気分」になっていただけです。
今の私からすれば、「仏法理解のための一問一答」も「改訂版 創価学会入門」も何一つ説明になってないと思います。
正宗の独自な教理教学には問題しかないとおもいます。
●入信後
社会人になり正式に入信しました。会社勤め以後も、会社の寮で折伏をしてしまいました。
大学時代の友人に加えて、会社の同僚、先輩からの信用を失うデスマーチが始まっていたと思います。
「仏法理解のための一問一答」も「改訂版 創価学会入門」も買っていましたが、半年もたたずに数ヶ月で仏教の教学を前面にして説得しても全く話は聞いて守らない事に気が付き、方針転換しました。(このことは過去記事にも書いています。)
入信から退会するまで、ずっと相手の悩み事を聞こうとする意識は常にありました。しかし「相手が悩み事を話してくれるケースはほぼ皆無だった」ことをチェック出来ていませんでした。もう一つは自分の悩み事は一つも解決せず、ストレスになっていたと思います。自分の悩み事は全く解決出来ず、相手の悩み事を聞き出せない点は、特に30代以降、重くのしかかったと思います。
この話は後の記事に続く予定です。
●退会後の私と調べてきた日蓮正宗の独自性
退会してブログ立ち上げ後、色々なことを調べて書いてきました。
色々な人の支援なしに脱カルトの道を歩く今の自分には到達できなかったでしょう。これからも同じだと思います。
私を無償で助けてくれた方々は無宗教者、ほどほどの信仰者、他宗のお坊さん等様々です。
何度も書いている通り、私は嘘を教えられ、私自身も嘘を信じ、嘘を広めていたにすぎません。
重ねて書きますが、宗教する人は祈祷が出来ない場合、書く(書写)、説明する(話す)、祈る(願う)ぐらいしか出来ません。
日蓮さん同様、坊さんが人様他人様の「苦しみや悩みを引き受けて祈祷」し、祈願成就させるのが本来のあり方です。
「加持祈祷」と「祈る(願う)」は異なります。前者は能力の有る人しかできませんし、後者は誰にでもできます。
現代では神仏を下ろせる聖職者はほとんといないのでは?
皆さんがどう思うかは自由ですが、日蓮さんが不動、愛染、大黒天など神仏を下ろせたのではないか?と私は考えています。
もちろん日蓮の祈祷や祈りに失敗もあったと思います。(ヒント:梵字の真偽未決な遺文。創価版に未掲載。)
他にも複数の理由から「神仏なんていない、でも私は祈る」など苦しみに寄り添う優しさを問う方がいたならば、私は嫌いになるよりかは好きです。
しかし疑問に思います。今の私としては努力の仕方やさせ方として問題を感じます。
他宗で真面目、誠実に信仰している僧俗の皆さんを無視しています。
「神仏なんていない/神仏はいる」この辺りの詳細は長くなるので書けませんが、どちらにせよ、
苦しんでいる人も、苦しみに耐え信仰している人も、寄り添う人も、救おうとしている人も他宗に大勢いるのですよ?
反戦平和だって同じです。
創価の生命の定義と世間一般の生命の定義は異なります。
同じ様に元気の定義も異なります。
正宗系の元創価の法華講員や創価員などに見られる「特有の歪んだ元気はなくして欲しい」です。
元創価の法華講員や創価員も正宗の古来からの法華講と同様に、もっと謙虚におとなしくなって宗教の自己主張を一切やめてもらいたいと思います。
374.いのるによりて病もやみ、いのちも延ぶることあれば、 たれかは一人として病み死ぬるひとあらん - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
ご祈祷しても構いませんし祈っても構いませんが、最終的な覚悟や心構えは374のとおりであって欲しいと思います。
生命が消える瞬間か病死するまで長い期間かは人それぞれですが、最後に死にたくないと祈っても、その祈りは叶いませんよ、ということです。
念仏は諦めの命と創価など正宗教教団は言ってますが批判として成立しません。
日蓮さんも死後の天国行きが地獄行きかを説いています。
●退会後の私と調べてきた日蓮正宗の独自性
日蓮正宗の独自性、優位性とは何でしょうか?
正宗と日蓮宗で共通する部分を独自性、優位性とはいいません。
皆さんがどう思うかは自由ですが、私としては正宗の教理教学に独自性優位性は全くありませんでした。
それどころか見劣りするショボイ勤行法式しか無いわけです。
大御本尊も4〜6,7代目のレプリカだといえば良いものを、日蓮日法伝承の本物だと言いはるからおかしな説明になっています。
レプリカだと正直に言ってしまえば、レプリカ本尊を信仰するのはカルトだとか問題があるとは言えません。
創価のオバちゃんに解るように書くと、例えば日蓮さんが題目を唱えた。立宗宣言した。(自画自賛ですが)法難にあった。本尊を顕した。等々。
こうした点は正宗と日蓮宗で共通しています。
例えば、佐前佐後を大威張りで語る人がいることには呆れます。言い方、書き方の問題なんですけどね。
創価独自だ!とか正宗独自だ!とか同時に発言してはいないのですが、日蓮宗の教学や努力、遺文の保管、研究などをベースにして、創価や正宗の教学はのっかているだけです。
正宗と日蓮宗で神仏の存在定義は日蓮真筆遺文で共通しているのではないでしょうか?
勤行の奉請、奉送、禮仏偈などの有無の差をはじめとして、感謝の差、努力の差はあります。
創価によれば、大石寺は日顕宗であり、魔が住む山であり謗法の山だとか。
2000年代に池田大作の指導により一応は各宗派は邪宗から他宗ということにはなっています。何故か日顕宗を除いてです。
特に創価の場合は大御本尊を受持しないのであれば、日蓮宗、日蓮正宗の両方で保管されている日蓮真筆遺文も受持してはいけないと思います。
御書全集も編年体も謗法払いと称して捨てるべきではないでしょうか?
それも出来ないのであれば、せめて盗用剽窃した犯罪の結果だと認識して御書全集も編年体も持つべきではないですか?
創価、正宗の教団を捨てるべきなのは言うまでもありません。
行道文庫版
----------<ここから>----------
謗法を責ずして成仏を願はば、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。はかなし、はかなし。何に法華経を信じ給ふとも謗法あらば必ず地獄にをつべし。うるし(漆)千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し「毒気深入失本心故」は是也。
----------<ここまで>----------
日蓮遺文によれば、法華経信仰をしている人は謗法ではありません。現代ではせいぜい、宗派の教えに背いているから”問題だ”、くらいがせいぜいでしょう。
現代では法華経と原始経典のどちらを選択するかといえば、後者でしょう。
日蓮法華系の人なら法華経を選択しても、一法印しかありませんし、空や四法印を学ぶのに遠回りでしょう。
原始経典からは独自性、優位性を問う事自体が誤ちや謗法であることをお忘れなく。
以上
●内得信仰時代
10代の頃は創価学会(以下、創価)と日蓮正宗(以下、正宗)は蜜月時代だったので、日顕の呼び方を御法主日顕上人猊下とか教えられました。尊敬語として破綻しているとても変な日本語ですよね。
「正宗だけが正しい宗教で、他は邪宗である。」
「大石寺に毎月一回は登山して大御本尊を拝みなさい。」これは複数の人から教えられました。
新聞啓蒙は事情があってしませんでしたが、内得信仰時代から可能な限りの勤行唱題、折伏、20歳になったら選挙活動もやっていましたね。
内得信仰時代の当初は御書全集も人間革命も数珠も本尊も所持しないまま、自分にできる活動をしていたわけです。
数珠と経本は隠し持つようになりましたが。。。
「仏法理解のための一問一答」も「改訂版 創価学会入門」もまだ持っていませんでした。
学生部幹部や男子部幹部に教わったことしか言えず、内得信仰時代からこの2冊は自分のためと折伏する為に必要だと思って、とても欲しくてしかたなかったです。この2冊の書籍無しで折伏していたんですからメチャクチャだったと思います。
内得信仰している自分に対しても男子部、学生部は折伏と選挙活動をするのはいいことだ。功徳がある!やって当たり前という雰囲気(集団心理)がありました。
折伏相手が一般仏教学や天台法華も知らない弱みに付け込んで、創価独自の仏教学を押し付け「言い切った気分」になっていただけです。
今の私からすれば、「仏法理解のための一問一答」も「改訂版 創価学会入門」も何一つ説明になってないと思います。
正宗の独自な教理教学には問題しかないとおもいます。
●入信後
社会人になり正式に入信しました。会社勤め以後も、会社の寮で折伏をしてしまいました。
大学時代の友人に加えて、会社の同僚、先輩からの信用を失うデスマーチが始まっていたと思います。
「仏法理解のための一問一答」も「改訂版 創価学会入門」も買っていましたが、半年もたたずに数ヶ月で仏教の教学を前面にして説得しても全く話は聞いて守らない事に気が付き、方針転換しました。(このことは過去記事にも書いています。)
入信から退会するまで、ずっと相手の悩み事を聞こうとする意識は常にありました。しかし「相手が悩み事を話してくれるケースはほぼ皆無だった」ことをチェック出来ていませんでした。もう一つは自分の悩み事は一つも解決せず、ストレスになっていたと思います。自分の悩み事は全く解決出来ず、相手の悩み事を聞き出せない点は、特に30代以降、重くのしかかったと思います。
この話は後の記事に続く予定です。
●退会後の私と調べてきた日蓮正宗の独自性
退会してブログ立ち上げ後、色々なことを調べて書いてきました。
色々な人の支援なしに脱カルトの道を歩く今の自分には到達できなかったでしょう。これからも同じだと思います。
私を無償で助けてくれた方々は無宗教者、ほどほどの信仰者、他宗のお坊さん等様々です。
何度も書いている通り、私は嘘を教えられ、私自身も嘘を信じ、嘘を広めていたにすぎません。
重ねて書きますが、宗教する人は祈祷が出来ない場合、書く(書写)、説明する(話す)、祈る(願う)ぐらいしか出来ません。
日蓮さん同様、坊さんが人様他人様の「苦しみや悩みを引き受けて祈祷」し、祈願成就させるのが本来のあり方です。
「加持祈祷」と「祈る(願う)」は異なります。前者は能力の有る人しかできませんし、後者は誰にでもできます。
現代では神仏を下ろせる聖職者はほとんといないのでは?
皆さんがどう思うかは自由ですが、日蓮さんが不動、愛染、大黒天など神仏を下ろせたのではないか?と私は考えています。
もちろん日蓮の祈祷や祈りに失敗もあったと思います。(ヒント:梵字の真偽未決な遺文。創価版に未掲載。)
他にも複数の理由から「神仏なんていない、でも私は祈る」など苦しみに寄り添う優しさを問う方がいたならば、私は嫌いになるよりかは好きです。
しかし疑問に思います。今の私としては努力の仕方やさせ方として問題を感じます。
他宗で真面目、誠実に信仰している僧俗の皆さんを無視しています。
「神仏なんていない/神仏はいる」この辺りの詳細は長くなるので書けませんが、どちらにせよ、
苦しんでいる人も、苦しみに耐え信仰している人も、寄り添う人も、救おうとしている人も他宗に大勢いるのですよ?
反戦平和だって同じです。
創価の生命の定義と世間一般の生命の定義は異なります。
同じ様に元気の定義も異なります。
正宗系の元創価の法華講員や創価員などに見られる「特有の歪んだ元気はなくして欲しい」です。
元創価の法華講員や創価員も正宗の古来からの法華講と同様に、もっと謙虚におとなしくなって宗教の自己主張を一切やめてもらいたいと思います。
374.いのるによりて病もやみ、いのちも延ぶることあれば、 たれかは一人として病み死ぬるひとあらん - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
ご祈祷しても構いませんし祈っても構いませんが、最終的な覚悟や心構えは374のとおりであって欲しいと思います。
生命が消える瞬間か病死するまで長い期間かは人それぞれですが、最後に死にたくないと祈っても、その祈りは叶いませんよ、ということです。
念仏は諦めの命と創価など正宗教教団は言ってますが批判として成立しません。
日蓮さんも死後の天国行きが地獄行きかを説いています。
●退会後の私と調べてきた日蓮正宗の独自性
日蓮正宗の独自性、優位性とは何でしょうか?
正宗と日蓮宗で共通する部分を独自性、優位性とはいいません。
皆さんがどう思うかは自由ですが、私としては正宗の教理教学に独自性優位性は全くありませんでした。
それどころか見劣りするショボイ勤行法式しか無いわけです。
大御本尊も4〜6,7代目のレプリカだといえば良いものを、日蓮日法伝承の本物だと言いはるからおかしな説明になっています。
レプリカだと正直に言ってしまえば、レプリカ本尊を信仰するのはカルトだとか問題があるとは言えません。
創価のオバちゃんに解るように書くと、例えば日蓮さんが題目を唱えた。立宗宣言した。(自画自賛ですが)法難にあった。本尊を顕した。等々。
こうした点は正宗と日蓮宗で共通しています。
例えば、佐前佐後を大威張りで語る人がいることには呆れます。言い方、書き方の問題なんですけどね。
創価独自だ!とか正宗独自だ!とか同時に発言してはいないのですが、日蓮宗の教学や努力、遺文の保管、研究などをベースにして、創価や正宗の教学はのっかているだけです。
正宗と日蓮宗で神仏の存在定義は日蓮真筆遺文で共通しているのではないでしょうか?
勤行の奉請、奉送、禮仏偈などの有無の差をはじめとして、感謝の差、努力の差はあります。
創価によれば、大石寺は日顕宗であり、魔が住む山であり謗法の山だとか。
2000年代に池田大作の指導により一応は各宗派は邪宗から他宗ということにはなっています。何故か日顕宗を除いてです。
特に創価の場合は大御本尊を受持しないのであれば、日蓮宗、日蓮正宗の両方で保管されている日蓮真筆遺文も受持してはいけないと思います。
御書全集も編年体も謗法払いと称して捨てるべきではないでしょうか?
それも出来ないのであれば、せめて盗用剽窃した犯罪の結果だと認識して御書全集も編年体も持つべきではないですか?
創価、正宗の教団を捨てるべきなのは言うまでもありません。
行道文庫版
----------<ここから>----------
謗法を責ずして成仏を願はば、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。はかなし、はかなし。何に法華経を信じ給ふとも謗法あらば必ず地獄にをつべし。うるし(漆)千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し「毒気深入失本心故」は是也。
----------<ここまで>----------
日蓮遺文によれば、法華経信仰をしている人は謗法ではありません。現代ではせいぜい、宗派の教えに背いているから”問題だ”、くらいがせいぜいでしょう。
現代では法華経と原始経典のどちらを選択するかといえば、後者でしょう。
日蓮法華系の人なら法華経を選択しても、一法印しかありませんし、空や四法印を学ぶのに遠回りでしょう。
原始経典からは独自性、優位性を問う事自体が誤ちや謗法であることをお忘れなく。
以上