創価学会の信仰に功徳はあるか?

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原始仏教の誤解されやすいキーワード

2013年07月16日 20時42分12秒 | 創価学会
本記事は一切の転載、引用厳禁。


岩波 仏教辞典 第2版(岩波書店)より一部抜粋。
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三界 さんがい

仏教の世界観で、輪廻(りんね)する生きもの(有情(うじょう)、衆生(しゅじょう))が住み、往来する世界の全体をさす。欲界(よくかい)・色界(しきかい)・無色界(むしきかい)の三つの領域(界)からなる。最下層の<欲界>(kma-dhtu)とは、婬欲・食欲の二つの欲望をもつ生きものが住む領域で、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道(または六趣)をふくむ。その上の領域である<色界>(rpa-dhtu)とは、物質的な制約は残るものの、婬欲と食欲をはなれた生きものが住むところ。四禅(しぜん)天、詳しくは十七天に区分される禅定(ぜんじょう)の領域をさす。最上層の<無色界>(rpya-dhtu)は、物質的制約をもはなれた高度に精神的な世界で、四無色定の禅定を修める者の境域をさす。法華経譬喩品にでる<三界火宅(さんがいかたく)>とは、迷いと苦しみのこれらの境域を、燃え盛る家にたとえたもの。なお、<三界に家なし>とは、この境域が安住の地でないことを意味し、後には女性の不安定な地位を表す諺になった。
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上記では「往来する世界の全体をさす。」
現代的なworldの意。地球世界とか人間世界の意味。


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真理 しんり[s:satya]

真の道理、まことのことわり。satyaを漢訳仏典では<諦(たい)>と訳すことが多いが、それを現代の日本語に翻訳すると<真理>と訳される。漢訳仏典では<真実>という語を頻繁に用い、<真理>という語を用いることは稀である。

さまざまな<真理>の用例

現代の日本語では、真理は、英語のtruthの訳語として定着している。さかのぼれば、ラテン語のvrits、ギリシア語のaltheiaにまで及ぶ。一般的には<真実の道理>を意味している。大別して、哲学的真理・科学的真理・宗教的真理に分けられ、キリスト教や仏教の場合は宗教的真理に属する。たとえば新約聖書に、イエスの言葉として「わたしは道であり、真理(altheia)であり、命である」〔ヨハネ14-6〕といい、またパウロは「愛は寛容であり、愛は情け深い。。不義を喜ばないで真理を喜ぶ」〔コリント13-4~6〕といっている。

仏教における<真理>の用例

これに対して仏教の場合は、真理という語はあまりなじまない。しかしないわけではない。中国の天台大師智(ちぎ)は「方便道を名づけて人と為し、真理顕わるるを名づけて天と為す」〔摩訶止観4上〕といい、華厳宗の第3祖法蔵(ほうぞう)は、ある人の説として「涅槃などの経は仏性の真理を明かす」〔華厳五教章1〕と述べている。わが国の親鸞(しんらん)は「難信金剛の信楽は、疑を除き証を得しむる真理なり」といい、明恵(みょうえ)は「仏道を願ふは、まづ一心を清むべし。清むといふは、外には名利を厭ひ、内には真理に向ふなり」という。

仏教における真理の表現

しかし仏教語としては、真理よりは、その意味に通ずる<真如(しんにょ)>など、その他数多くの語が用いられている。たとえば、源信(げんしん)作と伝えられる『真如観』という著作があり、それは仏教の真理観を著者なりに述べたものである。そのなかに、真如の同義語として、実相(じっそう)・法界(ほっかい)・法身(ほっしん)・法性(ほっしょう)・如来(にょらい)・第一義(だいいちぎ)を挙げているが、けっしてこれだけに尽きるものではない。そのほか、仏・法・解脱(げだつ)・涅槃(ねはん)・諦・無為・無漏(むろ)などもそうであるし、大般涅槃経には、涅槃の別名として、無生・無出・無作・帰依・光明・灯明・彼岸・無相・無二・甘露、その他多くの語が示されている。もとより、それぞれ言葉が違うのであるから、それに応じて多少のニュアンスは異なってくるが、基本的に相通ずる所のあるのが、仏教の興味深い点である。つまり仏教の真理とは、言葉を超えた悟りそのものから、それを表現するさまざまな言葉となるのが特徴である。

日本思想の場合

日本思想の場合を少し見てみよう。熊沢蕃山(1619-91)は、「真を欣(よろこ)んで法に落ちなどすれば、真の義理には遠し」〔集義和書15〕といい、学者はとかく観念的になって、<真の義理>から遠ざかっていることを指摘している。伊藤仁斎(1627-1705)は、天道・道・天命・理などで表しており、たとえば「天道と謂(い)ふものは、一陰一陽、往来已(や)まざるをもって、故にこれを名づけて天道といふ」〔語孟字義天道〕といい、荻生徂徠(1666-1728)は、「道は知り難く、また言ひ難し。。後世の儒者は、おのおの見る所を道となす。みな一端なり」〔弁道〕といい、真の道は、先王の道、聖人の道であると述べている。
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辞書であるにもかかわらず、曖昧な記述が多く非常に不透明な印象を受ける。

真理 しんり[s:satya] 真の道理、まことのことわり。


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真如 しんにょ[s:tathat]

原義は、その通りであること、あるがままの道理。漢訳語は、真の、あるいは真であることの意で、無為自然の道を真として、俗世に対立させる老荘の真俗観をふまえた表現。tattva(それであること、真理、真実)の語が仏教をふくむインド思想一般で広く用いられるのに対して、この語は仏教に特有である。

初期仏典の用例は少ないが、此縁性(しえんしょう)(縁性)とも呼ばれる縁起の道理の特質を、別様でなくまさにその通りである、という意味でtathat(真如)と呼ぶパーリ相応部(「因縁相応」)の用例は重要である。『カターヴァットゥ』は、東山(住)部(とうせんじゅうぶ)や化地部(けじぶ)が縁起を無為法の一つと見なした根拠にこの経典の当該箇所を引く。『異部宗輪論(いぶしゅうりんろん)』もまた、同様の趣旨から、化地部が縁起真如を九無為の一つとしたと語る。このように、いくつかの伝統部派は、真如、すなわちあるがままの道理としての縁起を無為法に位置づけたものである。

真如を無為として重視する姿勢は、大乗仏教のなかでもとくに瑜伽行派(ゆがぎょうは)に継承される。同派は、虚空・択滅(ちゃくめつ)・非択滅・不動滅・想受滅・善法真如・不善法真如・無記法真如の<八無為説>から、後には三真如を一括して真如とし、<六無為説>を唱えた。これは伝統部派によるいくつかの無為説を摂取しながら、最終的に空性(くうしょう)、勝義(しょうぎ)、法界(ほっかい)と同義であり、無分別智の対象となる真如を無為法の究極に位置づけたものと考えられる。

法蔵の『大乗起信論義記』では、永遠不動の真理(不変真如)と生滅の現実にしたがって生成する真理(随縁(ずいえん)真如)の2種を立て、永遠相と現実相の関係づけに努めた。
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真如 しんにょ[s:tathat] は その通りであること、あるがままの道理。


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実相 じっそう

真実のすがたの意。すべての存在(諸法)の、ありのままのほんとうのすがた(実相)のことで、鳩摩羅什(くまらじゅう)が好んだ用語であり、多く<諸法実相>と熟して用いられる。対応するサンスクリット語として、『中論』18-9のtattvasya lakaam(真実なるもののすがた)やdharmat(法性(ほっしょう)。存在の本質)、法華経序品のdharma-svabhva(存在の本性)などがあるが、直接対応する語が見出せない場合もある。さまざまのニュアンスを含み、漢訳仏教の独自の発展を促した重要な語で、その観察を<実相観>、その大乗仏教の標識としての性格を<実相印>という。
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実相は原始仏教から時代が下った用語であると考えられる。


まとめ

原始仏教における本来の 三界(さんがい) の意味とは異なり
上記の 「往来する世界の全体をさす。」 は誤っている可能性が高い。
全体をさす、ということからも、現代的なworldの意。地球世界とか人間世界の意味。

原始仏教学では三界の定義を 小乗仏教的な自我世界 と言う場合もあり、
           単に 自我世界       と言う場合もある。
が、自我という言葉と原始仏教の無我で別の誤解を招く可能性が高いと思われる。

下記のmixiのマイミクさんのご意見1,2について的確かつ妥当な説明だと思う。
下記の1について、それらしい原始仏典の文を見つけることが出来ていない。

312番記事に紹介した
仏教要語の基礎知識 水野 弘元 P219
によれば、

「三界の本来の意味は空間的地域的な世界を意味するのでなく、人間の心の状態を世界と名付けたものである。」

というわけで 三界 というこの仏教要語でも日蓮さんの語句の使い方はアヤシイ。
日蓮さん、worldで使ってないか?私にはそう思える。
私見ながら日蓮さんは大乗仏教や法華経から原始仏教に原点回帰している一面があると思う。日蓮さんも一度くらいは坐禅を経験したかもしれない。しかし、坐禅をしなかったであろう誤った修行方法から正しく三界を捉えていたとは思えない。例えば三界関連で前掲書の以下の文章を読むと ”正しい修行” があっての悟りと思われる。

「理想の状態としての悟りの法は悟った人にしか得られず、一般の凡夫には絶対に認識体得されないものであるから」(同書 P147)

ここまでが私のまとめ。
次回は 真理について の予定。時期や予定は未定。

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mixiのマイミクさんのご意見。

1.原始仏教における三界とは「"個人である私が経験することのできる"世界」が前提。
2.現代語で言う「世界」ではなく、人間全てが一般的に捉える「世界」などは最初から否定されています。

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以上。
コメント (2)
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