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自選ブログ集・美術・芸術 202108

2021年08月18日 11時52分49秒 | 美術・工芸・デザイン・建築
これは、私のオリジナルブログ「散歩者goo」から、美術・芸術に関連するブログを選定し掲載しています。
過去の全ての自選ブログの記事・アーカイブは、末尾近くのカテゴリー別ブログ集(リンク)に分野別に分類・収納しています。
引用の注意は末尾に記載

美術・芸術

昨日記190117 木(ギャラリートーク1990年代の美術 ギャラリー白)
昨日記180629金(大野浩志展「在り方・現れ方」・評論を書くことを考える会)(追)
『「現代美術」と「現代の美術」の違い』へのコメント・メモ
昨日記170610土(現代美術が分からない。 図書返却 ジム・ランニング)(思想と美術)
昨日記170516火(中学校の同窓会 美術鑑賞の構造)(芸術鑑賞の構造について)
昨日記170416日(美術館行中止 造幣局桜の通り抜け)(美術芸術の個人的経済価値)
昨日記170320月(プチ断食 東洋陶磁 本読了 芸術雑感)追(芸術のカテゴリーと評価)
昨日記160917土(炊飯とダイエット 兵庫県立美術館「藤田嗣治展」ナイトツアー)キュビズムと未来派
昨日記160817水(なまけ癖 美術の話し ジム・筋トレ )美術と経済 現代美術の構造 趣味と経済
昨日記160719火(現代アボリジニ・アートの世界)
昨日記160509月 (アールヌーボーと日本の工芸と美術史の流れ)
昨日記160401金(美術鑑賞方法の一断面・現代美術はつまらない? 副食製造 )追  20160402
昨日記160320日(視力 春画展)追性と性愛と愛
昨日記160306日(古着売却 美術品の価値 食材購入) 美術品の評価とミクロ経済構造
昨日記160130土(西天満 2kWギャラリー「幻想の質量」)追
昨日記160126火(図書館 哲学 アメリカ余談 美術メモ )追
昨日記160123土(HAPS現代アート塾 第6回)
昨日記151116月(園芸処理 西天満・団体展と現代美術 催事情報保存)<追>
昨日記151103火(「下町芸術祭」 モノ派メモ トークイベントで反省)
昨日記151030金(副食製造 西天満 ジム・筋トレ・ラン)
昨日記151026月(芸術論断章 ギャラリーAMI-KANOKO・黒瀬剋展・ASADA展)
昨日記150919土(奈良の画廊廻り アウトオブプレース クラス)
昨日記150818火(新聞検索のチェック 美術論の前に)
昨日記150628日(図書返却 食材購入 大阪美術市民会議)
昨日記150621日(卍字楼・塔本賢一展 JARFO夜ゼミ)
昨日記150601月(散髪 ギャラリートーク・白)
昨日記150620土(横尾忠則現代美術館・講演会<コラージュ> プレミアム商品券)
昨日記151226土(CAS金沢健一展   私的芸術論)(追)
昨日記151003土(ギャラリーノマル・片山雅史個展 芸術原論断片 ラグビーサモア戦)
昨日記150926土(ギャラリークラス・ヤマダヒデキ個展)
芸術論 覚書150517
昨日記150308日(もの派と<幻触> パラソフィア ギャラリー廻り 堀尾貞治展夜話)
昨日記141227土(ギャラリーZone純粋/不純美術  現代美術の構造 ジム 筋トレ)(追)
昨日記131117日(三条界隈の画廊回り JARFO現代美術講座
現代美術美術メモ20131020(20131115作成)
卒寿を超えて「上前智祐の自画道」展のフリートークを聞いて(20130126美術)上前氏の人生と具体との係わり方と具体の実態の一端(具体の各作家で具体に対する見方が異なる)
昨日記130114月( 2kwギャラリートーク 創作手法の問題 ギャラリー経営)
昨日記121207金(9/2晴 ジム ランニング 29分間 走行距離4.6km )(芸術・美術に関する考察)
昨日記121206木(12/3晴 西宮市大谷記念美術館 上前智祐展・BBプラザ 現代絵画のいま・兵庫県美 )
(20120710美術)作られたギリシャ美術の美


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天皇制関連の美術展に対するSNSの批評投稿に対する私のコメントメモ(一部説明追加)

2020年06月02日 19時54分40秒 | 美術・工芸・デザイン・建築
芸術は、表現そのもので、人間の内的な観念や価値観やイデオロギーや感情といったあらゆる内的なものを含みます。
そこには本来タブーはありません。
だからこそ古今東西様々な多様な美術や音楽が存在し、現在も創造され発生しています。
価値観は議論することができません。
それぞれの価値観の体系(パラダイム)の中では、論理や優劣=ヒエラルキーが存在します。
好き嫌い嫌悪感といった嗜好的なものは、価値観そのものです。
偏向とは、その価値観や観念・イデオロギーを中心にした場合から見ると偏向で、別の立場から見れば普通のことでしょう。
例えば私の大好きなバッハの曲は、キリスト教的信仰=一種のイデオロギーで満たされています。
クリスチャンにとっては、仏様や天照大神やその子孫とする天皇は、単なる異教徒でしょうが、その文化は尊重します。
過去には、キリスト教やイスラムが唯一正しいものとして戦争していましたし、キリスト教同士でもカトリックとプロテスタントで宗教戦争を繰り広げました。
文化人類学的立場から見れば、キリスト教も、イスラムも仏教も神道も、単なる宗教の一種であり、神道の根底にある天皇制も、日本という国家や民族の一形態でしかありません。
そもそも日本国は単一民族ではないし、アイヌは日本の先住民族であった可能性もあり、民族的に日本人と称される大和系の人たちも、縄文人と渡来人の混血であることははっきりしています。
縄文時代の宗教・祭祀と弥生時代の宗教・祭祀と古墳時代の宗教・祭祀の変化が考古学的に明らかになりつつあります。
天皇制を基本理念とする、神道の成立時期はいつのころからかはまだわかりませんが、宗教的祭祀が縄文時代 弥生時代 古墳時代と年代によりまた地域により変化していますが、少なくとも考古学的な点から考えると、縄文時代ではないようです。
天皇制の成立は天武天皇のころと考えられており、それ以前は大王と称されていることは文献研究からわかっています。
古墳時代は、考古学的にみると近畿の有力豪族の連合王権だったのではないかと考える学者が多いようです。
そういう意味でも天皇は神聖にして犯すべからずというのは、後世(多分天武朝以降)に作りあげられたもので、その後も権力者側がイデオロギー化し都合よく政治に利用したものだと思います。  
こうしたことを考えるときに、この展覧会を天皇制中心の価値観から偏向と考えられるのは、価値観の問題で自由と思いますし、その感想を表明されることは何も問題ありません。
しかし、もしこれが公的展示の場合、不快だから中止せよというなら、同意できません。
先に述べたように芸術は内面の表現であり、それを否定することは憲法の表現の自由を侵すことになると思いますし、人それぞれ価値観が違うので、価値観を前面に押し出し主張すると永遠に結論は出ません。
実は芸術は様々な価値観が並立していて、例えば、義太夫節を聞く聴き方で、バロック音楽を聴くことはできません。
義太夫節やバロック音楽を聴くとき我々は自然に聞き方を切り替えています。
他人の価値観を全否定し抑圧することは、逆の立場に立てば、そうしたことがいかに危険かわかると思います。
少なくとも、先進国では人種・文化、宗教、イデオロギー、趣味・・・様々な価値観の違いを受け入れて、お互い理解すること(共感しなくてもよいし、嫌いは嫌いでよいが、差別、抑圧、排斥しない。)で豊かな精神文明を築いていると思います。

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『「現代美術」と「現代の美術」の違い』へのコメント・メモ

2018年06月12日 15時49分50秒 | 美術・工芸・デザイン・建築
以下の一文、は昨日FBで投稿されたタイトルへのコメントとして投稿したものをメモとして保存する。
過去に投稿したセミナー報告の引用も含んでいる。


現代美術はカテゴリーの問題で、学者、美術家、でも人により範囲が違います。
例えば、パラソフィアだったか定かではないが、現代美術の範囲というテーマで3人の美術家が自分なりの考えを作品にしていましたが、「現代美術」の範囲は3人とも違っていました。
文化芸術分野は、科学と違い人間の価値観が判断の中に入るので絶対という事はありません。(科学の場合は方法や考え方が違っても全く同じ結論になり、再現性もある。)
同じ作品でも、芸術作品の評価は、時代や人によりより違うことは、多くあります。
文化芸術分野の評価や区分は、多くの場合自分の支持する権威ある人の言説に従っていると思います。(権威を否定したはずの現代芸術でさえ、権威に頼っているし、ヒエラルキーが構成されている。)
それと同じ構造で、現代美術の範囲や時代区分も人により違うと思います。
「現代の美術」は、カテゴリーとは関係なく単に時間軸の問題で、現代という時間の範囲を、現在からどの程度過去にさかのぼらせるか、各人の主観の問題となると思います。
戦後は、前衛芸術とか『世界・今日の美術』展カタログ,朝日新聞社,1956と言っていたようです。

「現代美術」という用語に関しては、以下参考までに、とあるセミナーで私が聴いた専門家の興味深い話のメモを記載しておきます。
セミナーでは、早口のため書き取れなかった部分も多々あり、話の流れ等切れている所や前後の関係性不明も多く、私の聞き間違いや勘違いもある可能性が大きいので、正しい情報である事は保証できませんが、考えたり調べたりする手がかりになるかもしれません。

美術館では、帳簿上「現代美術」というものは存在しない。
東京都現代美術館や大阪近代美術館準備室では1945年以後を「現代」44年以前を「近代」と区分している。
現代美術=同時代美術
日本の現代美術という用語を使い始めたのは、東京の(有力)画廊が、販促のため目先を変え新しい美術ということで、風呂敷画商的に売り始め成功した。1950年~60年(キャッチコピー?)
1960年ごろから読売アンデパンダン  日本アンデパンダン(左翼系)
 ネオダダ 具体 ハイレッドセンター ・・・・
アンパンには、美術館が会場を貸さなくなった。
街の画廊がオフミュージアムに貸すようになり、それが今の現代系画廊につながる。
 例 長六=16  ベニ
60年代 現代美術のグループがいくつも生まれ、世界的に同時発生的に広がる。
モノ派 具体
1945-55年―60年 戦後美術  戦前古沢岩美 山下菊二
反芸術 ネオダダ アンデパンダン  
現代美術はアカデミーコンテンポラリと同じではない。   ??
前衛芸術  アバンギャルド とエピゴーネン(追随者)が誕生
現代美術は、画廊が生み出したもので、商品主義 商業主義の傾向がある。


美術・芸術
自選ブログ集・新規掲載(新規掲載は、数か月以内に書いたブログの中から選定しています。)
新規掲載下段に分野別自選ブログ集(フォルダーリンク)も掲載しています。
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過去のブログが読まれていたことに驚いた。

2016年04月27日 12時56分12秒 | 美術・工芸・デザイン・建築
先ほど、ツイッターの通知を見て、4月9日に昨年のツイートに「いいね」が入っていた。
今まで、このお知らせを見落としていた。
それにしても、「いいね」された一文は私が書いたものか、と疑問に思った。

ひょっとして私が書いたブログの中の一文かと思い、その日付に近いブログを探した。
確かにその一文はあった。
ブログはまれにツイッターやFBにアップすることもあるが、ほとんどの昨日記はツイッターにはUPしていない。

昨日記は、自分勝手な独り言のつもりで、他人をあまり意識せず適当に書いているので、投稿すると書いた内容は、忘れてしまう。
該当する昨日記を読み返して、すべて思い出した。
確かに講演会で刺激を受けて、私の考えをメモ的に書いたものだ。
この考えは今も変わっていない。
それにしても、この一文を今になってピックアップしていただき「いいね」していただいたことに驚いた。

下記は該当するブログのリンク
昨日記150620土(横尾忠則現代美術館・講演会<コラージュ> プレミアム商品券)



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散歩者は以前のブログ記事も、最新情報に合わせ頻繁に修正・追加更新しています。
昨日記が長文の場合は、後の方に、昨日記の記事に関連したことで、本来単体のブログで扱うべき考察・評論や、過去の思い出・経過も含まれることが多くあります。



参考
アート関連のことを書いたブログ類
昨日記160130土(西天満 2kWギャラリー「幻想の質量」)
http://blog.goo.ne.jp/sksoo/e/25c093eef46da3e8cdc5dfa8451e0b14
昨日記160126火(図書館 哲学 アメリカ余談 美術メモ )  http://blog.goo.ne.jp/sksoo/e/6c5cf64f613724ea36a54e98f4227cdb

昨日記160123土(HAPS現代アート塾 第6回)
  http://blog.goo.ne.jp/sksoo/e/930c8752723042a497f000fda02ed9ce
現代美術美術メモ20131020(20131115作成)
昨日記151226土(CAS金沢健一展   私的芸術論)(追)( http://blog.goo.ne.jp/sksoo/e/f98e6af9317ca9589a1fb0787c26b8fc )
昨日記150308日(もの派と<幻触> パラソフィア ギャラリー廻り 堀尾貞治展夜話)( http://blog.goo.ne.jp/sksoo/e/1ed3459a6b225f456fedf48afccfe211 )
昨日記141227土(ギャラリーZone純粋/不純美術  現代美術の構造 ジム 筋トレ)(追)( http://blog.goo.ne.jp/sksoo/e/87d1c5e64ee63624d298f3a1354e8292 )
昨日記131117日(三条界隈の画廊回り JARFO現代美術講座)http://blog.goo.ne.jp/sksoo/e/ed7765efed9ee8bc64bdc738f80e3afd
昨日記130114月( 2kwギャラリートーク 創作手法の問題 ギャラリー経営)

昨日記160306日(古着売却 美術品の価値 食材購入)

昨日記151003土(ギャラリーノマル・片山雅史個展 芸術原論断片 ラグビーサモア戦

芸術論 覚書150517  
昨日記160401金(美術鑑賞方法の一断面・現代美術はつまらない? 副食製造 )追
現代美術美術メモ20131020(20131115作成)
昨日記150620土(横尾忠則現代美術館・講演会<コラージュ> プレミアム商品券)



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芸術論 覚書150517

2015年05月17日 12時04分51秒 | 美術・工芸・デザイン・建築
芸術は人間の存在を前提とした、表現活動であって、表現活動は即ちコミュニケーションだといえます。
哲学的に掘り下げると、話が無限に広がりますが、一つの単純な見方として例を挙げると、音楽でも民謡や浪曲やハードロックやその他たくさんの分野があって、それぞれの表現をしています。それぞれの分野で表現の仕方や聞き方があって、シャンソンを聞く聞き方で、浄瑠璃を聞くことができないでしょう。現代美術もアクションペインティングの見方でコンセプチャルアートを読み解くことは出来ません。
更に芸術鑑賞するには見方を知るだけでは不十分で、感性も必要です。その意味で一般の人は現代美術に接する機会がほとんど無く、見方も教わっていないので分からなくて当然かもしれません。
すぐれた作品は誰が見ても分かるという説は、嘘だと思っています。そこに行くまである程度の素養(いろいろ見たり学んだりすること)は必要だと思います。
私は浄瑠璃やハードロックはほとんど聞いたことがないので、良し悪しについては、全く分かりませんが、日本民謡や歌謡曲はたまに耳に入ることがあるので、ある程度分かります。クラシック音楽なら積極的に聞いているのでそれなりに細かなところまで良し悪しが分かります。
多くの美術分野で、自分が興味ある物や優れているといわれる作品を、多く見ることは大切と思います。
感性は多くの優れたものを見たり聞いたりして、自分で感じないと育たないと思っています。自分の感性を育てることは、創作力を高めることに直結します。なぜなら、表現は自己の内面(コミュニケーションの為他の人に見聴きしてほしい内容。)を外界に一定の文法文脈(誰でもそれが分かる人の中では共通の読み取り方・了解事項)に沿って形(作品)に創造する作業です。
従って内面に持っている表現したいもののレベルを超える表現は不可能です。
自分の内面は、芸術的感性のみならず、人生経験や知性や感情や映画やドラマから受けた疑似体験による影響も含む様々なものが反映されるので、人間的成長が内面を豊かにするといえるのでしょう。

上記の文章は先程SNSのコメント欄に投稿したものですが、普段口にしていることをまとめた形なのでメモとして掲載します。



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参考ブログ集 散歩者gooより
(参考ブログは、数週間に1度追加削除しています。数か月以前のものは分野別<芸術 健康 エッセイ 歴史宗教思想 情報機関> に分類しています。)
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現代美術シンポジウム「アートにブレイクはあるのか」メモ

2014年02月16日 23時50分56秒 | 美術・工芸・デザイン・建築
2014年2月15日土 15:00 国立国際美術館講堂
主催:国立国際美術館  NPO法人大阪美術市民会議

パネラーは、束芋氏、名和晃平氏で、司会進行が植松由佳氏だった。
「アートにグレイクはあるのか?」というテーマで始まった。
作家紹介と作品や活動紹介に、多くの時間が費やされた。
その中で、作家活動の詳細説明で、いわゆるブレイクと関連する、作家活動と経済問題の実態にも話が及び、実態の説明があった。


私は内容内容については、現在の特に関西の現代美術界の盛り上がりの無さの原因にも話が及ぶのか、と思っていたが、作品や活動の紹介が中心になったような感じで、少し物足りなかった。
せっかくの機会なので、海外との交流経験豊かであろう二人に、海外の作家や画廊を含む現代美術界や市民の現代美術に対する関心や、盛り上がりの程度をぐらい聞き出して欲しかった。
例えば、名和さんが韓国で、巨大なオブジェを設置された話がスライドの画像とともに紹介されたが、そのときの韓国の一般の反応とか、韓国社会やマスコミや美術界の反応や、現代美術に対する関心を、知りたかった。

ただ、お二人の話から「ブレイク」に関連して、現代美術作家に対する経済的問題を具体的に話していただいたのは、印象的であった。
経済状態と社会的評価とは、比例すると考えられる。
束芋氏は、数ヵ月後には、借金生活になるという話は、象徴的である。
海外の美術館収蔵や、美術賞をとり、世界でも評価されている人たちでさえ、この状態である。
にほんももっと現代美術の普及させる方策を、現代美術関係者同士で、知恵を出し実行する必要があるだろう。
同時に、市民へ現代美術への関心を高めるには、マスコミ対策が必要ではないか。
マスコミ関係者の多くが、現代美術に無理解・無教養なものが多いと思われる。
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現代美術美術メモ20131020(20131115作成)

2013年11月15日 16時00分43秒 | 美術・工芸・デザイン・建築
10月に京都のJARFOで開かれた「自分で発見する同時代美術の面白さで」講師の尾崎眞人京都市美術館学芸課長のお話の中から話をメモした。
話のみのメモであり、早口のため書き取れなかった部分も多々あり、話の流れ等切れている所や前後の関係性不明も多いことをご了承願いたい。
これは、私的メモで、私の聞き間違いや勘違いもある可能性が大きいので、引用・転載は厳禁です。


美術館では、帳簿上「現代美術」というものは存在しない。
東京都現代美術館や大阪近代美術館準備室では1945年以後を「現代」44年以前を「近代」と区分している。
現代美術=同時代美術

日本の現代美術という用語を使い始めたのは、東京の(有力)画廊が、販促のため目先を変え新しい美術ということで、風呂敷画商的に売り始め成功した。1950年~60年
1960年ごろから読売アンデパンダン  日本アンデパンダン(左翼系)
 ネオダダ 具体 ハイレッドセンター ・・・・
アンパンには、美術館が会場を貸さなくなった。
街の画廊がオフミュージアムに貸すようになり、それが今の現代系画廊につながる。
 例 長六=16  ベニ
60年代 現代美術のグループがいくつも生まれ、世界的に同時発生的に広がる。
モノ派 具体
1945-55年―60年 戦後美術  戦前古沢岩美 山下菊二
反芸術 ネオダダ アンデパンダン  

現代美術はアカデミーコンテンポラリと同じではない。   ??

前衛芸術  アバンギャルド とエピゴーネン(追随者)が誕生

現代美術は、画廊が生み出したもので、商品主義 商業主義の傾向がある。

現代美術の壁で守られるのではなく、一般美術の中で戦え!

現代美術は、想像の意味が作家の中で確定している。思いつきでない。

キャラクター作りと美術を作るのとは違う。

アバンギャルドは命名されていない。 新しいものを創作しよう。 テーマ 技法

アバンギャルドでなければ美術史 前衛主義(エピゴーネン)<追随している=新しくない・信奉者 模倣者>
属性の違うものを合わせると対比で見えてくる。
具体の意味  絵の具を具体的に見せる。
人間の感性や真善美を離れて具体的に見せる。 モノ派
  同時に 前衛主義が発生:その形に見せる・・・・・マネ:類似形を制作

モノへの反動  1980年―90年 コンセプチャル
2000~ ヘタウマ 奈良美智

モノを作らぬ人が評価で見るな
キャプションで作品を了解  文字で思うな
評価と鑑賞とは違う。
フェルト帽はゴッホの正装だった。

豊島康子  日常品を非日常化する
 「弾痕ステッカー」
課題 豊島康子の下記作品についての短評
「鉛筆」 鉛筆
「復元」  せんべい最後の写真




参考
豊嶋康子作品の「鉛筆」「復元」について。
非形象やダダが融合し、知的遊びを含む現代美術の構造が生まれ、新しい価値観・パラダイムや文法文脈を組入れ現代美術は展開している。
作品について、2004年CASの個展で、自身が、解説自体の意味づけも含め「既にあるものの要素/その仕組みに介入することで別の解釈への可能性を求める」と解説。
両作品は、各商品機能を作者が加工することで、本来の機能を失い、見て面白いものに価値転換した。
知的遊びを楽しむものだ。



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散歩者は以前のブログ記事も、最新情報に合わせ頻繁に修正・追加更新しています。
昨日記が長文の場合は、後の方に、昨日記の記事に関連したことで、本来単体のブログで扱うべき考察・評論や、過去の思い出・経過も含まれることが多くあります。


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面白すぎる!!伝説の現代美術家榎忠さんのロングインタビュー

2013年08月20日 23時52分05秒 | 美術・工芸・デザイン・建築
榎忠オーラル・ヒストリー 2012年2月10日(http://www.oralarthistory.org/archives/enoki_chu/interview_01.php)
上記のインタビューは、今も精力的に活躍中の伝説の現代美術家、榎忠さんの子供の頃から、半刈でハンガリーへ行くまでの話が語られていて、非常に興味ある話が語られています。

話の内容も、ユーモラスな箇所も多く、関西の現代美術の歴史的一面を知ることが出来ます。
当時はやったハプニングに対する関東と、関西の違いや、現代美術に対する考え方や、半刈でハンガリーへ行くことになったいきさつも語っています。

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猫に小判! 初めて知った写真家ウイリアム クライン

2013年02月14日 17時45分37秒 | 美術・工芸・デザイン・建築











先日ソーホーアートギャラリーから、古い友人のLから私宛の作品を預かっているという電話があったので受け取りに行った。

夕食後、受け取った作品を開梱した。
2枚の額入りの作品は、丁寧に梱包されていた。
出てきたのは、先日「トランスナショナルアート」で展示されていた、L撮影の9点の目隠しの連作の内の二つ作品だった。

写真に映っている人物は、一枚は写真家の森山大道氏と、もう一枚はおじいさんであった。
おじいさんの写真に添付されていたタグの内容を見ると、ウイリアム クラインと書かれている。

即ち、Lが私にくれたのは、森山大道氏とウィリアム・クライン氏を撮影したゼラチンプリントの作品であった。
それらは、Lのフォトエッセイ:「BLINDFOLDS POINTS OF SILENCE 」の中の作品である。
作品に添付されているタグには詳細な写真やプリントデータが記載されていた。

先日の展覧会に出品していた9枚の写真は、森山大道氏以外は、一般人と思っていた。
ウィリアム・クライン氏も、通りすがりのおじいさんの写真と思っていた。
だが、タグにわざわざ名前が書いてあったので、ひょっとすると有名人かも知れないと思い、念のために検索した。
すると、直ぐにウイリアム クライン氏の正体がわかった。
写真界の巨匠だった。

更にウイリアム クラインと森山大道氏が、20世紀を代表する2人の写真家として、展覧会がロンドン、テート・モダンで展覧会をしたという情報もあった。
私が驚いたことは言うまでもない。
恥ずかしながら、私は、それまで写真家ウィリアム・クラインを知らなかった。
この2枚の写真作品をプレゼントされても、「猫に小判」状態だったのである。

彼がよくこんな写真を(Lのコンセプトで目隠しのポーズを指定して)撮る事が出来たなあと思った。
(そのいきさつは、今年の1月31日に大阪で会ったときに聞いていたが、その意味の大きさは昨日実感した。)
今まで現代美術を中心に目を向けていて、写真のことは勉強しなかったが、これを機に猫に小判にならぬよう写真のことも少しずつでも勉強するようにしたいと反省している。

Lが、イギリスかフランスか忘れたが、そこで開かれたサイン会で森山大道氏と懇意になった。
先月私に、東京のゴールデン街で森山氏と一緒に飲むことになっていると話ていたが、後日、FBに飲んでいる写真も掲載されていた。
その言葉通り、彼は、そのとき以来森山氏関係の人脈とも人間関係を築き、来日以降その幅を大きく広げたようだ。

彼の、写真家としての活動や、パリでのギャラリー設立構想も含め、古くて親しい友人の活躍を、1月31日の話も含め、いろんな意味を込めて見守り活躍を期待したい。


お詫び
画像アップロードの手順を誤り1枚だけ上にサムネールが出ていますが、消去できないのでそのままにしています。



参考: 余談になりますが、この話は私にとって単純な話ではありません。
その理由は、このブログ「散歩者goo」のブログで「情報機関」というキーワードで検索すると、その理由が分かります。
そうした事実はありますが、彼もアメリカ人E(LもEもブログにより違うイニシャルを使っていることがありますが、各ブログを読めば推測できます。)私の親しい友人には違いありません。
例 昨日記141229 http://blog.goo.ne.jp/sksoo/e/2c321183443185bdc318bb4db4fdcb4b

発端となることに関係する中国人のI氏は、4文字の苗字を持つ血統の方で、多分日本では1990年代にあった毛皮企業が主催する現代美術コンクールに関係していたのではないかと推測していて、自称一定の政治権力も持っていたようです。<例、留学生の監視>


情報機関関連(スパイ・工作機関含む)
自選ブログ集・新規掲載(新規掲載は、数か月以内に書いたブログの中から選定しています。)
新規掲載下段に分野別自選ブログ集(フォルダーリンク)も掲載しています。
散歩者gooのトップページへ、 http://blog.goo.ne.jp/sksoo


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卒寿を超えて「上前智祐の自画道」展のフリートークを聞いて

2013年01月28日 16時03分19秒 | 美術・工芸・デザイン・建築
昨日の<卒寿を超えて「上前智祐の自画道」展>のフリートークに行って、思い出したりフリートークを聞いて感じたことは多かった。
始めに断っておくが、先生と私は何度もお会いしたことがあり、たまにお話もさせてもらったが、毎日多くの人と合われている先生から見れば、私は面識があるかないか程度の存在で、多分先生は覚えておられないだろうと思う。
上前先生が足を悪くしてこられないのは残念だった。
またフリートークの最後のほうで、司会者の坂上氏から指名されて、小説家の田靡氏からは、今日の話はまるで偲ぶ会のようではないかとの話もあったが、版画家の迫畑氏が近況を話されたように、先生は今も元気に作品を作り続けておられるのも事実だ。

上前先生は、私がギャラリーをしていた時に何度か来られたことがあり、それ以外にも何度も他のギャラリーのパーティー等でお見かけしたこともある。
始めギャラリーに来られたころは、私は先生が元具体美術の会員であったという程度の事しか知らなかった。
その後、頂いたか購入したのか忘れたが、自費出版された「飛び出しナイフ」を読んで、先生の外見とは想像付かない激しい情熱が内部に秘められているのを知り驚いた。

あるとき、私が先生に「なぜ縫いをするのですか」というと、お金がないからという答えが返ってきたのをはっきりと覚えているが、そのときは、半分冗談だろうと思っていた。
その後先生の経歴を深く知るにつけ、主な理由は表現上の理由と若い頃に縫いや染の仕事に携わっていたこともあることは言うまでもないが、同時に絵の具の材料費の問題も本当にあったのかと思ったりもした。

昨日、展覧会のカタログを購入して、昨日のフリートークを欠席された笹木繁男氏の作成された上前先生の年譜を読んで、更に驚いた。
本当に、先生は下手なTVドラマよりすごい波乱万丈の人生を送っておられていて、小さいときの家庭環境の複雑さも半端じゃない。
更に先生も耳が不自由だということは以前にも聞いたこともあり、今回の話では紹介はされたがほとんど話題にはならなかった。
だが、私も幼いときの中耳炎で、右耳がほとんど聞こえないが左耳は全く正常なので全く問題なく生活しているが、それでも話するときの位置関係は気にするし、折に触れ難聴の話は気になっていた。
その意味で、先生の左右とも難聴ではその意味も全く違うのだろうと思ったし、いじめ体験も持たれているという。
そんなことを考えると、先生が自費出版にこだわって多くの本を出版されるのは、自分自身の人生のことや芸術のことを知ってほしいという、押さえ切れない表現の欲望の現われの一つではないかと思った。
現に、今も休むことなく、作品を作り続けておられるという。
まさに、本当の意味の表現者=芸術家なのだろうと思った。

以前先生から、波止場での沖仲仕もして、あらくれ男ややくざの男に混じって、すさまじいところで働いていたことも、聞いたような気がする。(正確ではないが)
現代美術とは別に、人間上前智祐の生き様も注目してよいと思う。

今回のフリートークを聞いて、以前からいろいろ元具体の先生方に聞いいても、先生方により具体についてはいろいろなとらえ方があって、なかなか具体美術像が見えてこない。
昨日の話でも、今井氏からは、神戸派と大阪派があって神戸派はまとまっていたが大阪はばらばらだったという話があったり、堀尾氏は、相談するときは先ず嶋本氏に相談していて、具体を実質的に取り仕切っていたのは島本昭三氏だという意見もあったが、別の先生から、それは言い過ぎで、吉原氏が仕切っていたという反論も出た。
以前に鷲見氏から聞いた話では、飲めないグループと飲めるグループに分かれていたというようなことも聞いた。
このような話は、証言できる生存者がいる間に情報を整理しておくことが必要だろう。

そのほか、耳に残っている話を記録しておく。
堀尾氏は、(上前さんの)あの点々は命を懸けたてんてんを打っていたと思う、という意味のことを話された。(そこには芸術的な意味も経済的な意味も世間の評価もこめられているような気がした。)
(上前さんは)具体なんてくそ食らえというように行っていたように思う。(そのことは、展覧会のカタログの冒頭にある、BBプラザ美術館顧問 坂上義太郎氏の書いた冒頭の文の中に上前氏の言葉として「今となっては具体のほうが僕に付いてくる」という言葉でも分かる。まさに具体美術の中の上前ではなく、上前芸術の活動の中の一つとしての具体美術協会ではないだろうか。すなわち団体に従属する芸術家ではなく、独立した芸術家としての上前氏の気概を感じさせる。)

今回の前後半共通のカタログの上前氏の年譜等の文献資料は価値があるし、作品理解の助けとなる。
無論、展覧会の展示作品のすばらしさは言うまでもない。

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「精神分析・哲学・美術からの問いかけ」の講演会の続き。

2013年01月06日 22時22分51秒 | 美術・工芸・デザイン・建築
マルクス、ニーチェ、フロイトの哲学の影響を受けた現代美術は、次の3つの流れに分かれるという。
即ち
生(なま)の芸術    アールブリュット  ソバージュ  メルロポンティやレヴィストロースらが注目した。
純粋芸術    ミニマル フォルマリズム
不純芸術    デュシャン等

生について
精神分析は、翻訳でしか理解できない。
記憶の本質は分からない。:特にトラウマ体験では歪曲変形が入り嘘が入るため、元の形は不明で、痕跡を通じて生(なま)に迫る。
生(なま)の芸術は、解釈すればする程もつれる。
本当の無意識は復元不可能。
意識の存在のため自分を「かいしゅう」できない。
セレンディピティ(わずかな兆候から本質・実態を知る:例真贋鑑定や精神分析等)の知力が精神分析にある。
それでも、生(なま)に迫るほど加工・圧縮・歪曲・誇張が入り込む。

20世紀美術は自己同一性を解体しているという。
表現は、純粋と不純に別れ、純粋はミニマルであり人格喪失といえる。不純は何でもありで多重人格といえる。
人は、ユニット的存在(均質的・ミニマル)とかけがいのない個性を持った個人(個性的・ユニーク・無限に増殖)がある。
人間に関しては、この二つの問題が常に存在する。
群衆には、人格喪失への誘惑(埋没)や、自己喪失(エクスタシー)存在する。

20世紀の巨匠は顔に拘泥した。
キリコ(顔の消滅)、ベーコン(顔が歪む)、キリコ(顔がない)、アンリ・ルソー(ステレオタイプの顔)、ウォーホール(プリント化されたスターの顔)
顔は造形を見るのではなく、想像することが芸術に関係しているのではないか。


建畠氏の話は、草間彌生の作品を中心に話されたが、映像に気をとられ、メモを取っていなかった。


(上記講演会の概要は、私用に参考程度にメモしたもので、勘違いや記憶違いの多くある可能性がありますので、決して引用等はしないでください。
各講演者の持論言説については、各氏の著書を参照してください。
前半部分は「昨日記130105」参照)

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作られたギリシャ美術の美

2012年07月01日 23時27分26秒 | 美術・工芸・デザイン・建築
今日見た、NHKスペシャルの「古代ギリシャ」白い文明の真実(http://www.nhk.or.jp/britishmuseum/lineup/greece.html)は、衝撃的であった。
美術のデッサンの教材に使われる、真っ白なギリシャ彫刻が、実は色彩に彩られていたというのだ。
白い彫刻は、人間の肌には、肌色が塗られ目も描かれていたという。

しかもそのことが、科学的に実証されているという。
この事実は250年前までは知られていたという。
しかしドイツの美術史家の本の影響で、当時産業革命の影響もあり、他の文明より優れたヨーロッパ文明の源流のギリシャ文明が、独自に生まれ、純粋な白い美を生み出したという本の内容が広く流布したという。

番組によると始めに、エジプト文明やアッシリア文明が栄えていた、紀元前750年より前まではギリシャは非常に貧しい国で、目立った文明文化も無く、多くの若者が傭兵として、エジプトに雇われたという。
当時エジプトは、アッシリアやヌビアやリビアとも戦い劣勢に立たされていた。
(紀元前730年にはヌビア王がエジプトを征服する。)
紀元前750年頃に、多くの傭兵がギリシャに帰国するようになった。

ギリシャに帰国したギリシャ人傭兵たちは各地で見た当時各国の最先端の技術、美術を吸収して、ギリシャに持ち帰った。
それと同じ時期の紀元前750年頃からギリシャ文明は、突然花開くようになる。
彫刻や建物も、エジプト文明の影響を受けていたようだ。
当時のエジプト文明は、建物や彫刻も美しい色彩で彩られていた。
そのような視点で、現在残されているギリシャ彫刻や建物を科学的に、最新技術で検査すると、美しい色彩が塗られていたことがわかった。
(神殿やレリーフやその周囲の彫刻にも、鮮やかな色が施されていた事が、確認されCG化されている。)

紀元前750年頃から急に花開くギリシャ文明は、傭兵たちの帰国を機にエジプトや西アジアの文明から非常に大きな影響を受けて、始めて開花したのであった。


産業革命から第一次世界大戦まで、西洋=白人優越論の考えが世界の常識であった。
その西洋文明の源流は、孤高のギリシャ文明と考えられていた。
産業革命当時伏せられていた?その西洋文明の源流の本質は、ギリシャ文明が、エジプト文明や西アジア文明まで遡り影響を受けていたことになる。
(多分当時の西洋人にとっては、彼らの文明の源流が遡ると植民地にあるということは、屈辱的で非常に都合の悪いことだったのかもしれない。)

参考
「である」ことと「であってほしい」こと―古代ギリシャ彫刻の色をめぐって (藍色手帖BLOG)


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草間彌生展に行った。

2012年03月30日 22時11分54秒 | 美術・工芸・デザイン・建築







少し強い風が吹く中、自転車で国立国際美術館に行った。
美術館の前にも草間彌生のオブジェが飾られていて、楽しそうな雰囲気を出していた。

館内に入っても、吹き抜けのホールにも作品の、バルーンやオブジェが飾られ、エスカレーターで降りてくる人を出迎える。

平日というのに地下一階の券売所では短いが、行列が出来ていた。
手持ちのリュックをコインロッカーに預け、改めてホールに置かれているオブジェとバルーンのインスタレーションを眺め、写真に撮った。
なんともいえない浮遊感があり、童心に帰ったようなワクワクするような楽しい感じだ。

エスカレーターで更に降りると、「大いなる巨大な南瓜」があった。
ピッカピカの黒と南瓜の色をした大小さまざまな水玉のストライプの入った、人の背丈より大きく、存在感があり、面白く楽しくなりそうな南瓜だ。
多くの人が、入れ替わり立ち代り写真を撮っていた。
私は、その周りを面白いと思いながら一周した。

更にエスカレーターで降りて、全面赤に白の水玉の通路の導入部に入る。
これだけでも、草間彌生の世界の迫力を感じた。
次いで、ドローイングの部屋に入る。
圧倒的な作品の量だ。
作品別に「愛はとこしえ」と「わが永遠の魂」とに別れてい多。
その作品は点や線や横顔の輪郭線の繰り返しや、目とかゲジゲジのようなイメージとかの繰り返しで、一部には私の勝手な見え方だが、生物の細胞や原生生物を感じさせるフォルムもある。
顔の輪郭線の繰り返しの多い作品の中には、コーヒーカップやメガネや女性や靴が入り込んでいた。
作者が身の回りの特定の物に強い関心を持っていることを窺わせているような気がする。

ドローイングの部屋を見ながら、アール・ブリュットを思い起こした。
彼女は、アール・ブリュットの定義には当てはまらないが、描きたくてたまらないというドローイングのエネルギーは、アール・ブリュットと共通の物を感じる。
しかも、私の偏見かもしれないが、多分彼女は描いている時は、コンセプトとか意識せずに、無心に心の赴くままに描いているように見える。

その先にあるチューリップに愛を込めて永遠に祈るも、真っ白な部屋に赤い水玉の壁と、人間の背丈の倍もある3つの赤い水玉の鉢植えの茎をバネのように数回巻いたチューリップは迫力満点で、飛び跳ねそうな感じだった。

それ以外にも部屋中総鏡張りの中空に星のような大小さまざまなカラーランプによる、宇宙のようなどこまでも深い奥行きやスケール感が印象的だった。

映像コーナーでは、過去の生い立ちや、アメリカでの活躍が紹介されていた。
ハプニング時代の活動は、興味深かった。

全体的に、すばらしい展覧会だった。

国立国際のホームページに作品の一部が掲載されている。
http://www.nmao.go.jp/exhibition/index.html

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同姓同名の女性による絵と音楽のライブイベント

2012年02月20日 23時51分36秒 | 美術・工芸・デザイン・建築
昨日神戸元町の「さくらみかふぇ」でのイベント「久保田ひろみmeets久保田ゆみ」(名前は、裕美と書く)に行った。(主催 :くりえいとPEN)
はじめての場所で、エレベーターで雑居ビルの三階に上がると「さくらみかふぇ」だった。
後でオーナーから話を聴くと、音楽ライブを中心に、様々な催し物をしていた。

そもそも、音楽とライブペイントの組み合わせでどんなイベントになるのか、見てみたかった。
それに同姓同名のジョイントライブというのも面白い。
画家の久保田さんが、今度はどんな作品を書くのかも興味あった。
しかし、ジョイントライブは、想像していたよりはるかに面白かった。
そこには、音楽の力も大きいし、偶然がいくつも重なっていてライブを盛り上げたようだ。

会場はカウンター席と一つの大きな両端が半円形の長テーブル席あった。
見知らぬ若い人ばかりで、壁面で書いていた久保田ゆみさんだけが顔見知りだった。
始めは随分緊張した。

そのうち、改めて紹介が始まった。
その話の中で、少し前まで面識のなかった、漢字で同姓同名の人が同じ時にこの場所に3人いたということで、もう一人来るかもしれないという話だった。
それ以外の同姓同名の人ともコンタクトがあったというが、それだけでも面白い。
画家の久保田さんからは、昼から描いてきた壁一面に描かれた絵巻物風の作品の話の説明があった。

画家の久保田さんは客からいろいろなお題(例へび・かめ・馬・・・)をもらって、大きな壁面に即興で物語を書いていく、そしてフルート奏者の久保田さんは、お客さんから音(例ド・ソ#・・・)をもらって、即興演奏をするのだ。

絵を描きながら、30分ごとに演奏があるという感じであった。
壁面に描く速度はいつもながら速いし、よくもまあ即興で絵を描き、物語を構成できるなと感心させられた。
絵はお昼から書き始め、演奏の合間に毎回お題をいくつももらい、物語を関連させながら書いていて、10m近い壁面は、もうかなり埋まっていた。

演奏が又すごかった。
フルート奏者の久保田さんは、お客からもらったいくつかの音を基本に、即興のジャズを演奏した。
スタンダードジャズではない、即興演奏である。
曲の乗りもいい。
演奏が始まると感覚的に10分以上セッションが続いていたように思う。
シカゴで何度か友人たちと一緒にジャズバーに行ったが、そのときの乗りを思い起こさせた。

最初は、フルートがメインでピアノとピアニカ(鍵盤つきハーモニカ)が伴奏かなと思った。
変な女性トリオだと思った。
ところが、フルート以外は全て飛び入りということを知った。
実際には、ドラムはないけれど、箱を叩いてパーカッション代わりにしていた男性も演奏に加わっていた。
しばらくすると、曲の途中でフルートの演奏を受けて、メインでピアニカを演奏しだした。
すばらしい演奏だった。

後でフルートの久保田さんから聞いた話によると、ピアニカの人は作曲家でもあり、フルートの久保田さんも参加するバンドのリーダーだというのだ。
フルートの久保田さんは、ふだんはクラシック音楽を演奏していて、クラシックもジャズもどちらも好きということだった。

会場内の席数は20人程度?で、随時入れ替わりながら十数名程度お客がいた。
私が帰ろうと、思って画家の久保田さんと少し立ち話をしていたら、カウンターに座っていた女性2人連れの人も、立ち話しに加わり、その一人が、現代作家の春成こみちさんと分った。
春成さんは3月5日から大阪市西区京町堀1-13-2藤原ビル5Fの「2kw」(うつぼ公園北)で個展を開くということで案内をいただいた。

昨日の、音楽と絵画のイベントは、盛り上がった楽しい催しとなった。

「思い出・生き方・生活住環境」(このブログは左記リンクのカテゴリー別「思い出・生き方・生活住環境」ホルダーに収納しています。)(自分のメモとして)
過去の注目ブログは、自選ブログ集・カテゴリー別(分野別)ホルダーに保存しています。
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サン・チャイルドプロジェクト(ヤノベケンジ氏講演会)

2012年02月18日 20時56分52秒 | 美術・工芸・デザイン・建築
昨日ヤノベケンジ講演会へ行く時、JR茨木駅を降りて南に出た。
どうも、前日実確認した地図と様子が違うので駐輪場の受付の人に聞くと、線路を渡って進めばよいという。

JR線の東側に出て頭の中で思っている地図を頼りに歩き道に迷った。
いつもは、知らないところに行く時は地図を印刷していくが、今回は地図で見ると単純な道なので地図は持たずに出かけた。
携帯の地図情報の使用法は知らないというより、一度試したことがあるが、うまくいかず費用だけが掛かってそれ以来使っていない。
夜なので、人通りも少なく二人ほどの人に方向を聞いてやっと会場に着いた。
予定の倍以上歩いた。

会場は多くの人で一杯だった。
先ず今回のプロジェクトの主催者の「茨木芸術中心」について紹介があった。
(先日に、ネットでバックグランドを調べたが分らなかった。)
更に主に活動している3人の若者の紹介があった。

駅前の喫茶店を本拠に活動しているらしい。
いわゆる、多くの市民運動に見られる、どこかの政党や政治家のひも付きや、市民運動のプロが入っているようでも無さそうであり、組織的には非常にゆるい組織のようだ。
話も手馴れていないし、素人っぽさが丸出しであった。
それでも最初4人で始めたプロジェクトの活動家が、いまや10人以上になっていてさらに参加者を求めているという。
主婦の視点も生かしたいという。

プロジェクトの計画もしっかりしていて、多彩な行事が組まれていて、後援も茨木市・市教育委員会・他・協力にも京都造形芸術大学・他が参画している。
彼らの目的は単純で茨木市の暮らしの中にアートを置いてみるという取り組みらしい。

ヤノベケンジ氏のことも余り知らなかったが、大阪府が芸術関連の予算を削減した為、ほとんどの芸術家が参加を取りやめた行事に、なぜ協力したかといういきさつも話された。
決して親橋下ではなかったという。

ヤノベ氏の生い立ちや、創造の原点の一つに万博終了後の解体工事の風景があることを説明された。
その後の作品の説明と、トラヤンの原点がお父さんの腹話術人形であることなどの話があった。

チェルノブイリの原発跡にアトムスタイルの防護服で行ったアトムスーツプロジェクトの説明もあった。
ラッキードラゴン(名前は水爆実験の被害船第五福竜丸から来ている。)のいきさつや活動を説明された。

ヤノベ氏は茨木市で育ったこともあり、茨木芸術中心の熱意が、今回のサンチャイルドプロジェクトに結びついたのだろうか。
とにかく、市民グループと行政とアーティストが協力して、芸術を通して暮らしを豊かにするというコンセプトを基に、自分たちの街にアートを置いてみるという活動はすばらしい。
この手法は、どの街でも展開できる。
セクトを作り、政治や宗教を絡ませたり、お互い批判し、ののしり、バカにしあうのでなく、単純に芸術を通して生活を豊かにすることで活動を進めることはすばらしいと思う。

そこには、恕の精神(相手のことを分って、あえてお互い許しあう)が必要だろう。
しかし、誰が見ても、おかしいとか、矛盾とか問題であるといったことは、当然芸術表現の対象となるのは、言うまでもないし、過去にも多くのそのような名作を生んでいる。(例 ピカソ ゲルニカ)
今回のサンチャイルドも、アトムスーツプロジェクトと共通していて、3・11の原発問題に絡んでいることは言うまでもないだろう。

逆に意見の分かれる問題についての非難・批判・責任追及や主張は、政治の世界でどんどんやるべき事と思う。
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