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日本人のルーツに関する「歴史言語学、考古学、遺伝学の学際的研究成果」の概要を読んで

2021年11月29日 16時59分00秒 | 考古学・古代史・歴史・文化人類学
日本人のルーツに関する学術論文のプレスリリースが掲載されていたので紹介します。
フェイスブック「日本の研究.com」より
【注目プレスリリース】トランスユーラシア言語は農耕と共に新石器時代に拡散した ー歴史言語学、考古学、遺伝学の学際的研究成果― / 九州大学
https://research-er.jp/articles/view/105301

以下はこの情報に関する私の感想です。
「沖縄人が縄文人の系統を引くと結論する埴原和郎の「二重構造仮説」と矛盾する。」という結果は面白い。
沖縄と北海道の人に日本人・縄文人のルーツがあると言った説が、見直されるのだろうか。
それと関連して「欲知島以外の二箇所の韓国新石器時代の遺跡のサンプルも、10 ―20% の縄文系 DNA を持っていたことが解明された。半島ではこの縄文系 DNA が少なくとも6000年前までに遡る。」も注目される。  
ゲノムレベルで弥生時代に大陸からの渡来人の大型移住があったという説は、考古学研究による見解が、学際研究でも裏付けられたことになる。  
日本はいろんな意味で東アジアの吹き溜まりということなのだろう。様々な人種や文化が日本列島上でまじりあい、現在の日本人、日本文化が成立したということだろう。
日本語は一つと思われているが、方言を見ると、何種類かの別の言語になるという国立機関の専門家の言語学者の話も、ユーチューブで公開されている。(標準語で育った人は、鹿児島弁や東北弁を聞き取ることができない。)



参考
リンク先のプレスリリースのリンクが後日接続不能になる可能性があるので、「日本の研究.com」のプレスリリースのコピーを以下に掲載しておきます。


当サイトで紹介しているプレスリリースの多くは、単に論文による最新の実験や分析等の成果報告に過ぎませんので、ご注意ください。 詳細
国際的研究チームが歴史言語学、考古学および遺伝学の「三角測量」によって、トランスユーラシア言語の起源と初期拡散を解明したことが Nature 誌で発表された。
日琉語族、朝鮮語族、ツングース語族、モンゴル語族及びチュルク語族を含むトランスユーラシア言語の起源はアジア先史学のなかで最も激しい論争となっている。今回の研究は、歴史言語学、考古学及び遺伝学の「三角測量」によって、トランスユーラシア言語の起源や初期拡散が西遼河地域の新石器時代のキビとアワを栽培した農耕民まで遡ることを明らかにした。

トランスユーラシア言語の共通点の多くは借用によるものにもかかわらず、最近の研究では、これらの言語を系図グループ、共通の祖先から出現した言語のグループとしての分類を支持する信頼できる証拠が示されてきた。しかし、これらの言語と文化の祖先関連性を受け入れると、最初の話者がいつ、どこに住んでいたか、子孫の文化がどのように維持され、相互作用したか、そして数千年にわたるそれらの拡散の経路について新しい課題が生じる。

ドイツのマックス・プランク人類史科学研究所を中心とした、中国、日本、韓国、ヨーロッパ、ニュージーランド、ロシア、米国の研究者を含む国際チームが11月10日 Nature 誌に発表した論文では、言語拡散の「農耕仮説」を学際的に支持し、トランスユーラシア言語の最初の拡散が、東北アジアにおける新石器時代前期のキビ・アワ農耕民の移住と関連すると結論した。新たに解析された中国、韓国および日本の古人骨ゲノム、広範な考古学データベース、および 98 言語の語彙概念の新しいデータセットを使用して、トランスユーラシア言語の祖先コミュニティの時間の深さ、場所、および分散ルートを三角測量で分析した。

歴史言語学、考古学、遺伝学から得られた証拠によると、トランスユーラシア言語の起源は西遼河地域のキビ栽培の始まりおよび初期のアムール遺伝子プールまでさかのぼる。新石器時代後期、アムール地域遺伝子を持つキビ・アワ農耕民は北東アジアの隣接する地域に広まった。その後の数千年の間に、原トランスユーラシア語から分岐した話者は、黄河、ユーラシア西部および日本列島の縄文文化と混ざり合い、稲作、麦等のユーラシア西部の作物、牧畜民の生活様式をトランスユーラシアのパッケージに加えた。

筆頭著者であるマックス・プランク人類史科学研究所の言語考古学グループArchaeolinguistic Research Group のマーティン・ロベーツ教授は、「一つの学問だけでは言語の拡散を取り巻く大きな問題を決定的に解決することはできません。しかし、歴史言語学、考古学、遺伝学の 3 つの分野を組み合わせると、シナリオの信頼性と妥当性が高まります。3 つの分野によって提供された証拠を調整することによって、3 つの分野のそれぞれが個別に提供するよりも、トランスユーラシアの移住について、よりバランスのとれた、より豊かな理解を得ることができました。」と述べる。

三角測量に使用される言語学的証拠は、100 程度のトランスユーラシア言語から、250 を超える概念を表す 3000 を超える同根語セットの新しいデータベースから得られた。 その結果、研究者たちは、西遼河地域に住むキビ栽培の農耕民に、9181 年前に遡る原トランスユーラシア語のルーツを示す系統樹を構築することができた。

研究チームの考古学的結果は、約 9000 年前にキビの栽培を開始した西遼河流域にも焦点を当てた。中国、朝鮮半島、ロシア沿海地方及び日本を含む、255 箇所の新石器時代・青銅器時代の遺跡から出土した遺構・遺物をデータベースに入れ、ベイズ推定分析を行った結果、西遼盆地の新石器時代の文化クラスターが示された。 その後、このクラスターは韓国新石器文化、およびアムール・沿海地方・遼東の二つに枝分かれした。さらに、青銅器時代に朝鮮半島にイネとムギが伝播し、約 3000 年前に日本にも伝播した。



英文のプレスリリースはこちら:

https://www.shh.mpg.de/2071364/robbeets-transeurasian-agriculture



縄文ゲノムは韓国にもあった
韓国の欲知島 Yokchido 遺跡出土の女性人骨の DNA が95%縄文という結果が得られた。年代は新石器時代中期、紀元前3500―2000年と推定される。九州と韓国の間、黒曜石や貝製品などの交易が縄文時代にあったことは考古学的な調査で既にわかっていたが、DNA分析で証明できたことは重要である。また、従来の考古学者はこの縄文時代の日韓交易は男性を中心とした漁猟集団が行ったと考える研究者が多いが、欲知島遺跡の縄文系人骨は女性であったことから、男性と女性の両方がこの交流に参加したと考えられる。

欲知島以外の二箇所の韓国新石器時代の遺跡のサンプルも、10 ―20% の縄文系 DNA を持っていたことが解明された。半島ではこの縄文系 DNA が少なくとも6000年前までに遡る。これは九州などの縄文文化との交易によってなのか、元々縄文系のヒトが半島にいたかどうかが、今後の研究の課題である。



ゲノムレベルで弥生時代の大型移住を確認
今回の研究では、北部九州の弥生時代遺跡福岡県安徳台および隈・西小田を二箇所 DNA 分析して、弥生時代の「渡来人」の遺伝的な位置づけがより明らかにされた。ゲノムレベルで大陸から大型移住があったと結論する。



沖縄人の起源:「二重構造モデル」を矛盾する結果
今回の研究では、初めて沖縄からの古代 DNA ゲノムが得られた。サンプルはマックス・プランク人類史科学研究所のマーク・ハドソン博士が発掘した宮古島の南嶺の長墓遺跡(パインミヌナガバカ、以下、長墓遺跡)から出土された人骨である。長墓遺跡は近世および先史時代に属する。近世の人骨は現代沖縄人と同様に約20%の縄文 DNA を持つ。言語学や考古学の結果と合わせると、中世(グスク時代)に九州からたくさんのいわゆる「本土日本人」が農耕と琉球語を持ちながら、琉球列島へ移住したと推定できる。この結果は、沖縄人が縄文人の系統を引くと結論する埴原和郎の「二重構造仮説」と矛盾する。

一方、長墓遺跡の先史時代人は100%縄文という結果が解明された。これは従来の先島先史時代の人々が台湾またはフィリピンなどから由来した「南方説」と矛盾する。宮古島の先史時代は縄文系の土器などの物質文化は確認されていないが、ゲノムレベルでは縄文系の人々であった。八重山の先史時代の人々も縄文系かどうか、あるいは台湾からについては今後の分析が必要であるが、今回の研究では縄文文化と縄文ゲノムが必ずしも一致しないことが明らかになったことが一つの大きな成果である。



まとめると、この研究の結果は、何千年にもわたる広範な文化的交流によって隠されているにもかかわらず、トランスユーラシア言語は共通の祖先を共有し、トランスユーラシア言語の初期話者の拡散は農耕によって推進されたことを示しています。

「自分の言語、そしてある程度は自分の文化のルーツが現在の国境を越えていることを受け入れるには、ある種のアイデンティティの方向転換が必要になるかもしれません。それは、人々にとって必ずしも簡単なステップではありません」とロべーツ教授は述べています。

「しかし、人類史の科学は、すべての言語、文化、および人々の歴史が、長期間で相互作用と混合があったことを示しています。」

今回の研究は、歴史言語学的、考古学的、遺伝的手法の三角測量が仮説の信頼性と妥当性をどのように高めることができるかを示しているが、著者はさらなる研究の必要性を認識している。 マックス・プランク言語考古学研究グループのマーク・ハドソン博士は、「トランスユーラシア言語の最初の拡散は新石器時代にあったが、その後にも複雑な歴史があります。今回の研究でたくさん新しいことがわかりましたが、今後の課題も数多く残っています。」と述べている。
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自選ブログ集・歴史・考古学・民族学 202108

2021年08月18日 11時47分37秒 | 考古学・古代史・歴史・文化人類学
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歴史・考古学・民族学
【全国遺跡報告総覧とは】全国の発掘調査報告書や現地説明会資料を見ることが出来ます。

日本人の海外進出の歴史と宗教 20210525 (追)
民族差別と日本のルーツ(追)
昨日記160513金 (ギャラリズム 前方後円墳のルーツ?)
日本の未開から文明へ 天草の乱と綱吉
昨日記160611土(弥生博セミナー「弥生の鉄 マクロ・ミクロから・・」)追
昨日記150530土(メール不通対応 弥生博物館 芝田町画廊 )
昨日記160221日(みんぱくで、「宗教の原始をさぐる」の話を聞く 古代日本)
昨日記150530土(メール不通対応 弥生博物館 芝田町画廊 )
邪馬台国の位置20111027
纏向型前方後円墳と古墳時代の始まり  20111123
(考古から見た)「農耕社会の成立」を読んで  20111103
アイヌと和人の関係と歴史覚書 120513


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民族差別と日本のルーツ(追)

2018年05月17日 14時11分07秒 | 考古学・古代史・歴史・文化人類学
FBのグループサイトに「DHC会長、狂気の論説の背景にあるもの」http://hunter-investigate.jp/news/2018/05/dhc.htmlに関連した投稿があったのでその記事を読み、下記の長文のコメントをした。

安いのでやむを得ずDHCのサプリを使っていたが、考えたい。
他の製薬会社が同じ価格で出せばそちらを買うし、ニーズは多くあると思う。

その問題は別にしても、DHC会長の論説といわれる「実業界で大企業の創業者の大半は在日帰化人です」といった話は聴いたことがない。
又、「最近、遺伝子の研究により、日本人は彼ら(註:中国人や韓国人)とは全く関係のない民族だということが分かってきました。」という話も、聴いた事がない。

そもそも、純粋の縄文系日本人はおらず、縄文人と渡来人の混血というのが、今の学術的な流れである。
日本=瑞穂の国の根底にある稲作にまつわる文化そのものが、縄文時代末期から弥生時代に渡来人からもたらされたことは考古学的に明確である。
初めて稲作文化を持った家族達が北九州に移住し生活基盤を築き、同時に縄文人と交流し協力することで渡来系の子孫が増加し、更に移住する渡来人や渡来系弥生人も増えて九州・四国・中国・近畿へも移住し、縄文人と交流し混血したと想像され、縄文人の多くは、狩猟採集生活から稲作生活者に変わったのではないかと言われている。(一度稲作文化を受け入れた後、再び狩猟採集生活に変わった地域もある。<狩猟採集生活は気候変動に強く、稲作は気候が悪いと大凶作になる。>)

稲作文化は、稲だけが単独で中国や韓国から伝わったのでなく、稲を育て収穫するには、縄文文化とは全く違った共同作業の必要性(水田整備 水路管理 畦畔管理 収穫作業 農耕具の使用製作<鋤 鍬 石包丁 炊飯道具<甑こしき> かまど・・>)があり、稲作を行うために関連した人も文化も伝わったことは間違いないと考えられている。
日本の原点である弥生時代末期から古墳時代にかけての祭祀に、例えば卑弥呼の館ではないかと言われる、纏向遺跡の桃の種も、明らかに中国文化の影響であり、それには人の関与がある。

古墳時代になると大量の渡来人が日本に来たことは文献上でも確認されている。
例えば、百済の大量難民<百済関連の地名が各所に残る>や、それ以前の、大豪族葛城氏の葛城のソツヒコと朝鮮での活動の記録や、同じ葛城系列の蘇我氏と渡来人の関係を見れば、渡来人が多く来ていたことは容易に想像される。
又、東漢氏(やまとのあやし)や西漢氏(かわちのあやし)や秦氏といった、飛鳥時代の有力渡来氏族の存在や、桓武天皇の母は、渡来人の秦氏の一族であり、京都太秦一帯は秦一族の勢力下であり、河内や飛鳥も渡来人の有力氏族が多く住む地域であった。

こうしたことをざっくりとまとめて言うと、次のようになる。
日本人は旧石器時代・新石器時代から極東の吹き溜まりとして自然に人が集まり、混血して独自の文化を築き、縄文文化となった。
その後、稲作文化が、渡来人が稲や生活様式も含め人とともに日本の北部九州に渡り(縄文時代から北部九州と韓半島南部は交流があったことが考古学的に確認されている。)日本で生活し家庭を築き、その後現地の縄文人と混血を繰返し、その後も多くの渡来人が流入し今の日本文化、日本人が築かれたものと想像される。(下記「参考参照」)
北海道や琉球には、同じ縄文人が分布していたが、稲作の適合の問題があり、北海道や沖縄には縄文文化をそのまま引き継ぎ独自の弥生文化とは違う文化が生まれたと想像される。(北海道の続縄文文化  琉球の前期・後期貝塚文化)

それ以前に、人種で差別しているように見える次の言説「他のアジア人とはまるで違う人種であったというのです(中略)アジアの中でも唯一日本人だけがヨーロッパ人に近い民族だったというのです。」は、ナチスと同じ発想でありその背景には歪んだ日本人は特別という<ユダヤ人と同じ思想>選民意識があり、ヨーロッパ人は優れていてアジア人は劣るといった誤った潜在意識が隠れているように見える。
無論考古学や遺伝子から見ても、様々なアジアの人(中国朝鮮や、北方・南方民族)と文化が日本に流入し混じり合って今の日本が成立していることは疑いようがない。
そもそも、日本人に対しアジア人という概念があるのか。
何を持って、純粋の日本人というのか。
日本人にも遺伝子的文化的に様々な日本人がいるし、日本が単一民族というのは誤りであるということは言うまでもない。

歴史的に見れば、文化の優劣意識は、経済力に比例していると言われている。
様々な事例を見ても、経済的に豊かな国が、その時代の先進国であり、しばらく時間がたってから経済邸に豊かであった国の文化が洗練されて定着し文化的先進国として敬われるのである。
日本文化の根底にあるのは、中国文化であることは疑いようがない。
漢字にしろ、思想や芸術といった多くの文化が、中国文化の影響抜きに考えられない。
保守系の人が大切にする吉田松陰の思想も、国学であり国学は論語といった中国思想が背景にある。
日本人の、教養人の多くが漢詩を嗜んだことを見てもその影響が読み取れる。
だからと言って、日本独自の文化の価値を下げることにはならないし、中国文化を受け入れつつ独自の文化芸術思想を創造したのも事実であり、世界的にも評価され日本文化は独自の文明としてハンチントンの「文明の衝突」でも位置づけられている。
だが、そこだけ切り取って誇大に強調するのは大きな誤りだ。(文化人類学的に考えればよくわかる。そうした観点から見れば、民族主義・国粋主義がいかに遅れているか、そして歴史的にも不幸を生んでいるかよくわかる。)

それ以上に、現代日本は科学文明や人権を中心とした欧米文化の影響下にあり、その影響は過去の文化・文明の受け入れよりはるかに大きく、日本人の日常生活は現代文明一色になっている。
科学技術や人権を中心とした欧米文化は、その合理性や機能性から地域文化の域を超え、今では人類の世界標準になり、通信技術や資本主義の発展により、新しい世界共通の文化を地域を超えて同時発生的に創造しつつある。
現代文明と100年前の欧米文化とは別次元のもので、現代文明は標準化され、地域性は少なくなり(宗教的・風土的・政治的影響により多少地域差がある)、欧米や日本でも100年前の文化は国単位の地方文化=伝統文化遺産として保存されている。
均質化された現代文明の中で、伝統を守る意義は非常に重要であるが、特別な事例(文化財・伝統行事・伝統文化芸能)を除き、伝統を守ることの方が重要という考え方は、受け入れられないだろう。(民意で決める事である。)

今の現代日本には縄文人はいないが、世界各国から多くの民族の人達が居住している。
次の言説「 我々は全くの異人種である韓国人と仲良くすることはあっても、そして多少は移民として受け入れることはあっても、決して大量にこの国に入れてはいけないのです。ましてや、政権やメディアを彼らに牛耳られることは絶対に避けなければなりません。」には、大量移民の問題や土地購入の問題があれば現実的問題として、国民の民意により決定するしかないと思うが、人種問題をことさら意識している点は、選民意識が根底にあり問題と思う。

ただ日本の伝統文化を守るという意味においては考えさせられる問題ではある。
しかし、それを言うなら少子化問題や人口集中の問題を先に政治的最重要課題として取り組むことが先決であろう。
地方では、少子化や都会への人口流出で、後継者がいなくなったり廃村化したり伝統行事の廃止が相次いでいる。
こうした現状を認識し解決せずに、移民問題だけに焦点を当てるのは本末転倒であろう。

参考
ウイキペディア:「ハプログループO1b2 (Y染色体)」より
この記事には「2015年11月にISOGG系統樹が改訂されるまではハプログループO2bと呼ばれていた。」との解説があるので、最新学説かどうか不明である。
従って、下記の言説も2015年まではそういう説もあったとみるべきである。
遺伝子関係の研究は急速に進化しているので、数年前の学説も否定される可能性があるので注意が必要。

ハプログループO-M176は日本人及び朝鮮民族に高頻度であり、満州族でも中頻度で見られる。モンゴル[4][5]、ブリヤート、ウデヘ、インドネシア人、ミクロネシア人、ベトナム人、タイ人、そして中国国内に居住するダウール族、ナナイ、エヴェンキ、シボ族、漢族、四川省カンゼ・チベット族自治州新龍県のチベット族(カムパ)、新疆昌吉地区の回族でも低頻度にみられる。東アジア北東部に水稲農耕をもたらした集団と考えられ、日本人(和人)に高頻度でアイヌ民族には見られないことから、弥生時代以降の水稲農耕民(弥生人)との関連が示唆される[6]。


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マチュ・ピチュ

2013年11月27日 23時40分00秒 | 考古学・古代史・歴史・文化人類学
40歳のとき(約30年前)に南米を旅行し、そのときにペルーのマチュピチュに行ったことがある。
当時マチュピチュは、謎の天空都市といわれてきた。
バスが断崖のような急斜面につけられた、九十九折の細いを登っていくのに、肝を冷やし、マチュピチュに着くと、こんな急な山の尾根に、どのようにして、何のためにこんな大規模な街を作ったのか驚いた。
更に急斜面の段々畑を見て、本当にこんなところで農業をしていたのか、疑っていた。

ところが、先ほどのNHKの世界遺産紹介の短い番組での解説を見て、それまで疑問に思っていたことが、氷解した。

マチュピチュは、インカ皇帝の冬の都だったという。
そこから、インカ帝国各地へ八方に伸びる、インカ道が発掘されているという。
インカ皇帝が冬に来て、春の農耕の始まりの時期を告げるためにマチュピチュに来たのだという。
番組では、当時のインカ皇帝のマチュピチュでの生活や草葺の屋根のある町並みもCGで再現されていた。

更に、段々畑が下まで発掘され、それまで考えられていたより、はるかに大規模に遠く離れたところまで、山の斜面に作られていたようだ。
少なくともマチュピチュ周辺は深い急な峡谷で、耕作に適した盆地なんか無かった。
谷底を文字通り這うようにして、列車が走っていた。
この近辺では、作物のほとんどが山の段々畑で作られたのだろう。
作物も山の上から下までの温度差を利用して、温度に適した様々な作物が作られていたという。

私がに行った30年前は、マチュピチュは全く何も分からない謎の都市であったが、最近の発掘と研究で、かなりのことが分かり始めたらしい。
その研究成果を知った上で行けば、見方が随分変わったであろうと思った。

参考(ウイキペディア)
マチュ・ピチュ(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%94%E3%83%81%E3%83%A5)

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アイヌとヤマトの関係の断片メモ1

2012年07月25日 11時25分22秒 | 考古学・古代史・歴史・文化人類学
アイヌ語の地名が、日本全国に残っているという説に疑問を持ちそれを顕彰する為、日本人や人類のルーツに関連する本や縄文時代関連の本や、アイヌ民族の成立に関する本や、日本語の起源に関する本、等それぞれ面白く読んでいる。
その中ではっきりしてきたことは、アイヌ語は、日本語より朝鮮語に近いらしいということだ。
(同じアイヌ語でも地方により言葉が違っていて、道東では樺太アイヌの影響を受けている。例えば、日本語の川は北海道西部でのアイヌ語はpetだが東部ではnayである。
後から、北海道に南下してきた樺太系アイヌの言葉「川」を意味するナイが本土に地名としてのこること考えにくい。)

今読んでいるのは、古代東北の反乱に関する文献系の本で、主に「日本書紀」や「続日本紀」を基に構成されている。(「続日本紀」は、797年(平安時代初期)に完成した勅撰史書で697年から791年のことを記録している。)
そこでは、飛鳥時代以降の古代の国づくり(領土の拡張・侵攻侵略 例 陸奥、出羽 の建郡・建国)の様子が解説されていた。
数万の兵が北越、関東、信州から徴兵され、蝦夷と戦いつつ道を切り開いていったことは知らなかった。
逆に言うと、蝦夷側もそれだけの抵抗をしたということであろう。
まだまだ、アイヌとヤマトの関係は、調査途中であるが、今の私の理解では、下記のようになる。
アイヌは国を作らなかった。
各地で文化も(人種について:ヤマト<九州・中国・四国・近畿・中部・関東・北陸>に朝鮮から大量の渡来民が流入したのと同様に、北海道では大陸やオホーツクの人達が南下していたり、逆に北上したりもした。)違っていた。
北海道のアイヌは、稲作文化を取り入れなかった。(弥生時代は無く、続縄文文化、擦文文化、アイヌ文化)
東北の蝦夷(アイヌと同系?)は狩猟文化も守りつつ、弥生文化、古墳文化も受け入れ、ヤマトに抵抗しつつ、次第に同化の道を歩んだ。
(飛鳥・奈良時代の稲作の北限や古墳の北限と、アイヌ語地名の南限が、宮城県・山形県北部に近いが、10世紀以降は青森までヤマトの支配が及び和人文化に同化し、東北になる。)


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アイヌと和人の関係と歴史覚書

2012年05月13日 20時49分48秒 | 考古学・古代史・歴史・文化人類学
アイヌ語関連の地名の本を頂いたことがきっかけで、そもそもアイヌとはということを調べてみた。
以下は関係するいくつかの本を読み始めた段階での覚書である。
元々、789年ごろ北上川で朝廷軍と戦って朝廷軍を撃退し、その後清水寺を創建したといわれる征夷大将軍の坂田村麻呂に陸奥の国で801年敗れた、エミシ軍の首領アテルイに興味を持っていた。
古代アイヌは、蝦夷(エミシ)と(エゾ)と2つの名称があり、アイヌの成立そのものが、10世紀以降になってからと考えられている。

元々日本には、原日本人とも言うべき人達(縄文人?)がいたという説が有力である。
弥生時代以降、飛鳥時代まで、大量の渡来人が九州を始め西日本から関東地方まで渡来していることが分っている。
渡来人は、縄文人と対立や融合をしながら、稲作文化を持ち込み、弥生文化を形成したと考えられている。
古墳時代には、東北地方南部まで、古墳文化が浸透している。
東北のエミシと北海道のアイヌとは先祖は同じで(縄文人?)、日本の古墳時代には、東北北部は北海道と同じ続縄文文化でありながら東北北部でも9世紀以降和人集団が東北北部に達し、10Cには稲作も始まり土師器も受け入れて同化が進み、土師器文化となり、北海道は擦文文化となる。
13C以降東北北部も和人文化となり、北海道ではアイヌ文化が成立する。

上記のように、北海道のアイヌ文化以前は、北海道は縄文文化、続縄文文化、擦文文化となって、日本の弥生時代や古墳時代に相当するものは無く、国家も形成されなかった。
日本の弥生時代や古墳時代と同じ時期は、北海道では続縄文文化といわれ狩猟採集社会が続いた。

言語面では、古代日本語の主要単語の痕跡から、本州・四国・九州の太平洋側にポリネシア、東南アジア方面や中国南部からの人の移動もあったのではないか、という説もある。

西日本では、縄文人と渡来系の人達(主に朝鮮系)が融合したのではないかといわれていて、「渡来系弥生人の拡散と続縄文人時代」といった報告書も出ている。(国立歴史民俗博物館研究報告)
その報告書によると、続縄文時代(弥生時代から古墳時代)には北海道と東北・関東や長野には、同じ縄文系の形質の人達が分布していたという。
(元々北九州と南朝鮮の間では、弥生時代以前から行き来があった可能性が指摘されている。)
北海道では更に、オホーツク文化の人もある時期、南下していて北海道東部に文化圏を作っていてアイヌ民族といっても複雑である。

関東・東北の蝦夷(エミシ)も日本書紀等には度々登場する。
元々同じ北海道・東北の縄文系の人達が、本州では、古墳時代以降、稲作文化を受け入れ、北海道では稲作文化が入らず、狩猟採集生活を続けたが、同時に雑穀の農耕はしていたという。(川での大量の鮭漁も含む)

東北では、稲作農耕文化を受け入れた人達が、大和朝廷と対決し、それが記紀ではエミシとされているという説もある。
エミシやエゾに関しては研究が進んでいるが、日本の弥生時代や古墳時代やそれ以降の歴史のように、明確になってはいない。



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先住民アメリカ・インディアンの事実を知る

2012年02月27日 18時11分05秒 | 考古学・古代史・歴史・文化人類学
私は西部劇ファンであった。
確かに西部劇は、かっこよく第七騎兵隊もすばらしく、悪者のアパッチやコマンチをやっつける。
映画を見ていて、感激し騎兵隊やジョン・ウェインにあこがれた。
ジョン・フォード作品はお気に入りであった。
だが、いつの頃からかインディアン問題で、ジョンウエィンのかっこいい騎兵隊は否定されるようになった。
映画の西部劇の見方は、誤った見方だと言う話は聞いたが、それが何を意味するものかは深く知らなかったし、考えなかった。

ところが、昨年秋に昼食の準備をしながらNHK第2のカルチャーラジオを聞き流していると、その番組でインディアンの話をしていた。
何度か聞いていると、非常に面白くなった。
興味を持ち、NHKの「アメリカ先住民から学ぶ」(阿部珠理)のテキストを購入して聞き逃した部分を読み、聞き流していた部分もしっかりと読んだ。

そこでは、アメリカ・インディアンの歴史と思想と、彼らの現状が語られていた。
そのとき始めて、インディアン(アメリカ・インディアン自身が、ネイティブアメリカンの言葉を今では使わない。)の歴史を知り、いかに騙されどのような扱いを受けたか、そして現状は、どうなのかを知った。

19世紀が西部劇の時代に当たるのではないかと思うが、その頃にインディアンは合衆国と条約を結んだり武力で抵抗したりしていた。
その頃に活躍した3人の有名なインディアンがいる。
レッド・クラウド、 スポッテッド・テイル、 シッティング・ブルの3人だ。
この3人のリーダーは、勇敢な戦士として戦い、インディアンの文化を守る為に生きた。

1890(明治23年)年サウス・ダコタ州のバインリッジ保留地内の寒村で、無抵抗の女子どもを含む300人のラコタ・スー族が第七騎兵隊に虐殺され、このときを持って「合衆国」のインディアン戦争の終結が宣言されたのだ。

その場所をAIM(アメリカン・インディアン・ムーヴメント)は、ウンデッド・ニーと定め、1973年には、カトリック教会と交易所を71日間占拠し、連邦軍と銃撃戦を繰り広げた。
そこで彼らは、1868年のララミー砦条約に基づくオグラ・スー族の独立を宣言したのだ。

この話を聞くまで、アメリカ合衆国とインディアン部族が条約を結んでいたとか、今でもインディアン保留地があるとか、アメリカ政府が、どれだけインディアンを騙したかといったことは知らなかった。

ウンデッド・ニー占拠事件は大義名分だけでなく、インディアン社会の持つ闇の部分、即ち部族内の内部抗争や部族議会への不信や部族議会議長の腐敗があった。
FBIのタスクフォース(武力・軍?)を要請したのも、この議長であった。
しかもそのウンデッド・ニー占拠事件騒動の時に、カトリック教会でインディアンのメディスンマン(崇拝されている祈祷師)、フールズ・クローが、彼らのワシの羽やパイプを使った伝統宗教の儀式を執り行い、今でもそれが語り継がれているという。

第二次世界大戦では、多くのインディアンも兵士として参加し功績を挙げているという。
そのような、現代のアメリカ合衆国で、多くのインディアン保留地があり伝統的な生活を送っていて、アルコールや支援で荒廃した彼らの精神と信仰を復興しようという運動があることも知った。

このようなことを知り、アメリカは、本当に複雑な国であることを改めて知った。

余談だが、私は物語りも知らなかったのだが、ディズニー映画のインディアンプリンセス「ポカホンタス」は実話と言う。
彼女は17世紀初頭に実在した人物で、ポーハタン族長の娘で、ジェームスタウンの人間に人質として誘拐された。
1614年にタバコ農園主のジョン・ロルフと結婚し一子を産んだ。
その後彼女の一家はイギリスに招かれアン女王の拝謁を受け、チャールズ王子とともに劇場のロイヤルボックスに登場したと言う。
その後アメリカに帰国直前の1617年に肺炎を患い22歳で亡くなったという。


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秀吉のキリシタン追放と朝鮮・中国征服の野望

2012年01月24日 13時07分58秒 | 考古学・古代史・歴史・文化人類学
今弥生時代・古墳時代の国内情勢や卑弥呼の邪馬台国に関しても、いまや中国や朝鮮半島の国際情勢を抜きに語ることが出来なくなっている。それと同様のことが、戦国時代が終わった、秀吉の時代にも起きていたようだ。

日曜日の朝にラジオの講演会を聞いていると、秀吉のバテレン追放や朝鮮出兵との関係についての話があった。
その内容を聞いて、それまで、単に秀吉を侵略者と思っていたが、どうもそんな単純な話では無さそうだということが分った。当時の大航海時代もほぼ一段落し、残された極東をめぐる国際情勢がかなり影響しているようなので興味を持った。

秀吉がキリシタン弾圧に踏み切ったのは、スペインが宣教師を先兵として、日本を侵略しようとしていると考えたことが原因といわれている。一方宣教師たちは、西洋文明を日本に持ち込み、日本には新しい文化が花開こうとしていたとする好意的見方もある。織田信長は西洋の文物を好みキリスト教も容認していたし、秀吉も当初は西洋文化を容認していたし、キリシタン大名も何人もいたのに、なぜ秀吉は何を根拠にキリシタン弾圧に踏み切ったのか。

私も、今まで後者の面だけ注目して、秀吉がキリシタン弾圧に踏み切ったのは、スペイン・ポルトガルのアメリカ大陸侵略を知って、それをなんとなく恐れキリシタン追放に及ん程度のことだのだと思っていた。

ところが、放送された講演会の話では、れっきとした証拠がある話だった。しかもフィリピン総督が日本を脅そうとして、逆に秀吉がフィリピン総督を脅し、総督を震え上がらせたりしたという話を聞き、信じられないので、事の真偽を調べてみた。(無論大学教授の話で、学問的に裏打ちされた話に間違いはないのだが。)

そこで、いくつかの資料や解説に出会った。いくつかの資料では、イエズス会の純粋に信仰に基づくキリスト教の布教とは別に、日本人を奴隷にして売買したり、宣教師が日本征服計画や、日本を先兵にして中国全土をスペインの植民地化にすることをペイン国王に進言したりしていた。又日本征服のときに、キリシタン大名の活用についても言及していた。また当初は、日本の朝鮮侵略に宣教師も手伝いをしていたようだといったことも分った。詳細は下記参考資料のリンク参照。

そのついでに秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役)の成り行きについても調べてみると、中国の明も朝鮮の援軍として参加し、朝鮮の全土を舞台に繰り広げられた大戦争だったことが分ったが、そのような詳細は全く知らなかった。(戦争期間の記載に誤りがありました。正しくは、文禄の役1592年4月 - 1593年7月 慶長の役1597年1月 - 1598年12月)

参考
地球史探訪:キリシタン宣教師の野望( http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog154.html)
戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(http://www.geocities.jp/kanemasa2/data5/ten8.htm)
バテレン追放令(ウイキペディア)

1587年、豊臣秀吉に、宣教師コエリョ が下記の五カ条に及ぶ詰問状を突きつけられ叱責された。
•大名に対しキリシタンになるよう洗脳した事」
•日本人を奴隷として海外へ売った事」
• 九州の寺院焼き討ちを奨励した事」
• 「九州の僧を迫害している事」
• 「牛食を広めている事」

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知らなかったバルチック艦隊の秘密

2011年12月21日 17時35分50秒 | 考古学・古代史・歴史・文化人類学
先ほどNHKの再放送番組で、ろーかる直送便 しこく8「バルチック艦隊の真実~日本海海戦への知られざる航海」を観た。
この番組は再放送だが、先頭についている「ローカル直送便 しこく8」が気になったが、四国のローカル番組かもしれない。

番組の内容は、ロシアの司令長官側から見た、日本海海戦までの経緯だ。
バルチック艦隊は、ソビエト政府に非難され、負けた艦隊として歴史の片隅に押しやられた存在だったという。
ここ数年、ロシアのバルチック艦隊の遺族が集まってバルチック艦隊を追悼する集いが開かれ、そこで遺族同士の情報交換がされているという。
そこでバルチック艦隊を見直そうという動きが出ているのだろう。

バルチック艦隊が、バルト海艦隊から分かれて第二太平洋艦隊として、旅順の太平洋艦隊を支援する艦隊として編成されたことや、艦隊が急ごしらえで、兵員が徴兵されて間もない人も多く、訓練も余りされていなかったことなど、司令長官ロジェストベンスキーの手紙やその他の資料から、知られていなかった事実が語られていた。

当時日本の情報収集や宣伝工作活動は世界的に展開されていて、日本では海外駐在商社マンも動員しバルチック艦隊の動向を探り艦隊の詳細な情報を当局に上げていた。
そのため日本では、末端の関係者まで各艦の特徴を記した書類が配布されていた。

宣伝工作も行われ、待ち伏せ攻撃の噂も広め、その結果バルチック艦隊が、北海からアフリカに向う途中に北海でイギリスの漁船團を日本の軍艦と見誤って撃沈し、イギリスとの関係も悪化したという。

バルチック艦隊は、アフリカでは、喫水の深い軍艦が航行するのに欠かせない正確な海図情報が必要なのに、不正確な海図しかなく悩まされたという。
その上、大量の石炭が必要だが、赤道直下の炎熱と厳しい大量の石炭の補給作業と病気に多くの将兵が苦しめられという。

その後、第三太平洋艦隊も編成され、合流を命ぜられたが、第三艦隊は旧式船が多いため足手まといになると、ロジェストベンスキーは反対したという。

マダガスカルでは訓令待ちで2ヶ月停泊し、ベトナムではフランス領のためロシアの軍艦寄港が中立でないという国際世論に推され、港から出航せざるを得なくなり、石炭確保の為周辺の港を移動したという。
そんなわけでバルチック艦隊の司令官は、最初から苦戦を予想していて、何とかウラジオストックに逃げ込んで態勢を立て直せば良いと考えていたが、ロシア皇帝は日本海の制海権確保を考えていたという。


このようなロシア側からの目で日本海海戦を見ると、非常に興味深いし、バルチック艦隊には、最初から敗因が潜んでいたことがよくわかる。
当時は、日本の情報戦もすばらしいものがあったようだ。
しかし、日本人が日本海海戦で、ロシア最強の艦隊を撃破したという話は、上記の事実を知れば、多少見方が変わるかもしれない。



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纏向型前方後円墳と古墳時代の始まり

2011年11月23日 12時46分34秒 | 考古学・古代史・歴史・文化人類学
先週「古代を偲ぶ会」の例会で寺沢薫氏の「「纏向型前方後円墳」再論」というテーマでの講演会があった。
講師の寺沢薫氏は、出現期の古墳研究(前方後円墳の始まり)の第一人者として有名である。

講演会のテーマと大きく関連する、纏向遺跡は、以前から邪馬台国時代の遺跡、遺構、遺物の発見が続き考古学では非常に注目されていた。
ここ数年遺跡から、整然と配置された宮殿クラスの建物遺構が次々と発掘され、邪馬台国女王卑弥呼の宮殿ではないかと、大きくマスコミをにぎわしている。
現在も発掘が断続的に継続されていることもあり、今後とも、考古学ファンのみならず、国民の注目を浴び続けることになるだろう。

(以下講演会での話の内容になりますが、これは私が講演会を聞いた話の記憶をもとに再構成しているもので、寺沢氏の話を再現している物ではありません。また私の記憶違い等の誤りも考えられます。そのため引用等の利用は固くお断りします。正確な内容は、寺沢氏の著書を参照してください。)

講演会は、テーマの「纏向型前方後円墳」とは何かという話から始まった。
古墳時代には前方後円墳を頂点として、前方後方墳や円墳や方墳等多くの古墳が築かれた。
古墳の形や大きさは、階級を表している可能性が強いとされている。
古墳の頂点に立つ前方後円墳は突然広がりだした。
初期の前方後円墳の始まりは?箸墓といわれているが、専門家からいろいろ意見が出ている。
(参考:箸墓は纏向遺跡のそばにある。http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/yamatai05.html)

最古の前方後円墳の前によく似た形の「纏向型前方後円墳」が存在した。
纏向型前方後円墳も前方後円墳同様に様々な墳丘に分類できる。
従来の箸墓から始まる前方後円墳は、纏向型前方後円墳が定型化したものと捉える。

寺沢氏が古い古墳を調査したところ次のことが判明した。
初期纏向型前方後円墳の年代は、庄内3から布留0式である。(土器の形や製造方法による編年上の分類で、庄内式土器の後に布留式時が発生する。後ろのナンバーは小さいほど古い)
しかも、南九州から東北南部まで分布している。

前方後方墳が前方後円墳より先に発生したという学説も存在する。
この詳細を調査したところ、すべての前方後方墳は纏向型前方後円墳より古いものはない。(時期は庄内3まで)
従って前方後円墳が前方後方墳から派生したということはいえない。

弥生時代が終わり前方後円墳が発生して古墳時代となるのが定説であったが、纏向型前方後円墳の位置づけをどうするのか。即ち古墳時代の幕開けの捉え方。
纏向型前方後円墳の分布に特徴がある。大和・筑紫・吉備・関東に固まっていて、前方後円墳発生後も存続する。前方後方墳も前方後円墳発生後も存続する。
出雲には四隅突出型墳丘墓のみである。又出雲や中部内陸には、纏向型前方後円墳が存在しないが、中部には前方後方墳が存在。その意味で「魏志倭人伝」で邪馬台国と対立関係にあったと書かれている「狗奴国」の意味も注目される。
このような古墳の分布のあり方と時代別の変化を見ると、墳形も含め、連合王権としての王統(後の大和の豪族?)と地域政権の絡みや地域祭儀の集約といった関係も解明できるのではないか。

以上のような講演会の説明を聞いて、これから箸墓以前の弥生時代から古墳時代への移行期の政治状況に関し、考古学的アプローチが進むのではないかと期待される。
(弥生時代末には、銅鐸や銅剣、銅矛等が一斉に埋納されている。等様々な謎かある。)



参考
【全国遺跡報告総覧とは】
藤原京右京九条二・三坊 瀬田遺跡の調査(飛鳥藤原第187次調査)(ダウンロードをクリックすると現地説明会資料<左下のタグをクリックすると表示される>が表示されます。日本最古クラスの円形周溝墓です。)

歴史・考古学・民族学
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(考古から見た)「農耕社会の成立」を読んで

2011年11月03日 22時02分34秒 | 考古学・古代史・歴史・文化人類学
岩波新書の「農耕社会の成立」石川日出志を読み終えた。縄文時代から古墳時代直前までの地域の違いも含めた社会の変化が、現在の考古学データや学説を基に描かれていた。当初タイトルから見て、文化人類学的な本に近いのかと思ったが、石器時代から古墳時代前までの社会を、考古学を中心社会像を描き出している。

書かれている内容は非常に興味深く、現在の考古学の到達点がよく見えてくる。考古学古代史関係の本を読んで気付くことは、その本の書かれた時期だ。考古学は、毎年新たな考古学資料が加わる。そのような資料の中には、今までの定説を覆す資料が出る場合も多い。したがって、書かれた年代が古いと画期的な考古学資料が含まれていないため、必然的に学説が古いことがあるので要注意だ。

重要資料が出土するたびにそれまでの学説が変化していったのが、考古学の歴史といっても差し支えないと思うし、宿命でもある。出土資料が絶対であって、それに基づいて整合性のある歴史像を組み立てて行くことにならざるを得ない。

今までの考古学の流れは知らないが、いくつかの考古学関係の本を読む限り、弥生時代から古墳時代にかけて、海外との交渉・外交の解明が非常に重要になっているようにみえる。この本でも、朝鮮半島を含む大陸との関係にも、再三触れている。

この本では、日本列島の始まりから、石器時代そして縄文時代までも地域の違いを含め解説し、農耕や縄文文化や住居・集落にも触れている。

弥生時代の始まりも、問題となっている。現在の学説では弥生時代の始まりは、この本では地域的に一様ではないということを強調していて、稲作農業が最も早く始まった九州では、紀元前800年頃を想定しているようだが、紀元前500-600年より後から1000年までの間に考えようという学説が多いようだ。

古墳時代の始まりも学者により違う。多くの学者は箸墓が作られた時期をもって古墳時代の始まりとする意見が多く、この本でもその立場をとっている。

この本では、全体的に各時代を通じて強調していることは、地域によって時代の流れが違うことだ。その地域区分は九州、 中国、 近畿、 中部・関東、 東北、 北海道に分けている。
全体として、縄文時代、弥生時代、もそれぞれ地域により、集落のあり方や稲作技術の違い祭祀の違いについて丁寧に分析していて、興味深かった。
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日本の未開から文明へ 天草の乱と綱吉

2011年11月01日 17時47分14秒 | 考古学・古代史・歴史・文化人類学
昼食を食べながら、「さかのぼり日本史」の再放送を見ていた。「島原の乱「戦国」の終焉」というタイトルだった。島原の乱も大体知っているし、農民とキリシタンの話だろうと軽く想像していた。

ところが語り手の磯田道史 茨城大学准教授は、この時期に野蛮国家から文明国への仲間入りをした、大変換の時期だという意味のことを説明した。本当かなと思って聞いていくうちに、そのことが明らかになった。国の体質がこの時期を境に野蛮から文明に代わったのだ。長い歴史のうちで国の体質が変わることは余りないという。このような話は初耳だった。

島原の乱の前に生瀬村の事件が紹介された。「島原の乱「戦国」の終焉」(http://www.nhk.or.jp/sakanobori/archive201110/index.html#series_04)参照。
気になったので更に別の資料を調べて見たら、次のことが分った。「現在の茨城県久慈郡大子町の小生瀬村で一揆が発生しました。しかし、時の為政者(徳川)に鎮圧されて一村皆殺しとなり、三百数十名が全滅したとの伝承があります。」「生瀬一揆とは何か」(http://www2.ttcn.ne.jp/~voce-someno.y/section1.html)より。
これについては、1602年頃から1620年ごろまでといろいろ説はあるようだ。ここで語り手が強調したのは、当時は、武士が農民を「なで斬り」=皆殺しすることは、当たり前であるような殺伐とした時代であったということだ。

次いで島原の乱の説明があった。以下島原の乱の参考資料抜粋
「島原の乱(しまばらのらん)は、江戸時代初期に起こった日本の歴史上最も大規模な一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦である。島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)、島原・天草の乱とも呼ばれる。寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結とされている。
実際には、この反乱には有馬・小西両家に仕えた浪人や、元来の土着領主である天草氏・志岐氏の与党なども加わっており、一般的に語られる「キリシタンの宗教戦争と殉教物語」というイメージが反乱の一面に過ぎぬどころか、百姓一揆のイメージとして語られる「鍬と竹槍、筵旗」でさえ正確ではないことが分かる。」
ウイキペデイア「島原の乱」より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E4%B9%B1

島原の乱一揆軍37,000人程であったといわれ、幕府軍は総計 125,800人
一揆軍は全滅し、幕府軍は、その死傷者は諸説あるが、「島原記」によれば死者1,130人・負傷者6,960人、「有馬一件」によれば死者2,800人・負傷者7,700人、「オランダ商館長日記」では死者5,712人とされている。すなわち、従わなければ皆殺しにするのが、当たり前という時代であった。それまでの日本は、それ以前から殺伐としていて殺人は当たり前だったという。

それにしても島原の乱一揆軍の全滅及び幕府軍の死者負傷者を合計すると4-5万人近くになる。しかも天草半島の狭い地域にである。そこでは弓矢や槍や刀や鉄砲を使い、武士・農民・女・子供・老人の区別無く、見せしめの意味も含め、徹底して殺戮・虐殺したに違いない。想像するだけで恐ろしい。
その結果、島原半島の農民は激減して一帯は荒廃し、復興の為他藩から農民を移住させたという。

こうしたことで、幕府は農民を武力で強制的に従わせると、幕府側にも多大なダメージを被ることに気付き、武力で物事を解決することに対し、何となく疑問を持ち始めたのではないかという。

その後綱吉が将軍になって、日本の体質を変えたというのだ。武家諸法度を改定し「文武弓馬の道、もっぱらたしなむべきこと」を「文武忠孝を励まし礼儀を正すべき事」などと変更し、儒学(特に朱子学)を重んじるようになった。また生類憐みの令も、世間では犬のことが強調されているが、下記の資料のように、弱者救済の側面があった。また江戸時代では、いつの頃から体系化されたか知らないが、少なくとも殺人等を犯すと役人が取締り、裁きを受けるようになった。そういえば戦国時代以前室町や鎌倉時代の、裁判の話は聞かない。このように見て行くと、意外と中世や近世の歴史も面白い。しかし、これ以上興味を持っても、調べる時間が無いので深追いはやめようと思う。


【参考史料】
1687年(貞享4)の生類憐みの令
 これは江戸前期の私撰幕府法令集『御当家令条』巻33にのるもので、1687年(貞享4)4月に発令された。85年以降に何度もだされた生類憐みの令の中では初期のものである。87年正月に、捨て子や捨て牛馬を禁じる法令がだされて以後、生類憐みの令は本格的なものとなり、本法令もふくめて格段にきびしいものとなっていった。以下その現代語訳
 覚え
一、捨て子があればすぐさま届け出ようとせず、その場所の者がいたわり、みずから養うか、またはのぞむ者がいればその養子とせよ。よいか、届け出なくてかまわない。
一、鳥類・畜類で、人が傷つけたと思われるものは今までのように届け出よ。共食いやみずから傷つけたと思われるものは届け出なくてよい。それらを養育し、持ち主があればかえすようにせよ。
一、飼い主がいない犬に日ごろ食べ物をあたえないようにしているという。それは要するに食べ物をあたえれば、その人の飼い犬のようになって面倒なことがおこると考え、いたわらないでいるらしいが、けしからん。これからはそのようなことがないように心得よ。
一、飼い犬が死ぬと、飼い主は上司へ届けでているという。その死に異常がなければ、これからはそのような届け出は無用である。
一、犬ばかりにかぎらず、人々はすべて生類へ慈悲の心からでるあわれみをほどこすことが肝要なのである。
生類哀れみの令」よりhttp://www2u.biglobe.ne.jp/~k-hina/awaremi.htm
これにより、牢屋の待遇が改善されたり、行き場の無い人が助けられたり、飢えた人に食事を与えられたという。

また次のような紹介もあった。
徳川綱吉 1646-1709
まだ将軍宣下を受ける前から天領の代官たちに対し、「支配者が寛かに民を扱うと、民は奢りに走り本業を怠る 奢侈を許してはいけない 民は為政者を信用していない 為政者もまた民を疑っている このようなことが起こらないように意思の疎通に心がけよ 代官等は率先して身を慎み、職務をよく理解し、年貢の収納に努め、下役に任せ切りにせず、自らが先に立って職務に精励することが肝要である」と諭したとされる。

また戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる文治政治を推進。これは父家光が綱吉に儒学を叩き込んだことに影響している(弟としての分をわきまえさせ、家綱に無礼を働かないようにするためだったという)。綱吉は林信篤をしばしば召しては経書の討論を行い、また四書や易経を幕臣に講義したほか、学問の中心地として湯島大聖堂を建立するなどたいへん学問好きな将軍であった。
以上ウイキペディア「徳川綱吉」より
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%B1%E5%90%89)

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邪馬台国の位置

2011年10月27日 20時10分59秒 | 考古学・古代史・歴史・文化人類学
10月26日夜に放送されたNHKの「歴史秘話ヒストリア」の「・・ 邪馬台国・卑弥呼のヒミツ」(http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/103.html)については、興味深くまた面白く楽しめた。

番組の性格上、ある程度学術的な事実をおさえつつ、邪馬台国研究に関連したエピソードを並べた構成になっていて、素人でも楽しく見ることができる構成になっていた。

その分、学術的議論が出来る時間的余裕もないことは理解できる。それでも少し気になったことがある。邪馬台国の位置に関する重要な情報の一部が紹介されていなかったのだ。ただしこれを紹介すると、位置に関する謎やそれにまつわるエピソードやロマンも無くなるので、構成上やむを得ないことかも知れないが。

実は現存する最古級の世界地図の一つとされる「混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)」(龍谷大学大宮図書館所蔵)が超高精細デジタルカメラで解析処理し、消えていた地名や色彩の復元に成功した。というニュースが2009年11月22日のアサヒコムに掲載されていた。この地図を見れば、日本列島は九州が北で、本州はその南に描かれている。

この地図は、明代の1402年、朝鮮半島で作製されたとされる。すなわち、その時代までの中国人の日本に対する位置関係はこの地図の形で認識されていた可能性があるのだ。卑弥呼の時代も中国ではそのように認識されていたのか、逆に魏志倭人伝をもとにこの日本を描いたのかは分らない。邪馬台国当時、倭人が防衛上、中国人に邪馬台国の位置を隠す為に、九州の東にある邪馬台国を、わざと南にあると教えたのではないだろうか、といった推測も言われている。

いずれにせよ、中国人は邪馬台国が南にあると信じていたのは事実であろう。この地図で本州が九州の南に描かれている事実を見れば、魏志倭人伝に描かれた邪馬台国の位置関係は、方向は間違っていても相対的位置関係は地図上の本州の位置と合致する。確か吉村武彦氏の「ヤマト王権」(岩波新書)でもそのことが指摘されていたように思う。(明日確認予定)<図書館にその本が無かった為確認遅れました。同書17ページに簡略化した地図いりで記載されていました。>

今回の放送で、邪馬台国研究の進展状況がよくわかり、更に興味が掻き立てられた。新しい発掘・研究報道を考古学ファンとして楽しみに待ちたいと思っている。

参考
混一疆理歴代国都之図(ウイキペディア リンク)


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日本の呼称の始まり、そして趣味の古代史・考古学の流れ(改)

2011年10月23日 21時40分27秒 | 考古学・古代史・歴史・文化人類学
「日本」の呼称が、最古の例となるかもしれない678年の墓誌?中国で発見されたという記事がアサヒコムに掲載されていた。それまでは、日本という国名が使用されたのは、大宝律令(701年)からとの見方が有力だったという。(http://www.asahi.com/culture/update/1022/TKY201110220586.html)

それ以前では、3世紀末に書かれた魏志倭人伝という中国の歴史書の倭の用法に見られるように、中国での日本の呼称は倭である。倭に関しては502年にも倭王武を征東大将軍に進号する、という記事が『梁書』(りょうじょ)に記されている。倭王武は、雄略天皇とする見方で研究者の間ではほぼ一致しているという。(稲荷山古墳出土の鉄剣銘のワカタケル大王でも話題になった。)


ところで、古代史・考古学は、私の主な趣味の一つになっていて、このような古代史考古学情報をいつもチェックしスクラップしている。私が、古代史・考古学に興味を持ち出したのは30代になってからである。

30歳の頃失業中に、遺跡発掘の作業員のアルバイト広告を見つけて応募した。そして東大阪の遺跡保護調査会から、石切近くの日下中学校?にあった遺跡へ1ヶ月余り発掘調査のアルバイトに行った。それまでは、設計や製品開発の仕事しか経験していなかった。覚悟はしていたが、生まれてはじめてのツルハシやスコップを使っての発掘作業はきつかった。川床跡の礫層は硬くて特に大変だった。調査面の土の層まで達すると移植ゴテやその他の道具で丁寧に地表表面を削り遺物を見つける作業になる。発掘面を丁寧に削りならすと、柱穴とか当時掘り返されてところは、土の色が違うという。(なかなか見分けがつかない)たまに土器片を見つけると宝物を掘り当てたように嬉しかった。

発掘作業に従事している作業員や発掘調査員は、学生か卒業して数年程度の若者ばかりで、考古学への情熱を燃やしていた。お昼時は、考古学の話も飛び交い、考古学の門外漢であった私は、全く話についていけなかった。今まで勤めていた会社の社員や取引先の大企業の技術者・ビジネスマン達との世界が普通と思っていたので、それまでと全く違う世界が見えて新鮮でもあった。

あるとき、調査責任者が「これは画期的な論文だから希望者は読んでください」と言って、希望者にコピーが配布されたので読んでみた。それは、都出比呂志先生の古墳時代前夜と高地性集落を論じた小論文だった。考古学論文を読むのは初めてで、予備知識も無い私にとって余り分らなかったが、周りの人の解説で、だんだんと分りだした。

確か石鏃の大きさの変化や、高地性集落の、のろしの見える位置関係や土器の胎土(たいど:土)と婚姻関係も論じられていて、高地性集落は防御用のために作られた集落で、当時魏志倭人伝に記されてあった倭国の大乱の証拠ではないかという論文であったような記憶がある。当時は邪馬台国時代の倭国の乱も、何のことか分らなかった。(倭国の乱については、今も確定した説が無いようだ。)

このようにいつも、考古学関連の話しを聞かされ、発掘作業でわずかな土器片を宝探しのように探し当てたりするうちに、当時話題となっていた邪馬台国関連の本を読んでみる気になった。そして原田大六氏の「邪馬台国論争」を購入し読み始めた。はじめは難しくて全く分らなかった。考古学用語や文献の固有名詞のオンパレードで理解するのに非常に苦労した。考古学古代史は記憶の学問ではないかと思い、読むのを止めようと何度も思ったが、それでも少しずつ読み進め、数ヶ月以上かけて読み終えた。

東大阪遺跡保護調査会のアルバイトは、一ヶ月余りで終わった。その後アルバイトで知り合った知人の誘いで、長原遺跡の発掘調査に加わったが、参加して確か1週間余りで、ある食品機械メーカーの設計技術者として就職が決まりアルバイトを辞めた。その頃長原遺跡の弥生時代の方形周溝墓について知った。

それ以来考古学、古代史ファンになり、講演会に参加し、本を読み知識を深めた。その後大阪市の教育委員会が主催していた、市民考古学講座に参加して、一般教養程度の考古学知識や難波宮や河内の古代や古墳に関しての初歩知識を得ることが出来た。

その後、大阪市の北市民教養ルーム担当者の肝いりで考古学講座のOBが集まって「古代を偲ぶ会」を結成した。偲ぶ会は、今も考古学・文献史学の専門家・研究者(有名な先生や気鋭の学者が多い)を招き、毎月定例講座を開く大きな会に成長している。発足当初は、まだ会の規模は小さかったが、私も定例講座を聴きにいき随分考古学・古代史に対する理解が深まった。

会社に勤めだした時は、クレーム処理とか修理程度の仕事で余り残業せずに帰れたので時間に余裕があり、考古学の専門誌も読んだ。しかし仕事に慣れるにつれ、本職の設計の仕事が忙しくなり製品開発も始まり、遅くまで残業し、更に管理職・技術部門の責任者となってからは、早朝や休日出勤も普通になり、趣味どころではなくなった。40歳になり、それまで必死に働き通したおかげで、経済的に余裕が出来たので、脱サラし語学留学で一年余り渡米した。

帰国後、中南米の民芸雑貨店やギャラリーを経営し、考古学・古代史に触れることは無かった。50代で事業に失敗した後は、低賃金の契約社員として働き、再び残業等に追われ(契約社員のため、いくら残業や休日出勤しても手当ては付かず、会社に体よくこき使われた。)、文字通りの貧乏暇なし状態で食べて行くだけで精一杯の状態になった。必死で働いた契約社員の仕事は、契約更新で打ち切られたので転職し、社労士の下での営業の仕事に就いた。仕事は順調にこなしかなり成果も上げた。その後国の制度上の問題(既得権益)で、会社がそのビジネスモデルの仕事を継続できなっくなった。その為産創館の起業講座に通った後、自営業をはじめた。しかし自営業で始めた営業代行の仕事は、うまくいかず困窮した。無論この年での就職口はほとんど無かった。その後、幸いなことにすぐに年金受給の年となり救われた。年金のおかげで、自由に使えるお金はほとんど無くても、簡素な食事なら食べる事だけは安心して出来るようになった。このように最近まで仕事と貧困に追われ、古代史・考古学どころで無かった。

そういうわけで、社会的活動をあきらめたわけではないが、今時間には余裕があり、図書館から本を借りて古代史考古学関係の本を読んでいる。20年前の考古学の知識は、すっかり古くなっていた。その間考古学の世界では、大量の発掘データーが蓄積され、朝鮮や中国の考古学情報も加わって、古代の国際関係も遺物を通して論じられるようになり、日本の考古学は飛躍的に発達した。その間、私はそういった情報にほとんど接していなかったので、経過が全く分らず、今新鮮な気分で考古学・古代史関係の本をゆっくりと読んでいる。今振り返ってみて、古代史・考古学の趣味を持っていて良かったと思っている。


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