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昨日記151003土(ギャラリーノマル・片山雅史個展 芸術原論断片 ラグビーサモア戦)

2015年10月04日 13時46分32秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
晴  最高/最低℃ =25.0   15.5
昨日の昼は、副食がなくなったので、缶詰と冷凍野菜ジュースで簡単に済ませた。
午後からは、当然のことながら、副食を作らなければ夕食も缶詰になってしまうので、副食作りに励んだ。
土曜日なので、通常西天満のギャラリーを見て回る予定であった。
しかし、昨日は夜から、深江橋のギャラリーノマルにも行く予定をしていた。
とすると、副食は一つも仕上がらないままで、西天満に行くことになり、そのまま予定通りノマルに行くと、帰宅は9時過ぎになり、それから副食作りを再開し夜食を作ると、深夜の食事になる。
缶詰の夜食で時間を省略するという方法もあるが避けたい。
その他外食するという方法もあるが、サラリーマン時代は、外食が日常であったが、現在そんな余裕は全くない。(外食は月に数回であれば問題ないが、同様の事態は常に発生している。分相応の生活という自己規制を一度緩めると、外食が常態化する可能性があり、間違いなく家計は破綻する。)

結局、西天満に行くことを諦め、副食作りを継続した。
夕方になって、数食の副食を優先的に完成させてから、ギャラリーノマルに出かけた。

ノマルでは「楽園へ/メメント・モリ 」片山雅史展が開催されていて、昨日が初日であった。
6時から片山雅史 x 建畠晢氏(詩人, 美術評論家)のトークが1時間余りあった。
ギャラリートークが始まる前に、2階の展示室に行き、そこには片山氏の過去の図録もあり、その変遷を知ることが出来た。
作品は、蝶を使ったダブルイメージの作品で、蝶は美しく軽やかに動き回る少女の象徴でもあるという。
その蝶により表現されていたのが、髑髏であった。
そうした意味で、マニエリスム的香りのする作品でもある。
同時に、花が密生して描かれている作品は、フラクタル的要素が強い。
こうしたことは、対談の中で建畠氏も指摘していた。
技術的には、こうした作品が、ペン画ではなく墨と筆で描かれているということに驚かされる。
その他作品の、コンセプトやコンテンツについて論じる所は多いが、きりがないので省略する。

今回の展示でいくつかの大作は9ピース以に分割されていた。
こうした分割して描く作品は、他でも見かけることはある。
そうした作品は、200万円近い価格が表示されていた。
表現上の問題もあるが、ある意味画廊と作家の販売戦略も見えてくる。
こうした問題は、古今東西、芸術活動も経済的側面がなければ継続・存続できないことを考えると、納得せざるを得ないだろう。
無論、経済活動抜きの芸術活動もありで、日本の現代美術では、そうした活動例は一般的に見受けられるが、それはそれで一つの形態として経済的には不遇であっても、芸術的には理想的なのかもしれない。
ギャラリートークではいろいろな話が議論されたが、建畠氏の体験談や考えもいろいろ話されたが、興味深かった。
聴衆から、デュシャンの泉と建畠氏の、最高に素晴らしいと称賛するウォーホールの作品(ゴールデンモンロー?)とどちらが、価値あるのかという質問もあったが、明確な答えはなかった。
私の考えからすれば、この質問自体がナンセンスと思うし、答えられなくて当然と思う。

科学と違い、芸術は価値観で成立している。
同じ音楽でも浄瑠璃(義太夫節)バロック音楽の優劣は付けられないのだ。
即ちそれぞれの分野に、初めから価値観が全く違う、パラダイムが違うのだ。
それぞれの分野の価値観の範囲でのみ、芸術的優劣を決めることが出来るのである。
専門家ですら、こうした原理的なことを理解していない人がほとんどである。

だから、違う分野の評価をミックスして議論する場合、答えが出ないのは当然である。
芸術には、それぞれの分野で、独自の価値観が存在するのであって、価値観の違う者を同じ土俵で評価することは不可能なのである。

しかも、芸術分野においては、新しい価値観がどんどん創造されている。
例えば、ハードロックは100年前には、存在しなかった。
ビートルズの音楽は、流行し始めたとき、雑音といわれた。
ただ、ノイズに関しては、この日のパーティーに、造詣の深い人がいて、その人からノイズは戦前から存在するという話を聞いて驚くとともに、いまだに評価は定まっていないという話も聞いた。
無論、美術において音楽で起きているように、新しい価値観・分野が創造されている。

違う分野の芸術を評価する場合、違った価値観(見方)で文学的に説明しても、言説を費やしても無駄である。

芸術とはコミュニケーションの一形態であり、相互に伝わらなければ意味がない。
文法文脈や価値観が違えば、誤解は出来ても、理解は不可能であることは自明の理ともいえる。

逆にシュールレアリズムのように、お互いに違う価値観や文法文脈のずれを認識したうえであえて重合させることで、新しい価値を見出し楽しむことは、現代アートの一分野として成立していて、多くの作家鑑賞者がシュールレアリズム的作品を楽しんでいる。

ギャラリートークの後、パーティーがあり、出席者と話を楽しんだ。
帰宅は、9時過ぎになった。
遅い食事のあと、ラグビーのサモア戦を見た。
今までラグビーをほとんど見なかったが、サッカーより面白いかもしれないと思った。
ラグビーは、日本が勝った。


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参考ブログ集 散歩者gooより
(参考ブログは、数週間に1度追加削除しています。数か月以前のものは分野別<芸術 健康 エッセイ 歴史宗教思想 情報機関> に分類しています。)


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