《1 コチャルメルソウ》(2024年4月18日撮影)
《2 キバナノアマナ》(2024年4月18日撮影)
《3 エンレイソウ》(2024年4月18日撮影)
《4 ミチノクネコノメソウ》(2024年4月18日撮影)
《5 ユリワサビ》(2024年4月18日撮影)
《6 トウゴクサイシン》(2024年4月18日撮影)
《7 イチヤクソウ》(2024年4月18日撮影)
《8 ヒメアオキ》( . . . 本文を読む
《コマクサ》(平成27年7月7日、岩手山)
さて、昭和3年の「ヒデリノトキ」は流石に賢治も、今度こそは田植時のヒデリをとても心配していたはずだ。それは、大正15年の大旱害の際に賢治は何一つ救援活動等をしていなかったと言えるからその悔いがあったであろうことと、同年の大旱害被害の最大の原因の一つに田植時に用水を確保できなかったことがあったからである。
ところが昭和3年の田植時に賢治は何をしていたの . . . 本文を読む
《1 ミヤマカタバミ》(2024年4月18日撮影)
《2 》(2024年4月18日撮影)
《3 オオバタネツケバナ》(2024年4月18日撮影)
《4 》(2024年4月18日撮影)
《5 ノミノフスマ》(2024年4月18日撮影)
《6 サワハコベ》(2024年4月18日撮影)
《7 モミジイチゴ》(2024年4月18日撮影)
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〈2024年4月24日付『朝日新聞』の17面「岩手」〉
さて、先に私は、
本物だと知った。賢治研究をさらに発展させる方だと。
と述べ、そして
牧野氏はまさにこの、「あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証して」いるからではなかろうかと、私には思えたからだ。たしか、牧野氏の出身は名古屋名のはずなのに、それが今は遠く離れた盛岡で仕事をしながら . . . 本文を読む
《1 おっ,向こうに》(2024年4月18日撮影)
《2 ミドリニリンソウだ》(2024年4月18日撮影)
《3 》(2024年4月18日撮影)
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ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはず . . . 本文を読む
《コマクサ》(平成27年7月7日、岩手山)
ところで、「羅須地人協会時代」にヒデリの夏だった年は大正15年だけではなく、周知のように昭和3年もそうであり、同年の夏の花巻一帯では約40日間ほども雨が一切降らなかったと云われている。そしてこのことは次のようなことなどから裏付けられる。
例えば、昭和3年8月25日付『岩手日報』には次のような記事、
四十日以上打ち續く日照りに陸稻始め野菜類全滅!! . . . 本文を読む
《1 》(2024年4月18日撮影)
《2 》(2024年4月18日撮影)
《3 》(2024年4月18日撮影)
《4 》(2024年4月18日撮影)
《5 》(2024年4月18日撮影)
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ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言ってい . . . 本文を読む
〈2024年4月24日付『朝日新聞』の17面「岩手」〉
取り出した『宮沢賢治・第六号』(昭和61年12月1日、洋々社)には、インタビュー
「わが賢治/第五回」
山折哲雄氏に聞く 宮沢賢治への問いと現在 インタビュー 牧野立雄
が載っているからだ。つまり、牧野立雄氏の山折哲雄氏に対するインタビューが載っている。
実はかつてある方が私に、この『宮沢賢治』(洋々社)の牧野氏のイン . . . 本文を読む
《1 ミチノクエンゴサク?》(2024年4月18日撮影)
《2 》(2024年4月18日撮影)
《3 オトメエンゴサク》(2024年4月18日撮影)
《4 》(2024年4月18日撮影)
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ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っていると . . . 本文を読む
《コマクサ》(平成27年7月7日、岩手山)
さて、大正15年の赤石村等が大干魃の際に、賢治は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」とは言えないことを知った。ならば、「サムサノナツハオロオロアルキ」についてはどうだったのだろうかと思って調べてみた。
すると、少なからぬ賢治研究家の、例えば
私たちにはすぐに、一九二七年の冷温多雨の夏と一九二八年の四〇日の旱魃で、陸稲や野菜類が殆ど全滅した夏の賢治の行動 . . . 本文を読む
《1 》(2024年4月18日撮影)
《2 》(2024年4月18日撮影)
《3 》(2024年4月18日撮影)
《4 》(2024年4月18日撮影)
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このトップの写真は本日(2024年4月24日)付の『朝日新聞』の17面「岩手」に載った、
研究半世紀 出会いも快走
という見出しの記事であり、宮沢賢治研究者の間で
「走り続ける研究者」
と呼ばれる、タクシー運転手の牧野立雄さんについての記事である。
賢治が青春時代を過ごした盛岡市を、今日もタクシーで走りながら研究を続けている、という。
私は、本物だと知った。賢治研究をさら . . . 本文を読む
《1 オオタチツボスミレ》(2024年4月18日撮影)
《2 タチツボスミレ》(2024年4月18日撮影)
《3 スミレサイシン》(2024年4月18日撮影)
《4 》(2024年4月18日撮影)
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ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言 . . . 本文を読む
《コマクサ》(平成27年7月7日、岩手山)
さて、「每日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝゐた。或る日私は友人と二人で、この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買ひ込んで、この村を見舞つた」と甚次郎がいうところの大正15年の12月は、私のかつて抱いていた賢治像(「下根子桜」に移り住んで、貧しい農民たちのために献身的に活動しようとしていた賢治、という)からすれば、まさにその . . . 本文を読む
《1 》(2024年4月18日撮影)
《2 》(2024年4月18日撮影)
《3 》(2024年4月18日撮影)
《4 》(2024年4月18日撮影)
《5 》(2024年4月18日撮影)
《6 》(2024年4月18日撮影)
《7 》(2024年4月18日撮影)
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