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昨日記170516火(中学校の同窓会 美術鑑賞の構造)(追)

2017年05月17日 16時42分59秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
最高/最低  22.2  15.6  曇
この日は、中学校の同窓会があった。
話では、臨時の同窓会ということだったが、正式の同窓会ということで、幹事の間の連携がずれていたのかもしれない。

何はともあれ、いつものメンバーがほぼ来ていた。
その中に、多分卒業以来会っていなかった?秀才だったW氏が来ていた。
彼は、会社定年退職後、再就職し現場で今も働いていて、大学時代からコーラスやチェロを趣味でやっていて、今も市民オーケストラといった活動にも参加しているという。
会場は、梅田スカイビルイースト23Fにあるレストランだった。
スカイビルには、2Fには行ったことがあるが、上に上ったことはなかった。

会場のレストランの上は展望台になっていて、ほぼ展望台と同じ景色を見ているので、レストランからの見晴らしは非常に良かった。
料理の品数は多くあったが、味は期待したほどではなかった。
お酒も入り、話しは弾んだ。
食事と歓談の後は、地上に降りてJR貨物基地跡の再開発地区にある、うめきたガーデンに行き、皆で多様な花壇を楽しんだ後、ガーデン内のログハウスでお茶を飲みながら、ひとしきりそれぞれの話が盛り上がった。

その後グランフロント大阪で解散になり、私はそのまま皆と別れて、歩いて西天満に向かった。
途中、ギャラリー経営時代、いつも通った道を通って西天満に行き、O-天野―白―HOTと回った。
最近は、天候の都合や、食事関連の家事の都合で、毎週土曜日に西天満に行かなくなった。
同時に私の心の中に、画廊や美術館を見て回って、本当に刺激や感動を受けているのか、といった疑問が渦巻いているのも、影響しているのかもしれない。
現代美術に関しては、同じカテゴリー(文法文脈又は構造又はパラダイム)の作品でも、最近はこれはと思うような作品が、少なくなっている感じがし、その分見て回る楽しみが減少しているような気がしている。

但し、この問題については、以前にも美術の特質で指摘した通り、美術の場合作品を直接見る必要があり、私が数軒のギャラリーを見て回っても、日本中・世界中で日々発表される美術作品の極一部しか見ていなことになるので、西天満のギャラリーだけを観て、現代美術が面白くなくなったとか、迫力が無くなった断言することは、「井の中の蛙」に等しく、大間違いである。
かといって、多くの作品を観るために大阪市内や京都、神戸、奈良の各画廊をすべて見て回ることですら、経済的・物理的に不可能だ。(首都圏 名古屋は更に不可能である。)
この様なことを考えながら、馴染みの画廊を歩いて回った。

この問題に対する結論は、与えられた条件内でその作家の作品を鑑賞し、作品や作家との対話を楽しむしかないということだ。
そうした中で、稀に優れた作家を見いだせれば幸いである。(クラシックの世界でも関西で活躍していた当時無名の若手指揮者が、今や世界でも注目される指揮者になっているし、美術の世界でも同様に、具体美術協会のように始めは世間から正当な評価はされなかったグループが、現在は世界の美術史の中に位置づけられる団体や作家も出ている。そうした具体の作家達と、関西の画廊や美術館で接する機会が多くあった。)
これを、もう一つの趣味であるクラシック音楽に例えるなら、いつもCDで聴いている世界的巨匠の演奏家や指揮者の演奏を生で聴ける機会はほとんど無く、普段は地元の演奏家や指揮者の生演奏を楽しんでいる。また落語でも同様に、トップレベルの噺家の噺を毎回楽しめることは出来ないが、若手の噺をそれなりに楽しむことは、通常の楽しみ方である。
こうした構造の延長線上で考えると、美術に関しても、巨匠の展覧会は美術館で見て、普段は普通の作家や有望な作家の作品を各ギャラリーで見て楽しむということであろう。
こうした構造の前提として、芸術作品=作家(芸術以外に、スポーツや学問も同じ構造である。)には各カテゴリー内(文法文脈又は構造又はパラダイム<例えば現代美術といっても無数の表現形態・構造があり、大枠で考えても、ミニマルの見方でコンセプチャルを鑑賞できないし、ミニマルの中でも様々な方向性=カテゴリーが存在する。>)での序列が存在することは、自明のことである。(オークション コンクール 選抜展 企画展 名品展 貸し画廊での展覧会)

誤解されるといけないので、この文を追加しておく。
私は差別主義者ではないが、現実を見ると、スポーツでは記録や勝敗で序列が付くし、学問では大学、研究機関の業績でトップはノーベル賞から専門家の評価まで一定の序列が存在する。
同様に芸術の世界でも優れたものは、美術館やオークションで取り上げられる。
芸術は、平等という人もいるが、アールブリュットや反権威である現代美術でさえ、序列が存在し、美術館で取り上げた作家・作品を尊重する。
だからと言って、勘違いしないでほしい。
人間は生まれながらに平等で、ここにあげた学問やスポーツや芸術は、人間の持っている特性・特徴の一つに過ぎない。
例えば学問や芸術やスポーツの分野で尊敬される人でも、犯罪を犯す人がいるし、人間的にいい人とは限らない。
人間は、様々な特性を持っていて、何もできないけれど子供にとっては、最高の親である場合もあるだろう。
障害のある人も、人々に感動を与えたり、特異な才能を活かして、その組織ではなくてはならない人になっていること現実にある。

少し話は違うが、以前も書いたが、指導者や幹部が、専門や詳しい知識のないことについても、部下や弟子や生徒に根拠のない話を偉そうにしゃべるのを多く目撃したりすることもある。
(科学の専門家が道徳の話をしたり、芸術家が非科学的な医療行為の話をしたり、経済のことに詳しくないのに伝聞による事実誤認の話を得意げにしたり、ネットの根拠のない話をそのまま信じて事実のように話したり。・・・・)
特に芸術作品については、各分野でそれぞれの文法文脈という体系を持っているので、その分野の知識を多少とも持ってなければ、知らない分野への批判は控えるべきだ。
芸術は、各分野(例えば現代美術でも多くの分野があり、各分野でそれぞれ違う価値観を持っている。例ジャンクアート ミニマル)がそれぞれ独自の価値観で成り立っており、論理で判断することはできない。(美学・美術史といった学問はその条件を定義して論理展開している。)
先に述べたように、例えば現代美術も様々な方向性があり、それぞれの分野で独自の価値観を持っているので、鑑賞する場合は多少なりともその価値観を理解しなければ、鑑賞は成立しない。(例ハードロックの聞き方で、邦楽の長唄を聞くことはできない。)
又、現代芸術の価値観は日々新しく創造されている。(例、ビートルズがデビューし若者の支持を受けた当時、クラシック音楽界では雑音と評していたが、今では立派な芸術作品として評価し、音楽に大きな影響を与えている。)

芸術は、作家の内面の表現(=情報伝達)であり、各作家がそれぞれ独自の世界(=パラダイム)を作品という情報伝達の形(音楽であれば楽譜であり文学であれば半であり美術であれば作品となる。)に託して、鑑賞者に自分の内面を表現しているのである。
その前提として、鑑賞者もある程度の作家と同じパラダイム(文法、技法、コード・感性を含む体系・世界)を暗黙の裡に共有しなければ、作家の内面を正確に知ることは出来なかったり、誤解したりすることになる。(例:恋愛表現・描写の世界を、宗教の世界(愛欲は罪)の見方で味わえない。・・文学の世界の長編物語では、複数の場面で栄枯盛衰や愛欲のはかなさを表現することはあり、その場合は、各場面でそれぞれの世界を形成しいて、物語全体としてそれぞれの世界を含んだ、入れ子構造の大きな世界を形成していると言える。)
従って、たとえ表現方法が稚拙であっても、作品の託された表現内容を知ることで、その価値を知ることが出来、高い評価を得ることもある。
例えば、戦前に生きた長谷川利光は、フォービズムの作家で、美術館にも作品が収蔵され高い評価を得ているが、彼のデッサンは上手くない(というより下手であるが)、味がある。
それだけではない、彼は歌詠みで、文筆力を生かし、美術評論を新聞に書いていて、当時の現代美術の流れにも詳しかった。
彼は最後に行き倒れとなり、施設で死亡し、多くの遺品は焼却されたという。
彼の作品は、高い評価を得ているがその背景に、美術芸術(短歌も含む)を見る力があり、現代美術の本質を理解し、デッサン力は無くても独自の表現をすることで、自分自身も納得した表現をしたに違いないと思う。
そこに彼独自の価値観・文法文脈を生み出し、多くの美術愛好家が彼の価値観に共鳴したと言える。

この様に、表現技巧が稚拙であっても、その背後にある内容や思いや感性が充実していれば、結果として表現の中にほとばしり出てくるようだ。
多分アボリジニやアフリカやポリネシアやエスキモーをはじめとする、民族的なアートも、その民族の文化伝承の背景があるために、人々にその文法文脈がと価値観が理解され、感動を与えていると思う。
こうしたことは、アールブリュットの作品にも当てはまることである。(アールブリュットでも評価される作品と、注目されない作品があり、それ以外指導者に意図的に誘導されたり自然に模倣した作品もよく見る。)

逆に、いくら芸術の知識があり、技巧がうまくても、表現すべき心の中が薄っぺらいものであれば、それだけしか表現できない。
そうした芸術家も、たくさんいる。
自分がほとばしる何かを持たず、平凡な日常感覚(才能ある作家は、日常も新鮮な感性豊かな視線で捉えることが出来る。)しかなければ、どうして作家の内面以上のことを作品に表現出来るのか。
作家は常に、自分自身を様々な意味で研ぎ澄ましておかなければいい作品はできないと考えている。

だが、逆に「サザエさん」や「ちびまる子」のように、何気ない日常を独自の視点で掘り起こすのも、人気を得ていて、表現として評価されている事になる。
そうした意味で落語は、庶民生活の日常のちょっとした出来事を、独自の視点で切り取り強調して付け加え、笑いの芸術にしている。
川柳もそうした意味では、共通する構造があるのかもしれない。
こうした表現は、普段見過ごしている日常の中に新しい切り口視点を提供することで、無味乾燥した日常でありながら、それまでと違った新しい世界を形成していると言えるかも知れない。
この様に考えると、我々凡人は、小学校の夏休みの日記に、書くことが無くて苦労した思い出のある人が多いだろうが、視点を変える努力をすると、同じ日常が、別の世界になるのかもしれないと思ったりもするが、視点を変えるのは難しい。

余談になるが、落語に関しては、上方落語の四天王や枝雀その他実力者の、油ののっている時代の高座(主にダイエー島之内寄席)を何度も聞くことが出来た事は、心の財産である。
大御所の師匠達も、当番で下足番をしていて、私の靴も下駄箱に入れてもらって、恐縮したことを覚えている。

ところで、芸術作品に対する評価は基本的には、価値観が根底にあり、その価値観(時代、風土、文法、文脈、技法、といった諸構造を含むパラダイム)を含むの中で、ヒエラルキー(序列=7優劣)が形成されている。
具体的に言うなら、現代美術なら、ポップアート、コンセプチャル、ミニマル、・・・・・の中ですら分類されるだろうがそうしたカテゴリーの中で、作品の優劣がある。
日本画でも浮世絵、大和絵、応挙派、南画、現代日本画、・・・・各分野でヒエラルキーがあり、印象派、ルネサンス絵画、・・・それぞれの分野カテゴリーで序列がある。
それらは、各カテゴリーの中で更に細かな価値観(年代、文法、文脈、技法、構成・・・・・・)の総合として評価され価値が決まる。
そうした作品の価値は、それぞれの作品のカテゴリー・分類・属性内の価値観によって、個別に決定されるものである。

一般的に作品の価値は、価格で評価される。
価格は、最終的にはオークションで表示される。
画廊で高額で購入しても、オークションで値が付かなければオークションの評価が世間での評価として正しいといえる。
更に、しばしば画廊の評価は恣意的なことがある場合も多い。
オークションの場合は、希少価値故の市場原理によるバブルが発生するが、その場合、作品の評価を正しく反映していない。
ただ、芸術作品では、その分野の人気が無ければ、オークションでの価格が低くかったり、値が付かない場合もある。
市場で値が付かなくても、専門家の間ではその分野での作品の評価が高い場合もよくある。
そういう場合は、そうした分野の作品を研究している専門家、美術館といった研究機関や目利きの画廊、コレクターの意見が、基準になると言えるが、価格の問題については、単に需給関係で値が付かないだけであり、商品としての芸術作品と、芸術的価値からみた芸術作品とは異なると言える。
商品として見た場合、多くの人がその芸術作品の価値が分からなければ、猫に小判の状態と言える。

又、作品の評価は、時代=文化の変化(例:西欧化)とともに大きく変化し、地域でも風土や宗教が影響し、美に対する価値観は大きく異なる。
例えば、ゴッホが生存時、彼の作品はほとんど評価されなかったり、美人の基準も変化している。


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