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昨日記160320日(視力 春画展)追

2016年03月23日 17時30分09秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
晴  最高/最低℃ =16.2  9.1
前日の有償ボランティアのきつい労働と、ジムでのランニングが応えたのか、目覚ましを切って寝たら起床は10時を過ぎていた。
目覚ましを切って寝ても、8時ごろまでには周囲の明るさに順応して自然に目覚めるが、10時までぐっすり寝込んだことは、ここ1年記憶にない。

この日は以前から春画展を見に行こうと思っていた。
京都の画廊を回ってから春画展に行く計画だったが、起床が遅くなったのでその計画が狂った。
それ以前に、京都に行く前の食事の準備が全くできていなかった。
即ち副食は無くなっていたので、たとえ昼食を缶詰で簡単に済ませても、夕食は一から作らねばならない。
元々予定していて、食材は購入していたが、副食11食分を作ることにした。
結局11食分を30―40%程度仕上げ、そのうちの2食の昼食と夜食を完成させ昼食を食べてから京都に行くことにした。
とても画廊回りする時間は無くなった。

4時前に京阪三条に着き、細見美術館まで速足で歩いた。
始めていく場所なので、道に迷わないか心配したが迷わずたどり着いた。
入場規制がかかり、数10mの行列ができていた。
館内に入ると、会場により混んでいるところもあったが、全体的には列に並んでゆっくりとみることができた。
ただ展示会場が2会場と思っていたのが3会場あったのが見込み違いで、しかも6時終了なので6時までに会場を出なければと思い、列の外から作品を観て早く出たが、ゆっくりと列に並んで鑑賞しても追い出されることはなかったようで、多少後悔した。
会場は作品保護のため、照明を落としているのでじっくり見ないと見づらいところがある。

視力に関しては、喫茶店では裸眼で本を読んでいるが、家の15W1本に落とした居間の照明で畳の上で新聞を広げて読むときは老眼鏡をかけている。
机の上のLEDスタンドでは裸眼で問題ない。
多分白内障は、ほとんど進行していないと思う。(免許更新でも暗視も問題なかった。)
逆光の時でも、日陰が白く見えることはないし、非常に明るいものを見るときに、白内障の乱反射により、乳白色のもやがかかったり、まぶしかったり、虹がかかることもない。(点光源ではわずかに周囲に虹が見える)
ただ、右目に関しては、多少視力が落ち、縦線がわずかに部分的に膨らんで見える事があるように感じるので、加齢黄斑変性の可能性があるかもしれない。

話しが視力にずれたが、春画展に関しては、期待したほどではなかった。
印刷物では、春画の類は何度も目にしていて、実物を見ても特別驚かない。
西洋絵画のように、具象画の場合時代により、印象派から遡ってもロマン派や古典派やロココ調や様々な流れや表現方法の違いがあるが、浮世絵や日本画の場合、作家の個性で表現方法が違っているが、その区別も題材によってはつけにくいことが多い。
特に春画の場合、男女の交合が主題であるため、モチーフやその背景も限られるし、その内面・すなわち喜怒哀楽も性の喜びや恍惚感に限られる。
従って見ているうちに、どれも同じに見えてくる。
大名家に保管されていた春画は余り目にする機会はなかったが、それとて、特筆するようなものは感じなかった。

私自身ずっと独身で性的マイノリティーでもなく、女嫌いでもなく正常だと思っているが、過去に恋人もいなかったので同棲経験もなく、夫婦や恋人のような日常的な性交渉の経験は全くない。
そのため、日常的な性交渉も含めた男女の機微は分らないが、性交渉の経験は少しはあるし能力もあるが、現在は、能力があっても経済的に無理であるが、あこがれはある。
この展覧会を見た後、なんとなく男女の性交渉を含めた人間的交流も単なる友情やプラトニックな恋愛と違ったいいものがあるのだろうと想像した。
同時に、愛情や人間的交流のないお互い合意の上の快楽の追求としての性愛も同時に成立するのだろうとも思ったりした。
夫婦の形がすべて違うということは、同時に性を前提とした法律上の制度である結婚=性愛の形も多様うなのだろうと推測できるが、それは、暗黙の了解による秘密なのであろう。(一部の好事家はそうしたことをグループで露出させることを好む人たちもいるようだが、少数派のようだ。)

春画の、反対勢力は宗教・道徳である。
そうしたことを描いた春画は、キリストやイスラム圏では、宗教の縛りが厳しくこうした描写が発展しなかったが、日本は仏教以外に神道や民間信仰もあり、宗教的に社会全体が原理主義的でなかったことが、日本の春画を発展させたのかもしれない。
西欧美術もルネサンス以降は、性的美を追求する美術作品は多くなるが、根底には性があるのだが、直接的な性交の喜びの表現ではなく、女性美、男性美の追求が主である。

日本では江戸以前は宗教の力も強かったので、春画は普及しなかったが、江戸期になって庶民の文化が発展し享楽的になったことと版画の技術により売れるものを売るという資本主義的な考えが広まり、春画が普及したのではないかと推測している。

今回の春画展でいくつか感じ、考えたことがある。

西欧絵画では、女性の乳房も女性美の象徴として性の対象だが、日本では陰部のみが性の対象となっているように見える。
これは、そもそも日本に裸体を美とする価値観がなかったし、西欧絵画はルネッサンス以降ギリシャ芸術の影響を受けているが、日本は明治以前までは、西欧文明の受容範囲は権力者側の意思により決定されるため、儒教精神をベースにした武士政権により、西欧の風俗・女性に対する美意識はフィルターにかけられ伝わらなかったのかもしれない。
そのため、洋画が開始されるまで、日本では女性の裸体はほとんど描かれない。

欧米では、豊かな胸は女性の象徴であったし、縄文時代の土偶にも乳房が女性のシンボルとして表現されている。
しかし、それ以降明治になるまで、日本の美術で女性の乳房が強調されることはなかった。
少なくとも、日本では女性の乳房は、子供の授乳に使う実用的なものとしての価値しか認めず、美的価値を認識しなかったといえるかもしれない。
乳母の制度があるように、家制度を守るために女性を子育ての道具としてもていたように見える。
しかし、女性の美意識から外れた面で社会的には、そうした家制度の中で母や乳母が、実質的に強い発言権を持つ場合が歴史上認められるし、庶民でも女性が家庭の主導権を握っていた場合も多かったのかもしれない。
私が幼い時は、母親は、恥じらうことなく乳房をすべて出して授乳していた。
まして、乳頭の露出を恥じらうことはなかったように見える。
戦後のある時期から、乳房や乳頭は隠されるようになったが、女性の性的羞恥心の範囲が欧米文化の影響で変化したのかもしれない。

性に関しては、売春や、江戸の廓文化、更にはフーコーたちが論ずる点も含め、性の抑圧や管理や性の経済=公に統制されている故の裏社会とのかかわりあい、社会制度、文化、宗教・倫理=道徳、に関し、時代の流れを含めた視点で、人間社会の現在や今後を考えさせられることは多い。
現実に、今回公開されながらも、同時にある意味タブーとして、性は猥褻物いう形で司法・警察の取り締まり対象になっていて、関係者は作品の公開に注意を払っている。
(例 18歳未満鑑賞禁止)

これに関した性に関連する矛盾や実例は無数にあり、それが小説やドラマの主題になることが多い。
例えば、敬虔なクリスチャンであるバッハは、宗教曲の珠玉の名作を多く残しているが、最初の奥さんを亡くした後再婚し20人の子供を作っている。
子供を産む前提としては、性を楽しむことが必要になる。
性の楽しみについては、公の場では決して口に出して言わないが、これは暗黙の社会の了解事項なのである。
最近では、ドラマの上の話しと思っていた不倫が、夫だけでなく妻のも含め普通の家庭でも広がっていて、奥様方がお互い噂を楽しんでいるという話を聞いたことがあり、大変驚いた。

しかし、私自身性に関しての様々な価値観を認識していて、相反する価値観も多く、どの立場をとるべきか決めかねている。
即ち、価値観には合理的とか不合理という考えはあるが、それ自身価値観に照らしての事が前提であり、価値観は人間が創造したものであり、価値観に正・誤はないと思っている。
価値観は論理ではない。

男性器と顔をセットにして描かれたプロフィール集のような作品があった。
当時の女性は、男と対等に女性も性を選んでいたのだろうか。

女性同士が男性器の張り子をお互い持って絡み合おうとしている絵があった。
当時からそのような、大人のおもちゃ的なものや、性愛文化が広がっていたのだろうか。
それとも廓文化の一端なのだろうか。

多分大名家の物だろうが、大きな武者絵として二人の甲冑を着た武将が組み合っている図が描かれているが、貼ってある部分をめくると、その下には、性交しているところが描かれていた。
性教育の為か、エロ本的楽しみの為か?

江戸期も後半になると本になったものが多くなるが、薄暗く字も読めないのでほとんど詳しく見ていない。
多分4000円の図録にはすべて掲載されているのだろう。
こうした春画は、古くから(解説には書いてあったが、忘れた。平安時代?)あるようだが、初めは単純であったが、時代を経るに従い複雑になり、江戸期には浮世絵と同期して華麗になり、更に文字が入る。
読み本として、視覚的なものと文学的イメージを含め、より強く鮮明にエロスを楽しもうとする人間の営みが見えてくる。
それは、日活ロマンポルノやAVを含め現在も最新メディアを駆使し進行中なのだろう。
だが、私には、そういう経験がないので断言できないが、たとえ遊びであったとしても、現実に気心の合う女性か愛する女性が存在しない性は、むなしいのではないかと想像するのだが。


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