散歩者goo 

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ベートーベンの番組を見て第九再発見(イメージが大きく変化)

2022年12月30日 14時37分50秒 | 音楽・コンサート・ライブ・CD類
今朝(20221230)放送されたNHK総合の音楽紀行番組で取り上げられた「ベートーベン」を視聴して驚いた。
ベートーベンの第九が、極論すると、バッカスをたたえ、酒を飲んでみんな仲間になるという趣旨だというのだ。
最新研究も含めわかったことは、人間的にベートーベンは女性好きで酒好きで、友人たちとよく酒を酌み交わしていたということらしい。

第九の合唱部のシラーの詩「歓喜によせて」の歌詞のサビともいえる「すべての人々は兄弟となる」の解釈についても、今まで大げさにとらえすぎていたかもしれないと研究者は指摘していた。
ベートーベンは、この曲のイメージを考えるときに、宗教的内容(バッカスの祭典=酒宴の歌)のことに思い巡らせていたというのだ。
そもそもシラーの詩は、当時社交場で酒を酌み交わしながらよまれた庶民的なものだった、と言われているという。
そうした状況を考えたとき、研究者は、ワインを酌み交わしながらいい気分になると、みんなが兄弟になる、という発想が彼にあったのではないかと考えた。
その根拠となる、ベートーベンの第九の楽譜に、酒の神「バッカス」と書いたメモが残されており、この番組の映像でも。それが映し出されていた。

上記の研究成果によると、私が第九に抱いていたキリスト教的な絶対神の下で、人間は皆平等にはらから(仲間)となるといった崇高なイメージではなく、もっとギリシャ神話的人間臭く、お酒を飲んで楽しめば、打ち解けてみんな仲間になるという発想だという。
こうした解釈は世俗的・日常的な平等感になるように感じ、イメージの大転換だと思った。

しかし曲全体の流れから見れば、はっきりとキリスト教的荘厳なものが残されている。
合唱部の後半は、交響曲第7番ほどではないが、情熱的な歓喜への展開となり、更に最終部にかけて熱くなだれ込むが、その部分に関しては上記の学説がぴったりと当てはまるような気がする。

ベートーベンの晩年の弟子アントン・シンドラーによる会話帳改ざん問題は、非常に興味深かった。
彼に心酔するあまり、とはいえ、後世にさまざまな悪影響を与えたようだ。
例えば、交響曲7番の第二楽章は、アレグレットか80程度のテンポかで、曲のイメージは大きく変わる。
シンドラーは第二楽章を遅いテンポだと言いふらして、広まったらしい。
朝比奈隆さんは、葬儀の時にこの曲を希望したという話を聞いたことがあるが、どのテンポだったのだろう。

今回の番組では、第九や彼の人生のみならず、彼を近現代社会が政治的経済的に利用(東ドイツ政府のプロパガンダ<べートーベン会議まで開催した。>や西側のカラヤン)をする社会的背景や、生存当時のートーベンの周囲の状況や多くの恋愛も含め、多角的な視点から理解でき、ベートーベンの音楽を理解するうえで非常にわかりやすく、音楽鑑賞するのに重要な知識を与えてもらった。
私にとって、中学生のころから、最も尊敬する音楽家の一人でもあるベートーベンに対する見方は、非常に深まったが、この番組を見ても彼への評価に変化はない。
ベートーベンの音楽を聴くときに、いろんな意味でさらに味わい深く聴くことができ、楽しみが増した。

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ルネサンスのア・カペラを聴く

2012年03月18日 19時21分20秒 | 音楽・コンサート・ライブ・CD類
昨日行った、カトリック阿倍野教会で行われている「ルネサンスのア・カペラの響き」は数年ぶりの参加だった。

最初に行ったのは、5-6年前にとある施設に置いてあった、一枚のプリントがきっかけだった。
当時、朝のバロック音楽をいつも聴いていて、古典派から近現代音楽までのクラシク音楽家から、更に幅を広げ、バッハやテレマンその他多くのバロック音楽にも興味を持っていた。
ところが毎朝聴いていたバロック音楽の番組で、たまにルネサンス期の音楽を聴くことが出来たが、聞けるチャンスは少なかった。

そこに、「ルネッサンスのア・カペラの響き」のチラシをみて少し興味を持った。
しかし、入場無料は良いが、合唱曲には余り興味は持ってなかったし、場所を見るとややこしい所にあるし、会場がカトリック教会なので、入信に誘われるのではと、あらぬ心配をした。

合唱曲ということに関しては、バロック期はまだ楽器や木管・金管楽器や鍵盤楽器も発達していなくて、合唱曲の伴奏も多分リュートのような物ではなかったかと思っていた。
その意味で、ルネッサンスのア・カペラは元々当時の音楽のオリジナルの状態に近いのではないかと思った。
そういえば、グレゴリオ聖歌も無伴奏であった。
当時そんなことを考えながら、バロック期の音楽を聴ける機会はほとんどないので行ってみようという気になり、行った。

しかし、初めての場所で、途中道に迷い大変な思いをした。
教会は、こじんまりした教会だった。
教会の内部は、真っ白で、中に背中が机になった長いすが祭壇に向って3列に並んでいて、各列20本近くあったように思う。
天井の照明も左右に1列3-4個ずつ天井からつるされていて、ランプシェードは、4枚の花びらのようになっていておしゃれだ。
玉造駅の北西にある、カトリックのカテドラル大聖堂はクリスマスミサの見学に行ったことはあったが、阿倍野教会は家庭的な感じだった。
古いお寺や神社もそれぞれ、建築に特徴があり美しいが、歴史は浅いが、日本のキリスト教の教会もそれなりに、美的構成を考えていると思っている。

その後、最初の演奏会の時にメールアドレスを登録したので、それ以降演奏会のたびにメールが届くようになり、
何度も行っている。

今回は、コーラスのメンバーが増えたように思う。
男女のパートとも厚みが増して、響きが良くなった感じだ。
演奏は、ヴォーカル・アンサンブル「ラルテ・フィオレンテ」
曲目はアンドレーア・ガブリエーリ作曲 ダヴィデ詩篇(6声)<1~7>(1500年代サンマルコ大聖堂のオルガニストでもあった。)

会場に入る前、受付では、20ページに近いパンフレットが無料で配布されていた。
そこには、作曲者や曲目の解説と、全曲の歌詞のラテン語と日本語が記載されていた。

遅れて入ったときには、日本の歌を3曲歌っていた。
その後本番の演奏に入った。
この時期の音楽は、バロック音楽の基礎になったと言われている。
ここで聴く曲は、いつも始めて聴く曲ばかりなので聴くのに神経を使う。

天正使節団もこのような曲を聴いていたのかなと思いを馳せながら、天使のような音楽を聴いていた。
ただ、曲をよく聴くとただ美しいだけでなく、歌詞に合わせ技法的にも表現にも様々な変化を付けているのがよくわかった。

演奏中、必死でラテン語を目で追ったが、無駄なことだとわかった。
しかし、以前の演奏会の時に何度かその前に演奏されたCDとパンフレットを購入したが、CDを何度か聞きつつパンフレットの歌詞を少し目で追うことが出来るようになった。

歌詞は目で追えなくても、久しぶりに、生の音楽を楽しむことが出来た。

それにしても、帰り道では、阿倍野の町並みは大きく変わりつつあるのを実感した。
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レスピーギの交響詩ローマの松を聴いて

2012年03月06日 17時57分29秒 | 音楽・コンサート・ライブ・CD類
FM放送でレスピーギ作曲「交響詩“ローマの松”」が放送されていた。
久しぶりに聞いた。

この曲を聴いて、すぐに昨年9月10日の、大阪クラシックの最後の演奏会を思い出した。
最終日の演奏会のチケットを得る為に早朝から市役所の前に並んだ。
以前配布時間に行ったら、既になくなっていたと言う苦い経験があったので、随分早く行ったがそれでも後ろのほうだったが、席は確保できた。

コンサートは、三菱東京UFJ銀行大阪東銀ビルのホールだった。
席は朝の整理券配布で決まっていて、私は壁際の立ち見席だったが30人以上のブロックだった。
私は何とか柱の横がら首を伸ばすと舞台を見ることが出来る場所を確保した。
ただし、立見席はずっと立ちっぱなしの状態である。

演奏は、大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団である。
演目は、リスト作曲 交響詩「レ・プレリュード」  大栗裕作曲「大阪俗謡による幻想曲」
レスピーギ作曲 交響詩「ローマの松」だった。
多分大栗裕の曲は始めて聞いたと思うが、リストとレスピーギの曲は馴染み深い曲である。

大きな会場の、音の響きは非常に良かった。
演奏もすばらしいものだった。
大植氏の指揮も、過度なぐらい音に強い陰影を付けてすばらしかった。

リストのレ・プレリュードも時に雄大に激しく、静かに、メリハリの効いたすばらしい演奏だった。
大栗氏の曲も大阪のよく知る祭りの旋律が流れ子ども獅子の列の華やかに浮かれる有様や祭りの情景が浮かぶような演奏だった。

レスピーギの「ローマの松」は何度もラジオで聞いているが、(生のコンサートでも聴いているかもしれない)が、大阪クラシックのファイナルコンサートでの演奏は、すばらしいものだった。
軍の行進が目に見えるような感じがあり、その上演奏では金管楽器を立体的に配置してあったので、聴いていてその圧倒的迫力に酔いしれた。
これはラジオではとても感じることが出来ない世界だと思った。
解説でも語られるように、古代ローマ軍が遠くからアッピア街道を進軍し勝ち誇る姿が、目に浮かぶような情景であった。

ファイナル演奏を聞いた人は、皆すごい感激と興奮を胸に秘めて帰ったに違いない。
しかし、そのときに挨拶に立った平松市長は大差で落選し、大植氏も3月で大フィルの音楽監督を退任し、桂冠指揮者に就任することが発表されているという。

橋下氏や維新の会に楯突く者は、見せしめに徹底的に懲罰されるのだろう。
今は、多くのマスコミまでこぞって、維新の会にあらずんば人にあらず、と言うことなのかも知れない。
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