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昨日記141227土(ギャラリーZone純粋/不純美術  現代美術の構造 ジム 筋トレ)(追)

2014年12月28日 11時57分19秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
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一昨日27日以降世間が年末年始の休みに入るので、なんとなく勝手に解放感に浸り(年金生活の年中休日の私には無関係のはずだが。)1時頃まで起きてネットを見たりしていた。
そのため昨日の朝は、ランニングの疲労と夜更かしを考慮し、年末年始休みの解放感も勝手に加え、目覚ましを切って就寝し7時半ごろ起きた。(朝は、寝不足でも一定時間に起きる癖を付けないと、生活が乱れ生活周期に狂いが出て不眠の原因になることが、医学的に確かめられている。)
寝坊は、生活リズムの乱れという観点ではよくないが、眠気や疲労感もなくすっきりした目覚めだった。

朝食も、いつもしっかりとボリュームのある温野菜を食べるが、最近太り気味で、胃腸にも飲み会等で負担をかけているので、肉入りの温野菜を省略し、パン・蜂蜜に納豆、バナナ、チーズ、牛乳という、簡素な食事にした。

日曜日は、雨の予報が出ていたので、午後から急遽箕面の桜井にあるギャラリーZoneで開催されている純粋美術/不純美術を観に行った。
美術の純粋/不純という見方も、今では大きな問題ではなくなったし、そもそも区分けする必要があるのかということもある。
古典的見方からすれば、不純美術とは、応用美術、即ちデザイン・イラスト系統のことになるのだろう。
それらをもう少しわかりやすく分けると純粋美術というのは、顧客(デザイン)や観客(イラスト:誰にでもわかる)を意識した美術ということであり、純粋美術というのは作者の意志・意図だけを表現した作品ということが出来るだろう。
しかし、現在では芸術とは表現であると理解されていることを基本に考えた場合、純粋/不純という区分けは意味をなさないのではないか。
しかも、純粋美術から不純美術まで区切りを付けられない。
その度合いは、多分切れ目なく連続している。
更に純粋美術、不純美術の定義すら明確でなく、その定義ですら個人の価値観で変化するものである。
そもそも、科学には一定条件での絶対(論理的絶対が存在しないことは、ゲーテル等で証明されている。)
は存在するが、それ以外の文化芸術は、価値観が先にあって、それに基づいてカテゴリーや作品の優劣が決まる。
しかし作品の優劣そのものの見方も、個人的主観=価値観に負うところが大きく、個人の価値観・主観は、文化・風土・社会・教育・人間環境で大きく変化し、相対的なものである。

このように考えると、純粋/不の設問自体余り意味を持たないのかも知れない。
これは、障がい者問題や異端問題を考えるときも、同じ構造である。
障がい者問題でも、正常から異常まで連続したレベルがある。
そもそも人間に関しては、何をもって正常とするのかという議論もある。
有名なノーベル賞受賞者でも、通常なら障がい者とみなされる人もいるという話を聞いたこともあるし、古今東西の有名芸術家には、精神疾患を持った人も多い。
そうした意味で、多分芸術問題を考えるときは、純粋/不純 健常/障がいといった風に考えなくても、単に表現の中の、分類・属性の種類として考え、それぞれの視点の中の属性の強弱または方向性のグループを想定するだけでよいと思う。
カテゴリー分類も、しょせん人間が特定の価値観に基づいてグループ化したものであり、様々な価値観でグループ化は可能なのであり、絶対正しいというものは存在しない。
単に多数の人に支持されているというだけの話である。
現に19世紀の時代に、当時の評論家達が評価していた作品は、現代では見向きもされないというのもその証拠であり、印象派の人気の大きさの時間的推移も同じ構造である。

その形態の中にアールブリュットは現代美術かという問題もあるのだろう。
実は、現代美術自体も明確な定義はない。
ただ私は、多くの人が言う、前衛・アバンギャルドであるという説を支持したい。
そこには、一定の過去の作品に対する批判があり、必ず、それを乗り越える新しい考えや価値観・感性が存在するのである。
過去を乗り越えるだけの価値観や考えや感性がなければ、それは前衛とは言えない。
今の時代に創作しているものはすべて現代美術であるというのは、全く誤りである。
従って、前衛的作品が関係者に受け入れられ評価された時は、それが現代美術の一部となり、それに共鳴するフォロワーが現れるのであろう。(前衛やフォロワーの考えは、JARFO夜ゼミで講師の京都市立美術館の尾崎眞人氏より教えられた。)
問題は、アールブリュットが前衛かどうかということである。
前衛の条件として、歴史的視点も含まれている。(過去現在との時系列的比較=歴史的比較の中で初めて未来を切り拓くものとしての前衛が存在する。)
その考え方は、すべての学問体系や科学も同構造である。
学問や科学技術では、過去の考えから飛躍した最新の考えのみが、新しい学説として評価される。
そこには歴史的対比・評価が必然的に入ってくる。
アールブリュットには、それがない。(アールブリュットの価値は認めていて、決して否定しているのではないので、誤解しないでください。)
前衛の意識は、当然挑戦する作家はそれを意識するものであり、そこには作家自身の作品に対する、過去現在の世界の作品に対しての価値の評価位置づけの意識が必要である。
その場合、文法文脈はまだ形成されていないことが多く、作家自身はっきり言えないことが多いようだ。
即ち、前衛には周囲の状況を認識又は評価し、それに対し自己の作品をどう評価するかという作業が必要なのである。
簡単に言えば、今までにない新しいことをしているという意識や認識又は意志が必要ということになる。

今回の純粋美術/不純美術展には、多くの作家の自分なりの考えに基づいた表現の作品が展示されていた。
作品の質はともかく、人によって同じコンセプトが与えられていても、これだけ解釈や表現が違うことが面白かった。

夜は、少し時間があったので、帰宅後ジムに行った。
筋トレのみ行った。
記録はやはり1週間以上開けていたので、若干低下気味であった。
今年は、昨日でジムの営業は終了し、来年は6日からの営業なので10日近いブランクが発生するので、体力の低下が心配される。
特にランニングについては、一度低下するとその筋力を取り戻すのに、休んだ期間の2-4倍の期間トレーニングが必要となる。
休み明けに、ランニングがどれだけ落ちて、どれだけの期間で一昨日の状態まで復帰するのか心配だ。



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