散歩者goo 

タイトルのgooは、他人の同名HPやブログと区別の為。村ぶろの「散歩者」は本人作成。HPの「散歩者」は、無関係。

昨日記150130金(Web保存ページ 検便 アートX生命科学の探求展)

2015年01月31日 17時02分56秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
曇  最高/最低℃ =6.9  3.3
昨年まで必要なネット情報は、予定日報表に直接Webのリンクを張っているが、この手法は、元のページを消去されると情報が消えてしまう。
そのことに気付き、最近では、必要なWebページは名前を付けて保存していたが、それも不具合が見つかった。
Webページの名を付けて保存にしていたものの多くが、軒並み分解していることに気付いたのだ。
多分元のページを消去したために保存したページのリンクが切れた影響は考えにくいが、XPから8.1にソフトを変更したことによる影響によりリンクがバラバラになった可能性は考えられるが、よくわからない。
とにかく、インターネットのホルダーには、自動保存のパーツや写真だけが残っている。
これではまずいので、ワードにネット上のページをコピペするか、プリントスクリーンをコピペすることにし、どちらがいいかテストした。
どちらも容量は同じ程度消費する。
プリントスクリーンは、画像として保存されるので、リンクとかの影響で消える心配はないが、すべてのページコピペする必要があり手間である。
結論は出ていないが、今後どちらかの方法で、ネット情報を保存しようと思う。

そんなことで午前中時間をつぶし、昨日記も遅くなった。

夕方からは、9食分の副食の食材を買い出しに走り回り、その後、2回目の検便をとった。
その検便を、クリニックに届け、大急ぎでグランフロント大阪に向かった。
一昨日の催し物の、シンポジウムがあるのだ。
きのうはその催し物のシンポジウム、アートX生命科学の探求展の中で早稲田大学の岩崎教授の話が興味深かった。
岩崎教授は、早稲田大学で小保方晴子氏と近いところで仕事をされているという。
彼女に関しては、早稲田大学も学位論文で絡んでいて、そうした問題の処理の在り方にも、声を上げたという。
内側から見た様々な問題点も指摘され、本筋とは違うが、興味深い話を聞けた。
今回のシンポジウムを聞いても、一昨日感じた疑問は払拭できなかった。
アートである限り、作家の意図や津田得たいものを表現すべきであろう
研究の内容の提示であれば、CMに過ぎない。

ただシンポジウムの派内者、岩崎氏の話を通じて見えてきたものがある。
構造的に科学者は、成果主義に陥りやすく、枠を外したことをしない。
ところが、アートは成果主義とか、研究の枠とか時間とか関係なく自由であり、発信力は非常に強い。
アートを取り込んだり、コラボすることによって、科学がアートに触発され、時に利用し、アートの持つ突破力を利用しようとする、動きや構造のようものが見えてきた。
そう考えるとアートと科学のコラボが、本来のアートの持つ表現以外の様々な機能や特性を科学研究に活用しようという姿勢は理解できるが、それは、アートというより、独立した分野のCMやプレゼンと同じカテゴリーで論じるべきものであろうと思う。

余談だが、今指を見ると、冷たい水で炊事をしているため、一部しもやけになり、赤くなっている。
ブログにしもやけ対策を書いていて、自分自身効果も確認している。
足の指がなりかかったので湿布薬を塗るとすぐに回復したが、手の指は前から少しかゆいと思いつつ放置したので、軽いしもやけになったようだ。
早速湿布薬を塗ったので、そのうち治るだろうが、油断禁物だ。
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昨日記150129木(会計作業 検便 アートX生命科学の探求展)

2015年01月30日 16時39分38秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
曇  最高/最低℃ =5.8  0.8
昨日は、午後からたまったレシートを記帳するためにしなければならない、会計ソフトの設定を行った。
昨年末までの、レシート及び、入出金は記帳済みだが、1月は年度が替わるので繰り越し作業をしなければならない。
年度の区切りは、会社や組織でもないので1月にしなくても自分で適当に区切ればよいが、暦通りにした。
そうすると、年度末で決算が必要だが、そのためには、しなければならない作業がいくつか残っている。
面倒なので、この1月から創業の形にして、家計簿を記帳することにした。
それで以前の勘定科目を引き継ごうとすると、コピペは通用せず、一からの科目や補助科目の入力となったので、ついでにコード番号や、ドロップダウンリストの配列も使い勝手のいいように、大幅に変更した。

夕方からグランフロント大阪で行われるアートX生命科学の探求展に参加する予定があったので作業を切り上げた。
行く前に、大腸がん検診のための検便作業をした。
3年前にもしたが、とにかく不快な作業だ。
検便は、グランフロント大阪に行く前に、診療所に提出してから、地下鉄に乗り込んだ。

グランフロント大阪の、ナレッジキャピタルには、少し遅れて着いた。
始めカフェラボと間違えて1階に降り、受付で2階の展示室だと教えてもらった。
展覧会のタイトルは「アートX生命科学の探求展」http://kc-i.jp/arsinkc/index.html#content01
会議室でのレクチャーは始まっていて満員だった。
その後展示室での、説明があった。
目玉の展示品の一つに、子宮頸がんで亡くなられた患者さんのがん細胞をある形に成長させ、その細胞の成長から死滅までを見せるという展示もあった。
その細胞は、世界中の研究者の間で拡散し、今も世界各地でその癌細胞を使って研究がされているという。
その癌の持ち主は死んでも、その持ち主を殺した細胞は生きて、増殖を続けているのだ。
癌細胞は、寄生主がいなければ栄養が入手できず生きられないが、細胞に培養液を使い、環境を整えることで生きるという。
その他、木に自分の遺伝子を組み込んで成長させるといったこともアートとして行っているという。
即ち、その木のすべての細胞に、自分の遺伝子の一部が組み込まれるという。

こうした事例を見て、私はそれがアートかどうか疑わしいと感じた。
レクチャー終了後、分散して研究者とのフリートークの場である研究者に、作家のコンセプトとか作品として結晶したアート作品が見えないという意味のことを質問した。
先端科学の展示会とどう違うのかということなのだ。

その後レクチャーとフリーディスカッションが終わり、パーティーに移った。
会費1000円で参加できるというが、知人もいないのでそのまま帰ろうとした。
会場を出て、50mほど歩いたところで、出展者メンバーの中のアーティストの人が追いかけてきた。
少し立ち話をし、名刺交換をした。
話はパーティーへのお誘いではなかったが、折角なのでパーティーに参加することにし、会費を払いパーティー会場に入った。

入ったのはいいが、見知らぬ人ばかりであり、参加者も戸惑っているようで、中にはパラパラと研究者に質問したりしている人達がいてその周辺に輪ができる感じだった。
私は、レクチャーで説明していた研究者に、アートと科学展示との違いに関しての質問をぶっつけしばらく話をした。
科学展示をインスタレーションといわれても、私はそれは違うでしょうとしか言えない。
アートである限り、何を表現したいのかというところ、コンセプトがなければ成立しないと思っている。
それはアートの一形態であるインスタレーションにしても同じである。

その後、その話の輪に集まった一般の方達とお酒を飲みながら歓談し名刺交換した。
一人の方は、西天満はよく歩いておられるが、ギャラリーには行ったことがないというので、ギャラリー廻りをおすすめした。
多分参加者の方々を見たところ、ギャラリー廻りをしておられる方は、研究者を含めおられないのではないかと思った。
職業も様々で、ウエブデザイナーといったIT関係者から弁護士やといった多様な人達がいたようだが、出店者側を別にすると、現代作家やギャラリストはほとんどいなかったのではないだろうか。
9時前に会場を後にしたが、改めてアートを考える上で刺激的な催しだった。
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昨日記150128水(検便できず ジム・筋トレ・ランニング)

2015年01月29日 12時25分13秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
晴・曇  最高/最低℃ =7.7  1.8
昨日は午前中大腸がん検診のための検便の準備をしたが、出なかった。
いつもは一日1-2回の通じがある。
ところが、一昨日検便のキットをもらってから、出なくなった。
昨日は午後から診療所は休みなので、検便を採取するのを今日に使用と考え、ほっとした。
すると、夜には通常通りの通じがあった。
ということは、今日は、検便を意識して通じが無くなるかもしれない。
困った。

昨日の昨日記は、情報機関協力者や、新聞やマスコミのこと等、論点の多い問題を書いてかなり時間がとられた。
以前にも述べたように、論点の多い問題は、本来個別のブログで書くべきなのだろう。
午後になって、FBでマスコミとネットの問題について書かれた書き込みが気になったので、朝に書いたブログの文章を抜きだし、加筆して新しいブログに仕上げた。

夜になって、五日ぶりにジムに行った。
この間、雨が降り、外に出ることが少なかったので、家でじっとして体を動かさなかったので、体力が多少落ちていることは覚悟していた。
実際運動すると、予想は的中していて、記録は少し下がった。
筋トレの方は、運動すれば、すぐに元通りになるとかんがえている。
筋トレ後、ランニングを始めた。
やはり、体を動かさないことによる体力の低下は、ランニングに大きく表れた。
それでも前回に比べ、走行時間が1分間短くなったが、それでもかなり苦しかった。
結果は、次の通りだ。(時速10km-時速6.5km2分間の繰り返し)
5-2-6-2-6-2-4 27分間走行
走り終わって、足に疲労を感じた。
今後、足を強化するために、トレーニングを続けるだけだ。


(150130:下から3行目 27分走行の内訳 投稿時 6-2が欠落の為追加)
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ネットがあれば、マスコミは不要?

2015年01月28日 17時50分08秒 | 読書・考察・思索録
これからはネットの時代で、ネットがあればマスコミはいらないという意見もある。
確かにネットには、いろんなニュースが載っている。
だが、マスコミ以外のネットポータルサイトの大きなニュース情報源は、通信社(通信会社ではない)から購入したものがほとんどのはずである。
個人のネット情報をいくら大量に集めても、政治、経済、社会、文化、スポーツ、芸能、を体系的にカバーできる情報媒体にはなりえない。
そこには通信社、及びマスコミの、業務としての情報収集能力(各社の担当記者)と編集能力(膨大なニュース価値を判断し取捨選択する)があり、個人情報の寄せ集めのネットには、とてもできない業である。
事実、ネット上のSNS等の記事の中から、通信社やマスコミからのニュースソースがどれだけの数があり、個人が発信したニュースがどれだけあるか抽出し、比較すると分かるはずである。

まして、マスコミの最新ニュースに関連する解説記事や評論記事と、同じレベルのネット記事は極めて少ないと思われる。(ネット上に出しているマスコミ・通信社及び関連会社やその関係者のサイトを除く)

このように考えると、ネット上のニュース関連記事のほとんどが、マスコミから発せられた情報の2番煎じや3番煎じのことが多いのではないかと推察している。(これらの点は実際に調査していないので断言はできないが、物理的にも経済的にも、ニュースの取材は片手間ではできないと考えられる。)

更にネット上には、根拠のない話もまことしやかに流れ、多くの人の支持を得ている場合が多い。
例えば、似非科学情報は山とある。
マスコでは、報道する前に、何重にもチェックが入り、できる限り間違いのないものを出そうとするが、ネットでは、投稿されたものに関しては何のチェックもなく、毒薬(根拠のない間違った情報や意見)から薬(正確な事実情報・批判評論)まで玉石混交であり、多くの人が、根拠のない話を信じる場合もよくある。
イスラム国に多くの若者が参加するのもその一例だ。

また、ネットにはコミュニケーション機能があるが、マスコミにはない。
コミュニケーション即ち、対話をする場合、自然と対話を重ねるうちにグループを形成するようになり、同じ意見や考えの者が集まりやすい。
そこで、自然発生的にコミュニティーや村のようなものが形成される。
そうしたコミュニティーでは、同じ意見ばかりで、反対意見は無くなることが多く、過激になりやすい。
その結果、ネット情報ばかりに頼っている人は、井の中の蛙になりやすく、自分たちの意見が多数派とか、正しいと思いこみやすい。(FBの場合は同好の友達知人が集まるので、その傾向が強くなる可能性あり。)

更に多くのネットのコミュニティーの持つ匿名性が、無責任で過激で幼稚な意見を生む温床になりやすい。(ある意味、卑怯で臆病で無責任な意見が出やすいと思っている。)
無論、権力層に対し、弱者が対等に対話や批判をするための匿名性ということは認めるし、必要であろう。
しかし多くの場合、対権力者というより、権力者以外の自分たちの意見と違う人に対しても根拠のない誹謗中傷を行う場合が多いと聞く。(私はそのようなサイトに関係しないので分からないが。)
現実に、匿名で書く記事には「過激なことを好き勝手に書いている」と自慢する人に出会ったことがある。(私はそういう人は、信用しないことにしている。)
更に、たまに見かけるタイプであるが、人によっていうことを変えて、B氏と話す時はA氏のことを批判し、A氏と話す時はA氏のことを批判するといった、自分だけが良い目で見られれば良いという人がいるのだ。(過去何人もそういう人を知っている。)

以上のようなことを考えると、ネット情報とマスコミ情報は、使い分ける必要がありそうだ。
しかし、最近はマスコミがネットに進出しているので、ネットとマスコミの境界線が無くなっているので、そうした分け方そのものが無意味かも知れない。(マスコミ不要論の中には、マスコミのネット進出を混同している可能性がある。マスコミが、ネットに進出してもマスコミである。)
マスコミ不要論より重要な事は、上記の様々なことを考えつつ、正確な情や意見を見分ける能力を鍛えるべきだろうと思う。


参考:意見(主義主張)の見分け方考え方と価値観。
論理より、感情に訴えてくる意見(例:愛国心、国防、抑圧された者、命)には要注意だ。
例えば一人の命を救うために5人の命が失われるとしたら、一人の命を救うだろうか。(現在の人質の話ではありません。)
すべての国が、愛国心や領土を振りかざすと、戦争をするしかなくなるが、戦争で解決することは出来ない。
このように、世の中で、物事を白か黒かで割り切れることは、少ないのである。
また、単純明快な元気な意見は、その事実が本当かどうかとか、前提となっていることが正しいかどうか見直した方が良い。
政治であれ、芸術であれ、人間関係であれ、人間の絡むことは価値観がその根底にある。
その価値観は、各人、各地域、各国によって違うので、自然科学と違い、理屈だけでは解決しない。
価値観の中には、宗教や風土や習慣も入っていて、こうしたものは論理で解決しようがないので、お互い理解し尊重するしかないのだ。(価値観<宗教を含む>を冒瀆してはならない。)<ハンチントンの「文明の衝突」の分析や考え方に、そうした考えが提示されている。。>
そうした意見の違いを乗り越えて妥協し、合意点を見つけるのが政治である。
人間のすることに絶対正しいは、ないと思っている。(政治も立場で見方は変わる。絶対正しい政治はない。)
その意味で、反対意見もしっかりと聞いたうえで、自分で判断することが必要だ。


この原稿は昨日記150127に投稿した記事の一部を抜粋し大幅に加筆したものです。
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昨日記150127火(新聞・マスコミとネットとニュース 糖尿病検査 副食作り)

2015年01月28日 12時56分11秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
曇・雨  最高/最低℃ =14.1  4.6
昨日は、私が取り上げた身近な情報機関関連のブログを情報機関のことが気になって検索し、過去のブログを読み直していて時間を取られた。
知人の中には、過去の言動(直接見聞きしている発言や行動<移動場所も含む>と、時期的なタイミングを見ると、ある機会を利用したり、普段嘘をつかない人が、嘘をついていたりする。)との関係を見ると、見方(状況証拠=そう仮定すればすべて説明できる)によれば、協力者かもしれない場合もあるが、確たる証拠がなければ軽々に公にはできない。
それをつかむことは永遠に無理だろう。
そして、昨日の午後のニュースで、アメリカでロシアのスパイが逮捕されたことが、ニュースになっていたので偶然のタイミングに驚いた。
そんなこともあって、昨日記の投稿が遅くなり昼食もいつもの時間の2時頃になった。
出来るだけ昼食は12時台にするように努力中である。

最近は、朝の間に新聞をよく読むようにしている。
我が家は父母の代から朝日新聞を購読している。
以前から、朝日は赤いとか、最近の慰安婦問題で、激しい朝日バッシングが起きているが、確かに慰安婦問題の報道や、原発の吉田調書問題は酷かった。
また、戦前は軍部の御先棒を担いだことも批判されたりしている。
しかし、権力と距離を置きトップレベルの知識人の意見を掲載するNHKと並ぶ優れたマスコミの一つだと思っている。
NHKも様々な問題は、特に経営トップに問題はあるが、少なくとも積極的に弱者問題や、世の中の矛盾を取り上げてきたのは、事実であり、災害時には威力を発揮しているし、質の高い番組を放送し続けている。
一時期、NHKが不祥事を起こし、NHK不要論や受信料不払いを声高に発信していた、知識人やコメンテーターや芸能人もいた。
彼らは、いまだにマスコミに登場しているが、本心どう考えているのだろうか。
確か、当時NHKはワーキングプア―問題を積極的に取り上げていた。
民放は、そうした問題にはほとんど無関心だった。
ワーキングプア―の本質は、格差問題に形を変え今も続く。

様々な新しい思想や考え方や弱者の存在をNHKからの情報で知ったことも無数にある。
しかもきっちりとした取材をし、事実に物事を語らせる手法をとり、いわゆる偏りのない納得のできる報道をしている点は、大きく評価できる。

朝日新聞にしても、世論の批判を受けて、社長が辞任し大きく反省をし、外部委員会を設けて問題点を明らかにし、大きく紙面を割いて、問題を明らかにした。
一方他の有力新聞社の中には、朝日の問題を読者獲得のチャンスととらえ、反朝日キャンペーンに近いようなことを行ったマスコミもあると聞く。
少なくとも、初めから娯楽を中心にすえ、経済を中心に富裕層・保守層の考え方を中心に動いたり、会社のトップの鶴の一声でどのようにでも動く巨大マスコミの会社よりは、朝日新聞の方がはるかに信頼できると私は思っている。

これからは、ネットがあればマスコミはいらないという人があるが、ネットの大きなニュース情報は、通信社(通信会社ではない)から購入したものがほとんどのはずである。
個人のネット情報をいくら大量に集めても、政治、経済、社会、文化、スポーツ、芸能、を体系的にカバーできる情報媒体にはなりえない。
そこには通信社、及びマスコミの、業務としての情報収集能力(各社の担当記者)と編集能力(膨大なニュース価値を判断し取捨選択する)があり、個人情報の寄せ集めのネットには、とてもできない業である。
事実、ネット上のSNS等の記事の中から、通信社やマスコミからのニュースソースがどれだけの数があり、個人が発信したニュースがどれだけあるか抽出し比較する分かるはずである。

まして、マスコミが掲載する、最新のニュースに関連する解説記事や識者の評論記事と同じレベルの記事は、ネット上の、マスコミ・通信社及び関連会社や関係者のサイトを除くと、ネット上でマスコミ関係以外の独自の個人によるニュース関連取材記事・情報は、極めて少ないと思われる。
このように考えると、ネット上のニュース関連記事のほとんどが、マスコミから発せられた情報の2番煎じや3番煎じのことが多いのではないかと推察している。(これらの点は実際に調査していないので断言はできないが、物理的に考えても、ニュースの取材は経済的にも片手間ではできないと考えられる。)

更にネット上には、根拠のない話がまことしやかに流れ、多くの人の支持を得ている場合が多い。
マスコミは報道する場合は、何重にもチェックが入り、できる限り間違いのないものを出そうとするが、ネットでは、投稿されたものに関しては何のチェックもなく、毒薬(根拠のない間違った情報や意見)から薬(正確な事実を基に批判評論)まで玉石混交であり、多くの人が、根拠のない話を信じる場合もよくある。
イスラム国に多くの若者が参加するのもその一例だ。

さて、昨日午後からは、一昨日確認したブドウ糖負荷試験が糖尿病取扱い医院でやっていないことを保健センターに知らせ、対応を問い合わせた。
結論は、糖尿病の検査は他にもやり方があるので、受診してくださいとのことだった。

その後、副食が無くなったので、食材を買い出しに出かけた。
雨が降ったりやんだりの最悪の天気だった。
とりあえず、9食分の食材を買い揃え、帰宅後9食分の副食製造を始めた。

夕方になって、医院に行き糖尿病検査のための採血を受けた。
その際、大腸がん検診も勧められ仕方なく応じた。
以前も大腸がん検診を同じクリニックで行ったが、3年前という。
2回の検便が必要なのだ。
非常に嫌な作業である。

帰宅後再び副食作りをし、7割程度仕上がってから、その中の1食を夕食に充て、とりあえず先に夕食をすませた。
夕食後再び副食作りの作業を開始し、残り8食分の副食を8-9割程度仕上げてから床に就いた。
今回から、LDLコレステロールが少し高かったので鶏肉の量を1食分90gに減らし、40gの納豆を日に2食食べることにした。
同時に少なくとも1日6粒(1粒5g)以上食べていたチョコレートを出来るだけ減らすことにし、飲み物の乳酸菌飲料もとらないことにした。
ヨーグルト<無糖>は朝に多分100g程度無糖のままで食べているが、これは、継続する。
検査結果が糖尿病でなくても、糖分はできるだけ控えめにする予定である。
糖分の大量摂取が、老化を促進することは、確認されている。
余談だが、アルツハイマー病と睡眠不足の関係が疑われている。(夜更かしする人にアルツハイマーが出やすい。昼寝や日々の軽い運動はアルツハイマーの予防に効果的という。)


20150129追記
今回も文章の追加修正時に、前の文章が1-2行消去される現象が起きて意味の通らない文章になっていた。
この現象は、経験的に特に情報機関関連のことを書くときには頻繁に起きている。
アメリカのみならず各国の情報機関が、日本人協力者を作り、世論工作をしようとすることは、推測できるし、現実にしている可能性があると考えている。
疑わしい場合は、経済的な面を見れば見えるかもしれない。
特に、外人や日本人を問わず、大きな収入がないのに、海外に頻繁に出かけたり、遠方へ飛び回る人で、やたら人脈を多く作る人の一部には、疑わしい人がいるかもしれないと思っている。
情報機関


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昨日記150126月(ブログ修正 雨漏り 副食作り 薄黒いコメ スパイ)

2015年01月27日 13時00分22秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
雨(一日24.5mmm)  最高/最低℃ =10.6  5.9
今、昨日記を書こうとしながら昨日書いたものから、過去の関連の昨日記や芸術論を読んで、修正したり
するうちに、すっかり自分のブログを読みふけってしまった。
自分が書いたものだから、自分の考えそのままであるし、うんうんとうなずきながら数十分読んでしまった。
日記というよりエッセイや、論文の下書きの骨子といった感じの文章が多い。
最近、過去のブログを読み直し、抜き書きし修正加筆してエッセイに書き直して投稿してもよさそうだと思うようになってきた。
それと同時に、文章になっていないものや意味が通らないものがあるが、これは以前にも何度も触れているように、PCが、自動保存するときの加減か何か知らないが、修正追加時に1行又は数行の文章が消える場合がある。ひどい時は一つのブログの下書きを書いているときに何度も起きることもある。
PCが悪いのか、ネット上で外部から妨害されているのか分からないが、先ほどもブログを投稿フォーマット上で原稿を追加修正していたら修正追加箇所の数行が、消えていることに気付いた。
いつもは、そうした可能性があるので、修正個所をいったんワードにコピーして修正分を作り、投稿フォームの修正個所に張り付けるが、先程はそうしてなかったので、慌てた。
直前の文章を思い出せないことはないが、どうも数行分消えている感覚だった。
そこで、ネットで今修正中の前の文書を見ることを思いついた。
投稿フォームでの文章は、投稿ボタンをクリックしない限り、ネット上のサーバーは、何も変化がないので、修正前の文章がそのままサーバー上に残っているのだ。
そうして、ネット上の文章と投稿フォームの文章を比べながら、ネット上の文章をコピーし、ワードに張り付け、それを修正追加して、投稿フォームの該当箇所に張り付け無事修正を完了した。

さて昨日は、強い雨が断続的に降り続いた。
9食用意した副食も昨日でなくなり、昨日食材を買い出しに行って、9食の副食を作る予定だったが、出かけなかった。
その代り、残った食材で今日必要な3食分を、昨日の夜12時までかかって作り上げた。
そんな訳で、昨日は一歩も外へ出なかった。

その代り、強い雨のために余分な仕事が増えた。
便所の雨漏りだ。
以前便所の屋根に上り、瓦のずれを直し、隙間のできたところは修理して、その上に防水用に断熱シートを貼ったが、それを猫がぼろぼろに引き裂いたようだ。
以前も同じようなことがあり、そこには猫の爪痕のようなものが見られた。
また、屋根に上って修理しなければならない。

その他、特価で購入した米が、無洗米ではないのに、無洗米状態でコメを研ぐと白いとぎ汁が出ず、うっすらと黒いとぎ汁になった。
米そのものが薄黒くなっていたのだ。
しっかり米を研ぐと、水は透明になり、炊くと白いごはんで味も変わらなかった。
気になっていたので、消費者センターにこのことを連絡した。
消費者センターでは、各方面に問合せ連絡を取ってくれたが、結局保健所か卸元に問い合わせてほしいという結論だった。(コメの相談は今までなかったという。)
面倒になりそうなので、問い合わせの作業はとりあえずやめた。


先程の昼のニュースで、アメリカでロシア人のスパイが摘発されたことをNHKニュースが伝えていたが、日本でも、多分多くのアメリカのみならず、中・ロ・朝・その他各国の情報機関関係者が動き回っているのだろう。
日本人の協力者もいる可能性を想像していて、そういう人は身近にもいるかもしれない可能性はある。
マスコミ・芸能界の中にも日本の世論形成を、各国に有利に導くための各国情報機関に協力する日本人協力者が、それなりにいるのかもしれないと思っている。

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昨日記150125日(Gブランシュ・吉田哲夫展 )

2015年01月26日 20時19分06秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
晴・曇  最高/最低℃ =11.5  3.6
昨日は、午後から阪急石橋にあるギャラリー ブランシュで開催されている吉田哲夫展に行った。
吉田さんとは、私がギャラリーを開いていた頃からのお付き合いである。
彼のほとんどの作品には、強いメッセージが込められている。
彼の作品の素晴らしい点は、彼が持っている鋭い批判精神を、絵画作品やインスタレーションに的確に表現している点であろう。
作品は様々な現代作家の影響を受けているが、それらをうまく消化して吉田氏の旺盛な感性や批判精神を画面に込めて暗示している。
ギャラリーで一通り作品をみてから、来客スペースで吉田氏と話した。

初めは私と吉田氏だけだったが、そのうち吉田氏の馴染みのお客さんが増えて、丸くなって建築とか政治問題とか美術界の話やSNSやじょうほう機関の話とか、様々な話で盛り上がった。
参加者は、当然吉田氏の古くからの友人達である。
従って、年齢も4-50歳以上で社会でも現役で活躍している人達が多かった。
職業も、建築家やプランナー等様々で面白い話を聞くことが出来た。

散歩者gooのトップページへ、 http://blog.goo.ne.jp/sksoo
参考ブログ集 散歩者gooより
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昨日記150124土(日本橋 西天満のギャラリー廻り 検診結果)追

2015年01月25日 12時11分28秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
晴・曇  最高/最低℃ =10.5  2.9
昨日は、午後からいつものように、西天満のギャラリーを回ったが、その前に自転車で一旦天満橋まで行き、そこから地下鉄で日本橋の「ギャラリー編&かのこ」で開催されていた、原田要展に行った。
原田さんの展覧会には、数年前に京都造形大学で行われた展覧会に行き、その時も少し話を聞いたことがあった。
ギャラリーには原田さんも居られたので、話を聞くことが出来た。
原田さんの作品は、木彫の彫り跡を剝き出しにした自然の花ウツボカズラや蓮の葉のようなイメージの造形物の彫溝ごとに色を塗って作品に仕上げている。
原田さんは、花や葉に似たイメージの木彫の造形物は、キャンバスと同じとみなしていて、基本的に彫刻作品を使った絵画と考えているという話であった。
しかし作業量からすると彫刻の方が多いであろうし、描いているときより彫っているときの方が楽しいという話でもあった。
京都造形大学での展覧会では、縄文土器との対比で、原初の生命力のようなものを強調していたように思うが、作家の意図とは別に、絵画のベースとなる彫刻の持つ造形力のイメージの方が強く、作品の持つイメージの絵画的なモノと彫刻的なモノとのギャップをどう捉えてよいのかまたは、統合したイメージとして考えた方が良いのか考えさせられるが、作品は同時に存在するので、絵画作品として見るより一体のものとして絵画的要素を含む彫刻作品とみなさざるを得ないのではないかと考える。

その後、「ギャラリー編&かのこ」を後にして、地下鉄で再び天満橋まで戻り、自転車で西天満に向かった。

西天満では、個展が少なく、作家も会場に居る展覧会はなかったので、物足りなかった。
その代り画廊のオーナー達と話をした。


西天満やその他の画廊を回っていて、10年ぐらい前は、私がギャラリーをしていた時に活躍していた人たちの活動は続いていたが、若い人たちの台頭が見られず、関西の現代美術はどうなるのかと感じたこともあると同時に、マンネリ化も感じていた。
しかし最近は、若手中堅作家が成長し、関西のアートシーンを作るようになってきたのはいい傾向だと思う。
それに、伝統の浅い画廊が、意欲的に作家を掘り出していることも見逃せない。
現代美術では、現代美術の条件である古い言葉になるが前衛的であることが、求められる。
その意味で、チャレンジ精神のある実験的作品もどんどん増えれば、面白いと思っている。

帰りは、いつものように天満橋でお茶を飲み、本を読んで帰宅した。

帰宅すると、先日受けた特定健診の結果が届いていた。
結果はいつもと変わらなかった。
即ち、治療の必要のある物は、見つからなかった。
しかし、過去3年間と数値と比較すると、大きく上昇も下降もしていないが、生活習慣を見直すべき項目があった

検査結果の要注意の数値は次の通りだ、
LDL:132  ヘモグロビンA1C:6.1  AST:38  ALT:40  γGT:53
この中で、肝機能の数値は、過去三年と比べてわずかな上下がある程度で、安定している。
LDLも同様だが、これは食生活を少し変えるとすぐに変わるだろう。
多分牛乳の飲み過ぎと、鶏肉の食べ過ぎと思う。

問題は、ヘモグロビンA1Cである。
この値が少し上昇傾向にある。
その結果、糖尿病予備軍とされている。
一度、ブドウ糖負荷試験を受けてみようと思う。
この値の上昇に、心当たりはある。
ここ数年、脳の栄養補給と考えて、糖分のある物をよく食べるようになった。
チョコレートは、健康に良いということで、作業が一段落つくと一粒二粒とよく食ているし、読書中に眠くなるときは飴を食べる。
確かに、読書していて、眠気を催す時に飴を食べると、脳のエネルギー源であるブドウ糖が補給され眠気が取れることよく経験している。
しかし、そうした糖分の過剰摂取が、ヘモグロビンA1Cの値を押し上げるのだろう。
そのあたり、もう一度見直したい。
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昨日記150123金(副食製造9食 ジムランニング ピケティ教授の白熱教室)

2015年01月24日 13時34分20秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
晴・曇  最高/最低℃ =10  4.5
昨日は、昨日記を早く済ませ、午前中から食材の買い出しにスーパーを回った。
前回9食分の副食を作り、かなり時間がかかることが分かったためだ。

昼食後、一休みした後、予定通り9食分の副食製造を始めた。
ゼロからの製造なので、先ずキャベツの下処理(芯の部分を切り取り、使える部分を選り分け千切りにする。)や洗いから始まった。
丼鉢を9個並べながら、そこへキャベツの千切りとか、使用食材の重量を計測しながら、各丼鉢に正確に入れていくのだ。
途中TVの相撲や漫画やニュース番組を見ながら作業を継続した。
トウミョウを9食分に均等に分配するには、手間がかかった。
トウミョウを生えたまま3等分して切り取り、それぞれ切ったトウミョウを更に3等分して丼鉢に入れた。
7時頃になって、残り山芋と大根を処理するだけになり、かなり目途がついたので、ジムに行くことにした。
くしゃみが出たり、咳も少し出たりしたので、極初期の風邪かもしれないと思っていた。
だが熱もなく、体調も変化ないので、行っても問題はないであろうと考えた。
7時半前に出かけたが、着替えたり準備運動するだけで15分以上たってしまう。
ジムの終了時間は8時半で、閉鎖時間は9時なので、時間がないのでランニングだけをすることにした。
前回の調子から、苦しいトレーニングになることは、分かっていた。
多分足の筋力や持久力が、時速10kmのランニングについて行っていないことは明白だ。
経験的に、体力の限界速度に近づくと、時速で0.2kmの差でも体の状態は全く変わる。
同じ距離走っても息が上がってしまうのだ。
昨日の記録は次の通り。(時速10kmのランニングと時速6.5km2分間の歩きを休みなく交互に繰り返す。単位は、分)28分間走行
5-2-5-2-7-2-5  
結果を見ると前回よりかなり走れるようになり、今後とも成績が向上すると思っていて、最終的に時速10km30分間、5km走行は実現可能と思っている。
何とか、4月までには達成できるように頑張りたい。
帰宅後は遅い夕食後、夕食分に使った丼鉢を差し引いた8食分の副食(温野菜セット)を完成させた。

11時になって、ピケティ教授の白熱講座を見た。
素晴らしい教育と経済格差に関する分析だ。
ハーバードに行ける人は、経済的にも1%クラス以上の富裕層であることを知った。
有名大学では、寄付金と入学の問題もあるようだが、明らかにはされないらしい。
ハーバードを出た人の実家は、金持ちということだろう。
だが、私の友達のアメリカ人E氏は実家にも行っているが、金持ちではない。
彼は、名門のシカゴ大学で博士号をとった。
ひょっとすると、情報機関関係者?または宗教団体の支援があったのかもしれない。
NHK白熱教室の番組を見ながら、ピケティ教授の発言の訳のナレーションで、盛んに高等教育で受ける技能という言葉が気になった。
正しい日本語では技術とすべきだろう。
技能は、技能訓練のように手わざ、のように肉体的スキルの意味合いが強い。
医学や教育や技術関係の高等教育では技能習得とは言わない。
高等教育で学ぶのは、医療技術や、設計技術であろう。
設計技能というと、製図技能(設計ではなく、設計者に指示されて、図面のみを作成する)といった意味合いが強い。
画面上の文字の表示では、技術が使われていた。
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昨日記150122木(風邪の初期症状 新規家計簿の整備 )

2015年01月23日 11時04分19秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
雨・曇 最高/最低℃ =9.6  6.9
昨日は、よく雨が降った。
新聞を取りに玄関を開ける以外、一歩も外に出ずに家にこもっていた。
めったにないことである。
体調は悪くはないが、数日前から、たまにくしゃみや鼻水が出たり、昨日は咳も少し出て、わずかだが痰も絡んで、今日は声の調子が悪く、今朝起きたときに喉頭部から鼻腔に通ずるあたりに違和感もあった。
何度も言うように体調は悪くないし、熱もなく気分も悪くないが、どう見ても軽い風邪になったようだ。

非常に軽症の状態で推移していて、咳き込んだり、くしゃみが連続して起こることはないが、くしゃみ・咳・痰がそろっているので、部分的に呼吸器系統が風邪の病原体(菌やウイルスで種類は無数にある)に侵された可能性がある。
このまま悪化しないように普段通りの生活をしながら推移を見守りたい。

風邪の引き初めで症状が軽い場合には、葛根湯が有効で治療薬にもなっていると聞くが、高いので買わない。
笑ったり、軽い運動は、免疫力を高める効果があることが分かっている。
体温を下げると免疫力が低下するので、長時継続的に体を冷やさないことが必要だ。
軽い風邪の場合は、適当な運動(体力を消耗する激しい運動は免疫力を弱める。)をして汗をかくとよいという人もいて、私もその経験はあるので、ジムで軽く汗を流すのも選択肢の一つかもしれない。
私の場合、根拠も効果も不明だが、運動後は温水シャワーを浴びたのち、短時間冷水シャワーを浴び、自律神経に刺激をあたえることにしているが、慣れると気持ちいい。

午後からは、寝る前まで夕食を挟み、溜まったレシートの記帳を行った。
12月ぶんは、すぐに済んだが、2015年度からどうするか考えた。
使っているのが、業務用会計ソフトなので、毎年会社が決定した決算月に決算があり、翌年度に繰り越される。
今やっている処理は、個人の家計簿なので、そんな厳密な処理はいらないが、ソフトはそのようには作られていないので、ソフトのやり方に従うほかない。
結局、年度末を12月にして繰り越そうとしたが、昨年度の夏ごろのレシートが未記載のまま大量に残されているので、簡単に処理できない。
結局解決策として、新しい会社の形で会計ソフトに新規導入処理をすることにした。
これで、万事解決と思ったら、そこで困ったことが起きた。
私の家計簿には、大量の独自の勘定科目や、サブ科目がある。
ところが形式的に会社が違うので、新しい帳簿と去年の帳簿を同時に見ることは出来ないのだ。
仕方なく、昨年度まで使っていた帳簿の勘定科目やサブ科目の一覧をエクセルに書き写し、新しい帳簿の勘定科目に書き加える処理をすることにした。

昨夜、昨年の帳簿に使用している独自の勘定科目の書き写しを終えたので、今日、新しい帳簿へ勘定科目の転記をする予定である。
ところが、去年の科目をエクセルに一旦コピペしようとしたが、全くコピペできないことが分かった。
すべて、直接入力しなければならないのだ。
仕方なく、昨年度の勘定科目をメモ代わりのエクセルに打ち込んだ。
エクセルに打ち込んだ文字に関しては、そのまま新しい帳簿にコピペして入力できるようだ。
帳簿の処理にまだ時間がかかりそうだ。
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昨日記150121水(寒波と無暖房生活 メールアプリ整理 ジム・筋トレ・ランニング)

2015年01月22日 12時08分19秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
曇・晴 最高/最低℃ =10.3  1.4
昨日は大阪の最低気温が1.4℃まで下がったらしい。
今年は、1月も最低気温が、元旦に0.3度、14日に1.2度と波状的に寒波が押し寄せている。
きのうが、大寒の入りということで、統計的には節分まで、一年で最も寒い日が続くようだ。
このシーズンは、12月から大寒並の寒さが続いていたので、完全無暖房の我が家でも、ほとんど寒さを感じなかった。
携帯カイロも、まだ一度も使っていない。
多分一昨年に購入した携帯カイロ(前の冬のシーズンに購入?)は、大量に残っている。
我が家の防寒対策が随分進化したのと同時に、多分私の筋肉量が増加し、基礎代謝が増えて体の発熱量が増えて、寒くなくなったのかもしれない。
加齢で神経活動が低下して鈍感になったことは考えられない。
耳もTVでも音量を小さくして聞いているし目も問題なく、温度にも敏感で、銭湯の熱い風呂には入らないし、外出時は重ね着にも気を配り薄着の寒さには敏感だし、運動による体のほてりにも敏感で、自転車で遠出するときは、出来るだけボタンで前を開けることのできるスポーツシャツを着るようにしている。
とにかく、この冬の完全無暖房生活ももう少しで、無事終わりそうだ。

午前中メールを整理消去したあと、常駐アプリが気になった。
特に青空文庫の縦読みアプリが、いつも新しく加わった本の紹介を流している。
青空文庫は、見たいとも思うが、それ以外に優先して読みたい本が多くあり、読んでいる暇はないので、縦読みアプリは使っていないが、かなり頻繁に更新しているようなので、削除した。
読みたいときは、いつでも再びダウンロードできる。
そのついでに、明らかに使っていないアプリを消去した。

その際、リーディングリストの使い道が分からず放置していたが、その用途が分かり読みかけのWebページを探すと、いくつか見つかった。
そうした中で、ネットのウエブペーに名前を付けて保存したページの中で、多くのページが、元のネット上のページが削除されて消えているため、画像だけが残っているページが多くあることに気付いた。
そこで興味あるネット上のページを、ワードで保存することにし、過去の展覧会で資料として掲載されていた、いくつかの画像入りの美術論をアクセスやワードにコピーした。

そんなことに手を取られ、昨日記の作成が遅くなり、相撲を見ながら書くことになり、かなり気が散った作業となった。
その後ジムに出かけた。

ジムでは、筋トレと、ランニングを行った。
数日前から、たまにくしゃみが出るようになり、昨日は咽にも僅かだが痰が絡みだした。
軽い風邪になったのかもしれないと思っていた。
筋トレは、多少記録が低下気味であったり、調子よかったものもあり、気にすることのないと思っている。
ランニングは、ジムに行く前から、足を重く感じていたので、調子が悪いことを覚悟していた。
実際に走りだしてみると、3分間で息が上がり、足がだるくなったので歩いた。
やはり、
かなり調子が悪そうだ。
ただ、ジムで運動する前の準備運動で、ジャンプを50回繰り返したので、足の筋肉を使った疲労の影響も考えられる。
いずれにせよ、昨日は22分間しか、走れなかった。
記録は下記の通り(時速10kmで走り、その後時速6.5kmで2分間走ることの繰り返し。)
3-2-3-2-5-2-5
帰宅後も、足の疲労は残っていた。

寝る前にTVを見ると、Eテレの100分で名著で岡倉天心の「茶の本」を放送していた。
この本は、読んだことがあるが、すっかり内容を忘れてしまい、番組を見ながら、なるほどと思っていた。
ただ、岡倉天心の芸術観は少し違うのではないかと思った。
その考え方、芸術観では現代芸術を理解できない。
やはり、時代の進歩を感じさせる。
再診の芸術観に触れていない人は、古い考えで芸術を理解しようとしている。
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昨日記150120火(副食製造 イスラム国人質事件発生)

2015年01月21日 17時47分22秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
晴・曇 最高/最低℃ =10.3  3.9
昨日は、副食9食分の準備から製造完了までを実行した。

午前中は、昨日意を作成し19日に書いた芸術論覚書に関連した事例について書いた。
そこで評価に関して影響力のあるのは、新聞といったが、無論専門誌に掲載された学芸員や評論家の意見が美術界では大きな影響を与えるのは間違いないが、一般社会にとっては、新聞の方がはるかに影響力がある。

昼食後は、キャベツの下処理をしたりした後、一昨日購入した食材では不足していたので、副食を9食作るための食材を買い出しに出かけた。
その時、スーパーで気になる貼り紙を見た。
2月末で閉店するという。
従業員に聞いても、詳しいことは分からないという。
そのスーパーは家の近くなので便利に思っていたが、3月から不便を強いられそうだ。
ブロッコリー等は高騰しているので、買わなかった。
その後夕食を挟んで、12時ごろまで副食の製造が続いた。
9食分の副食を、一度に製造するのは初めてのことだった。
結構時間がかかったが、それでも単品で制作することを考えると、かなり早くなった。

副食を作りながら、大相撲を見ている途中ニュース速報が流れ、日本人2名がイスラム国に人質となり、4億ドルの身代金を政府に要求し、実現できなければ殺害すると言っていることが伝えられた。
それ以降、NHKは、相撲放送をEテレのチャンネルに移し、この緊急事態に関しての特別番組に切り替えた
イスラム国の出来事なので、TVで様々な関連事項を報道しているが、いくら詳しく報道しても、本質は見えるが、事態の推移や現場状況の詳細は全く分からない。
安倍首相は中東諸国を訪問中で、イスラム国はこの時期をうまく利用したようだ。
これからどう展開するのか、目が離せない。

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昨日記150119月(冷え情報  芸術論の具体的事例)

2015年01月20日 12時35分34秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
晴・曇 最高/最低℃ =11.4  3.6
昨日は、結果的に終日何もしなかった。
気になったことといえば、朝のTV番組で、足の冷えにお尻の筋肉(梨状筋)のコリが、神経を圧迫し足の血行を悪くして冷えになるという事例を報告していた。
それと同じ内容が「冷え性が治るツボ!梨状筋をボールでほぐす」(http://nice-senior.com/doc/1963/)に掲載されていた。
その他冷え情報を、ネットで調べると去年8月19日のNHKあさイチ(http://www1.nhk.or.jp/asaichi/2014/08/19/01.html)でもやっていたが、内容は少し違う。

夕方になって、副食作り用の丼鉢を更に一つ買い足すために、運動を兼ねて天満橋まで出かけた。
途中、足が重く、一昨日の20分間のランニングがひびいていることに気付いた。
ランニングの疲労が十分回復していないようだ。
丼購入後、いつもの店で読書し、図書館から借りていた本を読了した。
1時間に5-60ページぐらい読めると思っていたが、そんなに早く進まなかった。
小説の場合は、かなり速いスピードで読めるのだが。・・・

昨日は何もない退屈な一日であったが、一つ特記すべきことは、昨日記で、普段から考え発言している、美術芸術への考え方の一部をまとめたことであろう。
先程も、昨日書いた芸術論の一部の、文章を追加修正した。
芸術に関する考え方は、古来様々な哲学者が美の概念ということで議論してきた。
しかし、芸術という概念が生まれるのは近世であり、古代では芸能の一部または職人であった。
その芸術の概念も、現在では表現ということが浸透しつつあるように思う。

昨日の昨日記でも述べたように、カテゴリーや分類そのものも、自然科学の場合は明確な定義があるが、文化芸術の場合は、人間が人間の創造した価値観の沿って決めているのであり、しかも芸術の場合様々な要素が混ざっていることが多く、更にどの視点(見方・価値観)で分類=差別化するかで、結果は異なってくる。

多くの人が、芸術の評価で頼るのは、マスコミとりわけ新聞評論であろう。
ところが先日行われた、元美術関係の記者を含めたシンポジュウムで、元美術記者から、現代美術が分からないまに、関係者に取材して必死に書いた、というような発言がいくつかあった。

その現代美術といっても定義は、曖昧なのである。
しかも現代美術の中には様々な分野があって、それぞれ全く違う見方で制作されている。
即ち価値観が違うのである。

何時も例として挙げるが、ヘビメタも歌謡曲もバロック音楽も謡曲も義太夫節もクラシックもアボリジニの音楽も京劇の音楽もインドの音楽もマサイ族の音楽もすべて音楽である。
しかしバロック音楽の聴き方で義太夫節を聞くことができない。
いわゆる、音楽としての文法、文脈といった体系が全く違うのであり、そこには民族・歴史的背景や風土の違いから生じる価値観が全く違うことに原因しているのである。

しかも、現代美術はどんどん新しい形のものが生まれている。
多分、生まれたてのものは、評価がしようがない。
時間がたって、多くの人が、その作品が分かり支持することで、新しい流れができるのである。
例えば、音楽でも、ビートルズは、当初雑音と評されたが、今では教科書にも採用されているという。
ゴッホの作品が、鶏小屋の一部(扉?)に使われていたという話もある。

ここで言いたいことは、多くの人は、現代美術を観るのに、マスコミや評論家の権威に頼っているが、そうした意見も参考にしつつ、自分の目で見て考えるのが楽しみ方をするべきであるということを思っている。
文化芸術では、権威ある人たちの考えが、常に正しいわけではない。
有名な評論家の言説やアカデミズムが、後世否定されることは、よくある。
印象派の事例もその一例である。
しかし、芸術の基礎を勉強しなくて、自由になんでも自分勝手に評価すればいいというのは、それは全く違う。
芸術鑑賞する場合、最低限の知識や教養は必要だし、出来るだけ多くの優れた作品を見聞きし、目や耳を肥やさないと、いい作品を鑑賞できない。
即ち、文法文脈を駆使して作られている作品には、それ相応の文法文脈単語を知らないと、作家の表現を読み解けないのである。
無論、美術でも見た通りの分かりやすい絵や作品もある。
芸術作品を多く鑑賞すると、反射的に適用する文法文脈や単語が見えてくるようになり、作品の面白さが分かるのである。

これは、音楽や絵画に係わらず、文学でもそうである。
俳句や短歌・和歌に多くの注釈書があるのもその表れだ。
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昨日記150118日(芸術論・芸術構造の覚書 ジム:筋トレ・ランニング20分間)<追>

2015年01月19日 13時14分39秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
晴・曇 最高/最低℃ =9.1  2.0
昨日は、日中はTVを見たりブログを書いたりしていた。
ブログに関しては、普段の行動記録に加えて個展の感想や作家トークに関しての論点等も書いたので、3100字近い長いものになった。

夜寝る前に、FBを見ていると、やはり同じ個展に関する評論が出ていた。
こちらは、新聞社に寄稿記事も出す文筆家の評論(感想)であるが、現代美術とか芸術と市場とかの掘り下げも足らないし現代芸術捉え方も浅いというより、古い洋画的美術品の見方をしているように感じた。
作家の論点は、正確にとらえているが、芸術全般に対する哲学的思考がかけているため、ダダの本質を消化できていないまま、昔の画商のような見方で評価しているように見えた。
これに触発されて、私が今まで思索・考察し口頭で発言してきた、芸術観や現代美術に係わる考え方の一部を覚書にしておいた。



芸術論覚書  2015/1/19  三宅忠夫
科学には限られた条件での絶対が存在する。(論理的に絶対がないということは、ゲーデルの不完全性定理で、論理学的に証明済み)
一方、芸術(音楽 美術 文学すべて)は、人間の価値観をパラダイムとして構成されていて、その価値観は人間に依拠するため、自然科学のように客観的絶対はなく、相対的なものである。
その前提として、文化芸術が、人間の存在無くして成立しないことは明らかであり、人間社会や歴史と同様、人間の消滅とともに消える。
即ち、人間の情報伝達、伝承が言語や文字その他情報媒体を作り、文化文明を伝承進化させてきたのであり、そこには動物としての活動する人間の存在が不可欠である。
逆に文化文明は、人間の特性(五感や知能や感性・感覚や運動能力や物理的生体機能やサイズ)に対応して生まれたといえる。
例えば、人間の体が、巨大恐竜サイズであれば、今の建物は違っていたであろうし、社会も違っていたであろう。

芸術は、(肉体を含めた実存的存在の)人間による五感と言語や行為を使った表現で、意思伝達や、説明や、日常のコミュニケーションを除いた、内面(感情・情感・情緒・知的なもの・・・)表現の一形態であり、表現方法は多様である。
芸術は表現された結果としての作品の存在を、前提とする。即ち表現されたものが言葉や音楽や形(作られた物)やこと(香りや演劇・舞踏含む)として存在し、本人の頭の中だけに存在する場合は、芸術とはいえず、外界(本人の外に)で物なり事で伝達されなければ、芸術ではない。(例えば、内面の情感や思いを作品以外で、言葉で他人に発せられても芸術となる。即ち頭の中ではなく外部に向かって表現されている。)

基本的には、芸術は表現者と鑑賞者(評価者も含む)が存在するが、自己表現として作品を公表しない場合も、物が存在すれば芸術となる。(後日他者が鑑賞できる。)
表現は、人間の五感(視覚 聴覚 嗅覚・・)の機能・性能(例:白内障になると視覚が白濁する、晩年のロートレックの作品はそのことをよく表している。多くの動物は紫外線や超音波も感じている。色の見え方も民族により、個人により違う可能性が強い)や思想・宗教といった価値観の基準で左右される。
また、芸術はそのカテゴリーによりそれぞれ価値観が違っていて、価値観の基準に沿って優劣が決まる。
人間の価値観は、民族・人種や、風土・環境・歴史や、宗教・思想やカテゴリー・属性で発生するが、時間と環境で変化する。

カテゴリーや属性も、人間の価値観で分類されているもので、フーコーも指摘するように、それぞれの持っている、伝統・歴史や宗教ややその他様々な構造的要素で分類されていて、そのカテゴリーの中での優劣がある。
従って、カテゴリーの違うものの優劣を比較することは無意味である。
即ち、価値観とは、客観的でなくグループまたは個人が信じているもの<幻想?思い込み>なので比較しようがなく、価値観が違えば優劣を比較できない。(その意味で価値観は、信仰と似ていて信仰は、最も強い価値観でもある。)

価値観を共有するものは、グループを形成しその価値観での優劣を競いヒエラルキーを作る。(民族・国家・宗教・趣味の団体・愛好家グループ)
現代芸術は、内容・コンテンツのみならず、構造的なものも表現内容としてとらえ評価する複合的視点も持つ。(例:現代美術で地と図とか、支持体を問題としたり、観客も表現の一部として取り込むのもそのような例である。)



話を元に戻すが、昨日は夜からジムに出かけた。
筋トレの中で、筋力が低下しているものを一通り行ったが、前回よりわずかに記録が低下していた。
筋肉疲労が残っている可能性も考えられる。
その後、ランニングを20分間おこなった
時速10kmで走り、その後時速6.5kmの歩きを2分間繰り返したが、以下はその結果である。
5―2―5-2-6
約3km余り走行した。
疲れはそれほど感じなかったし、息も上がったが前回よりは、体力的に慣れてきた。
しかし今日(1/19)は、多少足に疲れを感じるので、それなりに運動の成果が上がっていると思っている。
疲労感や、筋肉痛を感じているときに、筋肉をしっかりメンテすることで、筋肉が強化され体力がついてくる。
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昨日記150117土(情報とQOL 内山聡展と現代美術と市場)

2015年01月18日 14時05分24秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
晴・一時雨 最高/最低℃ =8.9  3.8 
昨日の朝は、前日ジムに行って、夕食が遅くなり、その上寝る前にNHKEテレの「パリ白熱教室」のピケティ教授の講座を視聴し、食事の後片付や洗濯物干しを12時過ぎにしたため、1時ごろに床に就いたので、寝る前に目覚ましを切って寝た。

寝てからも、講座を視聴した「21世紀の資本」の内容や格差について考えさせられ寝付けなかった。
これだけはっきりとした裏付けされるデータがでていて、教授があるべき方向性を暗示しているのに、貧困層や中産階級の人達からの不満の声が上がり、政治に反映しないのは、そうした情報に接していないことが原因であろう。

情報不足、無知、ということは恐ろしいと思う。
これは、経済問題に限らず健康問題やそれ以外のことでも同様であり、例えば様々な健康に関連する知識を知っているか、知らないかで、その人の生活の質(QOL)は全く変わる。
私の場合では、年収100万円余りの借家暮らしで真冬でも無暖房で過ごしている貧困層独居老人でありながら、元気にある程度充実した楽しい活動的生活を送っているのも、TVやネットから様々な最新情報(医療健康・行政サービス・催し物・・・・)を入手し活用しているからに他ならない。
端的に言えば、必要な最新情報に接するかどうかということなのだと思う。
世の中には、不必要な情報があふれかえっており、どれだけ必要な情報のみをとるかという意思決定や判断も、本人の能力次第であり、多くの人は情報に振り回され、情報の洪水に流されていることすら本人の意識にないのではないかと思う。

随分横道にそれたが、昨日起床したのは8時前であった。
ブランチにしても良かったが、とりあえずパンと牛乳と納豆とヨーグルトで軽い朝食にした。
パンは、手間と時間がかかるので、いつのころから忘れたが、多分20年以上前からパンを焼かないで蜂蜜を塗って食べている。

起床が遅くなったのですべての生活パターンが遅くなった。
昨日は、奈良市のギャラリーOUT OF PLACE(http://www.outofplace.jp/nara/)で開催中の内山聡展の作家トークに参加することにしていたので、4時に家を出た。

このギャラリーには、過去に何度か行った記憶はあるが、多分4-5回前後ではないかと思う。
毎回、道を間違えてかなり遠回りしてたどり着いた記憶がある。
昨日は、そうした経験が頭に記憶されていて、地図も何も持っていないが、おぼろげな記憶と勘を頼りに歩き、間違うことなくついた。
決め手は、古墳の横の路地の枝道の奥という記憶だった。

時間を1時間間違えて行ったので、来客はなかった。
そこで、ギャラリー担当の方やオーナーと、作品のことで話をしているうちに、作家の内山さんも来られて、詳しい話を聞くことが出来た。
ギャラリートークが始まるころには、多くの人が、会場に集まった。
その後ギャラリートークがあり、そこでもまた違った側面の話を聞くことが出来た。
聴衆との質疑応答もいろいろあり、作品や内山氏の作品に対するコンセプトや、作品制作・表現に対する考え方も知ることができた。

作品は、半年間の時間をかけて作られたものであり、1日筒区切って作業されたものだ。
そこには、時間、行為、労働、といったものが、日常消耗品として使われている包装用クッション(プチプチ)をカンバスとして美術作品として展示されている。
そこには様々な意味が込められている。
今回のテーマが「クリックする人間、動物、あるいは機械」であり、そこに作者のプチプチに穴を空けて絵具を注入する行為をクリックと見立て、アートが機械的に生産されていくということを表現しているようだ。
リーフレットの言葉を借りると、『「行為」「時間」「物質」など様々な視点から解体し再構築することを制作の中心に据えています。』ということらしい。
そこには、作家の芸術の未来観や作家自身がテクノロジ―に飲み込まれ抗う(あらがう)いながらも、それを利用するといった矛盾を抱えているという。

さらに、観客との質疑応答で、額縁入りの作品や単品の作品のことも質問があったが、これは市場と作品との関係に関する共通した問題であり、良く問題にされる。
同時に、今回の作家の話には入っていなかったが、機械化とか作品の生産性といった言葉の中に、作家が本来目指している芸術の精神性と、今回の作品を制作するにあたっての、機械的作業との矛盾と市場経済との矛盾する関係や、その結果表現しようとする精神性との乖離こそ、この作品の、作家の意識上に顕在化していない主なコンセプトとしてとらえることが出来るのではないかと考えている。

オーナーも言うように、ギャラリーは、市場経済に組み込まれているので、販売しなければ、画廊として成立しない側面を持っている。
特に周囲からの仕切りの働きを持ち作品を封じ込める額縁は、このようなコンセプチャルでありかつインスタレーション的要素を持つ現代作品の場合、46m?の巨大作品に対し、その象徴としての額縁入りの作品とみなすことができると私は考えていて、そうした発言を当日行った。
こうした話をギャラリーはやりたがらないし、現代作家も(制作姿勢の問題として)自分に火の粉が降りかかることなので話したがらない。

関係者は秘密の部分を暗黙の了解のもとブラックボックスに包んで、現代作品のミニチュア版やシンボルを販売している場合が多い。
それは、現代美術のみならず、具象絵画・抽象絵画等の作品でもよくおこなわれている。
現に有名作家の、代表作(例えば少女像)の同じモチーフの小品がいくつか描かれて販売されているのはよく目にする。
ここに芸術と市場との関係の一断面がある。

芸術と市場の関係は様々な側面や矛盾を含む問題で、しかも、利害関係が絡む問題なので暗黙の了解が多く、下手に掘り起こすと火の粉が身に降りかかるので、正面から問題を取り上げる関係者は少ない。
多分、この問題は芸術すべてに係わる問題で、市場関係に乗らない希少価値の市場問題であろうと考える。
突き詰めれば、骨董や収集マニアの市場と同じで、有力な資金を持った人(パトロン・オークションの客を含む)が支援者になれば価格がついて上がるが、多くの作品は支援者がつかない限り、市場価値はゼロと考えるべきである。
私の考えだが、オークションの価格のみが評価額と言って差し支えないと考えている。
具体的には、かつて、有力画廊が作家を支援する場合には、その画廊はその作家の作品を買い支えていた(買戻し)ので、その作家の作品価値は、画廊が買い支えた価格になったのだ。
バブル時代、従業員数人で数億円の利益を上げた画廊も多くあったので、そうしたことは可能だったのであろうし、バブル以前も官公庁の賄賂の代用品として美術作品が換金手段として使用されたことが、大きな社会問題になったこともある。
そうした構造が背景にあれば、一画廊で支援作家の作品の買支えは可能であったであろうが、今はそうした構造はない。

そのオークション価格も、時代により大きく変化する。現在高値がついているものでも100年後には、ほとんど価値がないかもしれない場合も起こりうる。
美術において、作家・画廊・コレクタ・評論家(マスコミや学芸員含む)・市場=作品価格と作品の芸術的評価の問題は掘り下げていけば、様々な問題を含んでいると思っている。

今回、画廊もこうした額縁の作品の議論を、ごまかさず正面から答えてくれたことは、評価すべきだ。
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