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昨日記151226土(CAS金沢健一展   私的芸術論)(追)

2015年12月29日 20時54分45秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
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26日は、午後からCAS(大阪市浪速区元町1丁目2番25号 A.I.R.1963 3階)(http://cas.or.jp/index.shtml)に出かけた。
CASは初めて行くギャラリーだ。
事前にネットで調べていったが、少し迷った。
金沢健一展が開催されていた。
この日は、下記のパフォーマンス/トークがあった。
  「芸術という名の科学、科学という名の芸術」
金沢 健一 × 倉持 宏実 (東京大学工学系研究科特任研究員、東京造形大学非常勤講師)
芸術と科学の関係性について興味があったので参加した。
科学と芸術に関しては、今年の1月30日にグランフロント大阪で開かれた、アートX生命科学の探求展に参加したことがあり、科学とアートの関係に興味はあった。
その時の内容は、昨日記150129 150130に記載している。
今回の展覧会ではパフォーマンスもあった。

私はもともと設計技術者で科学と芸術が絡むパフォーマンスにも興味があった。
そのパフォーマンスは、円・三角・四角と形を変えた9㎜?の鉄板に砂を載せ、擦ると砂が集まりきれいな円形の輪になるというものであった。
このパフォーマンスは、面白くスマートでよかった。
ただ、このイベントに、実験とパフォーマンス・表現の境界がどうなのかという、面白くかつ哲学的議論の問題提起の糸口が含まれているのかもしれない。

これは共振現象で、物体の材質と形状から決まる固有振動による共振現象であることはすぐわかる。
最後の質問の時に、その事について関連したことを発言したが、逆に私が間違ったことを言ったように疑われて話が終わった。
更に、別の人からもあやふやなことを言うと信用を失うといったことも言われ、少しへこんだ。
科学技術と無関係な人がほとんどなので、致し方ないことかもしれないが、なんとなく不完全燃焼した感じであった。

共振現象は、建築の固有振動による長周期振動にも関係するし、スピーカーや楽器の特性にも関係したり、パイプオルガンで共振して教会のガラスが割れたりすることも引き起こしたり、様々な場面分野で見ることができる。

今回のギャラリートークで、科学と芸術の本質ということを改めて考えるとともに、今まで芸術の事に関して哲学的に記号論的立場から思考してきたことに間違いないことを確信した。

科学に関しては、真理は一つで、再現性があり、いろんな方向から考えても同じ結論に達する。
科学は、起きている事象を解き明かし証明することであり、主観や予断を排し客観的に事実を積み重ね、論理的に説明することなのである。(客観性を獲得するために計測可能、定量化、構造化は必要な事である。)
科学において、証明過程は非常に創造的な作業であるが、その目的は隠されている事実の「発見」なのだ。
それに対し、芸術は、価値観により形成されているので、その価値観の中で優劣がきまり、ヒエラルキーが形成されると同時に、創造そのものであるといえる。
価値観は、実存的な事項、即ち主観や環境や社会・民族・宗教・家族・人間関係・教育・経験体験といった様々な、人間活動に起因する事象により形成され、個人の価値観は時間とともに変化する。

芸術論メモ
同時に芸術は表現であり、頭の中にあるだけでは芸術にならない。
即ち、描いたり造形したり音を出して、外部に五感に感知できる形にして作品にすることで、芸術になるが、作品となるためには他者が了解できる、共通の文法や文脈(記号意味・記号内容)が必要である。
他者が作品制作者の作品を了解できなければ、そこにコミュニケーションは存在せず、表現されていないことになる。
その意味において、鑑賞者もある程度の、コミュニケーション能力=作品を了解する能力は必要である。
作者が素晴らしい作品を提示しても、鑑賞者がそれを理解できなければ、「猫に小判」なのであり、外国語を理解するには単語や文法を知らなければ理解できない。
それぞれの芸術(例:演歌 浪曲 義太夫節 ハードロック フォークソング 現代音楽 バロック音楽 オペラ・・・・・)には、それぞれの、単語、文法、文脈が存在する。(表現のシンボルや表現方法や表現内容・コンテンツ、その他さまざまな他分野から影響された要素が含まれる。)
新しい芸術は、現在も生まれているが、人々に理解や認知され定着するには時間が必要。
例えば、ビートルズの音楽が出た時には、一般の人やクラシック音楽関係者にとっては、単なるやかましい音楽だったが、今は多くの人に愛されている。
ジャズも当初は、アメリカ南部の地域の黒人音楽であり、美術の印象派ですら当時理解されなかった。
真に前衛的な作品は、始めは創作者自身も明確にわからないまま創作・表現していることも多いと聞く。

従って現代美術といっても、多様な価値観(ミニマルアート、表現主義、ポップアート、コンセプチャル・・・・・)があり、すべて表現する価値観と表現手法としての文法文脈が違うのである。
即ちパラダイムが違うのである。

無論現代芸術以前の芸術(印象派 ロマン派 バロック・・・・) も同じで、現代とかロマン派とかの区分も、人間の価値観で区分したに過ぎず研究者により微妙にその区分や作品の評価も違う。
異なったパラダイムで、お互いを評価できない。

(以下上記芸術論メモの言い換え+α)
又、価値観は、時代や地域や民族や宗教で変化する。
同じ価値観の芸術ですら、その中に微妙に違う価値観が存在する。
権威といわれる評論家や学芸員ですら、意見が分かれたりするのは当然の事である。
時間がたつと価値観は収束し定着する。
その意味でも評価するときは、間違いとかを否定せず、様々な議論をオープンに競わせることで、評価はおのずと定着する。
即ち間違った意見は、多くの人の賛同を得られない。

ここで、誤解されては困るのだが、評論家や美術館や大学の評論等が、価値がないと言っているのではない。
少なくとも、専門家はその分野を事実を基に実証的に研究し、最新の学説や考えを基本に論旨を展開しているのであって、その段階では正しいかどうかは別にして、大いに傾聴に値するものだと考えている。
事実に基づかない、単なる感想を述べるのは、専門家や学者ではなく、酒場の雑談と同じである。
ただし、優秀な芸術家やコレクターの、感性に基づく芸術的感想は、そもそも芸術的感性そのものが経験的側面を含むので、目の肥えた人の感性的な見方は尊重される。
目を肥やすには、いい作品に多く接することが必要というのも、共通する話である。

現実に、ほとんどの場合、我々はそうした現在や過去の経験豊かな優秀な専門家の見方考え方を通して又は参考にして、作品を評価している。(専門家にも優秀でない人も多い。)
そのうえで新たな事実の発見や新しい価値観も取り入れて、今までの評価とは別の評価を付け加えてたり、自分なりの考えを持つこともあるといえる。
その意味で専門家の考えや分析や感じ方をよく知り尊重した上で議論することが重要であり、専門家は芸術の評価には不可欠の存在であることは言うまでもない。(どの学問にもあてはまることだが)
また、知識は、勉強すれば覚えられるが、芸術的感性やセンスの良しあしは、一般人がいくら努力してもセンスのいい専門家に及ばないところがある。
芸術的感覚・感性の良さは、専門家の鋭い感性を参考にしたり教えてもらいながら、更に自らもいいものを見聞きして養うより方法はない。

ただし、日本人の場合多くの人が肩書や権威に弱く、反論すると失礼にあたるとか、検証もせず無批判にその言説を受け入れていることが多い。
もっと極端なことを言うと、一部の権威により評価された作品が、後世から見れば「共同幻想」という評価を受けることも否定できないかもしれない。
その権威は、マスコミが自分の目や耳で評価せずに、評論を無難なよく活動している評論家に委ねた場合、万一その評論家の感性が曇っていても、マスコミのブランド力によりある意味無責任な評論の垂れ流しを見抜けず権威と信じる無批判な大衆が評価を受け入れる形で、権威や評価が作られる可能性も無きにしも非ずである。(通常感性の曇った評論家が起用されることはない。)
例えば印象派が当時の権威から否定されたように、後世に再評価されることも多いのだ。
科学と違い、芸術は価値観で形成されているため、これが正しいということはなく、ただ大多数の人にその価値観が認められその価値観に従って評価しているということなのである。
従って、極端な話、「IS」にとっては、彼らの狂信的な宗教観が最高価値であるため、パルミラ遺跡や偶像は無価値というより、否定すべきもので、歴史的美術的価値を認めず、ただの否定されるべき物に過ぎないのである。
あり得ない話であるが、もしISが政権を取れば彼らなりの価値観による美術館や博物館を作るであろう。

以上述べたように、地域風土・民族・宗教・・により、世界の価値観は多様に分布していて、近代国家が共有している西洋文明の価値観だけが正しいということはできない。
地域的・民族・宗教な価値観の違いは、経済力の差により最も経済力のある地域の価値観が、それ以外の地域に影響を及ぼしたが、現在通信・交通技術の発達により地域的文化の差異は急速に縮小し、経済もグローバル化しかつ経済的パワーも急激に変化しつつあり、今まで標準とされてきた西洋文明も、どんどん多文化の影響を受けつつあり、世界的に変化しつつあるのかもしれない。
それと同時に、時間(時代)の変化とともに、同じ(西洋)文明であっても、急速に価値観が変化していることは、忘れてはならない最も重要な要素である。
例えば、ゴッホを含む印象派の評価の変化はいい例であり、バッハもメンデルスゾーンにより再評価されなければ、埋もれた作曲家になったかもしれないのだ。
最近一部で再評価され始めたヨハン・ネポムク・フンメルは、当時ベートーベンと並ぶ巨匠であったが、近年まで全く忘れ去られた存在であった。
今創造されつつある現代芸術は、それが認められるまで時間がかかり(価値観が受け入れられ定着するまで)多くの芸術は一部の人に支持されるが、やがて人の記憶から忘れ去られ消えてゆき、極一部の芸術のみがその時代を代表する芸術として、多くの人に支持され次の世代に受け継がれるのだ。



参考

散歩者gooのトップページへ、 http://blog.goo.ne.jp/sksoo
参考ブログ集 散歩者gooより
(参考ブログは、数週間に1度追加削除しています。数か月以前のものは分野別<芸術 健康 エッセイ 歴史宗教思想 情報機関> に分類しています。)
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