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タイトルのgooは、同名のHPやブログと区別の為付けてます。HPの「散歩者」はこのブログ筆者の私とは全く無関係です。

自選ブログ集・哲学・思想・宗教・人生・生き方 202108

2021年08月18日 11時55分40秒 | 人文科学・哲学・宗教・人生・生き方
これは、私のオリジナルブログ「散歩者goo」から、哲学・思想・宗教・人生・生き方に関連するブログを選定し掲載しています。
過去の全ての自選ブログの記事・アーカイブは、末尾近くのカテゴリー別ブログ集(リンク)に分野別に分類・収納しています。
引用の注意は末尾に記載

哲学・思想・宗教・人生・生き方

価値観についての考察・断片メモ
昨日記191027日(趣味・価値観メモ)追
政治と価値観について(追)<一部宗教芸術含む>180427 カテゴリー政治にも収納
昨日記171010火(メモ・記憶と存在・生き方 スキャナ不調・交換)追
昨日記170929金(アートエリアB1動物の心を読む 科学と心と価値観)追
昨日記170616金(園芸 ラボカフェ「『遊び』から見る人間の本質)追
昨日記170118水(生活の質と家計 メール整理 副食製造9食)
昨日記170106金(風邪かなり回復 家電量販店へ 私と哲学・思想)
昨日記160126火(図書館 哲学 アメリカ余談 美術メモ )追
昨日記160101金(初詣と宗教関連事項)
昨日記141024金 (職安 ジム 実存主義)
仏教の般若心経と大乗・小乗仏教の違いについて  20130413
怠惰の原因と目標・動機付け(「やりがい」「いきがい」)20120919
絆とSNS(絆の本質) (追)120211



カテゴリー別(分野別)ブログ集
下記のカテゴリー別(分野別)フォルダーを開くと、各ブログ記事のファイルがありますので、興味ある記事をクリックしてお読みください。

新規掲載(新規掲載は2018年6月12日に廃止し、新規掲載のブログは、各カテゴリーのフォルダーに収納しています。)
エッセイ
医療・健康・運動
医療健康情報については日々進化しており、記載情報が古くなっている(現在では誤り)場合もありますので、ネット上で最新情報を確認願います。
政治・経済・社会・文化
歴史・考古学・民族学
美術・芸術
哲学・思想・宗教・人生・生き方
男女関連・文学
ネットSNSマスメディア・情報マスコミ問題等コミュニケーション関連
科学技術・情報技術
情報機関関連(スパイ・工作機関含む)
思い出・生き方
自分の体調・健康・運動関連・住環境(ポリオ関連含む)

営利目的・宗教や政治宣伝目的・誹謗中傷に利用される場合は、引用をお断りします。(著作権)
ブログ記事を引用する場合は、引用元(ブログ散歩者goo 年 月 日投稿記事より)の記載をしてください。
(散歩者gooのgooは、散歩者というタイトルをつけたブログやHPが複数存在するため、区別のために単にブログサイト名にgooをつけたもので、純粋に個人のブログです。)

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価値観についての考察・断片メモ

2020年10月17日 20時07分36秒 | 人文科学・哲学・宗教・人生・生き方
(これは、以前から本やメディアから得た知識や考えていたことをまとめた、単なる断片的メモです。)
社会的傾向と価値観の問題
日本の、戦後社会の大きな流れは、戦後経済復興を成し遂げ、高度経済を成し遂げ、世界の主要国になり、その原動力が経済的豊かさにあることを国民全員が知っています。
しかし、その背景には経済至上主義に近い傾向性が、経済発展を後押ししたとみています。

経済至上主義の達成には、強い同調性=村社会と同じ構造や効率性=合理性=科学技術偏重の重視があり、それは新自由主義や、右翼の目指す全体主義(国や集団のために尽くし、個人は無視されやすい。)と親和性が高い傾向を持ちます。
科学技術は無色透明ですが、使う人集団次第で、如何様にもその人や集団に役立つよう利用可能です。
すなわち、使う人や集団の価値観で、科学技術の用途が意思決定されます。
その意思は、価値観そのものです。

経済至上主義や全体主義や民主主義といった政治体制とは、それぞれ経済・倫理と政治という違った分野での価値観です。

倫理については、価値観そのもので、多様な考え方が存在し、その背景には宗教や民族・文化や風土や歴史や政治思想といったものが絡んでいて、どの倫理が正しいということはできないと思います。
一つの国の中にも、多様な倫理観が存在しますが、倫理観は宗教の影響を強く受けることが多いと思います。

政治体制では、全体主義も民主主義も人間が作り出したもので、どちらが正しいということはできませんが、人権問題と全体主義は強い相反関係にあります。
基本的人権という価値観は、国連を含め多くの民主主義国家で人類共通の価値観と規定されているので、民主主義国家の価値観からは、全体主義は否定されなければなりません。
それでも、中国のように経済至上主義・一党独裁の価値観から全体主義的体制をとっている国や独裁国家も多く存在するようで、こうした国では基本的人権が抑圧されることが多いようです。
こうした価値観の差異は、科学的に見れば人間が作り出した単なる人間社会の事象であり、中国の人たちは経済的社会的安定を重視する価値観を選んでいるものと考えられます。

アリや蜂や猿やクジラ類やその他哺乳類や鳥類が形作る社会も自然現象の一コマで、知的能力の差はあれど、自然界から見れば文化人類学的に見ても、そうした社会構造の一つに過ぎないと思います。

しかし、人間はルネッサンス以降、富や知識の蓄積から、アメリカ革命(フランス革命より前)以降に人権という概念を獲得し(その時ですら奴隷解放はなかった。)曲がりなりにも、人はすべて自由平等という価値観を得ました。

しかしアメリカですら、キング牧師の活動で公民権法案が成立するまでは、黒人は虐げられていました。
また現在でも、中国や北朝鮮やロシアや独裁国では人権侵害がまかり通っています。

民主主義発祥の地古代ギリシャでも政治参加は、市民に限定され、奴隷もいれば、女性は政治活動には参加できませんでした。(古代ギリシャでは、各ポリスで様々な政治体制があった。)
また、古代哲学者が議論したように、賢明な王に政治をゆだねるほうが、民主主義より良いのではないかといった議論がいまでも論じられていますが、これも価値観により判断が分かれます。
政治経済は、人間の意思が反映されるので、科学のように絶対これが正しいという正解はないと考えています。

人間の価値観が絡む問題については、矛盾が発生しますが、その矛盾を解決しようとした手法の一つが弁証法による昇華とも見ることができます。
政治は、価値観の違いを戦うことなく折り合いをつける妥協の手法と考えることができます。
そうした妥協がなければ、価値観の衝突が暴力や戦争を引き起こします。
過去から現在まで、宗教や民族や経済的利害による戦争は絶えることがありませんが、これらはすべてエゴを含む価値観の違いを、暴力で押し通そうとした結果起こることです。

そういう意味でも、価値観の違いを含むお互いの違いを認め尊重することが重要です。
差別問題の根本的原因も、価値観の違いにあります。(貧困者や障碍者やマイノリティーを見下し金持ちを尊敬するのも価値観の一種。)
宗教や民族主義や科学を信じない反理性主義の原理主義を強く信じ込む人々については、警戒が必要で、価値観の違いや多様性(ダイバーシティー)を理解してもらう努力が必要と考えます。
価値観の違いは、理屈ではないと考えていて、人は誰でも少なからず差別意識を持っていると考えます。(性別 宗教 障害者 言語 生活習慣 人種・民族 国籍 貧富 知的・身体的能力 嗜好性 病気 ・・・・・・)
価値観の違いは、お互いに無条件で単なる違い・個性と意識して認め合うことが必要と考えます。
能力による差別が許されるのは、学術・芸術・スポーツと学校と企業・事業活動(製品やサービスの差別化と、能力による人事配置)だけと考えていて、その場や分野を離れ一般社会に戻ると、全員差別のない一市民として平等に暮らすことが必要と考えています。

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昨日記191027日(趣味・価値観メモ)追

2019年12月12日 14時48分03秒 | 人文科学・哲学・宗教・人生・生き方
朝からトレーニングカードの設計と、トレーニングカードのデータを、予定日報表のトレーニング記録に転記する作業を行った。
昼からジムに行きランニングをし時速9kmで25分間走った。
持久力の低下を感じた。
帰宅後、ジムの常連さんがFBをやっているというので、常連さんのFBをのぞいてみた。
優雅なグルメ写真や旅行記が満載だ。
私と住んでいる世界が違う。
負け惜しみでなく、うらやましいとも思わないし、その優雅な世界はそれでよいと思っているし、そうした機会があればある程度順応するだろう。
しかし、私は、過去にそれと近い生活をしていたが、今は私の満たされた別のすばらしい世界を持っていて充実している。(ファストフードでの読書やジム通いもその一つだ。)

各人の価値観の良しあしは、他人が判定することはできないし、どれが正しいということはない。
例えば赤色が好きな人、パステルカラーが好きな人、激辛が好きな人、甘党、酒飲み、喫煙者・・・・すべて価値観によるもので、例えば私は喫煙者の楽しみは理解できないのだ。
キリスト教やムスリムや仏教や神道を信じる、資本主義や共産主義がいいや、抽象絵画や具象絵画がいいといったことも価値観の違いによるものだ。
同じ芸術でも、多くの価値観を持っている人も多いし、政治経済思想においても一つの価値観に偏らない人も多い。
科学においてはいろんな手法を使っても結論や正解は一つに集約されるが、価値観は多様で正解はない。(ただし、その価値観の中での論理構成は存在し、例えば資本主義や共産主義も学問的論理体系を構築しているし、芸術においてもそれぞれの分野で良しあしや手法の論理体系がある。)
価値観は人間の心の中で勝手に生成し信じているものなのだ。
例えば、お金儲けが一番でお金で何でも買えお金があることが幸福だというのも一つの価値観だし、清貧がいい、人の真心がすべてだというのも一つの価値観だ。
価値観は大きく言えば、芸術・宗教・政治・生活に関係し、身近なものでいえば、好み・趣味といったものに関係すし、違う価値観をぶっつけても根本的なものは論理では解決できない。
政治は異なる価値観のすり合わせ、共存方法の模索・妥協する手段といえる。
原理主義の価値観を押しとおせば、必ず戦争や喧嘩になる。(国威発揚も価値観と関係している。)



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仏教の般若心経と大乗・小乗仏教の違いについて(追)

2013年04月10日 17時02分57秒 | 人文科学・哲学・宗教・人生・生き方
仏教の経典や歴史に興味を持ったのは、20代の中頃は休みの日に、暇つぶしに京都や奈良の名所旧跡を歩いた。
それが、きっかけで仏像に興味を持ち古寺を回わり、和辻哲郎の古寺巡礼他、亀井氏や佐和氏の仏像の心と形関係の何冊かの本を読んだのが、経典や仏教へ興味を持ったきっかけだった。
その後は、西洋哲学やバロック音楽の関係でキリスト教にも興味が向き、仏教関係や東洋哲学に接することは少なくなった。

その後、20代終わりに失業しているときの暇つぶしに、発掘調査のアルバイトをしたことがきっかけで、考古学や文化人類学に興味を持った。
考古学では飛鳥以降に仏教関係の遺跡が増えるので、それに関連して改めて仏教も注目するようになった。
更にシルクロードブームのときに、仏教に関する関心が高くなり、お経関係の本も読んだりしたが、未だに仏教の歴史と宗教の本質が良く分からないまま、現在に至っている。

ところが先日、NHKTV番組の100分de名著の「般若心経」のテキスト(90ページほど)を、数時間で一気に読了した。
番組は見てなかった。
本の内容は、お経の内容の解説だけでなく、お経の成り立ちと、上座部仏教=大乗仏教の本質とが書かれていた。
興味があって、仏教経典に関連した、新書版の本も読んだが、今回読んだ内容は衝撃的だった。

このテキストの著者(佐々木閑)によると、釈迦の唱えた仏教と、般若心経は全く別物だという。
釈迦は涅槃を目指すためには、一切の業(善悪を含む)を捨て、煩悩を消す生活スタイルを求めたという。(自分を変える)
即ち「自利」=悟りに近づくために、自分の煩悩を消すための修行をすることである。
釈迦は、現世的善行は業を生むから涅槃を目指すものは、世俗の善行もしてはならないといったという。

しかし、大乗仏教では修行しなくても業の因果則から逃れられるアイデアを考えたという。
即ちそれが利他や廻向(えこう)という考え方だという。(徳を積む)
出家しなくても善行を積めば悟りが開かれるとした考えという。
そして般若心経に神秘主義を持ち込み、般若心経の最後の呪文を唱えることで救われる形になったという。
このように見ると、大乗仏教の成立過程にも興味がある。
(釈迦の死後数百年後に仏教教団の会議があり、上座部と小座部に別れたという。)

多分、この話はタイやスリランカ等の東南アジアの小乗仏教と、中国・朝鮮・日本の大乗仏教との根本的な違いなのであろう。(小乗仏教には般若心経はない。)
大乗仏教には、お釈迦様以外に多くの仏像(大日如来 阿弥陀如来 薬師如来・・ )があるし、それを表現したマンダラもあるが、小乗仏教はどうなのだろう。
薄い本であるが、根本的な問題をうまく説明していると思うと共に、この著者の分析が正しいとすると、同じ仏教でも、大乗仏教と、小乗仏教が大きく違うということがわかった。

仏教は、言うまでもなく日本文化の根底をなす要素の一つであり、意識的・無意識的に係わらず、日本文化や我々の意識や行動に大きな影響を与え続けている。
日本文化の基層を考えることは、日常にその影響下にある我々日本人の行動・意識・思想そして、これからの在り方を考え分析するときに大いに参考になる。

今後も機会があれば、西洋哲学と並行して仏教関係の本も読んでみたい。

参考
大乗成立過程と、スリランカ伝経典の来歴について。(中身の非常に濃いブログであるが、専門的過ぎてよく分からない)
以前のブログが無くなっていたので、同じタイトルのブログを探しリンクを貼っています。<2017年3月29日>

末尾にリンクしたブログ「宗教を語る」は大学の研究者が書いたものかも知れませんが、参考になる部分が多いので紹介しておきます。(著者に関しては末尾にコメントを記載しています)
全体的に学術的に書かれているように見えますが、別の専門分野から見ると、そこまで言い切れるのかなと思われる記述や、陰謀説や小説に近いものも少なからずあります。また新興宗教に関する批判の記述や、韓国関連の記述等も、かなり特定方向の価値観によるバイアス(個人的信念?)に基づいた意見である可能性も否定できないと思っていますし、その論拠が明確でない部分も多くあります。この感想については、私はこのペンネームの著者の記述内容に関してはほとんど無知であり、あくまで単なる私的感想であることを申し述べておきます。
宗教や芸術は論理ではなく価値観で支配されているので、どれが正しいということはできないと思っています。
(価値観<民族意識や宗教観も含む>は信念や信仰や好みと同じで、論理・理屈ではなく比較できない。<例えばジャズとクラシック音楽と演歌のどれが優れているということは、好みの問題で優劣の比較はできない。文化に関しても同じで、文化人類学的視点に立てばよくわかる。>歴史学は価値観ではないが、その立証には文献批判や考古学からの論証が必要。近年各種年代観も、そうした新しい物証の発見により大きく変化している。)
(この著者は禅宗関連の学者ないし宗教者ではないかと勝手に想像していますが、研究グループがグループで作成した可能性もあります。しかし、参考文献を分析すると一般書も含まれているし、内容に上記のように学術的でない断定も多くみられ、思想的に偏ったところもあり、著述家集団と一部宗教家や研究者が集団で作った可能性も否定できません。)
宗教を語る


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参考ブログ集 散歩者gooより



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お金持ちにケチが多いのは本当?(修正・追記)

2012年03月01日 10時35分52秒 | 人文科学・哲学・宗教・人生・生き方
お金持ちの場合、お金があるのだから自由に使えばよい。
しかし、その事について人の話を聞いたり、私が知っていたお金持ちにはけちな人や、お金に細かい人が多かった。

先日その話の、裏づけになりそうな科学的な話が、TV番組で紹介されていた。
2月26日もNHKスペシャル「ヒューマン なぜ人間になれたのか 第4集 そしてお金が生まれた」の中で
人間の脳の中に、腹側線条体という部位があって、金儲けをすることにより快楽を感じることが出来、儲かるほど快楽を感じる刺激が大きいという。
同時にその部位は、分かち合いも強い快楽を感じると言う。

この話を聴くと、お金持ちの中には、がめつくケチケチしてお金を貯め込む人と、アメリカに多い社会貢献で寄付をしたり、財団を作ったりする人と2極に別れることも理解できる。
なぜ、金持ちなのにケチケチするのか理解できた。
金を貯め込むことが、生きがいの人がいるということだ。

この話は、先日書いたブログの「エリートや金持ちはジコチュー?(追)」の話とも関連する話なのだろう。
小説に良く登場する、強欲な金持ちも、人間本来持っている脳の構造による可能性も考えられる。
分かち合いの快楽と、金儲けの快楽のどちらかが優先しているか。又はどちらも快楽を感じているかで、経営者の態度が違って来るのかもしれない。


ただ、忘れてはならないのは、そのような金を貯めこむという感覚的なこととは別に、経営者としての習慣として、質素倹約を旨とする人もいるであろうと想像されることだ。
マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」にもあるように、資本家・経営者の倫理としてキリスト教プロテスタントの教理から導きだされる倫理により生き方が規定され、日本ではよく似た構造の倫理が儒教をベースとして構築されている。
西欧の場合は、キリスト教プロテスタント各派の信仰が核にあり、その論理で倫理が規定されていくが、日本では儒教の倫理が基本で、宗教的には日本の伝統的精神構造の道教的志向も加わって、商人道といった精神主義的倫理観が形成されたのではないか。

土光さんや二宮尊徳の様に、ケチではなく、このような倫理観で質素倹約を貫いて生きた人も多い。
この構造は、唯物史観のマルクス主義とは全く違う構造で、倫理・宗教として人間の生活を規定し動かしている。


参考
日本以外では,(中国や韓国 欧米)儒教は宗教とみなされていて、実際に宗教としての儀式もある。
日本文化でよく使われる、xx道(茶道 華道 柔道 剣道 商人道)は宗教ではないが、精神主義的側面から構造的に見てある意味の宗教的心情も含んでいるのではないかと考えている。
そこには、神道と共通した全ての物に神が宿るという八百万の神々の精神と、共通する心情があるのかもしれない。
例えば、プールから退出する時に、丁寧にプールに向かいお辞儀をして退出する人も良く見かける。
作業場とか、道具とか、にも道的な精神的価値を付けることも昔は良く見かけた。
正月には車にも注連縄を飾ったのも、その現われかもしれない。(アメリカでは車は物そのものだ。)
このようなxx道的思考は、ある意味、宗教的要素を含んでいるように思っている。





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絆とSNS(絆の本質) (追)

2012年02月11日 11時43分50秒 | 人文科学・哲学・宗教・人生・生き方
ツイッターやフェイスブックやブログを見ていると、大きな傾向が見える。
いずれも、利用している人と、利用しない人との利用度の差がはっきりしているのだ。

よく利用する人の中でも、私のように一方通行で発信する人や、発信しつつ対話を楽しむ人や、自分で発信はしないがコメントを多くの友人に送る人、読むだけの人、アクセスを全くしない人に分かれるようだ。

ネット社会のよさは、実社会と違い、参加したい人だけが参加すればよくて、出入り自由ということである。
実社会では、あらゆる組織集団から抜け出すには労力や覚悟がいるが、ネット社会では何の労力も要らない。
通常は、そのコミュニティーから抜けても、そのコミュニティーに何の影響も与えない。

実社会では、様々な関係が重層的に幾重にも複雑につながり、社会やコミュニティーを形成している。
例えば、ある人は、会社の社員であり、趣味の会の役員であり、町内会の会長であり、神社の世話役であり、ネットサークルの管理人であり、ネットショップのオーナーであり、専門学校の講師もしている、という感じだ。
このようにネット社会も虚像のように見えるが、社会の一部に組み込まれているのは間違いないし、いくら匿名にしても公権力を遣えば実名を知ることが出来る。

それでも一般的には、フェイスブックを除き、SNSのほとんどは匿名である。
匿名になると発言しやすいが、その分自分の名前に付帯する信用や責任はなく、同時にその分信頼性も薄くなる。

フェイスブックのように実名にすれば、信頼性はある程度確保できるが、これも紳士協定のようなもので、悪意の人からすれば、成りすましや、架空の人物に成りすますことはいとも簡単であろう。

そのような場合でも、自分が直接会った人だけに限定してお友達になれば、悪意の人は排除しやすいだろう。(それでも詐欺師がいる。例えば昔私が勤めた会社で、完全に経歴詐称をしていた人がいた。退職後判明し経歴は、ほとんどが嘘だった。)

いくらSNSで信頼が置けようが、そこで動かなければ(コミュニケーションしなければ)、その社会に参加していないのと変わらない。
ネット社会にどの程度関与するかは、実社会同様本人次第である。
実社会でも、付き合いの濃い人と、薄い人がいる。

昔は、日本は村型社会で、個人の意識は少なく団体への帰属意識や人脈意識や同族意識が強かった。
そのため、付き合いの濃い人が一目置かれた。
日本が豊かになって核家族化するとともに、経済的にも個人のプライバシーを尊重できる環境が生まれ、社会構造が変化した。
即ち、集団への帰属意識を重視する村型社会から、個人の権利やプライバシーを重視する現代型社会へと社会構造や意識も変化し、プライベートでは付き合いが濃いとか薄いとかでどうこう言われることが少なくなった。
例えば、昔は会社や仲間内で、忘年会等を欠席すれば気まずかったが、今は全体的に団体(企業・学校・社会・サークル)への忠誠心や帰属意識が少なくなっているようだ。

しかしその反動で、孤独に陥っている人も多くなっているという。
家族や夫婦内でも、口を利かなかったり、サークルに参加しても積極的に発言や行動しなかったりするひとも多いと聞く。
ひきこもりやニートや、育児放棄や、友人のいない孤独な老人も増えているのではないだろうか。

TVでも、大震災以前から「無縁社会」と「絆」の問題は、取り上げられてきた。
そこには、本人の自覚の問題もありそうだ。
人に迷惑をかけまいとする、日本人特有の奥ゆかしさの強い意識と、目立ちたくない、という意識があって、その上に、自分の強い自意識やプライドがあって、自分の好きなように自由に束縛されず生きたいという意識がある。

所詮、社会生活と、自由は、矛盾する要素を持っている。
特に日本は、集団の枠からはみ出し個性的であると、つまはじきにされる。
したがって、所属集団内では、所属している間は打ち解けもせず、離れもせず距離を保ちながら組織に所属して目立たないようにしている人が多いのだろう。
私の体験でも、会社で親しくしていても、会社を離れると音信不通になることが多い。

本当に絆を求めるなら、かなりしんどいが、お互い昔流の腹を割った付き合いになるのかもしれない。
例えば、カーネーションの北村のように、親戚でもないのに家に上がりこんで飲むという具合である。
私が小さい時は、実際近所の家同士交流があり、我が家にも隣のおばちゃんや兄貴の友達が上がりこんで話をしたり、男は酒を飲んだりしていたし、私も小学生高学年までは隣近所のうちや友達の家に入り浸っていた。

今後少子高齢化を迎え、絆が叫ばれる一方で、孤独死は増えている。
「絆」作りも、本人にその意志がなければできないであろう。
自分の部屋に閉じこもり、外に対しては自分の格好悪いところを見せないようにという意識であれば、それは本人の選択で孤独に生きるということであろうし悪いことではない。
しかしそれを本人が寂しいと思うなら、自分から進んで意見を述べたり、会に参加したり、知り合いを誘ったりして、人との交流を図るしかない。
少なくとも、元気な人に対しては、(特に男の場合)周りからは誰も声をかけてくれない。

昔、正月に、退屈なので親しい友達数人に、突然電話をかけ一緒に酒を飲もうと誘った。
その時に、多いほうが賑やかなので、飲み仲間を誘ってもいいということで、数時間後駅前で待ち合わせた。
するとそこには、気心の知れた飲み仲間が男ばかり10人近く集まっていて驚いた。
私は、正月は、年始伺いや家の新年会で忙しいのだろうと思い込んでいた。
皆の話を聞くと、全員正月は予定もなく親戚が来るぐらいで、暇をもてあましていたのだ。
その新年会は、空いていた炉辺焼きの店でやったが、大いに盛り上がった。

この話と同様、少なくとも、SNSに参加していても、特別にだれかが助けにきてくれるわけではない。
しかし、本人の意識次第で本人を取り巻く環境はいかようにも変えることが出来る。
自分にあったサークルに参加したり、友人に呼びかけ積極的にグループで出かけたり催し物をしたりして、社会的関係=人脈(ビジネス・趣味・地域社会・市民活動・飲み友達や遊び友達)を築くことが出来るのだろう。

このように社会参加で、孤独化を防ぎ、絆を深めるのは有効だが、一番小さな社会単位=家族の関係を強化することは、孤独化=無縁化を防ぐ一番簡単な方法だろう。
実際には、会話のない家族や、親族が入院しても誰一人見舞いに来ない家族も良くあるし、いろんな病院で実例をいくつも見た。
しかも、そうしたことは、私が知った範囲では、家族の貧富に関係ないようだ。

こうしたことを防ぐには、お互い妥協して相手の立場を察し思いやり、言葉をかけることであろう。
人間が生活をしていて、他人と会話がないのは、存在しないのと等しいのではないか。
たあいのない話でも、会話することにより、少なくとも相手の存在を認めることになる。
その意味でも、挨拶は最低限の会話だろう。
挨拶をして、返事をしないことは、相手を無視していること、即ち社会的存在として認めていないことであるり、人間にとって屈辱的なことになる。

余談になるが「絆」を考える時に、人間誰しも作りたい人間関係と、作りたくない人間関係がある。
AがBと絆を作りたいと思っても、Bはそれを望まないことは多い。
その場合は、始めから絆は成立しないのであろう。


このように考えると、「絆」は、先ず個人対個人の関係が始まりで、それが複数になり、組織・集団対個人の関係となる。
そのような意味で、数百人や数万人の人とSNSで交流する場合は、明らかに個人的な友情を育む範囲は超えていて、ビジネスへの利用ということになる。
その場合でも、本人にカリスマ的要素があれば、一対多の関係として、一人の人気者又はスターなりカリスマと多くのファンという関係が成り立つのだろう。

参考
SNS=ソーシャル・ネットワーキング・サービス

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参考ブログ集 散歩者gooより 美術芸術や健康や情報機関関係もリンクグループ化しています。

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言葉の問題は、心の問題

2011年11月28日 14時51分08秒 | 人文科学・哲学・宗教・人生・生き方
あるバラエティー番組で教育評論家の尾木氏が「言葉の問題は、心の問題だ。」と言った。
その言葉を聞いて、成るほどと思った。

普段、何気なくぞんざいに使っている言葉だが、書き言葉も含め我々人類は頭の中で考える場合言葉で考えている。
音楽や、美術等言葉以外で表現する手段はあるが、多くの一般人は見たり聞いたりするが、自分で書いて表現したり作曲したりはしない。

音楽や美術表現しない人にとっては、言葉のみが心の表現手段なのだ。
確かに、人から言われたり、本を読んだりしてその言っていることに共感すれば態度や行動や考え方を変える。
宗教の経典も哲学書もすべて言葉で書かれていて、人々の生き方や考え方を左右する。

逆に考えると、言葉遣いが人の生き方を変えることは、理解できる。
即ち、頭で考えたことがそのまま、言葉として表現されているのだ。
尾木さんの言う「言葉の問題は、心の問題」はその通りと言える。

だとすれば、言葉遣いでその人の心の内が読み取れるともいえる。
丁寧な言葉から、ためぐちになると身内同然に親しくなったと言うことになる。
又相手が親しくても、命令口調になってくると、相手が自分のことを見下している可能性があると言える。
親や教師や友達に対する言葉使いが変化しだすと、そのとき本人の内面も以前から変化しているのだろう。
やくざっぽい言葉遣いになれば、その人の性格がやくざっぽい傾向を帯びていることになるのだろう。

言葉遣いが、粗くなった時は、反論せずにオーム返しに同調した上で、相手の話を聞いてやると、相手の心の壁がとれて、相手の本音を聞きだすことができると言う。
例えば「あいつが、生意気やから殴ったんや」と言うと「そうか、あいつが、生意気やから殴ったんや、そうなんや」ととりあえず、相手の話を反論や注意を加えずそのままオーム返しに順次聞くと、相手がだんだんと冷静になり、自分のした問題に、自分で気付くようになり、何も言わなくても、自分の行動を修正するようになるという。
逆に説教すると、心を閉ざし反発すると言う。
確かに相手が心を開かない限り、根本的解決をするための問題点を聞き出せないだろう。
(余談だが、子供の問題行動の場合、多くの場合愛情の欠如が関係しているという。
親や周囲の者が、自分は相手のことに関心を持っているということを示すだけで、態度が変化すると言う。)

言葉遣いと話す内容に気を配って、相手に質問しその答えや話し方を観察すると、以外に相手の本質が見えてくるのかもしれない。
そういえば、営業テクニック?の本を読んだ時にこれに近いような話があったような気もする。
優秀な営業マンは、営業のときには対話しながら人の心を読み、相手を自分の思う方向へ(購入させる)誘導するのだ。
言葉の芸術、詩歌小説等の文学では、言葉と心=内面<考え・感情・想像>そのものだ。
言葉と心の問題は、考えるほど奥が深いし、応用も利きそうだ。

(多分心理学関係ではこうしたことが多角的に研究されているのだろうと想像する。記号論的に言えば表現の一つの方法が言葉で、言葉あり方は内面の表現)
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