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昨日記160817水(なまけ癖 美術の話し ジム・筋トレ )(追)

2016年08月19日 12時55分23秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
曇・晴  最高/最低℃ = 33.6   25.6
昨日は、最高気温が33.6℃なので、昼も夜も随分過ごしやすかった。
今日はまた地獄の真夏日に戻ったようだ。  
それでも午前中は、今までの惰性でゴロゴロTVを見たり、昼寝したりして過ごした。
どうやら、以前にも触れたなまけ癖が身に着いたようだ。
こんなことを書くと、非難されたり顔をしかめられたりしている方も多いだろうが、とりあえず成り行きで生きていこうと思う。
なまけ癖も段階があって、以前にもこうしたことを意識したことがあった。

少なくとも、40歳になってアメリカに行くまでは、謹厳実直なサラリーマンで、当時の言葉でいうモーレツ社員で仕事が人生であった。
幹部社員になってからは、休みもほとんどなく趣味も諦めた。
アメリカに語学留学して、生活リズムはがらりと変わったが、考え方は謹厳実直であった。
その後中南米に行って、かなり変わった。
中南米の人は、学歴や地位のある人でも、時間は守らない、借りたものは返さない、お金を貸すと返さないことが多く、こうしたことが、常識であると知って驚いた。
また、仕事よりは、個人関係が重要で、大事な仕事があってもデートが入ればデートが優先になることが多い。
無論すべての人が、そうという訳ではないが、多くの人がそうした傾向であると現地の多くの人から聞いた。
南米に行って以降、少し時間にルーズになったり、彼らの私生活を楽しむこともいいなと思うようになり、なんでも計画的に進めようという態度が薄れてしまい、ある意味最初のなまけ癖がついた。

そして最近の生活状況を、予定日報表から見ると、更になまけ癖が加速しているようだ。
先に書いたように、こうでなければならないと自分を追い込まず、他人に迷惑をかけない限り成り行きで生きていきたいと思う。
ただ、成り行きで生きることは、なまけてごろごろすることではない。
好きなことや、したいことややりがいのありそうな事が見つかれば(一部そうした物や事は持っているし継続もしている。)どんどん進めるつもりだ。

経済的に貧困の独居老人である私は、他者から差別的にみられるであろうことは覚悟している。
例えば近所の新築のおうちに引っ越した人に、「おはようございます」とあいさつした時に「ふん」とはなで返されたことは忘れない。(十年以上前の話し)
その時、長屋に住んでいる貧乏な独居老人を、世間の余裕のある人たちがどのような目で見ているのか、思い知った。

その意味では、趣味として現代美術を見に行ったりもしているが、5-6年前(ここ1-2年前にも他のギャラリーで似たことがあった。)とある大阪の有力な商業ギャラリーによく観に行っていたが、ある時期から、明らかに迷惑がられる態度を取られたことがあり、それ以来そのギャラリーにはいかなくなった。
どうやらパーティーだけに来て好きなことをしゃべる、画廊の雰囲気を壊す迷惑な貧乏老人とみられたようだ。
営利目的のギャラリー側から見れば、会社の営業戦略や活動に支障があればそうした要素を排除するのは当然の対応だと思うし、それに抗議したり反発するつもりもないが、ここであえてこうしたことを書いたのは、客観的に私の趣味である美術鑑賞そのものが、下層老人の趣味に向いていないということを、改めて再認識するためである。
それ以外にも、美術館の展覧会に行くにも、遠くのギャラリー(京都・神戸・奈良・・)に行くにも、入場料や交通費が掛かるが、それすら経済的に無理なことが多く、そうしたことを考えれば気休め程度に極めて狭い範囲の美術鑑賞しかできないので、美術鑑賞は貧困階級の者にとっては、適しない趣味であると思っている。

そもそも美術鑑賞は、経済的余裕と教養のある人たちの趣味なので、基本的に下層階級の人は、ひがみではなく、潜在的に排除されやすい構造を持っているように思う。
現代美術の基本である反芸術や反権力を表現する作品が、今や高い金額で現代作品が売買され作家も画廊と協力しそれを強く期待している。
美術業界は、作家、コレクター、評論家・学芸員・大学関係者・有力画廊等様々な権威が形成され、狭い業界内でそれぞれヒエラルキーを形成しつつ作品を評価し、コレクタやマスコミもそれに従っている。

評価の指標としてオークションもあるが、これも需給関係が非常に限定されているため、投機目的の部有力コレクターやバブルの影響が反映されることが多く、作品の評価としては疑問がある。
だが、こうした構造抜きに(現代を含む)美術は成立しないのであって、他の芸術でも同じことが言える。

ただ、音楽では鑑賞者の数が膨大で美術とは比較にならず、コンサートに行かなくても様々なメディアで鑑賞できるので、評論家その他の音楽専門家の評価に係わらず、CDや各種メディアの売れ行き等で、評価を表示することが出来、美術とは違い、かなり民主的に評価が決定されているように思う。

美術は音楽に比べ鑑賞者が少ないので、本当の評価が定着するには時間の経過が必要である。
現在有力な評論家が評価している作品が、後世評価される保証はないし、歴史的に見てもそうした事例は多くある。

反権力・反芸術を目指した芸術が、様々な権力構造を構築し、その根底に経済協力関係があり、お互いに利用しあっている。
これは、大きな自己矛盾であが、こうした構造無しに現在の美術の世界は成立しない。
即ち、経済基盤=保護者・パトロンなしの芸術は成立しないのだ。
過去においては、宗教や王侯貴族や経済力のある市民がパトロンの役割をし、現在は美術市場と富裕層の一部が、需給関係が極めて小さい特殊な市場経済を通じてその役割をしている。

ところで、哲学的な問題から言えば、何度も指摘しているが、芸術は表現であるがその核となるものは価値観で決まるものであり、価値観そのものは、哲学や論理ではない。(価値観は、人間が作り出した共同幻想?で、風土歴史文化宗教思想や時代=社会により、変化し続けている。)
芸術はその価値観による世界・パラダイムを形成していて、様々な価値観による世界が並立している。
それと同時に、お互い影響しあっているし、同時に全く新しい価値観も創造しているのだ。
例えば、現在の日本文化はアメリカ文化の影響を強く受けているし、過去においては中国文化の圧倒的影響下にあり、価値観も中国的価値観(特に儒教・道教)が大きく影響していて、その影響は現代日本にも引き継がれている。

ある作品を理解するときには、その価値観を知らなければよさは分らない。
即ち、それぞれの世界の約束事や特徴、言い換えれば文法・文脈・単語を知らなければその中身を理解できないのだ。
例えば、ジャズの聴き方で小唄端唄を聴くことはできないし、義太夫節を聴くときには最低限語りの内容を理解できなければ、意味ないだろう。
象徴主義やマニエリズムに関連した作品を観るときには、作品に隠された寓意やシンボルの意味を知ると知らないとでは、作品への理解や感動が全く違ってくる。(古今東西・浮世絵も含む)
現代美術でも同様、特にコンセプチャルアートの場合、作品に込められている意味が理解できなければ作品の良さは分らない。
構造的に、文章が作品の中に含まれる場合もあり、中国絵画や俳画・絵巻物の世界も同様で、書いてある内容を理解できなければ作品を深く味わうことはできない。
無論、見ただけでわかる絵本のような作品もあるが、そうした作品ばかりではないし、そのような作品ですら、その文化に属している人は分っても、違う文化の人にとっては理解できない作品もある。

なまけ癖の話しから、思わぬ方向に脱線したが、改めて美術鑑賞という趣味が、私の生活環境に合っていないことを再認識したが、受け入れてくれる(入場を迷惑に思わない)画廊を中心に美術鑑賞を続けていきたいと思う。
非常に蒸し暑いさなか、昼食を作りながら脱線してこんな話を長々と書くつもりはなかったのだが、お腹もすいたのでとりあえず筆を置いて、食後再開する。


昨日の午後に、上記の文章を書いたが、その後夕食の準備や副食作りに追われて1日が終わった。
その途中の話し、一昨日の夕方からジムに行き筋トレを行い、その後軽く1.5km走った。
帰宅後体を冷やすため、ファストフードに出かけアイスコーヒーを飲みながら読書した。
いつものように、夕食は11時近くになった。



こんな長い文章になったので読む人はさらに少なくなるだろう。読者は40人もいないかもしれない。
ただ、言い訳ではないが、読んでいただいた方は分ると思うが以前からの持論の繰り返しも多いが、それらの内容は、実例と論理展開を交え、どんどん掘り下げられる深い内容のことを書いたつもりであり、今後もこうしたことを続けたいと思う。(自分自身書きながらも考えを深めつつある。)
それぞれの論理展開には、引用はしていないが影響を受けた参考文献がいくつもあり、単なる飲み屋のほら話しではない。


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参考ブログ集 散歩者gooより
(参考ブログは、数週間に1度追加削除しています。数か月以前のものは分野別<芸術 健康 エッセイ 歴史宗教思想 情報機関> に分類しています。)


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