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昨日記180629金(大野浩志展「在り方・現れ方」・評論を書くことを考える会)(追)

2018年07月02日 22時20分10秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
曇時々雨  31.6/22.8℃
この日は、夕方から前日下見に行ったギャラリーあみ・かのこ、でおこなわれた「評論を書くことを考える会」に出かけた。
テーマは、大野 浩志展 「在り方・現れ方」の評論だった。

4人の書いた評論に関し様々な意見が提示された。
私自身芸術や美術や評論について思考を深めているところで、現在なりの考え方はあり、自選ブログ集に、その考え方の断片を掲載している。
そうした考えに基づいて意見を述べたが、短い時間では説明できず、かなり不本意な意見の表明になった。
そうした中、大野氏の製作の実演があり、それをじっくり見れたことは収穫であった。
基本的に、大野氏の作品はコンセプトそのものが大事で、ナイフの使い方や絵の具の指定は二次的なものと考えている。
メインの作品の表面上のマチエールも、制作実演を見て純粋に物理的現象であって、時間的経時変化によるもの、即ち塗るときの絵の具の厚みを人為的にコントロールするには限界があり、本人が非常に薄く塗ったと思っても、具体的に言うと0.01mmと0.02mmでは、人は見分けられない。
例えば、新聞紙ですら1枚と2枚の差はなかなか見分けられないことは、毎日配達される朝刊をめくるときに体感する。
一度重なっている新聞紙を、2枚に分離するとそれ以降は厚みが出て2枚と認識される。
絵の具を誤差が生じないよう溶剤抜きで、生のまま極限まで薄く延ばすというが、薄く伸ばした端面では厚みにかなりのばらつきが出てくる。
週1回、決められた時間内に塗るというが、1年間で52回塗ることになり、10年間では520回塗ることになる。
そうすると、例えば塗った絵の具の厚みが0.01mmとしても、10年塗ればその厚みは5mmに達する。
大野氏は、1週間の間隔というのは絵の具が乾燥する時間という。
その絵の具が乾燥して、厚みが半分になっても厚みは、10年間では2.5mmにもなる。
当然、0.01m以下の絵の具の塗った厚みは、人間感覚ではとらえきれない領域であり、誤差は2倍といったものでなく、はるかに大きいと私は想定している。(実測すればわかる。)
そうすると、メインの作品に表出される波打った荒々しいマチエール(表面のテクスチャー、状態)は当然のことであって、特筆すべきことではないのである。
現実に、周囲(端面)は、まるで額縁の様にかなり絵の具が盛り上がっている。

メインの作品は、大野氏の決めた方法で長期間作業を重ねたものが作品であって、コンセプチャルアートとして立派に成立していて、それ以上でもそれ以下でもない。
絵の具、支持体、背面の焼き、周囲の木枠、そうした物にそれぞれ固有の物語があるだろう。
そうした手法は現代美術でよく使用され、デュシャンの作品を含めコンセプチャルアートや、現代美術の特徴でもある。
タイトルの「在り・方現れ方」に、引きずられ観念論・存在論・現象学的思考に影響され、人生も含めた感情移入論的生死観や共感意識や文学的評価が際立った。
私はそうした評価に疑問を感じている。
確かに、大野氏の日頃の言説に、生死観、宇宙観、永遠といった観念を窺わせるものがある。
この作品のコンセプトの根底にはそうした大野氏自身の思考の方向性がうかがえることは同意する。

それでも、この作品の基本は時間を作品にしたコンセプチャル的ミニマルアートと受け止め、それに加え絵の具、支持体、背面の焼き、周囲の木枠、そうした物にそれぞれ固有の物語が加わったもので、時間を軸にしたコンセプチャル的ミニマルアートに各要素(支持体、マチエール・波打つテクスチャー、焼き・・・)の意味性(物語)が加わったものと解釈したい。
こうした手法は現代アートではよく使われる手法で、一時注目されたアースワークも、そうした素材を含めた物語抜きには考えられない。
現代アートに、コンセプトは不可欠で、テキストが鑑賞に重要な働きをすることが多い。
例えば、デュシャンの「泉」の、レディーメードの概念や、その他多くの作品に隠された物語は、テキストなしには、理解できない。
だが、現在では、多くの現代美術は、ほとんどの場合その見方・概念(コンセプト)の基本は暗黙の了解として了解されている物として、テキストはつけられないことが多い。
その為鑑賞者は、作品の評論や解説を通じて作者のコンセプトを理解する場合が多い。

芸術は、一つの思想や手法で片づけられるものではなく、過去の遺産・文化や美意識や技法その他あらゆるものを継承した上に成立している。
例えば思想で構造主義・記号論というものが提唱されたからと言って、それですべて解釈できるものではないと考えている。
例えばシュールレアリズム的考えで制作されたものは、そのパラダイム(この場合シュールレアリズムの考え方や体系として)で鑑賞・評論評価すべきと思っているが、通常その中にも過去の価値観や技法や美意識も含まれている。

即ち、一つの作品には様々な過去の美意識や技法や思想・宗教が混じっているが、作品の基本構成や考えや技法は、そのコンセプト(考え方・概念)やパラダイム(コンセプトに基づく表現・技法その他すべての関連体系)に沿って制作されている。
そういう意味で、前衛芸術・アバンギャルドは、新しいコンセプトやパラダイムを創造していると言える。(音楽でいえば、ビートルズの音楽は、当時どこにも同じ傾向の物はなく、多くの評論家が雑音や騒音と言っていたが、今では音楽の教科書に載っている。 美術の印象派も同じ。)
逆に言うと、主に既存のコンセプトやパラダイムで制作された作品(ほとんどの作品)は、前衛とは言えない。

従って、本当の前衛作品を評価・鑑賞することは非常に難しい。(評価基準がない。それまでに該当するコンセプトやパラダイムがない。)
ところが、既に成立しているコンセプトを含むパラダイムがある場合(ほとんどすべての作品がこれに該当する)評価すべき作品がどれのコンセプトに該当するか見分けて、その基準に従い評価すればよい。
だが、該当するコンセプトを見誤ると、例えばシュールレアリズムで制作されたものを、ミニマルアートの見方や南画の見方では評価・評論・鑑賞できない。
同様に、社会派のコンセプチャルアートを観るときにはその作家の思想や社会的背景を知らなければ理解できない。

一つの作品には、様々な過去の手法やマニュエリズムや象徴主義的なものや様々なレベルでの関係性・意味性も含まれているし、技法や素材や材質や支持体もその中の表現に大きな意味を持っている。
そういう意味で、特に現代美術を観るときには、知性と感性を総動員する必要があることが多く、それが現代美術の魅力の一つでもある。(時に、作品の置かれた場や環境や時に対する関係性を重視することもある。)
一方で、多くの現代美術には、見たままという作品や、ダジャレや遊びや皮肉った作品や、様々な過去の製作技法やデザイン性を楽しんでいる作品も多く存在する。(こうした作品の方が多い。)
時には観客をバカにしている作品もある。(「泉」)
何の意味のないものを高い金を出して買うことを承知であざ笑って、コピー作品に軽く手を入れている作品もあるが、作者の思惑通り、それが高額で取引されている。(ウォーホールのコピー作品等)
現代美術を観るときには、できる限り多くの引き出しを用意して、知性と感性を総動員してコンセプトやパラダイムを見極め、それに応じた見方で作品を鑑賞することで、楽しむことが出来る。


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