散歩者goo 

タイトルのgooは、同名のHPやブログと区別の為付けてます。HPの「散歩者」はこのブログ筆者の私とは全く無関係です。

昨日記160227土(副食 会計)

2016年02月29日 23時34分52秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
晴/曇・雨  最高/最低℃ =13.9  2.2
この日は、奈良に出かけようと考えていたが、夜に雨の予報が出ていたのと、副食が無くなりどうしても当日のうちに翌日の分を製造する必要があるのと、3月にジムや銭湯の定期券や回数券の出費があり、それ以外にも出費が予想されるので、極力郊外への移動や不要の出費は抑制しなければならないので、奈良行はあきらめた。
最近食料品があがったままで、年金は減額する方向なので、出費を抑制しなければ生活できない状況だ。
使うときは悔いを残さず効率的に使い、出費を抑制するときはきっぱり止めるといった、メリハリの効いた賢い出費を心がけよう。

夜になって会計面を数か月放置したので、金銭上の現状がわからない。
預金通帳で見る限りコントロールできているので、問題ないと思うが、やはり、金銭に関してはリアルタイムの把握が必要と思っている。
リアルタイムに金銭の流れを補足するため会計墓を復活させようとしたが、今年の1月から始めようとした。
しかし会計ソフトが前年度からの継続処理をし、年度末決算しないとないと次に進めない。
仕方なく新しい使用者を作り会計ソフトを使用し始めた。
しかし、科目を前年度の通りにしようとすると、大量の独自の科目を追加しなければならないことが分かった。
実際には、科目ではなく補助科目なのだが一目見て、使用状況が把握できるように、あえて科目にした。この日は、食事関係の家事や会計処理で一日を終えたが、翌日の副食3食を作るため、昼からの残った作業をし寝たのは1時前だった。
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昨日記160226金(やけどの痕とジム 西天満・三輪山遠足 説明の大失敗)

2016年02月28日 14時35分13秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
晴  最高/最低℃ =9.6  1.6
26日も良く冷え込んだ。
この日は、昼にジムに行く。
やはり思ったほど空いていなかった。
最近ジムを利用する人が増えてきたようだ。

この日は、前回の運動が2月17日で10日近く空いていたし、前回の運動そのものが、それ以前も間が空いていて体を慣らし運転的に運動したので、今回は筋力持久力とも大幅に低下しているものと予想した。
ランニングも筋トレも7割程度の回数や時間で行った。
ただ、足のやけどだけが心配だった.

ランニング中は、極軽い痛みを感じていて、まだ完治していないことを知った。
トレーニング終了後、シャワーを浴びる前に靴下を脱ぎ、びっしりと張り付けたバンドエイドをはがすと、足の指の腱に沿って赤黒い線が浮き上がり約10cmx6cm程度の範囲の皮膚が少し赤紫に変色していた。
予想以上に23日のやけの状態がひどかったことを知り、来週の火曜日までランニングはやめようと思った。
やけどをした時に、とっさに靴下を脱ぎ、即刻40分近い水冷をしていなかったら、かなりひどい状態になっていたかもしれないと思いぞっとした。
これには、真冬並みの冷たい水ということも幸いしたかもしれない。

ジムでは、2月16日から2種類のタイプが各2台の合計4台の新型ランニングマシンに入れ替えていたが、この日は今まで使用していなかったタイプの機械で走った。
その時時速9kmまで設定を上げて慣らし運転的に軽く走って終わろうとしていたのだが、30秒程走って表示板を見ると時速10kmになっていた。
設定の仕方で、ストップを押さないと自動的にある程度まで設定が上がるようになっているらしい。
時速9kmと信じて走っていたので軽く走っているつもりだったが、時速10kmのランニングは極短時間ではあるが結構余裕で走れるようになったと思った。
結果的には時速6kmから時速10.5kmまでの間でスピードを変えながら21分間走り約3、5km余り走った。

帰宅後、遅い昼食をとった後、西天満に出かけた。
予報では翌日の夕方から本格的な雨が降るとのことだった。
西天満のギャラリーはいくつか休んでいた。
最後にwksに行ったとき、オーナーの片山氏と顔を合わせたのでFBにあった大人の遠足で、三輪山参拝の事で聞いた。

山の辺の道は何度も歩いていたし、三輪山登山口も確かめていたが、お金がいるのと参拝時間があり、まだ一度も上ったことがなかった。
三輪山は、ご神体でもあるし、私はどの宗教も本格的な信仰はしていないが、それぞれそれなりの知識や理解は多少ある。
私の現在の宗教に対する立ち位置ははっきりしていて、文化人類学的意味でもそれぞれの信仰はたとえアフリカやエスキモーやポリネシアのアミニズムであっても、その価値に優劣はなく、ヒンズーやチベット仏教やイスラムや神道や仏教やキリスト教と同じであって、それぞれの価値を尊重したいと思っている。
いつの日かいずれかの信仰を持つかもしれないが、それでもこの考えは変わらないだろう。

それに三輪山周辺の唐古遺跡・纏向遺跡や最古の巨大前方後円墳箸墓や大和古墳群は古代史・考古学の宝庫でもあり、弥生時代から古墳時代への接点の場でもある邪馬台国の舞台でもある。
邪馬台国の誕生は、当時の国際情勢にも深くかかわっていたかもしれないのだ。
また、この地域は大和王権の発生の場であり、神話の国譲りにも関係する。
また、最古の神社の一つといわれ、三輪山がご神体の大神神社(おおみわじんじゃ)の祭神大物主大神は、出雲大社の大国主神と同じである。(岩波新書の「出雲と大和」村井 康彦著)

そうした様々な意味からも、三輪山の頂上から、纏向遺跡や大和古墳群を眺めてみたいと思った。
こんなことを思いながら、片山氏の呼びかけた大人の遠足に参加することにした。

このときギャラリーwksで大学生の写真のグループ展が行われていた。
芸術系の大学ではなく一般の大学の趣味のサークルなので芸術的な議論をするつもりはなかったが、万葉集の歌を題材にした写真があったので、そのことで学生さんと話した。
その時万葉集の有名な歌だったのだが、天皇名は間違えなかったが、天智天皇(中大兄皇子)、天武天皇(大海人皇子)、弘文天皇(大友皇子)の皇子の名前を取り違えて説明した。
昨日、大化の改新=乙巳の変の事を書いていて誤りに気付いたが、恥ずかしい限りである。

寝る前に白熱教室でバッハの話を聞いたが、内容は目新しいものはなかったが、実際のシャコンヌ他の演奏を聞けて、非常によかった。
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昨日記160225木(同窓会関連と高校の思い出 乙巳の変と前期難波の宮)

2016年02月27日 15時20分31秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
晴  最高/最低℃ =9.0  1.8
25日は良く冷え込んだ。
この日は同窓会の事務的なことが気になり、FBを使ったグループを利用できないか考えた。

同窓会の時にFBの話をしたことがあったが、1名していただけで前回の同窓会で聞くと、お友達申請をすべて承認していると、怪しいお友達が増えたのでやめたといっていた。
結局同窓生で、誰もFBをしていないのだ。
少なくとも、卒業した工業高校では電子計算機の授業もやっていたので、当然PCは使い慣れていてSNSはしているものと思っていた。
ほとんどの同窓生は、会社ではPCを使いこなしたり、そうした関係の管理職・責任者をしたりしている者もいたが、プライベートではほぼ全員SNSは全く使っていなかった。

参考までに学生時代当時の状況を述べると、当時母校(母校は、消滅し複合型の職業高校に再編された。)は先端技術のモデル校だった。
そのころ、PCはなく最先端の技術でも業務用の交換機用リレーを使用したったコンピューター<リレーをトランジスタ化したものが最先端であった。>で機械語を使っていた。メモリもパラメトロンといった記憶素子が最新技術で、まさに電子計算機の草創期であった。普段、技術者の計算はみんな計算尺を使っていた。電子計算機の実習はリレー式計算機を使用したもので行われていた。
同時に、そのころカラーTVは最先端の技術であり、解説書すらほとんどなかった。そうした電子回路も学んだが、10―20年後にはICが普及し個別の電子パーツ(抵抗、コンデンサ、トランジスタ)を多数使ったプリント板は姿を消した。
工業高校卒業後5年以上たった時に発売された、シャープの電卓は衝撃だった。
それ以前はモーター式の機械式計算機であった。(歯車とカムを使用)
その後電卓の関数計算機が発売され、私も普及して値段が下がったときに購入した。
当時母校に勤務していた、下村先生は半導体物性を教えられたが、大学を含め適当な教科書がなく、電子物性の基礎と応用の本を卒業後出版されたが、我々はその本のゲラ刷りで学んだが、そこには当時最先端の理論や技術がわかりやすく掲載されていた。
ノーベル賞を受賞した江崎氏のエサキダイオードの理論もその時学んだ。
その本は最近まで工業高校や高専の教科書として使われていたようだ。

話しが思い出話にそれたが、FBで同窓会のグループを作ろうにも、クラスメートがFBに参加していないので、グループ化できないので、後日クラスメートに働きかけてクループを作ろうと思う。

そのついでに、アメリカ在住のクラスメートの住所があったので調べてみた。
噂では、世界企業の役員クラスまで行ったというが、ちょっと信じられない。
まず、FBで検索したがヒットしなかった。
グーグルで検索すると、ヒットした。
いくつもの、関連記事がある。
紳士録のようなサイトがあったので検索すると、電話番号を含む詳細な情報が出てきた。
西海岸のロスやサンディエゴに自宅がありそうだ。
それ以上調べても意味がないのでやめておいた。

夕方から、予約していた『大化改新と難波長柄豊碕宮(大阪大学21世紀懐徳堂i-spot講座)』に出かけた。http://21c-kaitokudo.osaka-u.ac.jp/events/2016/ispot0225
講師は、市 大樹(大阪大学大学院文学研究科 准教授)

会場の懐徳堂は、緒方洪庵の適塾にあるものと思っていたが、ネット情報を見るとどうも違うようなので、改めて正確な位置を調べた。
そこは、地下鉄淀屋橋の10番出口を出たところの淀屋橋odona 2階らしいということが分かった。
始めていく場所だ。

何とか時間通りに間に合った。
会場は満員で、参加者のほとんどは中高年の男性であった。
難波の宮に関しては、『古代を偲ぶ会』という会で、顧問の長山雅一先生(当時大阪市教育委員会 後流通科学大学教授)から何度も難波の宮やその関連の話しについての講義を受けていた。
当時会の役員をしていたこともあって、先生とも会の帰りに有志と一緒に直接話をお伺いしたことも多かった。

そんなわけで、最新の難波の宮と、大化の改新=乙巳の変 の話を聞きたかった。
多くの話は、以前聞いたり文献を読んだりして知っていた話も多かったが、まったく新しいみかたや考え方もたくさん学ぶことができた。
文献の解釈から、前期難波の宮がいつ建てられたかということと、乙巳の変も実態についていろいろ学者の間で意見が分かれているようだ。

乙巳の変(645年)の国際的背景や、孝徳天皇の果たした役割の評価とか、前期難波の宮の造営順序から見えてくる孝徳政権の性格や大蔵省と思われる官衙(かんが)の構造・構成から推察されるその機能(蔵を持ち本格的に大蔵省の機能を果たしていたらしい・・初めから計画的に造成)や、宮の構造と書紀に書かれた記述の場所との行事の時間的経過といった一連の関連したことから判断すると、孝徳天皇は、乙巳の変を主導し、理想に適合した本格的宮を造営したと市教授は解釈しているようだ。
(例えば、天皇の住居は仮宮にして、まず国家の中心機能を担う建物から造営していったようだ。)
しかしその改革が急進過ぎて、皇族や豪族がついてこられず、難波の宮に孝徳天皇を残したまま飛鳥に戻ったのではないかという解釈をしている。(652年)
短い時間でレジュメの大量の文献資料が提示され、話しについていくのが必至だったが、唐の勃興により国際情勢が大きく変化していく過程で、危機に対応した孝徳天皇の意思が見えてくるように思えた。

その後、白村江の戦い(663年)に破れ、更に倭国は危機感を持ち、北九州から瀬戸内海一帯に巨大な朝鮮式山城を築き、都を飛鳥から近江へ遷都(667年)し、その後天智天皇(中大兄皇子)没後(671年)に大友皇子(弘文天皇)と大海人皇子の間で皇位継承をめぐり、古代史上最大といわれる壬申の乱(672年)が発生し、天武(大海人皇子)政権ができる。
この講座を聞いて、改めてこの時期が大きく国際情勢に絡んでいたことや、本当に国家存亡の危機感を持って倭王権が対応したことがわかる。

天武天皇は、専制政治を敷いたといわれ、天皇の称号は天武朝に時代に成立したといわれている。
天武天皇(686年没)の意向を引き継いだ持統天皇の時代、701年の大宝律令制定により倭国(ヤマト政権)から日本へと国号を変え、中央集権国家の形を整えたようだ。

講座終了後は、ビル内の本屋でしばらく雑誌類を見た後、帰宅した。
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昨日記160224水()

2016年02月27日 11時48分14秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
曇・晴  最高/最低℃ =9.0  2.9
24日はほぼ終日、15食前後の冷凍ご飯の製造や、副食の製造に係わった。
夕方にレンタルサーバーの料金振込と、半年ほど記帳していない通帳記入を兼ねて銀行に行き、帰りにいつもの店で読書して帰った。
足のやけどは、靴を履くので心配したが、意識しなければ痛みは、ほとんどなかった。
足の甲に張ったバンドエイドは当分交換せずに置くことにした。
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昨日記160223火(やけど 食材購入)

2016年02月26日 00時15分12秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
曇  最高/最低℃ =9.8  6.2
23日は、翌日の副食が無くなるので、午後からそのための食材の買い出しと、とりあえず翌日の3食の副食作りに追われた。
しかし、そのさなかの昼に昼食を終えてコーヒーを作ろうとして、沸騰した後のケトルを倒し足の甲にやけどを負ったのだ。

私は毎食後、コーヒーを楽しんでいる。
以前は、自分でドリップにコーヒーの粉を入れ楽しんでいたが、お金もかかるし手間なので、最近はもっぱらインスタントコーヒーである。
食事はいつも畳の居間で、TVを見ながら胡坐をかいて食事する。
冬は、畳の上にはアルミ箔付きのウレタンの断熱シートを数枚重ねてその上に座っている。
コーヒーカップを温めたりコーヒーを飲むときは、脇に置いた電気ケトルでお湯を沸騰させ、前に置いたコーヒーカップに必要な時だけ熱湯を注いでから、ケトルは元の脇の安全な定位置に戻している。
電気ケトルには、コードがついていて、いつコードをひっかけたりして倒すかわからないので、気を付けているし、横のやぐら炬燵の座卓にも、間違ってテーブルから落とす可能性があるので、ケトルは安全なコードをひっかけない畳の上に置くようにしている。

ところがこの日、なんとなく、TVを見ながらケトルを自分の前から50cmぐらいのところに置いた。
そして、少し新聞を見ながら座卓の上に置いていたコーヒーカップを畳に置こうとしたとき、ケトルを倒した。
一瞬何が起きたかわからなかったが、畳の上の断熱シートにお湯がたまりケトルが倒れているのを見て、とりあえずケトルを座卓の上に置いて、読んでいた新聞紙を横に置いた。
胡坐をかいたまま、その瞬間、何でこの大量のお湯を吸い取ろうか考えた。
ティッシュでは間に合わないし、キッチンペーパーでも無理だし、雑巾だと考えている瞬間にもお湯が広がり、足元に来るのが見えた。
断熱シートを流れるお湯は沸騰させた後電源を切って数分後なので、湯の温度は90℃ぐらいで、更に外気に触れ薄く広がりながら流れてきたので、温度はかなり下がっていると思い込んだ。
そのお湯が、胡坐をかいた足の甲に触れた。
靴下を履いているので、熱湯は靴下に瞬時に広がった。
予想したよりはるかに熱かった。
その時、丁度柱に寄りかかっていたので、すぐに動けなかった。
それでも、すぐに立ち上がり靴下を脱いだが、濡れていて脱ぐのに手間取った。
靴下を脱げば、皮膚に付着したお湯が蒸発しやけどにならずに済むと思ったが、即ヒリヒリし始めた。
水ぶくれはなく、まだ炎症も起こしていなかったが、かなり痛かった。

これは、放置すると大変なことになりそうだと直感し急いで炊事場のシンクに、やけどした足の甲を置き、勢いよく水道水をかけた。
その後、足に洗った雑巾を足の甲に載せ、その上からちょろちょろと水を40分以上流した。
とにかく、耐えなければと思いつつ冷蔵庫にもたれながら、片足を大きく上げたまま同じ姿勢を4-50分保った。

水冷して、足がわずかに赤くなる程度で済んだが、痛みは治まらずかなり強かった。
とりあえず、やけどの傷はないが感染予防のため、メンタームやオロナインを塗った。
しかし、ヒリヒリとした強い痛みは続くので、不安になり様子を見て、水ぶくれが出来れば医者にかかろうと思った。
医者にかかると費用が掛かるので、最悪の場合のみと決めている。

ヒリヒリとした痛みは時間がたっても続くし、靴下をはくにも痛みを感じるので、皮膚を保護するためバンドエイドを6枚使いやけどの箇所を覆い、その上から靴下をはいた。

夕方からジムに行く予定だったが、多分3―4日以上はこのやけどのためジム通いは無理だろう。
そのため、この日は終日家に籠るつもりでいた。
しかし翌日からの副食はなく、どうしても副食11食分の食材を買い出しに行かねばならなかった。
外出にあたり、靴が履けるか心配したが、痛かったが靴は履けた。
靴を履くと足が安定するのか、痛みは薄らいだ。
その後、銀行やスーパーを回り食材を仕入れた。
帰宅後、痛みが和らいだし、夕食には時間があったので、いつもの店に読書を兼ねてコーヒーを飲みに行った。

読書していても、軽い痛みを感じた。
小さなやけどは何度も経験しているが、ヒリヒリした痛みは気になるし、今回は6cm四方ぐらいで範囲も広いが、傷でいえば擦り傷程度の軽傷でよかったと思う。
その意味では、もし重症のやけどの場合を考えるとぞっとする。

帰宅後夕食をはさんで、深夜までとりあえず翌日分の3食の副食を製造した。
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昨日記16022月(メジロ)

2016年02月24日 13時26分06秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
曇・晴  最高/最低℃ =8.8  3.1
22日は午前中縁側に置いたメジロの餌台の新聞広告を取り替えてやった。
メジロは、雨の日も風の日も、日に何度も来る。
トイレに行くときは、縁側を通らねばならぅ、メジロがミカンやバナナを食べている時は、トイレを遠慮したりしている。
ミカンやバナナも、メジロが来るようになってか、餌が無くなれば買うようになり、欲しくなくてもわざわざ買っているので多少出費が増えた。
しかも、よく食べる。
5cm程に切ったバナナは2日で食べつくす。
来るときは2羽で来ることが多いが、力の強い方がミカンを優先的に食べ、弱い方がバナナを食べているが、時折力の強い方が、バナナを食べるときもある。
その時、もう1羽がミカンを食べると追い返す。
金柑の枝に止まっている時は、体をピッタリくっつけているのだが、メジロには余り思いやりはないようだ。

この日はブログを書いた以外、特に記載することもなかった。
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昨日記160221日(みんぱくで、「宗教の原始をさぐる」の話を聞く 古代日本)

2016年02月23日 21時58分29秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
晴 ・ 曇   最高/最低℃ =11.8  4.9
21日は、午後から『みんぱくウィークエンド・サロン――研究者と話そう』<宗教の始原をさぐる―南部アフリカ聖霊教会の現在(いま)>話者 吉田憲司(国立民族学博物館教授)に参加した。

始め、SNSで案内のあった京都芸術大学(以後京芸)で行われる歌劇カルメンを見に行こうと思い、大学までのルートを調べた。
京芸には、一度も行ったことがない。
バスを、乗り換えていく必要がありそうだし、大学に行ってからも迷いそうなので、やめた。
そこで、同じくSNSの案内にあった『みんぱく』のウイークエンドサロンに行くことにした。

開始時間は2時半なので、所要時間を調べるたが、モノレール万博公園駅から国立民族学博物館まで歩いて約15分かかり、家からみんぱくまで、最短でも1時間半はかかりそうである。
大急ぎでフルバージョンの昼食を作り(簡易版は缶詰とご飯+α フルバージョンは、副食<温野菜=食材13種類>+納豆+ごはん)大急ぎで食べた。

家を出るときには、ウイークエンドサロンの開始時間に間に合うかどうかという時間に家を出た。
しかし地下鉄やモノレールがら乗り換えも含め、プラットホームに着くと発車したところという場合がすべて重なり、遅刻は決定的となった。
結局5分余り遅れてウイークエンドサロンに参加できた。
会場は満員で、補助いすを用意してもらった。

私は、考古学的視点から日本文化の基層に興味を持っていて、その一つに日本の宗教=神道の始まりにも関心を持っている。
それは霊魂観とか祭りとか習俗・風習や伝説や神話にも関連することでもある。
日本文化は、縄文、弥生、古墳、飛鳥・白鳳、奈良、平安、鎌倉、室町、安土桃山、江戸、明治、大正、昭和と、それぞれの時代に海外からの大きな影響を受け、時に鎖国状態であったりし各時代で文化が大きく変化した。
ところが縄文文化が日本文化の基底にあるという人も多いが、どれだけ後世に影響しているのか分かっていない。
縄文時代は長く、その間温暖なときから小氷期まである。
人口密度も、激減した時もある。
しかも地域により植生も文化も違う。
しかし地域間で交流があったこともわかっている。
縄文時代と弥生時代の境目も議論されている。
まず、いつから弥生時代が始まったのか。
稲作文化は、生活スタイルをすべて変えてしまった。
稲を作るには、労働集約型でなければできないのだ。
即ち、灌漑、田圃づくり、各種農作業、米の保管、
そのためには、工業生産のように、役割分担が必要となり、皆をまとめ指示を出すリーダーも必要となる。
灌漑や田圃づくりや農作業といった土木作業や農作業には知識や経験も重要になり、同時に水争い等他の集団との紛争も発生するし、集団内での富や権力の格差が発生する。
縄文時代は極端に言えば各集団は狩猟採集で一部栽培作物があった可能性もあるが、集団としては格差は少なく緩やかな社会の縛りで行けたが、弥生時代になると米作のため食糧事情がよくなり人口は増加し社会的縛りは今の村社会と同じになるのではないかと想像している。

最新の研究では、弥生時代には、地域間の文化の違いは大きくあり、地域によっては縄文文化が続いていたところもあるようだ。
特に東北、北海道は遅くまで縄文文化が続き、北海道は続縄文文化となる。
弥生時代・文化は、米作がその中心にあるが、地方により、その地方に合った生業を選んだようだ。
関東東北では、落葉広葉樹の森が豊かで、栗・ドングリやクルミ等の作物が多く狩猟も盛んなため縄文文化を残した可能性も考えられるという説もある。(西日本には照葉樹林が発達し、食料となる栗や椎や楢といった堅果類<栗 ドングリ 椎の実・・>のとれる落葉広葉樹が少ない。)
事実、東北でも一部米作は行われたが、結局弥生文化にはならなかったが、西日本は弥生文化になった。
弥生文化の受け入れは、米作中心の社会構造に変革することで、社会の体系も大きく変化する。

日本文化と米は切り離せないし、祭り・宗教の中にも米が深く入っていて、天皇家の最も重要な祭事である新嘗祭も米に関連する祭事である。
弥生時代は北九州(唐津市<末盧国>、糸島市<伊都国>から福岡市<奴国>魏志倭人伝記載の各国は弥生時代後期から晩期に成立?)から始まるというのは遺跡からも明らかである。(宇木汲田遺跡、菜畑遺跡 板付遺跡・・・)
日本で本格的に稲作が始まったのは北九州で、始めに韓半島からの渡来人が稲作文化をもたらしたのだ。
その後も渡来人も来るが、縄文人との混血も進み、また縄文人が稲作文化を受け入れたようで、一部地域には集落間の戦いはあったようだが、渡来人による征服戦争ということは、なかったようである。
ただ、弥生末期には、中国の史書にも書かれているように倭国の大乱があり防御戦闘用の高地性集落も全国に出来、その後突如前方後円墳が発生し古墳時代に入る。

弥生時代の終わりには、銅鐸や銅矛銅剣といった弥生時代の祭祀道具といったものが、一斉に埋納され姿を消す。
近年埋納されたそうした遺物が各地で大量に出土して、話題になっている。(荒神谷 淡路島・・)
この時期に、一大宗教改革が起きたと言われている。
同時に北九州の国々では、大陸との交流が盛んとなり、王墓も作られるようになる。(平原遺跡・・・)
弥生時代の終末と古墳時代の始まりが、邪馬台国・卑弥呼の時代である。(邪馬台国のヤマタイはヤマトの事であるという説もある。)
その後、大和の唐古遺跡の隣の纏向(三輪山の麓)に纏向遺跡が出現し、纏向型前方後円墳が出現し、その後最初の巨大前方後円墳である箸墓が出現する。(箸墓を卑弥呼の墓と考える人も多い)

多分日本の神道の源流は、祭事や記紀の神話に米絡みのことが多い(例:瑞穂の国)ことを考えると、弥生時代にあるのではないかと想像している。
神社建築の棟持ち柱の系譜は(弥生から)古墳時代の前方後円墳の埋葬施設の祭祀にあるという学説もある。
ただ、弥生時代や縄文時代の霊魂観というのは、諸説あるがまだ定説がないし、同じかどうかもわからない。
ただ先に述べたように、弥生時代の祭祀に稲作文化が反映されているのではないかという意見は多い。弥生の祭祀が稲作を中心とした祭祀であるなら、縄文時代には稲作文化はないので、縄文の祭祀は弥生時代の祭祀とは異なることになる。

以上のようなことを原始宗教の一端として関心を持ってウイークエンドサロンに臨んだのだが、今回の宗教の原始はキリスト教関連の話で、アミニズムや霊魂観とか宗教祭祀の原始的形態といったものではなかった。
だが、私は以前から原始キリスト教集団や死海文書に少し関心を持っていたので、今回の話は原始キリスト教の構造と似た面があって興味深い話だった。
話しの概要をすべて述べることはできないが、印象に残った事柄の一部やキーワードを書いておく。(私の聞き間違いや勘違いもあるので、引用はお断りします。直接先生の論文等の著作物より引用してください。)
南部アフリカ(ザンビア モザンビーク)で、キリスト教徒が急増した。
1985年のキリスト教徒は25%であったが現在は90%以上と考えられている。
広まった理由
戦乱による社会不安  政府の失策による国家的貧困  エイズの蔓延
その結果、伝統的な親族社会による相互扶助組織が崩壊した。
1988年から1993年まで南部アフリカ(モザンビーク等)は危機の時代であった。
その時、キリスト教会は相互扶助の役割を果たし、崩壊した親族社会の相互扶助の補完的役割を果たしたと思われる。

病と憑霊
古くからの南アフリカの信仰と南部アフリカで成立したキリスト教会の構造が似ている。
精霊―――祖霊
精霊の力による治療  精霊に憑依された人びと 
  教会における職能
    占いと病気の治療の能力  説教者、司祭  邪術師の発見  警備  聖歌隊

治療の実際
牧師と信者=医師と患者=師匠と弟子 
(ここでいう医師は近代的医学でなく、多分呪術による治療。)
異言の伝統  伝統社会では霊媒師・呪術者が治療するが、教会でも憑依者による治療が中心。
ズイオン精霊教会  
霊媒の系譜  始祖ゼルバベリ・ダカ1908年精霊を受け 1910年治療開始 
        1914年『ズイオン精霊教会』設立
南部アフリカのシオニスト教会 
  ジンバブウェの精霊教会
  南アフリカの『シオンのキリスト教カトリック使徒教会』1886年シカゴで成立
異言に使用された言語の背景(様々な南部のアフリカ言語が含まれている。)
  ンゴニ(ズールー族?)の戦士集団(男のみの集団)が南アフリカのスワジランドあたりからタンザニアのヴィクトリア湖近くまで移動し、各地で女性を娶り妻子はその場に置いたまま、戦士たちは新しい土地へ移動を続けた。(1835年ンゴニの集団がザンベジ川のズンボを渡る)<ズンボ= モザンビーク、ザンビア、ジンバブエの国境>
彼らはザンビアに定着したが、元の言語を忘れた。
霊媒の始祖ゼルバベリ・ダカの両親はニゴニ集団と関係していた可能性がある。
(その場合、両親から様々な言語が入り混じった言葉を聞いていた可能性があり、その影響で憑依の時に口走った可能性がある。・・・・ということも想像できる。この話からの私的憶測)

みんぱくの帰り、万博公園の梅林の梅は満開だった。
帰宅後は、副食作りに追われた。


散歩者gooのトップページへ、 http://blog.goo.ne.jp/sksoo
参考ブログ集 散歩者gooより


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昨日記160220土(有償ボランティア 録画番組再生不能)

2016年02月22日 18時45分30秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
雨   最高/最低℃ =10.0  8.2
20日は、前日下見に行った障がい者サポートの実践の日であった。
以前から何度もここで書いている有償ボランティアの仕事である。
有償ボランティアはアルバイトではなく、ボランティアなので謝礼は最低賃金よりかなり低い。
そもそも労働を売るという『賃金』ではないのだ。
依頼はたまにしか来ない。
私も1か月何も依頼の仕事が来ないときもあれば、1か月に数回来た時もある。
その仕事も1回30分の時もあれば、数時間の時もある。
仕事によると、30分の仕事より前後の打ち合わせや報告の方が長いこともあり得る。
有償ボランティアなので、仕事以外の打ち合わせ報告時間は無償である。(アルバイトや企業活動の場合、すべて含まれなければならない。 ブラック企業はこれを省略する)
当然のことながら、おやつ等を購入する小遣い銭程度の報酬となり、このタイプの有償ボランティアでは、月収1万円台ということは、よほど依頼がない限りないだろう。

登録された依頼者さんが何か困りごとがあった時だけに、社会福祉協議会が運営する事務局が人選をし、協力者の都合があえば、支援サービスに向かうのである。
だから支援者の方でも、自分がサポートできる仕事を登録しているので、サポートする仕事の種類が合わなければその支援者に依頼は行かないようだ。
そういうことなので、もし私がPCの事がわからなければ、PC関連の支援依頼は来ないだろう。
幸い私は、PCを使っているので、ワードやエクセルといったPCの日常操作やネットの便利な使い方や、情報検索のコツといったものは指導できる。
実際、動きが非常に重くなったPCのいくつかの問題を解決し、PWの設定やメールやファイル等の整理の仕方も指導しPCの使い方を練習してもらい、実際に日常で使えるようにトレーニングしたことがある。

有償ボランティアの仕組みや具体例を述べたが、この日私が利用者さんに行ったサービスについては、守秘義務があるので、ここでやめておく。
(医療、看護、介護には守秘義務があるしボランティアであっても、類似行為は倫理的に、プライバシーを守る必要がある。もしそうした守秘義務が守られなければ、ボランティア活動は成立しない。即ち誰も依頼しなくなる)

この日の夜TVから録画したビデオを見ようとして、録画再生機能が全く機能しなくなった
スマートビジョンが正常に動作していない。(NECのソフトは最新状態確認済み)
以前起きたのと同じ現象だ。
ハードデスクには、録画ファイルが残っているので、多分フォルダー名とかファイル名や保存場所との関係があるようだ。
修復には時間がかかりそうだ。
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昨日記160219金(購読料郵便振替 障がい者サポート下見 図書借り出し)

2016年02月22日 17時02分40秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
晴後曇  最高/最低℃ =14.5  3.8
19日は、3時過ぎに、岩波書店にネットで申し込んで送られてきた雑誌『図書』の年間購読料1000円を振り込みに行った。
郵便振替に指定したので、必要事項を振替用紙に記載して郵便局に行ったが、3時を過ぎていたので振替手続きはできなかった。
あきらめて帰ろうとしながら、振替用紙の裏を読んでいると郵便局のATMで手続きできますとあった。
まさかと思い郵便局に引き返し、ATMの指示通り行うと簡単に振替手続きが完了した。
しかも、郵便振替だと振込手数料もかからない。
これは便利だと思った。

それにしても、質の高いエッセイがたくさん掲載されている『図書』は、毎月送られてくるが、宣伝雑誌とはいえ、送料込みで年間1000円とは安いと思った。
この雑誌は10年以上前まで、かなりの期間購読していたが、様々な分野のトップレベルの人が執筆者なので、内容が濃くて面白いのだ。

その後、翌日から副食が切れるので、そのための食材の買い出しに3軒のスーパーを回った。
買い出しを終えて帰宅すると、5時半ごろになっているので、買い物をした荷物を置いてリュックをもって再び自転車で表に飛び出した。

翌日、午後から障碍者のサポートの仕事があって、その下見をしておかねばと考えたのだ。
利用者さんの家の近くから、実際に想定されるコースを歩いた。
私は、普段地下鉄を利用するのに、歩いて階段を上り下りすることがほとんどで、エレベータを使用することはほとんどないので、まずエレベータの場所を知らなかった。
実際、地下鉄で南の繁華街の商業施設に行くまでいくつものエレベータやスロープを通らねばならず大変な作業であることが分かった。
とりあえず、利用者さんの自宅近辺から目的地までの全ルートをひとつずつ確認しながら歩いた。
途中スクランブル交差点もあり障碍者の人は大変だと実感した。

目的地に着いた後、帰りも同じ道を忠実に引き返し、目的地の地下鉄の駅に着いてから、そのまま中央図書館に行くことにした。
これは出発するときに決めていて、そのためにリュックも持って行った。
しかし、目的地の駅に引き返したときは、7時を過ぎていた。
中央図書館の開館時間が7時なら行っても無駄であるが、私は閉館時間を知らなかった。
せっかく中央図書館の近くまで来たので、ダメモトで行くことにした。

西長堀駅の改札には、中央図書館の開館日のプレートがかかっていて、8時半までとあった。
しかし時間は、8時を過ぎていた。
とにかく図書館の中に入り、めぼしい本を漁った。
考古学関係は本が多く、まとめきれなかったのが残念だったが、いいと思った本を借り出し、閉館時間に図書館を出た。
帰りは、元来たコースを忠実に戻り、利用者さんの家の近くまで戻ってから、その近くに止めておいた自転車に乗り帰宅した。

夕食は遅くなるし、エレベータ他様々な施設や場所を探しながら歩き回ったので、かなり疲れた。
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昨日記160218木(寒さに強い体 クラシック音楽)

2016年02月20日 10時42分19秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
晴  最高/最低℃ =11.5  0.9
昨日は最低気温が0.9℃と本格的に冷え込んだらしい。
何度か言っているように、何が原因かわからないが、最近余り寒さを感じなくなった。

寒さに強くなった原因で最も可能性が高いのは、冷水シャワーではないかと思っている。
17日にジムに行った日もシャワーを浴びた最後に、たっぷりと冷水シャワーを浴びた。
冷水シャワーは、配管及び貯水タンクの事を考えると、多分外気温か地面の温度と同じと考えているが、その冷水シャワーを浴びるときは気合が要るのだ。
無論、健康上のリスクもあるので、一気には浴びず足先から徐々に上にあげてゆく。
お腹回りにかけるときは腹筋に力を入れ気合を入れながら冷水シャワーをかけ、胸まで順次上にあげる。
最後に肩、背中、頭にかける。
肩から背中にかけると、寒さが身に沁み、頭までかけると本当に寒い。
無暖房の我が家でも、寝る前や起床時に服やパジャマを脱ぎ、パンツ1枚になる時が最も寒く感じるが冷水シャワーに比べれば、ずっと温かく寒イボなんか出ない。

ジムでは、足先から胸まで冷水を浴びせた後、最後に多分10秒から20秒ぐらい頭から肩や背中に冷水シャワーを浴びせ続け、シャワーを終える。
運動せずに冷水シャワーを浴びたことはないが、運動しなければ多分寒くて冷えが残り、服を着ても震え上がっているだろう。

午後、久しぶりにFMラジオから聞こえるベートベンの運命に耳を傾けた。
この曲を聴くと背筋が伸び、若い時の感情や情熱がふつふつとよみがえり、リフレッシュしたような気分になる。
同時に哲学的な雰囲気を感じ、そうしたことを考えたくなる。
私は、クラシック音楽の大ファンで、好きな曲や作曲家は近現代からバロック以前まで数え上げればきりはない。
知的な人たちの中にもクラシック音楽に全く関心のない人たちも多いようだ。
クラシック音楽は、聞くのに時間がかかる場合が多いので、他の人にわざわざお薦めはしないが、学生時代からクラシック音楽の壮大な世界を知ることができて幸せだとも思っている。
多くの場合、用事をしながら聞き流す事が多いが、本格的に意識してクラシック音楽を聴くときは、精神を集中するので、瞑想とよく似た効果があるのではないかと思っている。
実際クラシックコンサートに行くと、聴衆全員かすかな音も出さず、ごそごそもせず、座りながら聴くことのみに集中していて、それは瞑想状態に近いのかもしれなし、家で本格的に聴く場合も同じ状態になる。(昔、岩城博之氏指揮のコンサートに行った時、かすかな音(会話や紙・レジ袋の音)が気になって、途中で指揮を中断し、数分間客席に無言で向き合っていたことがあった。無論、客席はその間雑音一つなく静まり返った。 今は、子連れのコンサートも企画されることもあるが、同時に小学生以下お断りと明示されるコンサートもある。)
ポピュラー音楽はあまり聞かないが、フォークソングやタンゴや映画音楽やシャンソンや歌謡曲は昔よく楽しんだし、今も好きである。
ジャズやビートルズの音楽は友達に影響されて、若い時に積極的に聞いていたし、詳しくはないが聴くのは好きである。
ロック系やアメリカンポップスやJPOPSは、あまり聞く機会はないし知識もないが、家事をしながらラジオのディスクジョッキーで聞き流したりしていて、大好きではないが嫌いでもない。

午後にヨーグルトを作り始めた後、スーパーに部分的に不足した食材を買いに行き、その後本を返却に中央図書館に行ったが、休館日だったので返却ポストに本を投函した。
その後梅田の家電量販店にスキャナの再調査に行ったが、結構高いので当分購入は無理だろう。
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昨日記160217水(ジム・筋トレ)

2016年02月18日 21時31分02秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
晴  最高/最低℃ =9.6  2.7
昨日は、午後に炊飯作業をしたり、副食作りを行った。
夜になってジムに行き、筋トレを行った。
筋トレの記録は、14日より向上した。
反復横飛びも行い、普段鍛えている筋肉以外の筋肉強化に取り組んだ。
前回の反復横飛びでは、20回余りで息が上がり休まないと継続できなかったが、この日は前回の倍程度運動を継続できるようになった。
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昨日記160216火(副食作り ジム・新しいランニングマシン 持久力回復?)

2016年02月17日 23時59分27秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
腫  最高/最低℃ =8.3  2.5
16日は、更に冷え込んで最低気温も2.5℃になった。
しかし、体感的には冷えを感じなくなった。
筋トレやランニングの効果で筋肉量が増えて、基礎代謝が増加し寒さに強くなったのか、それともジムで運動後シャワーを浴びた後、必ず冷水シャワーを浴びているが、その効果があったのかわからないが、とにかく寒さに強くなった感じがする。
少なくとも、10年ぐらい前までは、完全無暖房なので寝るときは冷えたので、携帯カイロを布団の下に入れていたが、このシーズンは一度も使ったことがない。
寝るときフローリングとマットの間に、アルミ箔付きの断熱シートを4-5枚重ねて置いていることも冷えなくなった原因かもしれない

午後から11食分の副食を作り始め、一部夕食や今日の朝食に転用した。
夕方に副食作りを中断しジムに行った。
時間がないので、とりあえずランニングのみ行った。
この日から、ジムのランニングマシンは、新しい機械と交換されていた。
表示が一新され、脈拍測定時間も早くなった。
ランニングは、時速7kmから時速10.5kmの間で30分間走り、約4.7km走った。
この数値は、ほぼ昨年末の状態にまで持久力が回復したことの表れとみてよいだろう。
ジムから帰宅後は、疲れは全くなかった。
その後夕食をはさんで、12時頃まで副食作りを行った。
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昨日記160215月()

2016年02月17日 21時42分37秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
曇一時雨    最高/最低℃ =10.8  3.8
15日は、前日と打って変わり真冬並みの寒さになった。
余りにも急激な気温の変化で、体調が影響を受けないか心配したが、問題なかった。
子にお日は前日に副食製造もしていて、家事もすることなく、ジムも休みで、予定も入っていなかったのでTvを見たり細かな雑用を行った。

余りに変化がないので、夕方からいつもの店にお茶を飲みに出かけ、哲学関連の解説本をいつもより長い時間読んだが、特記事項のない一日であった。

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昨日記160214日(異常な温かさ 梅 バレンタインデー ジム)

2016年02月17日 00時00分48秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
曇一時雨    最高/最低℃ =20.3  10.7
14日は温かくなるという予報であったが、大阪も20度まで気温が上がった。
10日の最高気温が9.5℃でそれから、日々温かくなり、この日は暑くて昼間はスキー服を脱ぎ外出はジャンパーを羽織った。
裏庭の梅も一気に咲いた。
今年は、昨年全く梅の手入れをしていなかったので白梅が10輪も咲いていないが、手入れをすると紅白の梅がたくさん咲き、いい香りがする。

14日はバレンタインデーだが、ここ10年以上義理チョコすらもらったことはない。
それ以前も、義理チョコ以外はもらったことはない。
一度だけマーブルチョコレートを送り付けられたことがあったが、たまに顔を合わし仕事上で普通に挨拶する人なので、本格的な贈り物ではないだろうと判断したが、義理チョコならわかるのだが、なぜわざわざ送ってくるのだろうかと思ったりしたこともあった。
40歳前まで、サラリーマンをしていた時は、義理チョコをたくさんもらったが、他の男性連中もお返しの話は出ていなかったので、お返しをした覚えもない。
いずれにせよ、下流独居老人には、これからもバレンタインデーには縁がなさそうだ。
そういえば、4-5年前の高級ギャラリーのパーティーで、店の態度から招かざる客として扱われている可能性が強い、と強く意識したことがあった。
よく考えれば、ギャラリーから見れば、ギャラリーや出品作家の馴染みでもなく、作家でもなくコレクターや評論家でもなく、自称貧しい無職の老人が、ただ酒や料理を飲み食いしに来ていれば、顧客にはいい印象を与えないだろう。
その意味で営業に命がけのギャラリーの態度は当然の事ともいえる。
それ以降そうしたことを、自戒していたのだが、最近はそうしたことをすっかり忘れていた。
その意味でも、行動範囲を縮小する必要がありそうだ。
下流独居老人から、ひがみついでの変な余談になったので話を戻すが、チョコレートが健康にいいので、数年前から毎日食べている。
(私は下流独居老人として、ひがまず卑屈にならず、かといって肩をいからさず普通に生きていきます。)

昼から、ジムに行った。
昼の時間は空いているとなっていたのだが、結構込んでいた。
筋トレとランニングを行ったが、本格的トレーニングでなく筋力維持程度のトレーニングであった。

夜になって、いつもの店にコーヒーを飲みに行き、哲学関係の解説本を2時間ほど読んだが、論点が多数あり、理解するまで先は長そうだ。
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メジロがさえずっている。

2016年02月16日 12時17分31秒 | エッセイ &余談 ・短感・片言雑事
今朝は寒くなったが、日差しは春を感じさせる。
先ほどまで、いつも来るメジロが縁側でミカンと格闘していた。
メジロが縁側の餌台でミカンやバナナをついばんでいる時は、歩き回ったりしないようにしている。
最近は、いつも来るメジロは。かなり慣れて、居間で食事をしたり、新聞を読んだりゆっくりと立ち上がっても、縁側の餌台で横目に私の行動を注視しながらも逃げなくなった。

いつも来るメジロには連れ合いがいるようで、もう一羽は裏庭の金柑の枝や椿の枝の間を飛び回ったりしているが、たまに一緒になって、慣れたメジロはミカンをついばみ、もう一羽はバナナをついばんだりしていることがある。
しかし、慣れていない連れ合いのメジロは、私が新聞を読んだり、食事の時に丼鉢をもって食べたりするとすぐに金柑の枝に逃げる。

私の住む戦前からある長屋の6畳の居間は畳敷きで、その向こうに縁側と便所に囲まれた坪庭があり、そこには2mを超す金柑や鉢植えの椿に防火用水後に植えた巨峰や、近所に居た叔父さんの家から株分けしたデラウエアが植えてあるが、今は冬なので金柑と椿のみが青い葉をつけていて、椿は今日開花した。

私の朝食は、長屋の居間は畳敷きで、台所からトレイに入れて持ってきた副食の温野菜の入った丼鉢やパンを畳の上に置いて裏庭を見ながら食べている。(食卓兼用のやぐら炬燵は横にあるが使っていない。)
従って、メジロから私を見れば、見慣れていないと、私が畳に置いた丼をとって口元に運んだり、パンや牛乳をとったり、蜂蜜を塗ったりすることは、攻撃に移るのかもしれない。
いつも来るメジロは、一応たまに私の方を見ながら、何事もないようにミカンをついばんでいる。

今トイレに行くと、メジロのさえずりが聞こえてきた。
多分慣れたメジロが、我が家の屋根の上か、その近くに止まって、降り注ぐ太陽に心地よくなりミカンもたっぷり食べて満足し、歌い出したのだろう。
その鳴き声は、声は小さいがヒバリに似ていて非常に複雑なさえずりであるが、いい声で鳴いていて聞いていて楽しくなる。
私は縁側でしばらく、そのメジロのさえずりに耳を澄ませた。
早春の日を浴び、屋根の上で胸を張り縄張りを主張するため、大きな口を開けて楽しそうに声を張り上げるメジロの姿が目に浮かぶようであった。

我が家に来るメジロのカップルは、頻繁に来ていて、しかもよく食べる。
バナナは4-5cm程度のヘタを半分むいておいておくが、数時間で半分程度になっている。
ミカンも一部の皮をむいておいておくと、むいた部分の実をつつきまくって、果肉が減ったら、まだつついていない部分の皮をむいてやるのだが、4-5日もすればミカンの果肉はほとんどなくなる。
こんな状態なので、最近過保護ではないかと思うようになった。
野生動物の餌付けについては、いろいろな意見があるが、ケースにより違うのだろう。
サル、鶴、コウノトリ、猫、カラス、スズメ、鳩・・・・
我が家のメジロは4-5年前から金柑の枝にミカンやリンゴやバナナを刺していたことが始まりである。
ある時は、ヒヨドリが金柑の枝にエサがあることを覚えて、メジロより先に来たり、メジロを追い払っててメジロの餌を食べてしまうことが多かった。

今回のように、本格的に縁側にエサ台を置いたのは初めての事だが、今後来シーズンにどう影響するのか観察したい。
必要以上に、メジロを手なずけたりするつもりはなく、野生のまま来シーズンも来てくれるようにしたいと思っている。
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