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昨日記150620土(横尾忠則現代美術館・講演会<コラージュ> プレミアム商品券)

2015年06月22日 11時44分14秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
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20日午後から神戸の王子公園にある横尾忠則現代美術館(http://www.ytmoca.jp/outline/outline.html)で行われた河本真理日本女子大学教授による講演会「カット&ペーストが織り成すコラージュの万華鏡」に参加した。
1時間半の講演会であったが、詳細なレジュメが用意されていて、通常の講演会から比べるとかなり速いテンポで進められたが、内容は非常に充実した講演会だった。

この講演会を聞いて、横尾氏のコラージュに対する考え方もよくわかった。
そもそもコラージュという技法は、シュールレアリズムの一技法の枠を超えて、私が思っていた以上に現代美術にとって重要な一分野であると感じたし、今後とも注目される予感がする。
既に、現代美術において、既存のイメージ(印刷物等)の切り貼りによるコラージュではなく、コラージュ的ペインティングは数多くみられるようになり、注目される若手作家も少なからず出ている。

横尾忠則氏の考えを私的に拡大解釈すると、具象系のシュール系や様々なイメージの多層的重合作品群は、構造的に分析するとコラージュ構造そのものと理解できる。
即ち、現代美術において具象イメージの重合・衝突によるイメージの創造作用は、コラージュ的作品と位置付けることが出来るのではないか。

カット&ペーストは単なる表層的技術論で、本質は河本真理氏の講演会テキストで指摘する、
「イメージが本来の場所から切り離され、新たな文脈へと投げ込まれる。
諸要素が移動し、新たに出会うことによって、元の文脈からの逸脱・ずれが生じる。(一部省略)」
と考えられ、立体その他の技法でも同様だ。


ところで、現代美術において、ミニマル的表現や抽象表現は手詰まり感を見せている。
特にミニマルについては、極限化した表現は限定されるので選択肢は限られ、とどのつまり関西の哲学者が指摘していたように、何も書かなくなる作家も出てくるのは、当然の帰結だろう。
この構造は、禅と似たところがある。

そもそも、美は概念の一つであって、概念や観念や思想はや感性は人間の属性の一つであって、人間の精神・頭脳の中での共通の了解事項として形成されるものであり、実存的であり人類が滅亡すれば消滅するものである。
そうした構造を前提とすると、人間の精神活動から生み出される美意識(今回は視覚による美意識に限定する)は、人間の活動と不可分の関係にあるのだろう。

そもそも見るという行為は物理的動作や、位置の移動なしには考えられない。
(物理的には波長の問題と網膜の認識<紫外線・赤外線・昆虫・色覚障害>の問題や画像認識や錯覚や立体視(バーチャル)等見ることに関しては様々な議論が存在するが、論点が拡散するので省略する)
具体的には、美しいものを見るため、毎回人は移動する。
例えば、美術館であり、美しい風景の存在する場所であったり、美男美女に会いに行ったり、そうしたことは、すべて行動の前提なしには考えられない。
即ち、美を認識することそのものが、身体行動を含む実存的なことに含まれるのである。

そうした、実存的原体験をベースにした、本能(フロイトのいうリビドーも含む)も含む人類共通の了解事項を意識上に投影したものが美の概念であり、更にそれをシンボル化し言語により体系化したものが美意識となる。(この段階では美と芸術とは未分化)
そうした美意識は、風土や民族性や宗教や歴史と言ったフィルターと権威や権力者のフィルター(外来作品も含む)により取捨選択され記憶媒体(作品・工芸品)に蓄積される。
そうした作品群の美意識は、各民族や地域・社会の共通の価値観として了解され、象徴化され各人に刷り込まれる。
教育または自発的にそうした作品群に日常的に接する中で、個人の個性がその作品群から自分に合う方向性を取捨選択し、個人の美意識が形成される。
そうした個人の美意識の上に、各人の精神活動(言語以外で表現したいものも含む)や創造性が加わり、それを現実の行動(創作活動)で象徴的に具現化したものが(美術・芸術)作品に他ならない。
その作品を観て、評論家個人の価値観で分析評価し文章化したものが評論となる。

以上の考察を振り返った場合、ミニマルアートでは、風土や民族性や宗教や歴史と言ったフィルターと権威や権力者のフィルターと言ったものは、ほぼ無視される。
当然選択肢は極めて少なくなるので、多くの作品が今までに見たものと似たものになったり、繰り返しやパターン化したりし、創造性が無くなる可能性があるように見える。
抽象表現は、ミニマルから比べると、選択肢ははるかに多いが、シュールレアリズム・コラージュも含む具象をベースにした表現からすると、限られることは理解できる。
そうしたことから考えると、今後シュールやコラージュ系を含む具象系の現代美術の広がりは、大きくなるのかもしれないと感じた。

帰宅途中、プレミアム商品券の申し込み期限が近付いているのを知り、帰宅してすぐに申しこんだ。

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