散歩者goo 

タイトルのgooは、同名のHPやブログと区別の為付けてます。HPの「散歩者」はこのブログ筆者の私とは全く無関係です。

昨日記170227月(拭き掃除)

2017年02月28日 16時48分32秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
最高/最低 10.9   3.9  晴
しばらく、掃除をしていなかった。
昨年か一昨年、電気掃除機が壊れた。
その掃除機を処分して以来代わりの掃除機は購入していない。
紙フィルターの物なら1万円前後でも手に入る。
だが以前から思っていたことなのだが、排気に結構微細の誇りが含まれているのではないかという疑惑が頭をよぎるのだ。
いくつかの掃除機にはへパフィルターを使用してミクロン単位の微細粒子や菌をとる製品も出ているし、サイクロン方式でも微細粒子をとることを売りにしている製品もある。
しかし掃除機は、使う頻度にしては、高くつくし肉体労働でもある。
掃除機が無くなって以来、百均に行き話題に出てきていたコロコロタイプのゴミ鳥やワイパー方式の掃除棒を購入した。
いずれもその時初めて使った。
それまで使い方も知らなかった。
とりあえず新しい電気掃除機購入までのつなぎとして考えていたのだが、拭き掃除の方がきれいに埃や汚れが取れることに気付いた。
それに拭き掃除を行う事で、人間として必要な様々な体の動きや運動を実現でき、極端なことを言えば、ジムでわざわざ筋トレしなくても、拭き掃除をしっかりやれば十分かもしれないと思っている。
そうした意味でも掃除を見直し、電気掃除機でなく拭き掃除を中心に行うことにした。
(相対貧困以下の貧乏はしていても、電気掃除機を買う程度の資金余裕はある。)
それ以来、たまに拭き掃除をやっている。
以前から掃除は毎日やったことはない。
綿埃が目立ちだすと、拭き掃除をすることが多い。
この日の拭き掃除は2週間ぶりぐらいか。
コロコロは使わず、百均で購入したワイパー用の紙クリーナーで畳やフローリングの隅を重点的に拭いた。
それ以外に机や棚や家具の埃の積もっているところを拭いた。

実は最近目がかゆい。
アレルギーは今まで持っていないが、アレルギーは突然襲い掛かると言う話をきくことがよくあった。
このまま埃状態を放置すると、ハウスダストアレルギーになるかもしれないという恐怖心がある。
そうしたことが頭に浮かび、この日の掃除になった。
今後も、毎日は無理だろうが、週に数回程度の掃除はしたいと思っている。
掃除を終えると、部屋はずいぶんさっぱりしゴミや埃は無くなったが、とにかくものが多い。
いわゆるゴミ屋敷のように、なんでも古いものをとり置くという趣味は無く、使わない者は時折まとめて処分しているが、それでも時間とともに未確定のモノが溜まるのだ。
老前整理をするつもりはないが、5Sの考えに沿った整理整頓はやらねばとは思っている。
ギャラリー廃業後契約社員の時に、5Sに沿った工場改善を実施し成果を上げた実績はある。
しかし自分の家は、その対象外だった。

夕方から食材の買い出しに出かけ、夜には当面必要な3食分の副食を製造した。

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昨日記170226日(金木犀土入れ替え 山茶花の思い出 ジム 筋トレ・ラン)

2017年02月28日 16時03分59秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
最高/最低 12.2  3.7   薄曇一時晴
金木犀の葉の先端の部分の4分の1程度が茶色く枯れていた。
以前からほぼ毎年起きている現象だが、原因は不明だ。
ひどい時は歯が半分以上茶色くなり、落葉した。
多分、開花後に肥料をやっていないので、栄養不足ではないかと思い一昨年の初冬に遅効性の肥料をやった所、葉の先端枯れはかなり改善された。
昨年秋はやってなかったように思う。
それと同時に根の状態が心配だった。
4-5年前まで鉢植えのまま、家の前の幅15cm程度の下水とアスファルト縁石の上に鉢を置いていたのだが、いつの間にか道路側のアスファルトの宴席とアスファルトの間に太い根を下ろし、金木犀は2m余りの高さに立派に茂ったが、アスファルトに根を張ったために、鉢を動かすことが出来ないようになった。
仕方なく陶器製の鉢を壊し、縁石とアスファルトの間におろした太い根をのこで切り、大きなプラスチック製の鉢に植え替えた。
割った鉢には太い根がとぐろを巻いていたので、かなりの部分切った。
根切りした分、上部の茂っていた枝も大量に切り落とし、根とのバランスを図るようにした。
しかし根の部分には毛根のついている部分はかなり少なかったので、とにかく金木犀が生き延びてくれればいいと思い、鉢に土を入れた。
翌年以降、金木犀の樹勢は一気に衰え、花もわずかしか付けなくなった。
そして葉の部分枯れが始まったのだ。

そうしたいきさつもあって、この日は根の部分も確かめようと考えていた。
金木犀を鉢ごと移動し路地に寝かせ鉢から引き抜いた。
とぐろを巻いた根はそのままで残っていた。
根が成長した形跡がないのだ。
これでは、金木犀が枯れそうになっても仕方ないと思った。
金木犀の根に漆喰のように固く固着して土を手で取り除いてやった。
古い土を半分以上分けて別に保管し、元の土に肥料と園芸用土を大量に加えたものを鉢に入れ、金木犀を植えてその周囲に新しく作った土に水流を当て土を攪拌しつつ根に土がまとわりつくようにして金木犀を植えた。
芽吹くまでに、金木犀の枝の選定をしてやる必要もありそうだ。

去年は金木犀の横に置いたイチジクの実成が少なかったので、イチジクの土の手入れも考えているが、これも金木犀と同様鉢植えなので幹はそれほど太くないが2m近い高さに大きく育っているので、作業は大変になりそうだ。
芽吹くまでに、土の入れ替えを終えなければなるまい。
それ以外、今年花をつけなかった沈丁花も枯れかかっている。

昨年園芸にはほとんど手を付けなかったので、今年は手入れをしてやる必要がある。
植物は正直で、手を入れてやるとそれにこたえてくれるし、手を抜くと弱り枯れる。

以前、長屋に住んでいたうちの母と仲の良かったおばさんが息子さんの家に引き取られ、空き家に残された鉢植えの植物の一部を長屋解体の時にもらい受けた。(我が家の南側の駐車場)
その一つの赤い山茶花を裏庭に植えた。
それが枯れかけたので、掘り起こして鉢に植え替えたが、枯れてしまったので干からびた幹のついた鉢のまま裏庭に置いていた。
その夏、裏庭でシャワーを浴びるときにその枯れた鉢にも大量の水がかかった。
するとその夏が終わるころ、枯れたと思っていた幹の芯にできもののようなふくらみが出来始めた。
もしや、木の芽ではないかと思ったら、長い時間かけて葉になった。
そのまま冬を越し、春になると葉が増えた。
奇跡のように思えた。
数年後、山茶花は美しい赤い花をつけ始め大きくなった。
可憐な少女を連想させる花だった。
山茶花が順調に大きくなったので置き場所に困り、枝を大量に切った。
その後山茶花は再び枯れてしまい、生き返ることはなかった。
枝を切りすぎて、樹勢が弱り、更に根腐れや裏庭のブドウの繁茂による日照不足と水不足が原因なのかもしれない。
悲しい思い出である。

夜になってジムに行き、筋トレとランニングを行った。

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昨日記170225土(西天満で画廊回り)

2017年02月27日 17時30分37秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
最高/最低 10.4  1.9   晴後薄曇
25日は午後から、久しぶりに自転車に乗り西天満へ出かけた。
久しぶりの、久しぶりの自転車による長距離の外出に多少の体力的不安があったが、全く心配いらなかった。
西天満の画廊で回ったのは、Oギャラリーと白だけであった。
残りは休廊中か準備中だった。
最近2kwギャラリーが無くなった事は、現代美術鑑賞者にとって大きな損失である。
そうでなくても、ここ20年、大阪の現代系画廊は次々と店じまいした。
最近、特に大阪・西天満の現代美術系の業界の力の衰えを感じる。
西天満は、現代美術系の画廊が集まり、画廊同士が切磋琢磨して、いい個展をやってきたことで画廊街が形成されてきた。
それには、画廊主の情熱も大きく作用する。
いくら作家たちが頑張っても、それを汲み取り作家を世に送り出す画廊が無ければ、美術業界として成立しない。
その意味で、西天満界隈の現代美術系の画廊の停滞は気になるところである。
この現象は、他でも共通した問題なのか、又、現代美術そのものが方向性を見失い漂流しているのか、気になるところでもある。
地域活性化策の一つとして、現代美術系イベントが盛んであり、よいことと思う。
しかしそうしたイベントは、作家の定期的発表という事からするとやはり画廊と同様の働きは出来ないように思う。
画廊の場合、継続的プロモーションや人間的関係による精神的支援や絆も発生し、作家に与えるモチベーションは大きいように思われる。
そういう意味でも、画廊には、もう少し頑張ってほしいと思う。

西天満で画廊を回った後、いつもの天満橋のファストフードに寄った。
この日は、タブレットとスマホとキーボードを持ち込み、タブレットとキーボードをノートパソコンとして使用し、昨日記170223を書きその場で投稿した。
無論メインPCの方が多少入力しやすいが、それでも家で昨日記を書くのとそれほど違いは無く作業できた。
昨日記投稿後、読書をしたので、帰宅は9時前になった。

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昨日記170224金(健康長寿の食品・食べ方)

2017年02月27日 13時08分04秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
最高/最低 9.7  3.8   曇時々晴
24日は昼食をはさみ、切るから午後にかけて、9食の副食作りに追われた。
副食製造時、単に作業するだけでなくTVを見たりラジオを聴きながら作業を行う。
午後は、ニュースバラエティーをよく見るが、朝のワイドショーで詳しく分析報道されていることも多く、そうした場面は朝の繰り返しになったり、番組スタッフの力量で、朝のワイドショーより掘り下げが浅かったりすると、TVを止めてラジオのクラシック音楽を聴いたりする。
最近、他に面白いラジオ番組は無いかと探した。
NHK の第二放送でカルチャーラジオとか文化講演会は、土曜日や日曜日の朝によく聞いている。
そこでNHKのネット放送ラジルを調べた。
ラジルは、その時間の放送がリアルタイムでインターネット放送されていて、直接ラジオ受信機でFM放送を聞くと、雑音が多く聞きにくいので、PCでラジルのFM放送をきくことが多い。
ラジルのHPの右端に過去の放送のコラムがあるが、一度もチェックしたことはなかったが、この日チェックしてみた。
するとカルチャーラジオは3か月前の放送まで、ストリーミングで聞けるものがあった。
ニュースは朝や昼に放送されたニュースがそのまま聞ける。
この場合はストリーミングではないので(MP3)再生速度を早くして聞けるので時間短縮にもなる。
実はストリーミングでも講演会やセミナーは、録音して倍速ぐらいで聞きたいと思っているが、ストリーミングではそれができない。
それに、ストリーミングそのものが、特殊なアプリをダウンロードしないと録音できないのだ。
ストリーミングをMP3で録音して倍速で聞けるようにならないか、午後からいろいろ調べた。
結局、ストリーミング録音用無料アプリも各種あり、結局アプリを選定できず、何もしないまま調査に数時間費やした。
ところで、このときNHKラジルのホームページ(http://www3.nhk.or.jp/netradio/index.html?ch=r1&area=osaka)の右コラムの過去の放送の中の、情報・カルチャーの中の、「文化講演会」の中にある2月19日放送の「世界調査でわかった健康長寿の食べ方上手」を聴いたが、これはぜひ聞いて損はない内容だと思った。
この話は、健康で長生きしたいと思うなら、必ず知り、実践するべき話で、科学的調査に基づいた食料の最新知識が詰まっている。

夜になってジムに行き、筋トレとランニングを行った。

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昨日記170223木(タブレットの設定 ジム・ランニング)

2017年02月25日 19時06分27秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
最高/最低 13.8 6.7℃   曇り一時雨
23日はウイルス対策ソフト月額版の更新の手続きを行った。
午後からタブレット端末を使用して、ネットラジオを聞いていると、10分程度するとタブレットの電源が切れる問題を調査した。
タブレットの設定を詳細に調べると、設定ミスが見つかり修正した。

タブレットを購入して半年一年ぐらいは、どう使っていいのかわからず、家でインタネットに接続して、ネットラジオを聴いたり、する程度しか使い道がなかった。
メインPCではネットラジオを聴きながら、同時にワードやエクセルを使っても問題なく操作できるが、たまに処理能力の問題でネットラジオの音が途切れたりすることがあった。
また、ワードを使ったり、ネットを見ながら、ネット検索することもあり、その時ネットラジオを使っているとかなりの確率で音が切れた。
タブレットでネットラジオを聴きながら、メインPCでPC作業をすると、音切れの心配なく、快適に音楽を聴きながら、作業ができた。
音は、メインPCとタブレットを比べると、メインPCはヤマハのスピーカーを使っているので断然音がよいが、BGM代わりには、全く問題なかった。

しかし、スマホを購入してから無用の長物的なタブレットが、一変した。
購入して、何か月もの間は、タブレットを外部に持ち出して、インターネットに接続しようとしたが、どうにもできなかったし、手掛かりすらつかめなかった。
ただ、デザリングという手法があるらしいということだけが、唯一の手掛かりだった。
モバイルルーターを購入すれば、タブレットがネットに接続できることは、分かっていた。
しかし、モバイルルーターを購入すると、ルーターの購入費以外に通信費が月に数千円発生するので、とてもそんな余裕はない。
そこで、試行錯誤を繰り返し、わずかな手掛かりを少しずつつかみ、様々なめぼしい設定を操作してやっとデザリングに成功し、家の外でタブレットをネットに接続することが出来るようになった。
これで、モバイルルーターを購入せずに済むし、通信費はスマホの通信費約1600円の中に含まれることになり、大きな節約となった。
スマホやタブレットを購入した時には、タブレットを使っても外でネットを使っても通信費がそれまでと変わらないとは、夢ではあったが実現できるとは予想していなかった。
今回も大阪市内のいつものと店ではないファストフードでこの一文を作成しているが、タブレット用キーボードの扱いにも慣れ、メインPCと変わらない感じで作業している。

家の外でタブレットをネットに接続できるようになってから、今度は様々な設定不備による動作不良に遭遇した。
不良事故が起きるたびに、設定を詳細に調べたり、わけのわからない機能を実際に動かしてみると、その機能が具体的にわかるので、逆に操作の基本をしっかりとつかめるようになった。

この日は、翌日の昼には副食がなくなるので9食分の食材を、仕入れなければならなかった。
夕方になって、食材の買い出しに出かけた。
3軒のスーパーを回り、購入点数が多かったので往復をし、買い出しが完了するまで2時間かかった。
スーパーから帰ると、7時45分だった。
荷物を置いてジムの準備をしていると、通常ではジムの門限に間に合わないのだが、この日は先に準備をしていたので、帰宅してすぐにジム用バッグを持ってジムに向かい、ちょうど8時に入ることが出来た。
この日、約20分3kmあまり走った。



自選ブログ集・新規掲載(最近書いたブログの中から保存しておきたいブログを集めています。数か月以上前のものは分野別自選ブログ集に収納しています。<自選ブログ集末尾前にリンク掲載>)
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科学技術・情報技術

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昨日記170222水(超ひも理論の漫画を読んで、工業高校や最初に勤めた会社のことを思い出す。)

2017年02月23日 17時09分33秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
最高/最低 8.6  2.9  晴一時雪
午前中、一昨日購入した漫画「超ひも理論をパパに習ってみた」を半分程度読んだ。
読んだ感想は、前日のブログに書いた。
私が、工業高校生の時に習った物性論は、当時大学でも工科系でやっているところは少なかったらしい最先端の理論で、担当の先生であった故下村先生の書き下ろしで、教科書は先生が発行しようとしていた本のゲラ刷りを使用していた。
本は、高校卒業した年か、その翌年にその本が発行され、その後多くの工業高校や高等専門学校の教科書として使用されたらしい。
研究所に就職した同級生の話によると、当時母校で教えられた物性論は、間違いなく大学も含め最先端の技術であったようだ。
(当時真空管全盛でやっとゲルマニウムトランジスタやダイオードが利用され始めた。)
実際、私が環境試験装置の会社に入社して、昼休みに先輩たちとそういう状況で、昼休みに半導体技術の話を雑談で話していた時に、同時入社した大卒生や先輩たちが、そうした話に全くついていけてなかったことを感じていた。<専門の違いも大きいが>

余談の思い出
(入社当時会社は町工場で、先輩技術者も夜間高校出身者や、夜間大学に通っている人が多く、入社数年前から大卒の幹部候補生が入社し始め、私が入社時は同期に数人の大卒がいて、残りは高卒と中卒だった。入社4-5年後には、設計開発の担当をしている人は高卒でもそのまま設計にいたが、新人はすべて大卒になった。私も10年後会社を辞めるまでずっと設計開発を担当し、新卒者も指導した。その結果入社当時持っていた学歴コンプレックスは退職時には全くなくなっていた。
技術では、学歴に関係なく、具体的に様々な技術の話をし、設計をすると、その人の技術力・実力がすぐにわかるのだ。理工系では、実力がなければそのレベルの話に全くついていけない。逆に技術的な話に具体的に絡めるということは、その人はそれに対応する技術的バックグラウンドを持っているということになる。いくら学歴があっても相応の技術力の無い人も少なからずいる。
最初に就職して10年勤めた会社では、技術力をつけさせてもらったし、同時にクレーム問題の解明等で技術的に多少なりとも役に立てたこともあったと思っている。30歳前に退社したが、その10数年後にはその会社は東証1部の大企業になった。
今から10年前に、その会社の後輩で同僚でもあり、退職後も飲み友達であった四国出身の友人の葬儀に出席したとき、同じ工業高校出身の技術の1年先輩や資材の数年後輩は、会社の経営幹部<取締役や本部長>になっていて、当時のひょうきんな面影は無くなり、それらしい貫禄のある人物になっていて驚いた。話しぶりも当時から変わっていて、大企業幹部らしい落ち着いた話しぶりになっていた。)

話を戻すが、学校では、当時ノーベル賞を受賞した江崎氏のトンネル効果についての解説もあった。
半導体理論以外の簡単な例でいえば、金属を接触させるだけで弱い電気でも流れるのは(強い電力の場合、高温によりプラズマ<電離>が発生し自由電子が流れるので、原理的に全く違う)トンネル効果が関係するというような話をききつつ、なんとなく当時の最先端の理論や技術を本格的に学んでいるというプライドを持ったことを覚えていた。私だけが密かにそうしたことを感じていたのかと思ったら、同窓会の時に、多くの級友が同様のことを感じていて、仕事でも研究所に行った連中は、大卒と対等以上に議論でき仕事に役立ったというようなことをいっていた。漫画を読みつつそうしたことを懐かしく思い出した。

記憶に間違いがなければ、物性論を教えていただいた故下村先生も、阪大の理系の現役の優秀な研究者で、わざわざ招聘したと聞いたことがある。
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昨日記1702221火(アートエリアBIで「超ひも理論」の話を聞く)

2017年02月22日 21時10分39秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
最高/最低 8.6  2.9  晴一時雪
朝から副食作りをおこない、9食の副食を完成させた。
作るのに4時間近くかかる。
今回はブロッコリが高かったので、入れていない。
午後には遅れていた昨日記を書いた。
夕方になって淀屋橋に出かけた。
京阪電車なにわ橋駅B1にある「アートエリアB1」で行われた第9回ひとこといちば「宇宙は縦・横・高さだけなのか? 〜超ひも理論と高次元の世界〜」に参加するためである。
会場へ行く途中、淀屋橋のファストフードによって読書をした。
以前から超ひも理論には興味があり、素粒子論のさらにその先を行く理論で、確定した理論ではないが、各国で研究されているらしい。
1時間の話しで、しかも物理学に詳しくない素人が対象の話しであったが、たとえ話を使ってわかりやすく説明されていた。
超ひも理論を解くカギは、次元の導入らしいことも理解できた。
講師は、橋本幸士 (大阪大学大学院理学系研究科教授)であった。
橋下氏は若くして教授になっていて、ノーベル賞受賞者の南部氏が阪大に教えに来ているという。
この講座の話は分かったような分からないような話であったが、高校の時に物性論で量子力学の一部を教えてもらったのでシュレディンガーの方程式や、不確定性原理の意味や光子と波動の関係も問題なく受け止められた。
会場で、先生の書かれた漫画「超ひも理論をパパに習ってみた」を10冊販売されていたので、購入した。今日この本を半分ほど読んでみたが、湯川秀樹氏の中間子論の意味が、これを読んで初めて分かった。
超ひも理論が、次元問題と絡んでいる可能性が強いという意味も分かった。
面白く刺激的なセミナーだった。
先生の取り組んでいる問題を解明するとノーベル賞物らしく世界各国の研究者が連絡を取り合いながら研究し、多くの論文を出しているらしい。


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昨日記1702220月(仕事リスト 芸術・価値観・鑑賞 タブレットによるブログ発信)(追)

2017年02月22日 17時57分11秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
最高/最低 17.8   4.7  曇一時晴後雨
午前中、予定日報表とは別に、仕事リストを作った。
この仕事リストはタブレットスマホと情報共用して、計画的に趣味なり学びなり仕事を続けるようにと思い考えた。
こうした動きは過去何度もやってきて成功したためしがない。
もし成功していたなら、少しはある分野で名を成した仕事をしていただろうと思っている。
若いころは、あることを学ぼうとして数か月続けばいい方だった。
そもそも実力がなかったことも大きいが、飽きっぽいというのでなく、好奇心が強く新しいことに興味が引かれ、そちらに重点が移ってしまうといったことが多かったように思う。

しかし、年を重ねるにし従い、一度中断した物も再開することが多くなった。
例えば考古学関係の勉強は、30代まで様々な講習会に出かけ、本も読んだりしたが、仕事が忙しくなり、自然消滅の状態だった。

だが年金受給を始め、自己破産した頃から、生活が安定し始め、再び考古学関連のことに関心が向き、いくつかの方向について、資料を集めたりして研究に近いことをし始めている。
だが最近は、民族学や現代哲学に関心を持ち始め、考古学関係の比重が軽くなってきている。
それ以外、一時期クラシック音楽からバロック音楽へ興味が移り、バロック音楽のことを勉強しようと思ったこともあったが、他のことが忙しくなったので、バロック入門で終わってしまった。

現代美術に関しては、仕事がらみで勉強してきたが、そもそも芸術は価値観が中心で、通常の学問とは異なるところがあり、論理的整合性云々では議論が成立しないところがある。
現代美術といっても様々なベクトルがあり、現代作家や評論家同士で、作品に対する評価が全く違うところが多い。
はっきり言って、すべての芸術関係の流れは人気投票的なところがあり、客観性が無く多数決の原理で決まっている。(古今東西)

これは、文化文明の形成過程そのものであり、一つの有力な傾向の人気芸術が発生すると、多くの人がそれをまねし参考にし、広まる過程で新しいものが加わり、分派(別の価値観)ができる。
日本でいえば、能や歌舞伎や浮世絵もそうだし茶の湯もそうであろう。

また、何度も言っているが、とある価値観を別の価値観の視点で評価できない。
そういう意味で、アメリカ文化やキリスト教文化の視点で、ムスリムは悪だと決めつけるのは、全くばかげた話である
例えば、浮世絵と現代美術のコンセプチャルアートとは価値基準や美的視点や制作体系の違いは(エピステーメー又はパラダイムの違い。)、明らかであり、比較のしようがないのであり、価値観が違うということは物理学でいう次元の違いに相当することだと思っている。
価値観は論理や倫理ではなく、精神的志向性・嗜好性や信仰であり、正しいとか間違いとか善悪を言うことはできない。
例えばアラブの美的価値観と西欧の美的価値観とは違う。
欧米人が日本文化に興味を持つのは、西欧文化になかった価値観があるからであり、同時に過去の西欧文明から脱皮し、現代文明を構築しようとする人たちにとっては新鮮であり参考になるのだ。
そうしたことは、アフリカ文化を見る目にも現れていて、ジャポニズム同様ピカソ達がアフリカ芸術の影響を受けたのも同じ構造で、新しい価値観の一部に刺激を受け、その価値観の一部を取り入れたのだ。

一つの価値観は通常様々なものを含めた体系をなしているが、一つの価値観はその周辺の物を取り込んで、変化していく。
そういうことは、文化史や芸術史を見ればわかる。
例えば日本文化でも、同時代で見ても地方により大きく違う。
民族学博物館で、日本の祭りを見れば地方により、その違いの大きさに驚かされる。
日本画とて、流派により、微妙にその傾向や視点の置き方が違う。
価値観は、グループ、時代、地域、風土により変化していて、そうしたことを見ても、価値観は論理ではなく主観なので、比較評価しても意味が無く、主観的意見しか出ないだろう。

今まで何度も言ったことを、繰り言のようにまた書いてしまったが、価値観に関しての繰り言は、根底に芸術に関しての評価・評論と鑑賞数に疑問を感じているところが原因だと思っている。
以前にも何度も触れたが、西日本だけでも現代美術一つとっても、無数の展覧会が開かれていて、よく似たものもあれば違う傾向の物もあり、作品の傾向は千差万別である。
そういう意味で評価しにくいし、日本全体、世界全体から見れば、ひとりで見てまわれる数は限られてしまう。
私が観ることのできる美術作品は、プールの中の一滴という気がして、美術鑑賞にどれだけ意味があるのか無力感を感じるのだ。

しかし、よく考えると、優秀な作品を掘り当てようとすると、宝探しのような姿勢になって前述のような結果になるが、そうした中でいい作品を見つけようとして作品と対峙するのであれば、プールの中の一滴といったことを気にする必要はなく、見てまわった範囲の作品群の中から、鑑賞に堪える作品と対峙して、作品から得るものがあればよいのだろう。
そのように視点を変えると、美術鑑賞に対する無力感は無くなるのかもしれない。

芸術は、作者の内面の表現した創造物である作品を介して、作品で表現された作者の美意識や感性や意図や思想との対話作業であるので、大量の作品を観て優劣を選別するのは、本来の芸術ではないともいえるのかもしれない。
作品を観て優劣を感じるのは当然のことで、その感じ方も鑑賞者の力量に寄り全く違う。(芸術はすべて平等と主張する人がいるが、表現行為においては行為は平等だが、質は全く違う。幼稚園児の歌とプロの歌手の歌は違うのだ。)
幼稚園児に名作を見せても、猫に小判であろう。

名作でも、だれでも単に見て分かるだけの作品も少なからずあるが、多くの名作の場合は、観るトレーニング(美的感性感覚を研ぎ澄ます、コンセプトを見抜き理解する、隠喩やユーモアや皮肉批判内容の理解、時代や風土背景を知る・・・)を積んで見えてくる場合が多く、学問と同じで上から下を見下ろすことが出来るが、下から上ははっきりとは見えないのだ。
例えば、国宝の仏像を、仏像や彫刻の芸術的知識のない人に見せても値打ちが分からない。
事実明治維新後に起きた、廃仏毀釈で多くの仏像が破壊された。(信仰の問題が中心で、芸術的価値は認めてなかった。)

もう一つ繰り言を述べておく。
美術鑑賞のために、様々な費用が掛かる(作品を観に行くための交通費、入場料、その他雑費)のは事実であり、私のように月収10万円程度の相対的貧困層よりさらに低所得の貧困層の人間にとっては、美術鑑賞は分相応の趣味ではなさそうなので、極めて限定された範囲のギャラリー回りによる美術鑑賞をするだけでも良しとせねばなるまい。
少なくとも美術は貧困層には費用が掛かり、適さないが、それでも貧困の巨匠は多くいるのも事実である。
表現者は、困難が多い程、内面に抱え込んだ表現欲望が強くなるのかも知れない。
それ以前に才能のある人は、状況に係わらず常に表現したい欲望を持っていて、表現環境が整えば表現しだすのかもしれない。

この日は夕方から、副食を作るための食材の買い出しに出かけた。
食材の買い出しを終えてから、いつも行くファストフードに出かけた。
デザリングや、タブレット端末とキーボードを使用して、家の外でブログ記事を作成し投稿する実験を行った。
このとき、ファストフードで昨日記170218金(鳥調査 図書検索 ジム)を作成し、その場でタブレット端末から投稿し成功した。
これでいつでもどこからでも、スマホでネットを観れるところであれば、タブレット端末とキーボードを使い、家にいるときの環境に近い感じで、長い文章を発信できることが可能になった。

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昨日記170219日(みんぱくウイークエンド・サロン<アイヌの信仰> デザリングチェック)

2017年02月21日 17時22分27秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
最高/最低 10.1  2.7  晴
19日は、午後から国立民族学博物館(以下みんぱく)に出かけた。
この日、みんぱくでは14時30分から、みんぱくウイークエンド・サロンがあり「アイヌの信仰・儀礼」というタイトルで北原次郎太(国立民族学博物館特別客員教員・北海道大学准教授)氏が、講演された。
会場は満員だった。

北海道のアイヌ文化の成立は、日本では弥生から古墳時代にあたるころは続縄文文化が続き、8世紀から12-3世紀ごろの擦文文化を経たのちに成立したと言われる。
遅くまで縄文文化の影響を残したアイヌ文化の信仰の中に、日本の縄文文化の流れをくむ信仰形態や精神が残っていないか、またはその関連性についての手掛かりがないか気になり参加した。

ウイークエンド・サロンに参加して、アイヌの信仰に関していろいろ分かった。
話は、下記のテーマに沿って行われたが、十分ノート出来ていない。
(以下のすべての講義記録はノートとしてかなり不完全だが、参考メモとして残しておく。)
以下講義内容の参考メモ
アイヌの生命観
生死観と他界観
動物神
狩猟と霊送り
輪廻との比較
霊魂はアイヌ語でラマッという。
全ての物に霊魂は宿り、物や道具や眠気にもラマッがある。(例 時計のラマッ 財布のラマッ)
ラマッは精神活動を司る
個別の領域(善悪 性 言語 狩猟 視覚・・・・)にもラマッがある。
アイヌはすべての物をカムイというのは大きな誤り。
アイヌは男性性と女性性に分かれている。
 例:通常狩りは男性がするが、もし女性が狩りをするときには、男性性のラマッに祈る。
生とは肉体とラマッの結合で、死はその分離。
魂のいる場所は、この世 他界 神界があり、魂はこの世から他界へ、他界から神界へ、神界からこの世へと移動している。
地獄はあるが、地獄では移動は無く再生できない。
死後他界へ移動するには、遺族の供養が大切。
動物のラマッは神界では人間の形をしている。
カムイは敬称であるが、強いものの敬称であり、善悪は関係なく、上昇も没落もある。
人間も、カムイと呼ぶことは可能。(偉大な人物)
イヨマンテ
 狩猟は神と人との交易である。
  狩猟がうまい=その人が神に好かれている。 動物のラマッが天界に送ってほしいと考える。
   そのため狩猟後、酒とイナウで霊送りをして祀る。
  輪廻思想と共通したところがある。
 熊の魂送りはオホーツク文化の影響?

公園終了後、博物館のアイヌ試料展示ブースで展示物の詳細な説明があった。
そこで様々な質問がありいろいろ詳細に聴くことが出来た。
アイヌの人は、狩りをするとすべての動物に対し霊送りをするという。
大量の鮭をとる際にも、神聖な棒<イナウ>を使って、1匹ずつ叩き殺すとともに、同時に霊送りをするのだという。

ウイークエンドサロンの帰り、淀屋橋で途中下車し、ファストフードで本を読んでから帰宅した。
その際、タブレット端末、キーボード、スマホを持ち込んでいて、デザリングやタイピングの動作を確認した。

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昨日記170218金(鳥調査 図書検索 ジム)

2017年02月20日 22時10分53秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
最高/最低 10.8  6.2 曇時々晴
18日は、一週間近くたまったメールの整理をした。
個人的メールはめったに来ることはないし、公的な関係のお知らせも来ることはないので、数日に一度メールを見るが。たまに4-5日見ないこともある。
できるだけ、毎日目を通すようにしたい。
午後からは、ネットで鳥の事を調べた。
20代のころまで、さまざまな鳥を飼っていて、文鳥やインコは、室内で放し飼いに近い状態で、彼らはこちらが鳥かごに入れるまで、肩や頭に止まったり、仕事を邪魔しに来るのが仕事だった。
そんな親鳥が卵を産み孵化させ、成鳥にまで育てたが、最終的にイタチの餌食になったり、イタチに驚いて裏庭から逃げ出した。
そんな記憶もあって、再び鳥を飼いたいと思うようになったが、今のところ飼える環境ではないし、経済的問題もある。
その後図書館の検索システムをチェックした。
最近、借りている本の延長は、ネットで延長しているが、本の蔵書検索はしてなかったので、試しに行った。
非常に便利なシステムで、気になるほんのブックマークを登録することが出来るのだが、そのデータはマイページに保管され、その情報は本の基本データが表示されていて、図書ナンバーも出るのでさらに詳細な情報をネットから得ることも可能だ。
夜になってジムに行った。
多くの人が来ていた。
いつもなら土曜日の夜はガラガラなのだが。
仕方なく、ランニングをする予定であったが、筋トレを行った。
筋トレを終えたころ、トレッドミルがあいたのでランニングを20分弱行った。
最高時速、11.5km30秒間―10.5km1.5分間のインタバルを行ったので、かなり疲労した。

この一文は、ファストフードで作成し、初めて直接投稿したものである。
タブレット単体では、ネットにすら接続できなかったが、スマホのおかげで外部から投稿できるようになった。(我が家の中ではタブレットも無線ランでネットに接続されている。)

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昨日記170217金()

2017年02月19日 12時21分57秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
最高/最低 13.0   6.7  雨・曇
17日は不足した物の買い物や、数日後に作る副食のための買い物に出かけた。
夜はジムに行き、筋トレを行った。
私生活では、特に変わった出来事もなく、ある意味新聞を読んだりTVを見たりしてなんとなく適当に過ごした一日だった。
こういう状態は好きではないのだが。
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昨日記170216木(副食づくり ジム・ランニング負荷UP)

2017年02月17日 12時29分51秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
最高/最低 13.6 1.3  晴・曇
16日は、午後から夕方まで副食づくりに追われた。
副食は3食完成させ、残り6食はカボチャや人参・大根を切り分けて計量し、丼蜂に入れれば完了の状態にしで冷蔵庫に収納した。

夜になって、ジムに行った。
副食づくりに時間がかかったので、入門時間ぎりぎりになって入った。
トレーニングは、トレッドミルでランニングを行った。
前日から考えていたことだったが、時速11.5kmを短時間走り、高速走行できる体にしようと考えたのだ。
無論マラソン選手並みなんて毛頭考えていないし、あわよくば走れるかもしれないなんて幻想も持っていない。
しかし、最近時速11kmで1分間を繰り返し走れるようになった。
5年前絵は、ランニングを数週間休むだけで、時速10kmで走ると短時間で息が上がり1分間も走れなかったし、コンスタントにトレーニングをしている通常の状態でも、時速12kmで走ると20秒程度で足がもつれ走るのが危険な状態になった。
ところが徐々に、トレーニングの設定値を上げた結果、最近になって4分周期で時速11km1分間を繰り返し4-5回走れるようになった。
(1サイクル 時速11km1分間 10km1分間 8.5km2分間 休みなしで繰り返す。)
こうした経過があるので、徐々に負荷をかけていけば負荷に慣れて走れるようになるのではないかという期待を持っているのだ。
やってみて、だめならこれが限界かとあきらめればよい話で、また別の方法で目標にチャレンジして成功すれば、それに越したことはないが、失敗して年齢を考えても当然の事でもあるので、何の問題もないし失敗しても悔いる必要もない。

このように考えて、昨日は11.5km30秒11km30秒10km1分間9km2分間の繰り返しに挑戦した。
結果は二十数分走り、6-7割程度成功した。
途中苦しくて耐えられなくなり時速9km2分間を3-4分にしたり、時速11kmを時速10kmにしたのだ。
それでも、今回最低スピードを時速8.5kmから9kmに上げて、走った。
走る前、最低速度を上げると耐えられないのではないかと不安を持っていたが、それを克服できたのも、昨日の成果である。
ただ、経験的に、ある程度負荷を上げた苦しいトレーニングを克服した後に記録が低下し、それ以前の記録より更に低下することも何度か経験していて安心できない。
その原因は不明であるが、その後はすぐに元に戻し、しばらくして挑戦した負荷の値でのトレーニングに落ち着き、トレーニング記録が安定的に向上したことを、何度も経験している。
帰宅後は、いつものように遅い夕食となった。


上記一文は、タブレット端末用キーボードに慣れるため、すべてタブレット+タブレット用キーボードで打ったが、かなりショートカットキーの操作表を参照した。
未だもう少し、練習が必要なようだ。
無論タブレット単体でタッチパネルに入力するのと、スピード的には大きな差がある。
タブレット端末用キーボードを使用しても、メインPCのキーボードを打つ時のスピードにかなり近い速度で打てる。
まして、スマホに入力するときは、もっと遅いことは言うまでもない。
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昨日記170215水(美術評論を読む 食材購入 ジムで筋トレ)

2017年02月16日 12時40分34秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
最高 / 最低 10.6  3.3、  晴
午前中フェースブックの投稿記事の中で、ニュースサイトニューズウイークの中の長文の美術コラム記事が気になり、読んだ。
各コラムは8千字から1万字近くあり、外来語も多く使われていて、たまにわからない語句を調べたり、知らない作家のことについて調べたりして、読むのにかなり時間をとられたが、いい勉強になった。

読みながら考えたのだが、以前から主張していることでもあるが、美術というのは作品を直接見ることで成立する視覚芸術である。
音楽の場合は、音響装置を使ってかなりの部分まで再現できるが、美術の場合は、作品の質感やスケール感や展示環境(造形やインスタレーションでは環境も作品の一部となる可能性がある。)が問題となり。きちんと作品を鑑賞する場合は、展示している場所に行って作品と、対峙する必要がある。
従って、美術の世界的流れを知ろうとする場合、できるだけ多くの作品を観る必要がある。
ということは、それだけ作品を観るためには、それだけの場所を訪問する必要があるということになる。
画集やネット等である程度の議事鑑賞はできるが、音楽鑑賞の場合と比較すると、美術の場合は本質的な表現の要素を印刷物や映像では十分な鑑賞できないのだ。(質感、立体感、スケール感・・・・)
美術作品は、世界各地で膨大な数日々生み出されているに違いない。
そうした物をすべて見ることはできないし、日本に限っても、首都圏や大都市圏では、作家の数やギャラリー数も多く、その一部を、作家のファンといった人間関係とか、評論家からの評価や情報とか、ギャラリーのレベルを信じて多数開かれている展覧会中の一握りの展覧会を観に行っているに過ぎないのだ。
そうしたことを考えると、美術の流れや全体像を知ることは難しいと思った。
そのように考えると、音楽ですら無数の楽曲が日々生まれている。
そうしたことを考えると、我々は芸術のごく限られた分野の限られた地域のごく一部を鑑賞しているに過ぎないと言えそうだ。

午後にネットの通信状況を調べていて、WiFiのネットが、我が家に設置されたルーターでは2回線のいずれかを使っているが、1回線しか表示されていなかった。
調べてみるとスマホとメインPCのそれぞれに違う回線が使用されていて、ルーターには今まで通り2本の回線が来ていて、スマホとめいんPCでそれぞれ、回線を分け合っていることが分かり、問題は解決した。
そもそも事の発端は、このときスマホの画像をメインPCのクラウドに画像をアップしようと調べ出したことから調べて判明した。
結局画像は、私の操作ミスでアップできなかったことに気付き、その後正常にクラウドにアップできた。

その後、昨日記を書き投稿してから、副食の食材の買い出しに出かけ、3軒のスーパーを回り、1時間以上費やした。
今回は買い物数が、比較的少なかったので1時間で済んだが、購入する食材の多い時は、数回家とスーパーを往復することになるので、2時間ぐらいかかることもあり、大きな時間的肉体的負担でもある。

夜になってジムに行き筋トレを行ったが、トレーニングする人が多く、腹筋関係のトレーニングができなかった。
結局トレッドミルが空いていたので1.5km近くをトレッドミルで走った。
このとき時速9kmから11kmで走った。
ところで、同じ時に腹筋をしようと考えていたのだが、新顔の女性の仲良しコンビは、おしゃべりしつつ休んだり考えたりお互い助け合ったりしながら、トレーニング器具を占有して時間がかかり、腹筋が出来なかったので、ほほえましくなごむが多少迷惑でもあった。
少し待てば終わったが、急いでいたので、腹筋をせずに帰った。

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昨日記170214火(有償ボランティア ジム ランニング)

2017年02月15日 17時08分06秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
最高 / 最低 8.6   1.3、  曇一時雨後晴
午前中は、ブログの記事を読み返し個人的な健康体験を追加した。

午後は、有償ボランティアで、病院へ車いすを使用しての付き添いのボランティアを行った。
タクシーを使用しての通院だった。
病院は日本赤十字病院だ。
1990年から95年の阪神淡路大震災の年の3月ごろまで日赤病院のすぐ近くでギャラリーを営業していた。
当時日赤は古い病院であり、新しい病院建設は決まっていて、一部工事を始めていたように思う。
この地域で営業していた時に、私が腹痛か腰痛で日赤で受診し、そのついでに、耳鼻科で右耳の聴力回復のための手術が可能かということについても受診したことがあるが、聴力検査の結果、聴力回復の見込みなしという検査結果で手術は無理とのことだった。
今回日赤病院の中に入ったが、昔の面影は全くなかったし、周囲の環境も大きく変わっているようだった。
ギャラリーを西天満に移転した1995年は、震災のみならず、私にとっても激動の年だった。
この年の春、上本町近辺でのギャラリーの廃業を決意していて、虚無感に支配されていた。
その後も様々なことがあって、秋に脳梗塞で入院中の母が老衰で亡くなった。
当時近鉄上本町駅の南にはABCギャラリー(近鉄、朝日放送、大林組)という、大きな現代美術のギャラリーがあり、日本を代表する現代美術コンクールの一つであるABCコンクールもここで行われていた。
そうした関係で、近鉄上本町駅の南で営業を始めて、その後現代美術に関心を持ち出したが、それまで現代美術の知識はほとんど持っていなかったし、現代美術を取り扱うつもりもなかった。
そんな意味でも日赤周辺は、非常に思い出深い地域である。

有償ボランティアからギャラリーの思い出話になってしまった。
ボランティア終了後、社会福祉協議会のボランティア担当に報告に行くと、その部屋に中学校の同窓生のK氏が、おもちゃ病院の打ち合わせで来ていて、ボランティアの業務報告後に彼と雑談し、春に中学校の同窓会を開くということで出欠を聞かれたので、参加の意向を伝えた。
中学の同窓会は、散歩コースを5km程度歩いて途中に宴席会場を入れることが多かったが、今回は、北区の有名ビル内の宴席らしい。

帰宅後昨日記を書き上げ、ジムに行った。
ランニングを行ったが、体が重くかなりしんどい目をして30分近く走った。
途中2度も靴ひもが緩んだため、正確なタイムは、測れなかった。

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昨日記170213月(スマホ、タブレット、キーボードでの文書作成実験成功)

2017年02月14日 19時22分00秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
最高 / 最低 8.5   0.6 晴時々曇、
下記の一文は、13日夜ファストフードでタブレットとキーボードを組み合わせ、ノートPCの形でスマホでWifiデザリングしながら作成したものを、14日にタブレット内のファイルから、ネットを通じメインPCにコピーしたものだ。
これでタブレットと単体のキーボードとメインPCとスマホをリンクさせたネトットワークは、思い描いていた機能を果たせることが実証できた。

今Macで昨日記作成中(2/13)
この日は、午前から午後にかけて副食を8食製造するのに、夕方までかかった。

夕方になって、以前から一度はシステムが完成したが、その後なかなか再現できなかったデザリングとタブレットとキーボードの結合を再度テストした。
はじめはうまくいかなかったが、試行錯誤を繰り返し、かなりの確率で機能するようになったので、いつも行くファストフードに持ち込んでテストすることにした。
この一文は、現在(2/13午後7時過ぎ)ファストフードのテーブルで、ノートパソコンのようにキーボード内臓のアタッチメントにタブレットを立ててPCとして使用しながらタイピングして作成している。
これに先立ち、タブレットとスマホとのデザリングも問題なく成功し、インターネットを閲覧し、昨日記も見た。
ブログの編集画面も閲覧できているので、このままこの一文を投稿することも可能だが、明日仕上げて投稿することにする。
つい最近まで、このキーボードの操作に七転八倒していた。
メインPCのキーボードの扱いとかなり違うし、キーボタンの無いキーも多い。
いろいろ調べていきついたのが、ショートカットキーの多用で、それを使うことで、かなりスムーズに処理でっきることが分かった。
いまは、メインPCにかなり近い速度で打つことができている。
今後、図書館に持ち込んで、調べものの資料作成に役立てることが出来そうなので、楽しみだ。
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