教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

卒業論文発表会に参加して

2007年02月13日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 今日は目覚ましをかけ忘れて、寝坊しました(笑)。
 今日は、学部4年生の卒業論文発表会への参加です。寝坊したので、教育史の人たちの発表を聞けませんでした(ダメじゃん)。発表会の最後をかざる教育方法学研究室の5人の発表を聞き、質問しました。質問した理由は、質疑応答の時にシーンとならないようにという理由と、誰も聞かないのなら自分が気になっているところを聞こうという理由です。
 教育方法は、必ず何らかの理念に基づいて構成されており、その理念はまた別の意図の下に構成されています。その場合の意図を理解するには、キラキラ飾られた理念(タテマエ)を見るだけではなく、その理念を立てる必要性や目的を意味する意図が出現してきた過程を見る必要があります。美しい理念の裏にある、ドロドロした政治的・思想的思惑やら対立などを見逃しては理解できないわけです。また、外国の理論・方法を持ってくる場合、外国は外国自身の目的・意図の下にその理論・方法を編み出したことを忘れてはいけません。外国の理論・方法を研究し、日本の問題を考え直すことは意味のあることです。しかし、同じような教育問題が日本にあるからといって、そのまま持ってきては、理論・方法の本質や内容をねじ曲げることになりかねません。自分のさじ加減一つで事実をねじ曲げてしまうことに無自覚であるのは、研究者としての責任を放棄していることです。あなたしかその研究はしていないのだから、あなたが間違えれば、すべてが間違いをそのままで世間に流布してしまうかもしれないのです。それから、自分の研究に書かれた歴史像が、これでいいか考え直すことも、研究を深めるコツです。歴史は現在を見る鏡ですから、歴史像が曇っていれば現在の問題は的確に捉えられません。
 発表会に参加して思ったことを、えらそうに言ってみました。修論程度の発表に対して何か言うことはまだ難しいのですが、卒論程度の発表なら何が足りないか、何となくわかるようになってきました。発表会後、写真撮影を頼まれていたので、その役目を何となく果たした後、研究室に帰りました。なんとなく「群像」の記事を書きながら、速読の練習。かなり速くなりましたよ。効果はあり。
 今日は、斎藤孝『教育力』(岩波新書、岩波書店、2007年)を読み切り。斎藤氏自身の教育実践や思想を通して、教育にはどのような力が必要なのかを説いた本です。教育者がどのような能力・視点・姿勢を身に付けるべきか、具体的にわかります。教師の仕事がハッキリ見えないとか、何をすべきか迷っている方にはお勧めかもしれません。さすが斎藤氏というべきか、スラスラ読めます。前向きで希望に満ちてキラキラ(?)した内容に、「うぅ…ぅ!だ、だまされないぞっ!」と素直に受け入れられないのは、私が疑いすぎなのでしょうか?(笑)
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学校選択制のマイナス面

2007年02月12日 18時05分10秒 | 教育研究メモ
 今日は振替休日なので、ゆっくり登校。
 広田照幸『教育』(思考のフロンティア、岩波書店、2004年)を半分ぐらい読む。同著の内容は、社会化と配分の側面、および個人化とグローバル化の側面から、学校選択制と新自由主義的教育改革を読み解こうというものです。今日は、学校選択制に関する部分を読みました。同著で言いたいことは、学校選択制導入による公立小中学校の多様化は、将来の進学・職業選択(ひいては将来の収入や地位)を義務教育段階から固定化し、学校空間における「異質な他者との共在」を困難にしてしまうということです。これは、学校選択制導入が、個人の権利や自由の保障につながるよりも、最も望ましい進学や就職の機会を学校に入学した段階から断念しないといけない事態を生み、社会意識の分断と生活世界の局所化、および異質な他者への無関心や不寛容を生みかねないことを意味しています。学校選択制を有効に利用するには、その機会を利用することができなくてはなりません。すなわち、親または子どもが、どの学校が良い学校か情報を得ることができ、その情報の中から学校を選択でき、良い学校に行くために地域を移動することができなくてはならないのです。学校が選択できます、という制度だけでは、結局お金も教育もある富裕階層のみが学校選択制を有効に利用することができるだけで、お金も余裕もない下層の人々にとっては縁のないことなのです。これでは、有利な進学・職業選択を行える人々は限られ、富裕階層は富裕階層の、下層は下層の社会がより凝り固まっていき、社会の格差はより深刻なものになるのです。
 深刻な問題を抱える生徒が学校を容易に変わることが可能になり、家族が主体的に教育を選べるという意味では、学校選択制に意味がないとは思いません。ただ、地域の共同性を高め教育力を高めようだとか、貧富の格差を縮めようだとか、異質な出自・国籍・性別・地位の間に相互理解を生み出そうだとか、そういったことが必要な時に、それらにマイナスな働きをしてしまう学校選択制は、そのままの形で取り入れる必然性はないように思います。また、教育の存在意義の一つでもあると思われる、教育を受ければ将来にはよい生活を送ることができるという希望すら奪うのは、とても許されることではないでしょう。今のところ、学校選択制の全国的な採用は見送りの状態のようですが、強引に採用しようとしている人たちは、プラス面だけではなくマイナス面も踏まえて考え直してほしいところです。
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教師と生徒の関係づくり

2007年02月11日 19時20分38秒 | 教育研究メモ
 今日もゆっくり起きました。
 山田浩之『マンガが語る教師像』(昭和堂、2004年)読み切り。熱血教師という教師像の向かうべき方向性を、1970年代のマンガに出現し、1980年代~1990年代に不良教師に取って代わられて衰退し、2000年代に再び別の形で復活してきた、マンガにおける熱血教師像の歴史をたどることで指し示す本です。この本によれば、今の教師には、熱中できる「何か」を生徒に提供するという意味で「熱血」が求められており、生徒が熱中できるものを見つけた時は身を引いて時には助言・諫言しながら見守ることが求められているということです。私も学習塾で小学生を教えていたことがあるのですが、児童たちが楽しんでいる中に、ついつい自分も入っていきたくなる気持ちが盛り上がった時がありました。初等段階と中等段階では違うかもしれないですが、でもそれは教科指導や生徒指導の時に必要となる「教師の権威性」を損なう上、生徒たちは、教師に自分たちを理解することを求めてはいても、自分たちの文化の中に教師が完全に入り込むことは求めていないことを考えると、慎むべきことなのかもしれません。生徒と仲良くなるという意味では、たまにはいいかもしれないですが。
 「群像」もupしました。
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マンガが語る教師像

2007年02月10日 20時13分10秒 | Weblog
 今日は若干ゆっくり起きました。昨日、何かとストレスがたまっていたので、無理しないようにと思いまして。
 昼から登校。今日は、山田浩之『マンガが語る教師像-教育社会学が読み解く熱血のゆくえ』(昭和堂、2004年)を読んでおりました。1970年代から2000年代初頭までに出版されたマンガを通して、マンガの読者であった学校生徒・若い主婦層が抱いていた教師像(関連して学校像)を明らかにする本です。自分たちに踏み込むことは拒絶するが、一方で自分たちの問題を解決してくれる、という矛盾した教師像を抱く生徒たち、休みも多く簡単で楽な仕事に従事しているという教師像を抱く若い主婦層、という事実が浮かび上がり、非常に興味深く思いました。内容は新書本のように読みやすい。なお、山田浩之氏は、我が広島大学教育学講座の助教授でもあります。私もときどきお世話になっており、学問に対する姿勢など尊敬する先生の一人です。
 夜、友人Yと映画へ。お互い疲れているようで(笑)。『墨攻』見に行ってきます。
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不安がこみ上げてきました。

2007年02月09日 20時51分59秒 | Weblog
 今日はものすごい濃霧。午前9時を過ぎても100mくらい先が見えないくらい。
 午前中、Y先生の論文を先生の授業で批評するように言われていたので、授業に出ました。12時10分からは、M先生とS先生の発案による「BBL」なる集会に出ました。「BBL」とはブラウン・バッグ・ランチョンの頭文字をとったものだそうで、M先生が留学していたアメリカの大学での慣習だそうです。みんな共通に都合がつく昼食luncheon時に不定期に会を開いて、講座の先生方の専門的研究を伺おうという趣旨の会でした。今日はH先生の研究の深いところを伺いました。今まで部分的にちょこちょこ伺っていたのですが、今日の説明でかなり理解できたように思います。「質問したいけど質問がまとまらないなぁ。気になったところも、さっき説明した内容で十分説明できるような気がするなぁ…」などと考えながらお話を聞いていると、突然振られてまとまらないまま質問するハメになりました。H先生の発表内容は、私が何となく考えていたことに似ているような気がした上、当然ながら私のそれ以上に整理されており、非常に興味深く聞かせていただきました。それだけに、あんな質問してしまったのはもったいなかったなぁ。
 友人と昼食をとった後、研究室に戻るとY先生から呼び出されていました。急いで先生の研究室へ行く。内容は、今日の授業で論文を批評してどうだったか、それから、H先生の話を聞いてどう思ったか、という対話と、審査会を19日に開くからそこで発表するように、との連絡でした。質問は、対話しようとしてくださったと感じ、正直うれしくなりました。しかし、質問にはまともに答えられず、自分の研究に密接な関係がある質問だっただけに自己嫌悪状態に。そこに審査会発表の話を聞いたもんで、またたどたどしい説明をしてしまいそうな気になり、不安になってきました。その関係で、H先生に昼間の発表について質問したいことが出てきたのですが、残念ながら先生はお忙しかったので断念しました。
 結局気がついたらもう夜。今日は何だかあっという間に過ぎ去ってしまいました。
 は~、審査会、不安でたまらない。
 昨年9月の研究科紀要の審査会を思い出すと、もうたまらないほど不安になってくる。
 なるようにしかならないし、やってきたことしか出せないので、不安になっても仕方ないのですがね。
 いちおう何かを残しておきたかったので、「大日本教育会・帝国教育会の群像」をupしておく。
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大日本教育会・帝国教育会の群像

2007年02月08日 18時28分29秒 | 教育研究メモ
 今日は久しぶりに早朝起きられました。午前中、教育基本法のお勉強と「群像」のデータを作った後、運動へ行こうと思っていたのですが、「群像」の執筆がノってきたので移動する時期を逸しました(笑)。私の主要研究対象である大日本教育会・帝国教育会を人間の集団であったことを示すため、個人会員の伝記を一人一人地道に書き続ける研究調査用ブログ、「大日本教育会・帝国教育会の群像」更新。数が集まってくれば、正確な集団的性格も導き出せるかも、と考えています。また、人物事典などに載りそうもない、地道に実践・活動をしていた一教育者にもスポットを当てる試みにもなっていると思っています。派手な功績を遺したわけではなくても、歴史はあくまで一人一人の実践・活動を基礎にして成り立っているものだと思うので、歴史をクリアでリアルなものにするには意味のある研究調査だと思ってます。まあ、何にしても気の長ーい試みですが(笑)。今日の記事は沢柳政太郎。沢柳以降の会長は昭和期に入って時期が近くて死亡後50年経ってなさそうなので、これで会長編は止め置く。その後、何人かの幹部の伝記を書く。明日以降連投できるくらい、いくつかストックができました。
 また、中野光「帝国教育会の歩み-『帝国教育』を読む」(『戦間期教育への史的接近』中野光教育研究著作選集3、EXP、2000年、43~92頁)を読み返しました。あとは、家で読書しよう。
 以下、お勉強。

  【第6条】
○旧教育基本法第6条(学校教育)
 1 法律に定める学校は、公の性質をもつものであって、国又は地方公共団体の外、法律に定める法人のみが、これを設置することができる。
 2 法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない。
○新教育基本法第6条(学校教育)
 法律に定める学校は、公の性質を有するものであって、国、地方公共団体及び法律に定める法人のみが、これを設置することができる。
 2 前項の学校においては、教育の目標が達成されるよう、教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならない。この場合において、教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めることを重視して行われなければならない。

 旧法第6条の1は、学校の設置主体を原則的に国と地方公共団体とした。ここでは、その「外」の学校設置主体として、法律に定める法人を認める記述となっている。新法第6条では、国・地方公共団体・法律に定める法人は並列に記述され、この3つの主体「のみ」が学校の設置主体となることを定めている。
 旧法第6条の2に規定された学校教員に関する規程は、全面的に新法第9条(教員)に移動した。代わりに新法第6条の2では、学校生活上の規律の重視と自主的な学習意欲の向上を目指した、被教育者の心身の発達に応じた体系的教育の組織的実施、という学校教育の基本的性格が定められている。なお、このような学校教育は、第1章第2条の「教育の目標」を達成するために行われるものだとした。
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在宅充電、速読の効果

2007年02月07日 23時55分55秒 | Weblog
 今日も在宅充電中。どうにもモチベーションが上がってこないので困る。
 昨日買った速読の訓練用ソフトについて。このソフトは一週間で3000字/分を読むことを目的とし、一日一日異なるカリキュラムを課すもの。今日で二日目で1200字/分の課題を消化しました。確かに効果が出てるようで、かなり読書が早くなったように思います。読む速度が速くなると、うれしくなってさらに本を読みたくなる。ただ、気をつけなければならないのは、「本を読んで自分で考えること」を忘れないこと。速読は言語として文字を読むのでなくイメージで文字を読むらしいのですが、確かに油断すると「読んだ気になって」理解したような気になる。下手をすれば、「読み飛ばす」状態になりそう。慣れてくればそんなことはないのだろうけど、「読む能力」と「話す能力」「書く能力」はたまた「得た知識を応用して自分の意見を表現する能力」は違うみたいだから、さもありなん。気をつけよっと。
 今日は、苅谷剛彦『学校って何だろう―教育の社会学入門』(ちくま文庫、筑摩書房、2005年(苅谷剛彦『学校って何だろう』講談社、1998年の再版))を読みました。学校を考える批判的な視点を形成する上で、かなり便利な本かも。中学生向けの文庫本なので読みやすいのもありましたが、従来、新書・文庫本は1日まるまる使って1回読めればいいほうだったのですが、今日は1回全部ざっと読んでおおまかな内容を把握した後、もう1回内容を理解しながら読んで(この回は一冊の半分より少し多いくらい)、さらにもう1回理解した部分を線を引きながら精読することができました。いや、すげーわ。
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日本人のしつけについての本

2007年02月06日 23時55分55秒 | Weblog
 今日はどうも動く気にならず、在宅。修論の発表会があったので出席したかったのですが、配布されたレジュメを読むだけで勘弁してもらうことにする。
 体重・体脂肪計(¥3280)を買って寝起きの体重・体脂肪を測定し、グラフにすることを始めました。『新撰速読マスター』(¥1480)というPCソフトを買って、速読のトレーニングを始めました。
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか-「教育する家族」のゆくえ』(講談社現代新書、講談社、1999年)を読み切りました。戦後、高度成長期において家族が核家族化する過程で、家族・地域・学校の関係が変容し、しつけについて最終的な責任を負う「教育する家族」が主流になった、という内容は、非常に興味深かったです。この本では、大正期ごろの家族・教育・しつけの状況から、1990年代くらいまでのそれらについて書かれています。我が家の家族やしつけについて、歴史的背景のもとに考え及ぶことができ、非常に有益な時間を過ごすことができました。新書なので読みやすく、お勧めです。
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何にもならん心の葛藤

2007年02月05日 18時53分35秒 | 教育研究メモ
 今日も鼻づまりで寝起き最悪、若干フラフラ(笑)しながら生活しておりました。いい加減、継続的に健康な生活がしたいです(笑)。
 藤田正勝編『知の座標軸-日本における哲学の形成とその可能性』(シリーズ・近代日本の知第1巻、晃洋書房、2000年)を斜め読み。それから近代日本哲学史の研究論文を少し集める。
 何だかやる気のでない一日でした。D4(博士課程後期4年目)審査の結果もまだだし。D4になれるかなれないかで、やることも少し違うように思うからなぁ。D4になれば博論執筆まっしぐらに研究をまとめる必要がありますが、D4になれず研究生になるなら個々の論文一本一本に集中していく必要があると思うのです。現状、中途半端な気分でありまして、何に向けて頑張ればいいのかよくわからないのが正直な気持ちです。そこへ、本日某学会から大会での研究発表申請のお知らせが来たのですが、そうなると
 「発表しようかな~発表したいテーマも内容(ただし博論とは直接関係ない)もあるしなぁ~」
 「いやいや、この学会では博論に直結する発表はできないし、博論に集中すべきだ!」
 「でも博論書かせてもらえるかどうかもわからんし…」
 「い、いや…書かせてもらえない、と決まったわけでもないぞ! だから早まるな!」
という、何にもならない葛藤にさいなまれるハメに。他の研究室の方々みたいに、D4以上をやって博論を書くことを前もって約束されている状態が、何とのう、うらやましく感じる日々です。ま、グチを言っても、手に入らないことをうらやんでみても、現実は変わらないので、ここまでにしておきます。
 では、教育基本法のお勉強でしめる。

  【旧第5条】
○旧教育基本法第5条(男女共学)
 男女は、互に敬重し、協力し合わなければならないものであって、教育上男女の共学は、認められなければならない。
○新教育基本法
 (該当条文なし)

 旧法第5条は、男女共学について定められていた。新法には、男女共学について、条文によって特別定めていない。男女相互の敬重・協力を基礎とした男女共学の認可は、教育基本法にて定められるところではなくなった。なお、関連条文としては、新法第2条(教育の目標)の3において「男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずる」態度を教育目標の一部に掲げ、かつ新法第4条(教育の機会均等)において性別によって教育上差別されないことが定められている。
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睡眠時無呼吸

2007年02月04日 23時55分55秒 | Weblog
 風邪気味でひどく鼻がつまります。睡眠時無呼吸の症状をもっておる私としては、かなりつらい。何がつらいって、起きていても息がうまくできない、眠っても息ができないことですがな。寝る直前に点鼻薬を使って何とかごまかしておりますが、効き目はだいたい3時間前後くらいしか続かないので、それくらいの時間で目が覚めるか、無呼吸の症状がてきめんに出てなかなか起きあがれなくなるか、の二択になります。どちらにしても睡眠不足状態で、困ったものです。あと、最近寝付きが悪いので、こないだ意識のあるままで一瞬無呼吸状態を体験しました。意識があったのですぐに「呼吸せよ!」という気合とともに呼吸できたのですが、これはとても苦しい。睡眠時にこの状態が続けば「そりゃあ寝た気はしねぇし、寝たのに疲れた~!って感じにもなるよなぁ」と実感しました。あぁ~、早く体重減らして、快適な睡眠をむさぼりてぇなぁ。
 今日は、広田照幸『日本人のしつけは衰退したか-「教育する家族」のゆくえ』(講談社現代新書、講談社、1999年)を読んでおりました。
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『どろろ』見てきました

2007年02月03日 23時55分55秒 | Weblog
 今日はお休みです。広島市内まで行って久々に服を買ってきました。
 あと、映画『どろろ』見ましたよ。俳優陣の熱演と、感動するポイントが多かったので、楽しめました。とくに柴咲コウの超好演! 映画は原作と違って「どろろ」が成年女性なのは、見る前は「まじかよ、大丈夫か?」と不安だったのですが、結果は見事にいい方へ化けたという感じだったと思います。柴咲さん、すげー俳優だよ! 残念なのは、世界観がどうも突拍子がなくて入り込めなかったり(架空設定があまりに架空すぎてしっくりこなかった)、特撮のにおいと中国+ハリウッドのにおい(消化できてないような気がします。妖怪が平面ではなく縦にも動くので仕方ないかもしれないけど、日本人は普通に時代劇的な殺陣で切り結んでくれた方がいいように思う)がきつくて、作品としてだいぶもったいなかったかなぁ。
 久しぶりに、休日らしい休日を味わった気がします。

 そうそう、本日、新田義之『澤柳政太郎-随時随所楽シマザルナシ』(ミネルヴァ書房、2006年)を読み切りました。今や手に入れにくい沢柳政太郎の伝記を普及させ、沢柳という人物を広く知ってもらう、という意味では、評価できるのではないかと思います。ただ、感想を一言で言えば、この本は2006年に出版された本だが、実は1970年代の作品なんじゃないか、と感じました。また、筆者の新田氏は自分は教育史家ではないと宣言していますが、確かに日本教育史の基本的知識には難があります。私のような初心者でもわかる間違いがちらほらあって残念です。
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「日本の学問」を考える基本姿勢

2007年02月02日 22時48分05秒 | 教育研究メモ
 今日は二種類の論文を読書していました。一つは、Y先生に課題として出されたY先生の論文。来週末、先生の授業で批評するようにとのことです。さすが読んで論文の意図と内容はよくわかったのですが、うまい質問がなかなか思いつかない。質問を考えるのって難しいな~。
 もう一つは、藤田正勝「日本の哲学?」(藤田正勝編『知の座標軸-日本における哲学の形成とその可能性』シリーズ・近代日本の知第1巻、晃洋書房、2000年、3~19頁)を読みました。哲学は普遍的な原理の探究行為であり、日本における哲学とヨーロッパにおける哲学とは同じだから、特殊性・特異性を強調するための「日本の哲学」という言葉はおかしい、とする意見があります。これに対し藤田氏は、日本の文化・思想の特徴と制限を自覚する立場から、他者(たとえばヨーロッパの哲学など)との対話のために「日本の哲学」という言葉が使われるのであれば、おかしくないと反論しました。同編著の「日本における哲学」を探究する基本姿勢は、この藤田氏の姿勢にあるようです。
 この本を読んだのは近年出された近代日本哲学史の本だからでして、当然「哲学の制度化」について書いていないかなという期待を持って読みました。ザッと読んだところ、残念ながら本書は大半が学説史であって、あわよくば自分の研究に使ってやろうという私の期待は若干はずれたようです。ただ、「日本の~」を研究する際の注意点(研究の先に国際比較があるべきこと)は興味深く思いました。たしかに、日本の特殊性・特異性のみを強調することは、日本の優秀性または劣等性を強調することにつながりがちです。へたをすれば、ナショナリズムの行き過ぎや伝統の軽率な破棄を、学問が保証することになるわけです。他者の存在を肯定的に前提に置くことは、消極的にはそのような過ちを防ぐ方法であり、積極的には普遍的な学問を構築するカギにもなるわけです。教育学の場合も、昭和期の「日本教育学」や明治初期の「啓蒙主義教育思想」の例をみれば他人事ではありません。近代日本教育学史研究を進めたい私としても、やはり優秀/劣等とか先進/発展途上とかいった視点で研究することは戒めなくてはならないなぁ、と改めて思いました。
 さて、いつもの教育基本法の勉強を。

  【第5条】
○旧教育基本法第4条(義務教育)
 1 国民は、その保護する子女に、九年の普通教育を受けさせる義務を負う。
 2 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料は、これを徴収しない。
○新教育基本法第2章第5条(義務教育)
 国民は、その保護する子に、別に法律で定めるところにより、普通教育を受けさせる義務を負う。
 2 義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする。
 3 国及び地方公共団体は、義務教育の機会を保障し、その水準を確保するため、適切な役割分担及び相互の協力の下、その実施に責任を負う。
 4 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料を徴収しない。

 新法第2章「教育の実施に関する基本」の第5条では、義務教育について定められている。旧法第4条の1において、普通教育を受ける対象であった「子女」は、新法においては単に「子」と変更された。また、新法第5条の序文は、「別に法律で定めるところにより」という文が新しく挿入されている。この文面だと、子に普通教育を受けさせる保護者の義務は、別に定める法律によって発生することを意味しているように思われる。なお、旧法で「9年」と定められた義務教育の年限は、新法ではとくに定められていない。
 旧法第4条の2については、新法第5条の4にほぼそのままの文面で引き継がれた。一方、新法第5条の2は新しく定められ、義務教育としての普通教育の定義をしている。新法第5条の3も新しく定められ、国と地方公共団体の義務教育整備に対する責任と役割分担の必要性について言及されている。
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学問史・研究体制史(制度史)

2007年02月01日 18時26分50秒 | 教育研究メモ
 模様替えしてみました。「闘い」が終わったわけではないし、結果が出たわけでもないですが、現在私の中ではすでに区切りができて、切り替えがついているので、そういう気分になったのかも。
 昨日、病院へ行って新型のCPAP機器(無呼吸治療の機械)をもらってきました。前に使っていたのは1年半ほど前にもらったやつだったのですが、先日までの日記でもわかるように、このところ有効に機能していませんでした。そこに新しい機械をもらったので、さっそく昨晩から使ってみました。やー、お医者も言っていましたが、性能が良くなっているのが体感できます。おかげで今朝は普通に目が覚めました。若干前よりうるさいのと、マスクが慣れていないので具合が悪いのを我慢すれば、非常に満足しています。
 今日は朝から登校。昼に久しぶりに体育館で運動(昨日体重を量ったら元に戻ってた)。運動後、再登校して読書。一度は斜め読みをした、佐藤達哉『日本における心理学の受容と展開』(北大路書房、2002年)を気を入れて読みました。通史的な心理学史を受容史・制度史研究の方法で少しつっこんで研究したもの、という感じでしょうか。叙述等に不満が残りますが、勉強させてもらいました。とくに佐藤氏が同著で大きくとりあげている元良勇次郎は、大日本教育会・帝国教育会でも活躍していた人物なので、興味深く読ませてもらいました。
 「学史」といえば、たいてい「学説史」または「思想史」を意味する学問領域は多いようです。でも、私は、学史は、「研究体制史」(または「制度史」)抜きでは語れないはずだという立場をとっています。この立場(思い?)は、中山茂『歴史としての学問』(中央公論社、1974年)に強く影響をうけて導き出したものですが、その後、心理学の現状を見てさらにその思いを強くしたといういきさつがありました。近代日本心理学史の制度史的研究は1990年代ごろから研究が盛んになったようで、今では『心理学史・心理学論』という専門雑誌が出るほど。また、心理学史教育も盛んで、『通史近代日本の心理学』や放送大学教材の『心理学史』など教科書が何種類も出され、大学で専門の講義が開かれています。広島大学でも教育学部心理学講座が「心理学史」の講義を開いています。ほかにも人文社会科学系の学問のなかで、近代日本を対象とし、制度史(研究体制史)の視点を有する「学史」が盛んなのは、社会学史なんかがあります。社会学史学会(機関誌『社会学史研究』)ができるほど。政治学史・経済学史なども、古くから優れた研究があります。まあ、「これも部分的には研究体制史かなぁ」と言い始めると、キリがないですが。
 さて、ついでに教育基本法の勉強。

  【第4条】
○旧教育基本法第3条(教育の機会均等)
 1 すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであって、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
 2 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない。
○新教育基本法第1章第4条(教育の機会均等)
 すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
 2 国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。
 3 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学が困難な者に対して、奨学の措置を講じなければならない。

 第4条は教育の機会均等について定められている。旧法の1・2の内容については、新法でも語句・言い回しの変化はみられるが内容にとくに変化はない。新法では、新たに「障害」のある者への教育機会の支援について定められた。「障害の状態」に応じて必要な支援を講じるためには何らかの基準が必要である。国家の法令において定めたのだから、専門家・実際家の意見を聞いて、早急に国家の基準を設けなくてはならないだろう。
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