錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

映画『祇園祭』ノート(4)

2018-10-23 14:26:11 | 錦之助ノート
 1967年7月から10月までを、映画『祇園祭』の第一次製作準備段階としておく。
 製作が本格的に軌道に乗ったそのスタートは、7月18日。京都府庁知事室で、蜷川知事、山田副知事が、錦之助、伊藤大輔、竹中労と初めて会見し、蜷川知事が「京都府政百年」記念事業の一環として映画『祇園祭』の製作を全面的に支援することを確約した時である。この時、蜷川知事は京都府が1億円を補助すると提案したが、竹中はそれを断り、あくまでも京都府からの資金融資(返済する借入金)で良いと主張したという。京都府のPR映画を作るのではなく、スポンサーに拘束されない自主製作映画にこだわったわけだ。

 8月19日、京都府大グラウンドの盆踊り大会で、挨拶に立った蜷川知事が映画『祇園祭』の製作を発表。錦之助も挨拶。(当ブログの『祇園祭』ノート第2回参照)
 8月20日 スタッフ全体会議。(当ブログ第3回参照)
 8月21日 京都府庁で製作発表記者会見。錦之助、伊藤、竹中が出席。三人は東京へ移動し、午後、帝国ホテルで記者会見。出席者に映画評論家の南部僑一郎が合流。(当ブログ第1回参照)


帝国ホテルでの記者会見。左から、錦之助、伊藤大輔、南部僑一郎

 8月31日 竹中が『祇園祭』のジェネラル・プロデューサーとして当てにしていた元日活専務・江守清樹郎と会見。就任を懇請するも、「キミじゃなくちゃ、この映画はできないよ。志を立てた以上、キミ自身がやりぬくべきだ。人にまかせることじゃあるまい」と言われ、断られる。その代りに江守から、アシスタント・プロデューサーとして久保圭之介を紹介される。
 *この久保というのが問題の人物で、彼に協力を依頼したことが、竹中の大きな誤算だった。久保圭之介については回を改めて後述する。

 8月初めに脚本を依頼した鈴木尚之が辞退したため(鈴木は結局、翌年5月には清水邦夫との共同執筆ということで承諾し、脚本を書く)、伊藤大輔の希望により、八尋不二が脚本を書くことになる。しかし、伊藤の意向も加え原作を改変して脚色した初稿は、原作者の西口克己が気に入らず、八尋が9月半ばに書き上げた第二稿(八尋のオリジナル脚本に近かったという)は、伊藤大輔の意に添わず、ボツになる。それで、八尋は脚本担当を降りた(「キネ旬」1969年3月下旬号に八尋不二の文章がある)。その後、脚本は加藤泰(共同執筆者がほか2名いたというが、誰だか不明)が書くことになったが、加藤の脚本も決定稿に至らず(「キネ旬」の伊藤大輔「祇園祭始末」)。

 10月半ばには、竹中労が、『祇園祭』の製作をめぐり、日本共産党京都府委員会と対立し、京都府議会(および市議会)の共産党有力議員たち(X氏、西口克己ほか)の圧力で、製作から排除される。竹中は共産党も除名された。

 これで『祇園祭』の製作は、いったん座礁に乗り上げ、中断されたのである。
11月のクランクを予定して、多分錦之助が声をかけたことで出演に快諾した俳優たちもキャンセルされる事態になった。製作発表時に名前が挙げられた面々(新聞にも書かれた)、伊藤雄之助、小沢昭一、石坂浩二、加賀まりこ、中村勘三郎、中村賀津雄のうち、一年後に製作された映画に出演したのは、伊藤雄之助と賀津雄の二人にすぎない。
 しかし、周知の通り、最終的には、映画『祇園祭』のキャスティングは錚々たる男優・女優が並んで、映画が大ヒットする大きな要因の一つになる。



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