錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

錦之助を語る――(その一)山根伸介

2018-10-18 21:53:02 | 錦之助ノート
 『祇園祭』ノートだけでは詰まらないと思うので、今日から合間合間に、錦之助について、いろいろな人が語る錦之助論や錦之助の思い出をピックアップして、連載したい。
 小生も長年錦之助を追いかけ、たくさんの本や雑誌を収集してきたので、紹介する材料には困らない。
 で、第一回は、チャンバラ・トリオの山根伸介(1937~2015)の『私を斬った100人』(昭和56年、レオ企画)から。



 チャンバラ・トリオと言えば、60年代後半から70年代前半までの10年間が人気絶頂期だったと思う。当時はトリオでなく4人組だった。リーダーが山根で、頭(カシラ)の南方英二がハリ扇を持ち、ボケの伊吹太郎が叩かれ役、それに太った結城哲也がいた。


左から、南方、結城、山根、伊吹

 みんな東映出身で、南方、伊吹、山根の三人は東映「剣会(つるぎかい)」のメンバーだった。殺陣のシーンでの斬られ役である。昭和30年代の東映時代劇の画面にいちばん顔を出していたのは南方英二だった。彼は楠本健二(『笛吹童子』の斑鳩隼人役ほか)の弟。
 山根伸介は、東映時代の芸名は髙根利夫といった。彼が斬られ役をやった名場面は、『宮本武蔵 般若坂の決斗』のラスト、武蔵と浪人たちの決闘シーンである。錦之助に斬られ、胸から血を噴き出して死ぬ浪人が彼だ。身体中にホースを巻き付け、血の出る仕掛けをしていたという。



 山根は、『一乗寺の決斗』のラストシーンにも斬られ役として出演しているというが、未確認。
 伊吹太郎は、東映時代の芸名は伊吹幾太郎といったそうだが、大友柳太朗の付き人をやっていて、斬られ役としての出演は少なかったようだ。
 山根、南方、伊吹の三人が東映を退社し、チャンバラトリオを正式に結成したのは、1965年(昭和40年)。
 結城哲也は、東映入社が三人よりずっと後で、高倉健の付き人だったが、1968年に南方が病気で休養した時に代役としてチャンバラ・トリオに参加。南方復帰後も結城が居残ったため、4人組になったそうだ。

 映画『祇園祭』(1968年)のキャスティングに山根(利夫)、伊吹(幾太郎)、結城が山科の一揆の場面で出演している。南方はこの時、病気療養中だったという。



 さて、山根伸介は、「私はこの人の大ファンなので、書くことがメロメロになってしまうかも知れない」と前置きして、錦之助とのエピソードを六つほど書いている。その一つを紹介しよう。

 チャンバラトリオを結成して三年目、京都南座の松竹名人会に出演したときのこと――。
 だしものは、ご存知長谷川伸の名作『瞼の母』を、珍版としてネタにしていた。
 ある日、楽屋に、大きな舟型のうつわに盛りこんだ豪華な寿司、二十人前ほどが届けられた。
「誰や、こんな豪華なことしてくるの」
 見ると、“チャンバラトリオさんへ 陣中御見舞 中村錦之助”とあるではないか。
 一同、肩を叩き合った。東映を退社するとき挨拶にうかがうと、
「よく決心したなあ。しっかりやれよ」
 と励ましてくれ、門出の祝だと、楽屋のれんを贈ってくれた若旦那だったが、三年経った今また……!
 私たちはカンゲキして舞台をつとめた。
「若旦那、きっとどこかでみたはるぞ」
 その日はおかげで、客席は大爆笑の渦だったが、終わってエレベーターをおりたとたん、
「イヨッ、おめでとう」
 思った通り、現れたのだ。
「あ、若旦那、どうもありがとうございました」
「がんばってるなあ、面白かったよ」
「ありがとうございます」
「ところでな……三公」
 三公とは、南方英二のニックネームだった。
「あそこは、醒が井から南へ番場……じゃないよ。南へ一里磨針峠の山の宿場で番場……だよ。いくらお笑いでも、定まった名セリフはきちっと言わなきゃ、お客に失礼だよ」
「は、はい……」
 さすがは若旦那、こういうときでも芝居には厳しく、アドバイスしてくれるのだった。
 その後、楽屋で、ほかの出演者たちに向かい、若旦那は頭をさげられたものだ。
「みなさん、チャンバラトリオをよろしくお願いします」
 私は、グッと熱いものがこみあげてきて、たまらなかったことを覚えている。




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