錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『宮本武蔵』(その二十八)

2007-07-25 11:05:19 | 宮本武蔵
 先日、『宮本武蔵・第五部巌流島の決斗』のDVDを二度観た。これで、この2ヶ月間に第五部は計五度観たことになる。吉川英治の『宮本武蔵』も映画で描かれた箇所だけ、もう一度ざっと読み返してみた。正直言うと、第五部を何度も観ているうちに、映画のアラが目に付いてきてしまった。それで、どうにも困っている次第なのだが、今さらお茶を濁すわけにもいかないので、私の感じたままを書いてみたいと思う。

 『宮本武蔵』第五部は、それなりに見せ場は多いのだが、場面が次から次へと変わり、またそれぞれが断片的で相互に発展的なつながりがないためか、盛り上がりに欠けていたと思う。第一部から第四部までは全篇の随所に、映像のダイナミズムともいえる怒涛のような迫力を感じた。それは、連続する場面がうねりを生み、それが重なって大きな波となって押し寄せてくるといった感じだった。が、第五部は、残念ながら迫力不足だったと思う。テンポよくストーリーは展開していくが、ここぞといった場面で有無を言わせず観客を呑み込んでしまう吐夢の映画独特の醍醐味は希薄だった。ラストの巌流島の決闘の場面は、さすがに迫力があって凄いと感じたが、前半で武蔵が野武士と闘う場面や、後半で小次郎が槍使いの岡谷某と試合をする場面は、息を呑むほどでもなった。

 第五部の前半では、秋の野原で武蔵が少年伊織と出会い、孤児になった伊織の家に住みついて荒地の開墾に従事するくだりがハイライトであろう。武蔵は剣を鍬に持ち替える。大地を耕し作物を収穫するという人間本来の生産的な営みの中に、武蔵は新たな人間修養の道を模索しようとする。吉岡一門との壮絶な闘いの後、武蔵はこのまま剣の道を突き進むことに疑問を感じる。自らの剣の修業のために闘いを求め、多くの人の命を奪い、血で穢れなければならない生き方が、いったい人間修養になるのか。武蔵は武者修行の旅をやめ、大地に足を据えて自分を見つめ直す。
 原作ではこの部分は、武蔵が開墾の困難を感じ、治水の大切さを知って、村人の協力を得ながら政治的な人間を志向する過程として描かれている。「修身」から「治国平天下」を目指すという儒教思想の色合いがいかにも強いところで、原作を読むとかなり古臭い感じを受ける。吐夢の映画では、そうした武蔵の政治意識の高まりは描いていない。武蔵は単に生産的な生活者という人間の原点に立ち戻り、自己反省の日々を送るにすぎない。武蔵は伊織と二人で石ころだらけの土地を耕し、秋に米二俵を収穫し、村の穀倉に納める。その直後に襲って来た野武士を征伐し、武蔵と伊織はこの土地を去って江戸に向かう。原作に比べ、ずいぶんあっさりとした描き方だったと思う。
 ただ、映画ではこの場面が一乗寺の決闘の比較的すぐ後に来るので、武蔵が殺した少年源次郎のイメージが伊織の姿にダブって映り、孤児になった伊織を見捨てずに武蔵が弟子にするのも心の慰めを求めているように見えたことも確かである。当然吐夢はその辺の効果も計算に入れていたのだろう。武蔵が伊織を弟子にして一緒に生活するのは、源次郎を殺したことへの罪滅ぼしだったのかもしれない。とはいえ、第五部を観ていると、罪のない少年を殺した武蔵に対する吐夢の批判は鋭く、吉川英治の原作にはないほどの追及の執拗さを感じる。率直に言って私は、武蔵が吉岡一門の名目人である少年源次郎を殺したことに吐夢がこだわり過ぎて、テーマを狭くしてしまったのではないか、という印象を持っている。映画の後半、吐夢はあえて、武蔵に伊織を連れて一乗寺下がり松を訪ねさせ、木の根元に親子地蔵を置き、近くの小屋で盲目の坊主(武蔵が斬った吉岡の門弟、林である)が石像を彫っている姿を目撃させて、武蔵に自責の念を感じさせる場面を挿入しているが、原作にはないこの場面をわざわざ入れてまで、武蔵を悩ませる必要はなかったのではないかと思う。
 また、武蔵が小次郎と決闘するため船島に渡ろうとする時にも、武蔵に会いに来たお通に「無情なのは、剣ではなく、あなたの心です」という痛烈な言葉を投げつけさせている。結局、武蔵の心にわだかまって絶えず彼を悩ませ続けてきた自責の念が、小次郎を倒し船島から帰る舟の中で、極限に達し、自己否定の言葉となって表れる。武蔵は血に染まった手のひらを見つめ、これまでの闘いを追想し、櫂の木刀を海に投げ捨て、こう叫ぶ。「所詮、剣は武器か!」これはもちろん原作にはない言葉で、吐夢と鈴木尚之による創作である。が、このラストのセリフに関しては、良いか悪いか、人によって意見が分かれるところであろう。が、私は、このセリフは、むしろ一乗寺の決闘の後で言うべきセリフではないかと思っている。船島での決闘は、武蔵も小次郎も避けられない宿命であり、また両者が望んで行った闘いであった。だから、小次郎を倒したからと言って、武蔵があれほどまでに悩むことはないのではないか。武蔵が使ったのは木刀であり、剣ではなかった。剣は武器であることは、当たり前のことであり、今さら自覚することでもない。なぜ、小次郎を倒した後で、武蔵がこれまでたどってきた半生に虚しさを覚え、自己否定するのかも分からなかった。
 前半の終わりで野武士に穀倉が襲われ、武蔵は剣を取り出し、野武士を次々と斬り殺す場面がある。この時武蔵は人を殺したことに対し何の反省も感じない。これは、剣の道を進んでいく過程での個人的な果し合いや決闘とは違い、一種の正義の闘いだったからであろうか。村人たちの生活を防衛するための闘いだから、自責の念を感じなかったのだろうか。(つづく)




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