錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『宮本武蔵』(その二十七)

2007-07-25 10:40:27 | 宮本武蔵
 参考までに、実在した宮本武蔵について少しだけ触れておきたい。
 一乗寺下がり松での決闘から佐々木小次郎との船島(巌流島)の決闘まで、実は約8年の歳月がある。武蔵21歳から29歳まで間である。京都で吉岡一門と闘った後、武蔵がどこで何をしていたのか、記録はほとんどなく、武蔵の足跡に関しては想像の域を出ないようだ。武者修行の旅を続けていたことだけは確からしい。試合をした相手として、宍戸某(吉川英治の小説では宍戸梅軒の名で登場)、夢想権之助、大瀬戸隼人と辻風某の名前が挙げられている。武蔵は二十代の半ばに江戸に居たことだけは明らかなようだ。また、下総の国、行徳のあたりで開墾に従事していたとも言われている。船島での決闘は、武蔵が29歳の時で、これは年月日まではっきり分かっている。慶長17年(1612年)4月13日のことである。しかし、それからの武蔵は、またもや消息不明で、長い空白期間が続く。ただし、小次郎と闘った後、武蔵は、若い頃のように生死を賭けての果し合いはしなかったという。六十数度闘って一度も負けたことはないという武蔵の戦歴はそれ以前のことである。
 史実の上で武蔵が再びはっきりと姿を現すのは、57歳からで、その後62歳で死ぬまでの間は確かな記録が残っている。武蔵が熊本の細川藩に招かれてからのことだ。洞窟に籠もって『五輪書』を書いたのも死ぬ2年前からで、完成したのは死んだ年ことだった。
 というわけで、実在した宮本武蔵という人物の経歴については謎が多く、不明なことばかりで、それだけフィクションの入り込む余地も大きいわけだ。吉川英治の『宮本武蔵』がそのほとんどがフィクションで、お通さんも又八もお杉ばあさんも朱美も城太郎も、武蔵以外の登場人物の大半は吉川英治が創作した架空の人物であることは言うまでもない。実在した人物と言えば、沢庵和尚、吉岡清十郎・伝七郎、佐々木小次郎、本阿弥光悦、長岡佐渡、細川忠利、柳生宗矩などである。ただし、吉岡清十郎・伝七郎、佐々木小次郎に関して詳細は不明で疑問点も多い。また、武蔵と沢庵、武蔵と光悦との関係については面識があったかどうかも分からない。沢庵や光悦が武蔵と同時代人であったということから、吉川英治の原作では、武蔵が禅や芸術について知識を深める導き手として二人を登場させ、彼らとの交流を描いたにすぎない。
 ところで、伊織は、実在した重要な人物である。彼は武蔵が41歳の頃養子になり、明石藩主・小笠原忠真(ただざね)に仕えて昇進し、さらに小笠原家が小倉に移った後は、家老職まで務めている。武蔵にとっては自慢の息子だった。武蔵は伊織とともに小倉に移住し、また島原の役では出陣して伊織と行動を共にしている。伊織は武蔵が死んだ後、小倉の手向山に碑を建て、春山和尚に武蔵の追悼文を書いてもらっているが、これがいわゆる「小倉碑文」であり、武蔵の重要な史料の一つになっている。
 吉川英治の原作では、武蔵が下総の法典ヶ原を放浪中に伊織と出会い、共に開墾に従事し、以後弟子にして旅を続けるが、実在の伊織は船島の決闘の頃はまだ生まれていない。伊織がお通の弟だったというのも完全なフィクションである。
 
 さて、映画の話に戻ろう。第五部は、一乗寺の決闘以後、小次郎との船島の決闘までを描いているわけだが、映画を観た限りでは、その8年の歳月の経過は全く感じない。何か2、3年しか経っていないような感じを受ける。(これは、原作を読んでも同じで、この8年間における武蔵の人間的な成長を吉川英治は描き切れなったように思える。)一乗寺の決闘の後、武蔵がどう変わったかと言えば、好戦的でなくなったこと、つまり闘う相手を求めて腕試しをしなくなったことだと言えよう。言い換えれば、剣の道を歩み続けることに対し消極的になってしまった。第二部の初めで、姫路城を出た時の武蔵の決意はどこへ消え去ってしまったのか。「孤剣、たのむはこの一腰。これからは剣の道に生きよう」と独白した時の気概は、第五部になると、もうない。第五部の武蔵を観ていると、悩んでばかりいて、どうも吹っ切れない印象を持つ。錦之助も沈鬱な表情を見せることが多かったと思う。(つづく)




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