錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『宮本武蔵』(その二十六)

2007-07-03 22:12:26 | 宮本武蔵
 前回は変な方向に話がそれてしまった。本題に戻そう。
 第四部の一乗寺の決闘で吉岡一門の大将である少年を殺し勝利は得たものの、武蔵は壁に突き当たってしまう。「われ、事において後悔せず」と自分に言い聞かせるように叫んでみても、心は言葉に従わない。武蔵の心の中は後悔の念でいっぱいだった。観音像を彫りながら無心になろうとしても、無心になれるはずがない。心の慰めにもならなかった。だから武蔵は泣いていたのだ。法師たちによって追放を命じられた武蔵は、観音像を寺に残し、比叡山を降りていく。
 第五部は、いわば「その後の武蔵」である。冒頭、意を決し比叡山を降りて歩いて行く武蔵が映し出されるが、ここからが武蔵の再出発だった。

 さて、第五部が始まると、映画のテンポが急に速くなることに気がつく。一シーンの長さが短くなり、あれよ、あれよという間に場面が展開していく。観ている方はちょっと面食らうのだが……。
 瀬田の唐橋で沢庵和尚がお通さんと話しているシーンがあって、武蔵が今日か明日ここを通るから待ってなさいと言う。すると次に渓流の岩場の道のシーンになり、武蔵を追いかけていくお通さんが映し出される。岩場の細い橋を渡ってから武蔵は立ち止まる。武蔵を慕うお通さんの熱い言葉に武蔵は感極まり彼女を強く抱き締める。カメラがぐるぐると回る。それも束の間、武蔵は急に我に帰ったような表情をして、お通さんを突き放す。逃げていく武蔵と泣き崩れるお通さん。武蔵は着物を着たまま滝つぼに入っていき、滝に打たれる。ここでカット(溶暗)。そして次のシーンに移り、秋の野原を一人歩いていく風貌の変わった武蔵の姿が現れる。その後武蔵は伊織と出会うわけである。
 この瀬田の唐橋の場面は、挿入の仕方が唐突で、原作をずいぶん変更していた。何がなんだか分からないと感じた人も多かったと思う。私もその一人だ。映画の描き方も雑だった。第五部で私が最も不満に感じる箇所である。
 この場面は原作の後半の中で私が特に好きな部分なので(最初は原作と映画の相違を指摘しないつもりであったが…)、やはり簡単に説明しておきたい。何を隠そう、私は恋愛場面が大好きで、小説でも映画でも男女の情愛がしっかり描けていないとケチを付けたくなる。黙っていられないので、お許し願いたい。
 
 さて、原作はこうなっている。山を降りて行く途中(実はお杉婆さんと一緒である)、武蔵は牛を連れた女に出会い、この女にお通への手紙を預ける。自分は大津へ出て瀬田の唐橋で待っているという内容である。(この後、茶屋で武蔵は数年ぶりに又八と再会する。)お通はその時、城太郎とともに京都の烏丸家の屋敷に逗留していて(武蔵はそれを知っている)、武蔵はお通と城太郎を連れて江戸へ行こうと決心するわけだ。この時の武蔵は希望と喜びに満ちあふれている。武蔵の思いを書いた原作の部分を引用しておこう。さすがに名文である。

「武蔵はもう、何もかも、彼女にゆるしきっていた。今日会ったら、どんな事でも、彼女の願いなら容れてやろう。剣を、歪めない限りの事は。修業の道から堕落しない限りの事は。
 今までは、それが恐かった。<中略>
(そうだ。江戸表まで一緒に行って、お通にはもっと女性として学ぶべき修養の道に就かせ、自分は城太郎を連れて、更に高い修行の道にのぼろう。そして、或時節が来たら……)
 そんな空想に耽ってゆく武蔵の顔に、湖水の波紋の光が、幸福の笑みを投げかけるように、揺々(ゆらゆら)と映えていた。」

 武蔵からの手紙を受け取ったお通と城太郎は、大喜びで旅支度を済ませ、すぐに瀬田の唐橋へと向かう。そして、二人は武蔵と再会する。ここから江戸へ向け、三人の楽しく幸せな道中が始まる。お通は牛に乗り、武蔵と城太郎は歩いていく。この後が「風の巻」の最後「女滝(めたき)男滝(おたき)」の章である。木曽路の途中、峠の中腹で滝を見つけ、三人は休息する。立て札に女男(めおと)滝と書いてある文字を見て、お通は武蔵にほほ笑みかける。城太郎が向こうへ遊びに行った隙に、武蔵とお通は寄り添うように坐り、滝の音を聞きながら会話を交わす。武蔵はお通にもう一度考え直して又八の嫁になる気はないかと尋ねる。お通はさめざめと泣き始める。
 その後が問題のシーンなのである。武蔵はお通の女体にむらむらと性欲を感じ、いったんは草むらへ逃げ隠れるのだが、追いかけてきたお通を抱き締め、体を求めてしまう。驚いたお通は、拒絶する。武蔵は狼狽し、滝つぼに入り、滝に打たれる。
 映画と原作は、あまりにも違うではないか!(稲垣浩の東宝版『宮本武蔵』では、三船敏郎の武蔵が八千草薫のお通さんを強引に求めようとして拒絶されるところが描かれている。)
 その後も、三人は一緒に旅を続けていくのだが、武蔵だけがずっと前を行き、お通と城太郎は離れて、後を追って行く格好になる。途中、又八がお通を誘拐し、城太郎は崖から落ちて、三人がバラバラになってしまう。武蔵はあちこち二人を探し回るのだが、どうして見つからず、諦めて一人で旅を続けることになる。
 つまり、映画のように武蔵がお通さんを捨てて立ち去ったわけではないのだ!(「吉川武蔵」のために弁護しておく。)

 内田吐夢の映画は、それまでの経緯を省略した上に、お通さんが沢庵に連れられて瀬田の唐橋で武蔵を待ち構えている設定に変え、お通さんがあくまでも武蔵を追いかけていることにしてしまった。城太郎も、第四部の途中で青木丹左衛門のもとへ帰しているので、出てこない。(城太郎はここではいなくても良い。)吐夢の『宮本武蔵』五部作では、武蔵とお通さんの関係は、第二部の花田橋の時の状況とまったく変わらず、進展性がないまま、終わってしまった。お通さんが追いかけ、武蔵はお通さんが大好きなのに、修業のためと言いながら、無責任に逃げてばかりいる。お通さんは常にみじめで、武蔵は女にかけてはいつもダメ男なのだった。錦之助の武蔵なら、原作のようにも十分表現できたはずである。その方がもっと好感の持てる武蔵になったと思うが、どうであろうか。入江若葉だって、同じだ。心の底から喜ぶ若葉ちゃんのお通さんも見たかった。錦之助の武蔵に迫られ、顔を真っ赤に染めて恥じらう若葉ちゃんも見たかったなー。怒って、錦之助の頬っぺたにビンタの一つでも張れば、お通さんの胸もすっとしたし、もっと面白かったのではあるまいか。
 
 吉川英治の『宮本武蔵』で最もハッピーな部分を映画が描かなかったこと、それが私には不満であり、いちばん残念に思うことである。
 長々と書いたわりに、またもや話がそれてしまった……。(つづく)




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