アンディ・サーキス主演、マット・リーヴス監督、
『猿の惑星:聖戦記』、10/14、ユナイテッドシネマキャナルシティ13にて鑑賞。2017年38本目。
『猿の惑星:聖戦記』、ネットでは賛否両論です。
映画史に残る傑作!!と褒め称えている人がいる一方で、シリーズ最低作と切って捨てる人までいます。
自分はどちらかというと後者かな。シリーズ最低作とまでは思いませんでしたが、いろいろわからなかったです。
何がわからなかったか、思いつくままに挙げていきます。
猿と人間との最終戦争を描いた本作ですが、前半は妻と子を殺されたシーザーの復讐譚になっています。
シーザーは仇である大佐を討つために、人間のいない、安住の地を目指す他の猿たちとは別行動をとることにします。
西部劇よろしく、シーザーは大佐を追いかけるのですが、なかなか見つからず、再会が叶ったのは大佐の基地においてでした。そしてそこには安住の地を目指したはずの仲間の猿たちがすでに捕えられているのです。
んんんんんん????
シーザーは大佐を追っかけていたんだよね?そして仲間たちは安住の地を目指していた。
元々いた森と安住の地と大佐の基地がどういう位置関係であれば、シーザーが大佐を見つけるより早く大佐が仲間の猿たちを捕え、基地に連れてくることが出来るっていうんだろう?
それを可能とするためにはシーザーが恐ろしく回り道をしなければいけないはずなんだけど、そんなに回り道をしましたっけ?確かに寄り道をしなかったわけではないけれど…。
それから大佐の基地にはシーザーを裏切った昔の仲間がいるのですが、「ドンキー」と蔑まれ、奴隷的な扱いを受けています。
なぜ彼らがシーザーを裏切ったかというとシーザーが人間との和平を望んだからです。裏切り者のリーダーであるコバは子ザルのころ人間に虐待され、人間に深い恨みを抱いていたのです(ちなみにコバは前作においてシーザーと対決し、命を落としています)。
ここでも、んんんんん????ですよ。
人間との和平を望んだことを不満に思ってシーザーを裏切った連中が、なぜ人間に仕えているのか、さっぱりわかりません。何かしら紆余曲折があったんだろうけれど、それがまったく想像出来ません。
わからないことはまだあります。
大佐は最初のころ、「猿は皆殺しにしろ、一匹でも多く殺せ!」と過激なことを口にします。
そうか、大佐の目的は猿を皆殺しにすることなのか、そう思うじゃないですか。
しかし基地で再会した大佐は態度を変え、猿たちを使って基地の壁を築くのです。
これっておかしくないですか?
基地の壁を築くのが最重要課題であるならば、猿たちを皆殺しにしろ、というのはおかしいし、猿たちを皆殺しにするのが目的であるならば、わざわざ生け捕りにして基地に連れてくるのは変です。
まだまだわからないことはあります。
大佐と敵対していた連中って何がしたかったんですかね?彼らが恐れていたのって大佐なんですかね?それとも猿たち?
そもそもなぜ大佐と敵対していたのかもわかりません。
イデオロギーの違い?そんなもの、人類が滅びかけているっていうのに気にしてどーするんだ、って思いますけどね。
ただ、一番わからないのは、結局本作って、オリジナルの第一作に繋がっているのか否かってことですよね。
自分は繋がっていないと思います。
登場人物の名前こそ共通するものの、明らかに時代が違いすぎますし。
でも、本作のレビューを見回すと、見事に第一作に繋がった!と言ってる人がいるんですよ。
え、そーなの?って思わずにはいられませんでした。
自分は登場人物の名前が共通するのは単なるオリジナルへのリスペクトだと思ってたんですけれど、違うんでしょうか。
そんな感じで観終わった後、何だかモヤモヤだけが妙に残ってしまいました。
モヤモヤを感じたのって自分だけなんですかね…。
お気に入り度★★★、お薦め度★★★(★は五つで満点、☆は★の半分)です。