ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 中村桂子著 「自己創出する生命」 ちくま学芸文庫

2011年01月21日 | 書評
生命の普遍性と多様性の源としてのゲノム論 第9回

4)「普遍と多様・スーパーコンセプト」という知の体系

 1960年代から始まった生命科学の発展と歩調を同じくして、日本の高度経済成長が目覚しかった。それも1980年代には”Japan as No.1”といううのぼれとバブル経済となって崩壊した。そうして反省が始まった。反科学・技術という動きがカウンターカルチャーとなり、現代文明批判にもつながっていわゆる「ニューサイエンス」と呼ばれる動きもあった。DNA研究は組み替えDNAを開発し、バイオテクノロジーという産業が雨後の筍のようにに出ては潰れた。過剰な期待と不安をもたれたのだ。これらは技術革新であるが、科学の本質の革命はなされていない。生命倫理は二元論対立を生み、機械論敵自然観はサイボーグの方向を目指しているのではないか。科学技術と現代の価値観は硬く結びついている。それは進歩であり能率である。それらの価値観に対して生命誌は進化、プロセスの価値観を目指したいという。質の変換、多様性の関係が主軸となる価値観である。ギリシャ文明から始まる理性の時代に先行していたのは生命の時代である。養老孟司著「唯脳論」において「我々はいまや人工物で埋め尽くされた脳の産物の中で生活している。これを脳化社会という。進化の過程で脊椎動物は脳化と呼ばれる大きな脳を持つ方向に進化した。脳は身体を統御し支配する器官である。さらに身体の延長として環境を統御し支配しようとする。」といい、中村氏は「環境問題は脳とDNAの相克である」といった。この章で中村氏はかなりのページを使って形而上学(哲学)をレビューしているが、突込みが残念ながら浅い。自然哲学から神を追い出したのがダーウインの功績である。中村氏は「生命に関して自然哲学を突き詰めていった結果、自ずと自然誌的な視点が生まれた」というが、本当に自然哲学の流れの後に生命理解が生まれようとするのだろうか疑問に思われる。
(つづく)


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