ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

岡義武 著 「山縣有朋」

2021年09月06日 | 書評
奈良県橿原市今井町 その3

 岡義武 著 「山縣有朋」       
岩波文庫(2019年年9月刊行)
序・山縣有朋の生涯 ①-ー⑤
序にかえて

日本の近代化はまさに岩倉遣欧使節団から始まった。そしてその後の日本国の隆盛は伊藤博文と山県有朋によって遂行されたといえる。伊藤は近代憲政政治の実現を目指し、山県は富国強兵日本を目指した。同じ長州出身の二人は生涯のライバルであった。「文治」の伊藤にたいする「武断」の山県という構図が一番よくあてはまる。明治維新政府は長州の木戸と薩摩の大久保の二人が作ったとすれば、近代日本は伊藤と山県の二人が作った。その成果は立憲政治の確立、明治末の日清・日露戦争勝利、台湾・朝鮮併合という帝国主義的進出、そして大正デモクラシーとなって花開いた。伊東博文については、伊藤之雄著 「伊藤博文ー近代日本を創った男」 講談社学術文庫(2015年3月)に詳しく描かれている。本書「山県有朋」を読む際には、この「伊籐博文」を座右において読むべきであろう。特に時代背景は両者に共通している。彼らのおかれた位置とその対処方法が異なるので、見比べて読むと全体像が解るはずである。そこで「伊籐博文」の概論は省略し、「山県有朋」の概論を年譜に様にまとめておこう。

山県有朋の生涯

1) 幕末
1838年6月14日、萩城下近郊の阿武郡川島村(現・山口県萩市川島)に、長州藩の中間・山縣有稔(中村喜左衛門の子)の長男として生まれる。足軽以下の中間身分ながら、将来は槍術で身を立てようとして少年時代から槍の稽古に励んでいた。また父から勉強を教えられ、藩に出仕して下級役人として勤めながら文武に励んだ。しかし幼少期から青年期に両親を相次いで失い、親代わりに育ててくれた祖母も1865年3月に謎の入水自殺を遂げ、家族に先立たれ寂しい青春を過ごしたことが山県の性格に大きな影響を与え、真面目だが猜疑心が強く、簡単に人を信用しない人物に成長していった。このころ、友人の杉山松助らに松下村塾への入塾を勧められるも、「吾は文学の士ならず」として辞退したともいわれる。
1858年7月、長州藩が京都へ諜報活動要員として派遣した6人のうちの1人として、松下村塾から選ばれた杉山と伊藤俊輔(のちの伊藤博文)らとともに上京し、尊王攘夷派の大物であった久坂玄瑞・梁川星巌・梅田雲浜らに感化され、10月の帰藩後に久坂の紹介で吉田松陰の松下村塾に入塾したとされる。松陰門下となったことは出自の低い山県や伊藤らが世に出る一助となったと考えられる。山県が入塾したとされる時期から数か月後、松陰は獄に下り刑死することになったため、山県の在塾期間はきわめて短かったと考えられる。
1863年2月に再度京都へ向かい、滞在中に高杉晋作と出会い親しくなる。高杉の6月の奇兵隊創設とともにこれに参加し、武芸や兵法の素養を活かして頭角を現す。高杉は身分にとらわれずに有能な人材を登用したため、低い身分であった伊藤や山県などが世に出るきっかけを与えた。松下村塾と奇兵隊の存在により、幕末の長州藩からは伊藤や山県のように、足軽以下の平民と大差ない身分の志士が多く出ている。12月、高杉が教法寺事件の責を負い総督の任を解かれた際には、3代目総管・赤禰武人とともに副官に当たる奇兵隊軍監に就任し、兵隊訓練と壇ノ浦警備に励んだ。

2) 長州防衛戦
1864年、長州藩の運命が大きく動く事態が4つも起こった。1つ目と2つ目は7月の禁門の変とそれに先立つ6月の池田屋事件が京都で発生、杉山が池田屋で、久坂と入江九一ら同門の友人たちが禁門の変で次々と犠牲になった。3つ目は8月の下関戦争で、山県は壇ノ浦砲台で外国艦隊相手に応戦したが、装備で大きく差がついた外国勢に敵わず敗北している。4つ目は江戸幕府が禁門の変の報復として発令した第一次長州征討で、このときは家老らの切腹で戦争は回避されたが、高杉は幕府に恭順した椋梨藤太ら俗論派に反発し12月に挙兵した(功山寺挙兵)。赤禰や山県は当初高杉が無謀な反乱に踏み切ることに危うさを感じ支持しなかったが、1865年1月に赤禰が出奔したあとは山県が事実上奇兵隊を掌握、高杉支持に転向し俗論派を野戦で撃破、長州正義派の勝利に導いた。
1866年の第二次長州征討では、軍監のまま名目上は奇兵隊4代目総管である山内梅三郎の下についていたが、高杉とともに実権を握り北九州の小倉藩を占領する活躍を見せ、7月27日の赤坂・鳥越の戦いなど小倉藩兵の抵抗に苦しめられたが、戦局は長州藩有利のまま12月に和睦を迎えた。以後は木戸孝允の配下になり、1867年4月に亡くなった高杉の葬儀を済ませると、木戸に上洛を申し出て5月に3度京都へ赴き、薩摩藩士西郷隆盛・大久保利通・黒田清隆らと交流を結んだ。国父島津久光や家老小松清廉とも面会し、天下の行く末や倒幕のための挙兵・連携計画を打ち合わせ6月に帰藩した。
充実した京都とは対照的に、長州藩に戻ってからは面白くない出来事が続き、山県の体調にも悪影響を与えた。合流を約束した薩摩勢がなかなか来ない焦りから病気になり、一時軍監を免じられている。11月にようやく薩摩勢が長州勢と合流したあと京都へ向かったが、山県は人選から外れて同門の山田顕義が上洛勢に加わり、1868年1月の鳥羽・伏見の戦いで長州勢の指揮を執る、山県は奇兵隊を率いたまま長州に残るなど憤懣やるかたない日々を過ごした。なお、上洛前の4月に庄屋の娘・友子と結婚、帰藩した7月に式を挙げている。

3)戊辰戦争
鳥羽・伏見の戦い後に奇兵隊にも出陣の命令が下り、山県は参謀福田侠平を従えて3月に出発し、大坂、次いで江戸へ下向、再会した西郷と意気投合し江戸に滞在し、閏4月に大坂へ戻り木戸と話し合い、両者からの信頼を獲得した。また北陸地方・越後方面への出陣を命じられたことで山県は戊辰戦争に加わることになった。
戊辰戦争(北越戦争・会津戦争)では黒田とともに北陸道鎮撫総督・会津征討総督高倉永祜の参謀となり、奇兵隊を含む諸藩兵を指揮する立場に昇格した。閏4月19日に高田で軍を集結させると二手に分け北上、山県と黒田は海沿いに進む軍監三好重臣が指揮する本隊と同行、もう1人の軍監岩村高俊率いる別動隊は内陸部へ進軍した。本隊は27日の鯨波戦争で桑名藩兵に勝利し、翌28日に柏崎を占領した。別動隊も小千谷を占領し、順調に戦線を進めたかに見えた。
しかし、越後口では長岡藩家老河井継之助と友軍の桑名藩士立見尚文の前に苦戦を強いられ、5月13日の朝日山の戦いで奇兵隊を率いた友人の時山直八を立見率いる雷神隊に討ち取られた。膠着状態だった戦線は19日に本隊の三好による長岡城陥落で新政府側が有利になったが、7月25日に河井が長岡城を奇襲で奪還(八丁沖の戦い)、山県はなすすべもなく西園寺公望総督ともども城外へ逃げ出す羽目になった。
それでも城外で体勢を立て直し、奇襲の際に河井が重傷を負い敵の勢いが衰え、山田と黒田が別動隊として海軍に乗り込み日本海を北上、長岡城陥落と同日に北の太夫浜へ上陸、新潟港を落とし新発田藩を寝返らせたこともあり、4日後の29日に長岡城を再度落とし、越後諸藩も降伏させ8月中に何とか越後を平定した。それから東へ進軍して9月18日から会津城籠城戦で包囲軍に加わり、4日後の22日に会津藩降伏に立ち会ったあと江戸へ下向、長州へ戻った。越後平定という戦果は挙げられたが、薩摩兵と長州兵の連携がうまくいかず、黒田とも対立し一時参謀を辞職、復職したが薩長兵の仲が悪いまま別々に行軍するなど問題続きだった。この問題は西郷が現地に赴き、慰められた山県が薩長に気配りしたことで解決している。 明治2年(1869年)、維新の功によって賞典禄600石を賜っている。

4)明治維新後
明治2年3月、木戸や西郷に願い出ていた海外留学の許可が下り、6月28日に西郷の弟・西郷従道とともに渡欧し、各国の軍事制度を視察する。翌明治3年(1870年)にアメリカ経由で8月2日に横浜港に到着、帰国直後の8月28日に兵部少輔に任命された。しかし兵部卿有栖川宮熾仁親王は名目上のトップで、実際は岩倉具視ら文官への業務報告が行われる仕組みであった。内部の軍隊も長州・薩摩に分かれ、それぞれ木戸と大久保利通が実権を握っていた。兵部省がシビリアン・コントロールで弱体化する中で人事異動が行われ、山県の友人の兵部大輔・前原一誠は山県の就任前後に辞任、山田は山県の下である兵部大丞だがそりが合わないため、山県はさまざまな不安を抱えながら、兵部省の実質的なトップとして木戸の意向に沿いながら軍制改革を進めていった。
各藩に分かれている軍事力を中央にまとめるため、薩摩に戻っていた西郷を政府へ呼び出す必要があると考えた木戸・大久保は11月に東京を出発、岩倉も合流して12月に薩摩に入り、西郷を説得して翌明治4年(1871年)2月に一行は上京した。山県は一行に加わり西郷説得にも一役買い、薩摩・長州・土佐藩の兵力を集結させた御親兵編成と鎮台設置につながった。また、友人で入江九一の弟・野村靖、部下の鳥尾小弥太らと相談し兵制統一の必要性から廃藩置県の必要性を提議、有力者間の根回しを行った。前後して同年6月に熾仁親王が兵部卿を解任され山県は留任、7月14日の廃藩置県実施と同時に兵部大輔に昇進した。
しかしながら、山田との関係は芳しくなく、木戸ら文官が山県の頭越しに兵部省を動かす状態が続くなか、改革途中で暗殺された大村益次郎の実質的な後継者として西郷の協力を得ることで軍制改革を断行、11月に山田も参加した岩倉使節団の外遊により留守政府の下で徴兵制を取り入れ、明治6年(1873年)1月の6鎮台設置と同時に開始された(徴兵令)。前年の明治5年(1872年)2月に肥大化した兵部省を廃止し陸軍省・海軍省を置き陸軍大輔になり、3月に御親兵が改編された近衛都督も兼任、陸軍中将にも任じられ軍の中心人物になった[25][26]。
しかし明治5年、陸軍出入りの政商・山城屋和助に陸軍の公金を無担保融資して焦げつかせる。いわゆる山城屋事件である。山城屋の自殺と証拠隠滅工作により山県に司法の追及は及ばなかったが、近衛局から山県に反抗的な薩摩系将校たちが辞職を迫り、西郷の慰留はあったが責任を取る形で7月に近衛都督を辞任、明治6年4月に陸軍大輔も辞任し、陸軍中将の階級だけが残った。しかし山県に代わりうる人材がなく、6月に陸軍卿で復職し参謀本部の設置、軍人勅諭の制定に携わった。
9月に使節団が帰国、征韓論と10月の明治六年政変には各鎮台巡視中のため不在だったが、西郷と木戸の間で板挟みになり煮え切らない態度を取ったため木戸の怒りを買い、政変後は卿の1人にもかかわらず木戸の反対で参議になれなかった(ほかの卿は参議兼任)。病気がちの木戸に代わり台頭した伊藤と大久保の支持で辛うじて現状維持できたが、明治7年(1874年)2月に陸軍卿を辞任、代わりに近衛都督に復帰し参謀局長も兼ね、6月に陸軍卿も再任された。8月に大久保と伊藤の引き立てでようやく参議も兼任したが、立場不安定なため佐賀の乱、台湾出兵に関与できなかった。ただ、参議兼任後は大久保らと江華島事件の対応にあたり、木戸との関係を修復して軍の立場も回復している。

5)西南戦争
明治10年(1877年)2月に勃発した西南戦争では参軍として官軍の事実上の総指揮を執ったため(名目上の指揮官は征討総督の熾仁親王、ほかの参軍は黒田と川村純義が任命された)、さながら薩摩閥と長州閥の直接対決の様相を呈した。錬度や士気で優る薩軍に対し、装備と物量・兵力で対抗して鎮圧した。また、電信を活用し分散した軍との連絡を取り合い、政府も海軍を使い薩軍の後方の鹿児島を襲撃させ制海権を掌握した。薩軍挙兵前の1月に、鹿児島が不穏なため熊本鎮台司令長官谷干城に厳戒態勢を命じ、ほかの鎮台から兵隊を動員した時点で薩軍が挙兵、海路博多港に上陸し薩軍に包囲されている熊本城の北から救援のため南下した。熊本城を攻めあぐねた薩軍も一部を残して北上、両軍は田原坂など周辺で激突した。
3月4日から政府軍は田原坂を攻撃したが、薩軍の果敢な襲撃と堅固な陣地の前では突破できず犠牲が増え、抜刀隊の投入などを経てようやく20日に田原坂を突破したが、東の植木から先は薩軍の抵抗で進めないままだった。こうしたなかで高島鞆之助が進言した別働隊編成案を承諾、黒田を指揮官として山田と川路利良が率いる別働第二旅団が熊本の南の八代に上陸、薩軍の抵抗を排除しながら北上、4月14日に熊本城へ入り包囲から解放した。それにより植木の薩軍は撤退、山県の本隊も16日に入城を果たした。陸軍の山県が敵と対峙している間に海路から黒田と山田が敵の背後を占領・牽制するという、奇しくも戊辰戦争と同じ状況が再現されたが、黒田は熊本城解放後に辞任、山田は山県の下に属し従軍を続けた。
撤退する薩軍を追い政府軍は熊本城から東進、山県は雌雄を決すべく熊本平野の南北に防衛線を張った薩軍と20日に激戦を繰り広げた(城東会戦)。関ヶ原の戦い以来の大会戦といわれ、双方が死力を尽くした城東会戦は、北は大津から、南は御船まで政府軍と薩軍が拠点を奪い合う死闘となったが、山田の別働第二旅団が御船を落としたことが転機となり、ほかの戦線も次々と崩れ薩軍は撤退、1日で政府軍の勝利に終わった。以後、山県は軍の指揮を執り、南の人吉から南東の都城、そこから北東の宮崎、北の延岡まで逃げる薩軍を追跡しながら鹿児島の分隊に援軍を送り、鹿児島を包囲していた薩軍の一部隊を蹴散らし、ほかの戦線にも部隊を送り薩軍を追い詰めていった。やがて8月14日に延岡を陥落させ、翌15日に北の長井村から延岡奪回を図った薩軍との戦闘にも勝利したが、17日夜から18日未明にかけ薩軍が脱出、長井村に包囲網を敷きながら薩軍に西の可愛岳を突破され逃げられる失態を犯し、部下に送った手紙で反省の気持ちを書いている。
態勢を立て直し薩軍追跡を続行、南下して薩軍に奪われた鹿児島へ進軍し、9月24日の最後の城山の戦いでは、1度逃げられた反省から幾重にも包囲網を張り巡らし、各旅団と打ち合わせを重ね慎重かつ詳細に包囲網の部署や攻撃地点などを定めた。また別の戦争終結も試み、直前の23日に西郷へ自決を勧める書状を送った。内容は、大義名分のない挙兵は西郷の意志ではなく周りの暴走ではないかと西郷の心情を慮ったうえで、これ以上犠牲者を出さないため西郷に自決を勧めたが、西郷が返事をしなかったため決戦となった。
政府軍は城山へ総攻撃をかけ、西郷が自決し戦争は終結した。西郷の遺体を検分した。戦後は恩賞として勲一等旭日大綬章と勲章・年金を与えられ、別荘・椿山荘を購入し作庭に取りかかった。

(つづく)




最新の画像もっと見る

コメントを投稿