永井荷風の江戸文学趣味と淫靡な世界 第39回
十日の菊(大正12年11月)
大正12年9月、震災後大阪に疎開された小山内薫氏がプラトン社の主を連れて来訪された。目的は荷風に小説を書く事を勧めるためである。「十日の菊」と題したのは重陽を過ぎた日の旧友の来訪を喜ぶためである。荷風は築地にいたころ「黄昏」という小説を物にできなかった。その理由は荷風には人物(女)の心理描写が出来なかったからであるという。やはり人物を描けなくては小説にはなるまい。およそ芸術の政策には観察と同情が必要である。小説がかけないという題であるが最後には、原稿用紙は和紙でなければいけないという話になる。当時和紙の原稿を使っていたのは、荷風と生田葵山の二人きりであった。千朶山房氏は無罫の半紙に毛筆で楷書を書く書体に定評があった。荷風先生は梔子(くちなし)の実を擦って顔料とし、その汁を絞って摺った原稿罫紙に筆を取る心は凄絶なりと自讃されている。
(つづく)
十日の菊(大正12年11月)
大正12年9月、震災後大阪に疎開された小山内薫氏がプラトン社の主を連れて来訪された。目的は荷風に小説を書く事を勧めるためである。「十日の菊」と題したのは重陽を過ぎた日の旧友の来訪を喜ぶためである。荷風は築地にいたころ「黄昏」という小説を物にできなかった。その理由は荷風には人物(女)の心理描写が出来なかったからであるという。やはり人物を描けなくては小説にはなるまい。およそ芸術の政策には観察と同情が必要である。小説がかけないという題であるが最後には、原稿用紙は和紙でなければいけないという話になる。当時和紙の原稿を使っていたのは、荷風と生田葵山の二人きりであった。千朶山房氏は無罫の半紙に毛筆で楷書を書く書体に定評があった。荷風先生は梔子(くちなし)の実を擦って顔料とし、その汁を絞って摺った原稿罫紙に筆を取る心は凄絶なりと自讃されている。
(つづく)