ブログ 「ごまめの歯軋り」

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「ヴァルター・ベンヤミン」

2021年09月09日 | 書評
奈良県橿原市今井町 その5

柿木伸之著 「ヴァルター・ベンヤミン」
      
岩波新書(2019年年9月刊行)

序・年譜 (その1)ヴァルター・ベンヤミンの略年譜

• 1892年、エミール・ベンヤミンとパウリーネ(旧姓シェーンフリース)の長男としてベルリンに生まれる。
• 1912年、フライブルク大学に入学。
• 1913年、ベルリン大学に移籍。
• 1915年、ゲルショム・ショーレムと知り合う。ミュンヘン大学へ移籍する。
• 1916年、「言語一般および人間の言語について」を執筆。
• 1917年、ドーラ・ゾフィー・ケルナーと結婚。スイスへ移住し、ベルン大学へ移籍。
• 1918年、長男シュテファン生まれる。エルンスト・ブロッホと知り合う。
• 1919年、学位論文「ドイツーロマン主義における芸術批評の概念」によってベルン大学より博士号を受ける。
• 1920年、ベルリンに戻り「ドイツーロマン主義の芸術批評の概念」を刊行。
• 1921年、クレーの版画「新しい天使」を入手。「暴力批判論」を発表。「翻訳者の使命」を執筆。
• 1922年、「ゲーテの「親和力」について」を執筆。
• 1923年、アドルノ、クラカウアーと知り合う。ボードレールの詩集「巴里風景」の翻訳を出版。
• 1924年、カプリ島に滞在中、アーシャ・ラツィスと知り合う。「ドイツ悲劇の根源」を執筆。「ゲーテの「親和力」について」を発表。
• 1925年、「ドイツ悲劇の根源」を教授資格申請論文として、フランクフルト大学に提出するが拒否される。秋にスペインとイタリアを旅行し、ラトビアのリガでアーシャ・ラツィスに再会。プルーストの「失われた時を求めて」の翻訳を始める
• 1926年、パリに旅行する。「一方通行路」の一部を執筆。父、死去する。マルセイユに旅行。モスクワに旅行し、アーシャ・ラツィスに会う。
• 1927年、プルースト「花咲く乙女たちのかげに」の翻訳を出版。パリに旅行しパサージュの研究を始める。
• 1928年、「ドイツ悲劇の根源」「一方通行路」を出版。ショーレムよりエルサレム大学に招聘される。年末からアーシャ・ラツィスと同棲する。
• 1929年、妻ドーラとの離婚訴訟を始める。ブレヒトと知り合う。 1929年と1932年に少年少女向けのラジオ番組に出演した。
• 1930年、年頭、パリ滞在。3月離婚が成立する。8月、北極圏旅行。11月母、死去する。ヘッセルとの共訳でプルースト「ゲルマントの方へ」刊行。
• 1931年、「カール・クラウス」「写真小史」「破壊的性格」等を発表。
• 1932年、2月、3月にフランクフルト放送局で、放送劇が放送される。4月から7月ごろまで、イビサに滞在。ひきつづきイタリア旅行。
• 1933年、3月中旬パリへ亡命。社会学研究所の紀要に執筆協力を開始。4月から半年ほど、イビサ島に滞在。10月、パリへ戻る。
• 1934年、「生産者としての作家」について講演。6月から10月、デンマークのフィーン島スヴェンボルのブレヒトのもとに滞在。11月から翌年4月までイタリアのサン・レモの元妻ドーラのもとに滞在。
• 1935年、4月、パリに戻る。5月、「パリ19世紀の首都」。10月、「複製技術時代における芸術作品」。
• 1936年、スイスで「ドイツの人びと」刊行(デートレフ・ホルツ名義で)。7月から9月、スヴェンボル滞在。
• 1937年、7月から8月までサン・レモ滞在。年末から翌年頭までサン・レモ滞在。「エードゥアルト・フックスー収集家と歴史家」など発表。
• 1938年、6月から10月までスヴェンボルに滞在。「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」を書き上げる。
• 1939年、大戦開始間際だというのにパリに留まり続ける。「叙事詩的演劇とはなにか」「ブレヒトの詩への注釈」「ボードレールのいくつかのモティーフについて」など。9月から11月、開戦にともない敵国人であるベンヤミンはヌヴェール郊外の収容所に入れられる。
• 1940年、春、「歴史の概念について」執筆。パリを陥落直前に逃れてルルドへ向かう。8月はじめ非占領地域のマルセイユへ移る。アメリカへの渡航を企てるも出国ビザが下りず、非合法に徒歩でスペインへ入ろうとする。9月26日、スペインに入国しようとするが、ポルボウで入国を拒否され、大量のモルヒネを飲んで自殺を計り、翌日死去する。

ベンヤミンは「1900年ごろのベルリンの幼年時代」に「せむしの小人」という地下に住む妖精の呪縛にとらわれていたと書いている。ベンヤミンの人生は度重なる挫折(蹉跌)によって翻弄されている。青年運動を主導し権威主義的な社会の抑圧に抗して、青春を文化として開花させるようとする試みは、第1次世界大戦の勃発とともに敗れた。哲学者、美学者として学界で身を立てたいという望みも教授資格試験で論文「ドイツ悲劇の根源」が拒否されたことで砕かれた。ドイツ文学の第1級の批評家になりたいという野望もナチスの台頭によって挫かれユダヤ人だったベンヤミンはパリに亡命した。パリのパサージュ(アーケード街)から近代の根源史を描こうとしたが、フランスがナチスに敗れたため試みは途絶した。最終的にベンヤミンはアメリカ亡命をはかるが、フランスとスペインの国境の町ポルボウでビザを得られず自殺した。ベンヤミンの友人ハンナ・アーレントは「闇の時代に人びと」のなかで、ベンヤミンの人生は全てを否定され、何者であったか説明に難しいという。この「せむしの小人」は「歴史の天使」の姿に重なっている。この天使は、歴史の中の破局を見通しながら「進歩」という近代の歴史的な過程にまなざしを注いでいる。その足元には瓦礫が積み上がってゆくのを止めることはできない。ベンヤミンは、全体を輝かしく誇示するものに対しては破壊的に作用しながら、その中で息をひそめているものに対しては繊細な思考を駆使して、地上の世界の廃墟を凝視し続けた。このような彼の思考は「批評」にほかならない。ベンヤミンは、二度の世界大戦に代表される危機の時代に生きる中で、状況に中で生か死かの決定的な分かれ目を見て、あくまで状況の中で棄てられて残されているものを拾い上げるうちに、死者とともに生きる可能性を探った。ベンヤミンの思考には、このような批評的な認識が貫かれている。批評は対象となる作品の内部に沈着して分け入ることである。そのことは全体の神話的な虚構を破壊することでもある。批評の媒体となる言葉が「書」に記される。そういう意味でベンヤミンは「文人」であるとアーレントは言う。否定を徹底させた末に、作品の滅びの中に甦るものを救い出す。それは肯定であり、言葉は一つの「像」と化す。ベンヤミンの思考は隠喩的な形象に満ちている。神話との対決。これがベンヤミンの思考を貫いている。神話の暴力性を見抜いたベンヤミンにとって、批評とは神話からの覚醒の方法であり、神話の結界に閉じ込められたものを解放することであった。

ベンヤミンは、このような批評の言葉を生きることへの考察を、彼の分身ともいうべき天使の増に結晶させている。彼の著作のあちこちにクレーの「新しい天使」像が象徴的に現れる。ベンヤミンが描く天使は儚く、無力であるが、天使は地上に起きたことやそれに巻き込まれた被造物のことを証言する。天使は被造物を救い出す言葉の寓意である。天使はユダヤ教の聖書にある伝承タルムードやミドラーシュに見られる。一つ一つの生が語りつくされると同時にその記憶が取り返しのつかない形で失われる、決定的な分かれ目としての時機をとらえ、被造物の生の記憶を照らし出す力、それが批評である。1931年「カールクラウス」、1933年「アゲシラウス・サンタンデル」はこの儚い天使の伝説を記している。1930年の初頭離婚訴訟で疲れたベンヤミンはm1931年から自殺を考え始めた。1932年には遺書も作ったが、パリでの亡命生活のなかで、パサージュの歴史やボードレールの詩作の批評に夢中になった。1939年の終わり第2次世界大戦に至った危機的状況を見ながら、「歴史の概念について」のテーゼを完成させた。そこにもベンヤミン尾思考の分身として天使の像が浮かび上がっていた。それは「歴史の天使」の像である。ベンヤミンの天使は驚いた目と口で後ろを見ている。「歴史の天使」はひたすら過去へ向かう顔貌を読み取った。支配者の歴史に名を遺すことのなかった死者の一人一人を、また歴史の物語が忘却してきた出来事の一つ一つを呼び出し、過去の記憶を呼び覚まそうとする天使の像はベンヤミンの姿であった。ベンヤミンが生きた19世紀末から20世紀前半は、科学技術が日常生活に浸透し、都市生活が大きく変わった。電気機械技術による大量破壊兵器や情報媒体の技術的革新は総力戦としての戦争に動員された。またファッシズムが伝統の解体を逆手に取り、科学文明を駆使して「民族」や「祖国」の神話を流布させ、その共同性に人々を束ね総力戦に動員するようすも見て取れる。ベンヤミンの批評的思考は、破壊へ向かう状況の中、生存の道筋を切り開くことであった。ベンヤミンの批評は、人を死に追いやる神話の呪縛を振りほどく認識として破壊的であり、死後の生を含めた生を言葉において肯定することを目指した。ベンヤミンの批評的思考は、主として言語、芸術、そして歴史の根底的な問いに向かった。

(つづく)



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