ブログ 「ごまめの歯軋り」

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岡義武 著 「山縣有朋」

2021年09月07日 | 書評
奈良県橿原市今井町 その3

 岡義武 著 「山縣有朋」       
岩波文庫(2019年年9月刊行)
6) 陸軍の権力闘争から派閥結成まで

翌明治11年(1878年)8月23日、西南戦争の恩賞が与えられなかった怒りで近衛歩兵大隊の暴動(竹橋事件)が発生した。ただちに鎮圧されたが、戦争で財政が枯渇し軍の経費を節減したため、兵士の待遇を悪くしたり恩賞を下級兵士に与えなかったりしたことが原因で、かつ山県が恩賞配分の責任者だったためその地位が危ぶまれた。政府首班の伊藤や井上馨・岩倉具視・三条実美らの配慮でどうにか名誉は保たれたが、12月に陸軍卿を辞任、代わりに陸軍省の参謀局を廃止して新しく参謀本部を創設、陸軍省から独立した参謀本部の初代本部長として軍に留まり、次長の大山巌と腹心の桂太郎らとともに参謀本部の拡充に努めた。
このころから軍人の秩序を乱す行為や政治関与、特に自由民権運動の軍への浸透を恐れ、10月12日に西周に起草させた『軍人訓誡』(軍人勅諭の原型)を陸軍へ配布し軍紀の引き締めを図った。しかし、皮肉にも参謀局長だった部下の鳥尾小弥太は参謀局廃止で非職になったあと、山県と対立するようになるが、彼と協力して山県と敵対した3人の有力軍人(谷干城・曾我祐準・三浦梧楼)は四将軍派と呼ばれ、現役軍人でありながら政治介入して山県・大山らと紛争を巻き起こしていくことになった。また参謀本部を充実させる一方で、桂を清へ派遣し軍事調査を行い、軍編成を鎮台から師団変更の検討など軍の整備も進め、明治15年(1882年)1月に軍人の政治関与禁止を改めて記した軍人勅諭を制定している。
同年3月、伊藤が憲法調査のため外国へ旅立ち、自分のポストである参事院議長を辞任すると、山県が参謀本部長を辞任して後任の参事院議長に就任、翌明治16年(1883年)8月に伊藤が帰国するまで在任した。参事院議長も辞めたあとは内務卿に転任、明治17年(1884年)の華族令制定で伯爵を授与、翌明治18年(1885年)の内閣制度創設で内務卿の名称が変わると、第1次伊藤内閣の内務大臣として内務省を拠点に地方自治を担当するかたわら、陸軍大臣(陸軍卿から改名)になった大山とともに引き続き軍拡に邁進した。
一方、四将軍派とは軍拡と朝鮮外交をめぐって対立、桂と川上操六が山県と大山の支持で軍拡を推し進めることに反対した三浦が山県ら薩長藩閥を批判し、四将軍派と結びついた月曜会も藩閥批判に回ることで軍は内紛に陥るおそれがあった。桂と川上が提案した軍拡案に伊藤ら政府は難色を示し、三浦は小規模な軍隊だけ日本に置き防衛を重視、兵役を3年から1年に短縮する軍縮案を主張、財政難で軍事費に懸念を示し、軍拡にともなう積極的な外征で朝鮮の後ろ盾である清との戦争を起こしたくない伊藤と井上の関心を得たことで、軍の主導権は四将軍派に移るかに見えた。四将軍派支持の明治天皇がしばしば軍の人事に口出しして彼らの起用を提案したこと、明治19年(1886年)3月に参謀本部が改編され海軍も含めた統合参謀本部が設置、四将軍派の1人・曾我が陸軍部次長になった点や、軍拡案が大山・井上・伊藤らとの話し合いの末、明治18年から明治21年(1888年)度までの期限が明治26年(1893年)度まで延期に決まったことも大山ら主流派の不利になった。
しかし、やがて三浦案は月曜会の支持を得られず、逆に桂らが招聘したドイツ帝国軍人クレメンス・メッケルが紹介したドイツの軍事知識に衝撃を受けた月曜会は桂に切り崩されていった。一方、大山は薩派を中心に反撃を行い、明治19年に拠点とする陸軍省を強化する目的で四将軍派が拠点にしようとしていた監軍部の廃止、武官進級令の制定を提案したことで四将軍派とのさらなる対立を起こした。7月に大山ら薩派が一斉辞職を盾に伊藤に制定を迫り、妥協した伊藤との話し合いの結果、両方認められる一方監軍部はのちに再設置することで話はまとまった。こうして紛議は主流派の勝利に終わり、伊藤らに見放され孤立した四将軍派は軍から排除され、月曜会も大山の命令で明治22年(1889年)に解散した。一連の対立に際して大山と桂がおもに動き、山県は表立って動いていないが、裏で大山らを支持し四将軍派の排除に一役買った。
反対派がいなくなり陸軍改革も桂らの手で着々と進んだことにより、陸軍は山県を中心とする派閥が形成されていった。山県は積極的に人材登用を行い、桂をはじめ児玉源太郎、岡沢精など同郷人や中村雄次郎、木越安綱ら他藩出身者も軍部へ取り立て、派閥を拡大していった。軍拡と組織体制も整い、明治21年に師団への変更と参謀本部の改編が行われ、参謀本部は翌明治22年に参謀総長を長とする軍事組織へと改編が完了、のちに同様の組織として海軍軍令部も作られ陸海軍双方の参謀本部が完成した。ただし、平常時で軍政に関わる事柄、特に予算関係は陸軍大臣が内閣と協議する慣例で、軍の中心は陸軍省にあり参謀本部は完全に陸軍省から独立したとはいえなかった。

7) 地方自治の発達に尽力

内務大臣としての活動は地方自治の形成に尽力し、市制・町村制・府県制・郡制を制定した。内相就任前から地方制度に関する意見を政府に提出していた山県は、市町村制の公布に際し、明治20年(1887年)1月から開かれた地方制度編纂委員会で委員長を務め、ドイツのお雇い外国人アルベルト・モッセ、同郷の青木周蔵・野村靖らを委員として、ドイツの制度を参考にした自治制を日本に合うように修正・定着する方針に決めた。地方が財政難の中各地方長官が急激な制度改革に反対、元老院と大蔵省も反対したが、山県は制度実現に向けて明治21年2月までに立案・審議を終わらせ、4月25日にまず市制町村制が公布、明治22年4月1日以降に各地で順次施行、明治23年(1890年)5月17日に府県郡制も公布された(施行はさまざまな要因で明治32年(1899年)3月16日まで遅れた)。また、地方財政の対応策として明治の大合併を推進し、明治21年末から明治22年末までに約7万から約1万5,000と町村の数が激減するほどの合併を実行したが、こちらは地方に妥協し実情に合わせて配慮したため、旧町村と新町村の財政が一本化されない、新町村に吸収されたはずの旧町村の区域が名前を変えて残り、実際の町村は分離されたままという中途半端な結果に終わっている。
山県が地方自治に熱心に取り組んだ理由は、日本国民に政治の仕組みを地方政治を通して理解させること、および急進派や過激思想(特に自由民権運動)を政治から遠ざけ、穏健派を政治に迎え入れる意図があった。府県と郡の政治機関は官選の知事(郡長)と補佐する執行機関の府県参事会(郡参事会)、地方議会にあたる府県会(郡会)で構成され、市町村も同じ構造で市長・市参事会・市会が政治機関で、町村もそれぞれ町長(村長)・助役・町会(村会)を置き、等級選挙と複選制(間接選挙)を導入して富裕層の政治参加を図った[注 6]。山県の狙いは普通選挙を導入して混乱を招くより、等級選挙で地方の有力者の政治参加を望み、地方議会政治を通して彼らを行政事務に慣れさせ、政治家として成長した地方議員達がやがて中央へ進出、将来帝国議会で堅実に政治を行うことを考えていた。
この山県の意図はあまりうまくいかず、府県会選挙をめぐり市町村会員選挙が混乱、明治32年に帝国議会との妥協で府県郡制施行の際に府県郡会の複選制と大地主参加を廃止、府県会は直接国税3円以上の納税者による直接選挙に変更され、府県も官選の知事に対して府県会の権力が弱いなど(代わりに府県参事会はある程度知事に制限をかけられた)、地方自治の発達につながらず当初の目的から後退した例が多かった[65]。それでも府県会と知事が相互牽制して両者の関係を成り立たせ、郡には町村が難題を抱えたときに代議決権を持たせるなど、工夫を凝らして自治育成の方針を残そうと努力した。また、自治を促しつつ国から地方へのコントロールも行える仕組みにも取り組み、国から地方への行政執行命令と国税徴収を通しての規制強化で、中央と地方の関係を構築させようと試みた。ただし、のちに山県は方針を変え、府県郡制施行で知事と郡長の権限を拡大、山県系官僚が郡を通して町村を統制したため、軍と並んで地方も山県の派閥の根拠地となっていった。
明治21年12月2日よりヨーロッパ各地へ視察旅行に出る。外国の地方自治制度と軍事を調査すること、および国会と地方議会の関係がどうなっているかを知ることが目的だった。フランスでは軍人政治家ジョルジュ・ブーランジェが大衆の人気を背景に打倒政府の首領に担がれたクーデター未遂事件(ブーランジェ将軍事件)を見聞、翌明治22年2月11日の宮中での大日本帝国憲法発布式典には、フランス滞在中のため臨んでいない。伊藤も遊学しており、当時「シュタイン詣で」とさえ言われるほど日本政府の要人らがオーストリア・ウィーンの憲法学者ローレンツ・フォン・シュタインを訪れていたが、山県も訪問している。ほかにイタリア、ドイツ、イギリスにも出かけ、ドイツでグナイスト、クルメツキ(ドイツ語版)、ビスマルク、ヴィルヘルム2世らのもとを訪問している。10月2日に帰国。
旅行で山県が得た知識・体験は中央で急進的な民衆運動が政治を混乱させていること、対照的に地方議会は平穏な状態を見て国会開設を否定的に捉えるようになった。自治制に協力したモッセの師にあたるグナイストからは、町村は住民の自治を基盤とするドイツ制度でよいとしながら、それより上の府県レベルには導入すべきでなく、官選の知事の権限が強いフランスの制度を採り入れることを忠告され、帰国後に公布された府県郡制に反映された。また、シュタインやクルメツキからはそれぞれ外交方針と議会操縦を学び、のちに山県が第1回帝国議会で発表する「主権線」「利益線」の概念と議会支持者の形成などに活かされるようになる。
これとは別に、琵琶湖疏水事業の後押しもしている。内務卿だったころの明治18年1月に京都府知事北垣国道に疏水起工特許を下し、5年後の明治23年4月に挙げられた竣工式に出席している。以後も山県と琵琶湖疏水との関わりは続き、のちに京都、それも琵琶湖疏水のほとりに別荘・無鄰菴を建てると、庭池に疏水の水を流してもらっているが、これは京都市が疏水事業を推進した山県への恩義からではないかとされている。

8) 最初の組閣と対外遠征

帰国後の12月24日、長州出身の陸軍軍人としては初めて内閣総理大臣(第3代)に就任(第1次山縣内閣)し、明治23年7月1日に第1回衆議院議員総選挙を迎え、11月29日に開会した日本最初の帝国議会に臨んだ(明治天皇の計らいで現役軍人のまま首相。6月7日に陸軍大将に昇進)。超然主義をとり軍備拡張を進め、第1回帝国議会では施政方針演説において「主権線」(国境)のみならず「利益線」(朝鮮半島)の確保のために軍事予算の拡大が必要であると説いた。
対する野党・民党の立憲自由党、立憲改進党は激しく反発し、予算案の歳入を一部削る修正案を衆議院で作成、内閣も対抗措置として自由党議員の買収工作を行ったり、民党と関係が深い陸奥宗光農商務大臣を通して自由党との妥協を探り合ったりしている。結果、自由党内部から板垣退助を擁立する一派が政府の妥協を宣言、最初の帝国議会を円満に閉会させたい議員全体の意向もあり、予算案削減額はあまり変わらなかったものの、明治24年(1891年)3月2日に衆議院で予算が成立した。貴族院も軍から政治に場所を移し山県との対立を継続した谷ら四将軍派などの反抗はあったが、4日後の6日に予算案は通過、8日に議会が無事閉会式を迎えたあと、5月6日に山県は首相を辞任、松方正義に譲り第1次松方内閣と交代した。
首相在任は1年5か月と短かったが、無事に帝国議会を終わらせたことで山県は政治家として名を上げ、伊藤に匹敵する藩閥実力者としての地位を確立した。第1次内閣の他の功績は府県郡制公布、内閣職権を廃して内閣官制を導入、明治23年10月30日に部下の芳川顕正文部大臣や井上毅法制局長官と協力した教育勅語発布が挙げられる。以後は天皇の信任も獲得し、明治25年(1892年)7月に松方内閣が倒れると天皇から善後処置を伊藤や黒田清隆とともに下問され、協議の末8月に第2次伊藤内閣が成立、短期間司法大臣を務めたあと、翌明治26年(1893年)3月に枢密院議長へ転任した。このときの天皇からの下問と有力者協議がもとで元老制度が作られ、首相辞任時に元勲優遇の詔勅を下されていた山県も元老となる。
明治27年(1894年)7月から始まった日清戦争では、56歳にもかかわらず第一軍司令官として自ら戦地に赴き作戦の指揮をとった。「敵国は極めて残忍の性を有す。生擒となるよりむしろ潔く一死を遂ぐべし」と訓示している。配下の野津道貫が率いる第5師団が9月の平壌の戦いで平壌を陥落させるなど戦果はあげていたものの山県自身は体調を崩し、11月に天皇に「病気療養のため」という勅命で戦線から呼び返され、12月に帰国している。
無念の帰国を余儀なくされた山県であったが、伊藤・井上らが山県の今後について打ち合わせ、天皇も体面を気遣い山県に第一軍司令官と枢密院議長を免じる代わりに監軍に据え、2回目の元勲優遇の詔勅を下すなど山県を少しでも慰めようと配慮した。その甲斐あってか、帰国後山県は体調を回復、戦後の明治28年(1895年)8月5日には第二軍司令官だった大山、西郷従道海軍大臣とともに日清戦争の恩賞として旭日桐花大綬章、功二級金鵄勲章を授与、伯爵から侯爵に昇叙された。明治29年(1896年)3月に日本を出国、アメリカ・ヨーロッパ経由でロシアに到着、5月のニコライ2世戴冠式出席という表向きの任務を果たし、裏では日清戦争後朝鮮に進出したロシアと交渉して妥協を見出し、6月9日に山縣・ロバノフ協定で対等な関係を結んだことで日清戦争で減退した威信も回復、7月に帰国した頃には有力者としての地位を向上させていった。

(つづく)


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