ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

死と愛と孤独の詩人 「原民喜」

2020年01月05日 | 書評
民喜と貞恵

繊細な精神は過酷な運命を生きた 死と愛と孤独の文学  第3回

Ⅰ.梯久美子著 「原民喜ー死と愛と孤独の肖像」 岩波新書(2018年7月) (その1)



原民喜が自死したのは1951年(昭和26年)3月13日の夜更けであった。前日原は三田文学の後輩で作家の鈴木重雄夫婦の暮らす井の頭線沿線の久我山の家にふらりと訪れた。普段から行き来のあった中なので驚きはしなかったが、その日も無口で何もしゃべらずうまそうに焼酎を飲んだそうだ。原に持たせようとしたクロッカスの鉢が原が帰った後縁側に置いたままであった。鈴木は表に出て原を追ったが原の姿は見えなかった。原が中央線の西荻窪ー吉祥寺間で鉄道自殺を遂げたのは翌日のことである。原の自死には二人に女性の目撃者がいた。吉祥寺から西荻窪に向かって歩く男にすれ違ったが、彼は土手を上って線路に横たわった。そこへ11時30分西荻窪発の電車がやってきて姿を認めて急ブレーキをかけたが間に合わず原を引きずって50メートル先で停止した。後頭部破損、両足切断で即死であった。自宅には友人17人への遺書が残されていた。着ていた服は詰襟の国民服であった。一張羅の背広は詩人の藤島宇内に差し上げますと遺書に書いてあった。文学青年たちに贈るため、数少ない衣類に名札を付けて下宿の壁にぶら下げてあった。最大の理解者であり庇護者でもあった妻を戦争末期になくし、戦後の東京生活は孤独と貧困に苛まれた生活であった。その中で執筆をつづけついに力尽きたのだった。詩人の長光太は、原は若い時から何度も轢死の幻想を口にしていたという。1939年三田文学に発表された短編小説「溺没」には、轢死した死体の上を走る省線の床を踏みつける女の幻想が、怖いもの見たさのように描かれている。長氏は彼が自分の死を予告しているようだという。原は慶応の学生のころから動く乗り物に異常なまでの恐怖心を抱いていた。それに原爆の光が新たな層の恐怖を植え付けたようだ。原の小説「鎮魂歌」には「自分のために生きるな、死んだ人達の嘆きのためにだけ生きよ。僕を生かしておいてくれるのはお前たちの嘆きだ。お前たちは星だった、花だった」原は死者たちによって生かされている人間だと考えていた。そこには敏感すぎる魂、幼いころの家族の死、交通災害の予感、そして妻との出会いと死別が深く関わっている。警察から電話があって自死の翌朝現場に駆け付けたのは庄司総一氏、鈴木重雄氏であった。それから友人・親戚への連絡が始まった。まず能楽書林の丸岡明、群像編集部の大久保房雄氏、近代文学の佐々木基一(義弟)らであった。広島から兄の守夫氏がやってきて火葬が始まり、通夜を経て阿佐ヶ谷の佐々木基一氏の家で「三田文学」と「近代文学」の合同葬が営まれた。葬儀委員長は三田文学の長老佐藤春夫氏である。弔辞を読んだのは三田文学の柴田錬三郎氏、近代文学の埴谷雄高氏であった。埴谷氏は「あなたは死によって生きていた作家でした。あなたの作品はこの地上に生きるものの悲しみの果てを繊細に描き出しています」と述べた。自死する前年1950年朝鮮戦争が勃発、トルーマン大統領は原爆使用も辞せずと発言したことを受けて、原は「明日再び火は天から降り注ぎ、明日ふたたび人は灼かれて死ぬでしょう、悲惨は続き繰り返すでしょう」と書いた。原の死は周到に準備されていた。数か月前から友人たちを訪れさりげなく別れを告げていた。最後に訪れたのは鈴木宅であった。残された物の中には17通の遺書と数通のあて名を書いた葉書があった。押し入れの中に大久保の名札のついた風呂敷があり、遠藤周作宛の遺書には切手が張られていた。そして「心願の国」原稿、数本のネクタイとタオルであった。佐々木氏あての遺書には「さりげなく別れてゆきたいのです。妻と死別してからの私の作品はすべて遺書だったような気がします。」と書かれていた。カバンの中にはこれまでの原の作品がすべてまとめてあった。生きている世界は点となって遠ざかってゆくやがて自分の文学も消えて亡くなる。編集する場合山本健吉と佐々木の二人でやってください。印税は原時彦(甥)に相続させると付け加えてあった。原は結婚したばかりのころ「遥かな旅」に「もし妻と死に別れたら、1年だけ生き残ろう。哀しい美しい一冊の詩集を書き残すために」と書いた。妻が病死することの予期不安を抱いていたのである。しかし運命は原を原爆に遭わせ、自分の見たものを書き残さなけれ死ねないという気にさせ戦後6年近くを孤独の中で生きたのである。それに比べると同じ慶応出身の文学者江藤淳氏は妻が亡くなって、すぐ後を追って自殺された幸せな方であったのかもしれない。死の2年前1949年エッセイの中で、原は「私の自画像に題する言葉は、死と愛と孤独の言葉になるだろう」と書いた。少年期以来彼の人生は死の想念にとらえられ、妻の愛情に包まれて暮らした青年期があり、孤独の中で書き続けた晩年の日々があった。原民喜の命日は「花幻忌」と称して友人たちが集まる。

(つづく)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿