大江健三郎(左)と加藤周一(右) (憲法九条の会 2004年)
雑種文化の提唱者加藤周一氏が医学を捨て、日本文化の観察者たらんと決意した1960年までの半生記 第1回
序
加藤周一氏については、その評論活動や伝記について、海老坂 武著 「加藤周一ー20世紀を問う」 (岩波新書 2013年4月) に詳しく記したので、ここでは繰り返さない。加藤周一氏の関係年譜についてもそちらを参照して下さい。ただちに、本書「羊の歌」に沿って加藤周一氏の言葉に入ろうと思う。小説仕立ての節も多く、すべてが事実ではない。潤色、取捨選択は当然なので、こころして読まなければならない。なお「羊の歌」という題名は加藤周一氏がひつじ年生まれ(1919年)だからだそうです。そういえば中原中也に「山羊の歌」や「羊の歌ー安原喜弘に」という詩があったが、それと関連付ける必要はないと思う。すると氏は私とは二回りの24歳上となり、私も羊年です。本書は上下二巻からなり、各巻20節で構成される。従って全40節で、各節はほぼ均一に12頁からなるのであとがきを含めると、上下巻合わせて500頁の本である。1966年から1967年に「朝日ジャーナル」に連載された。この本は他者が書いた評伝ではなく自伝であるので、第一人称で話を進める。毎日2章ずつ順を追って紹介する
1) 祖父の家
祖父(母方)は佐賀(薩長土肥藩閥政府という言葉があるが、佐賀は鍋島藩で肥後ノ国である)の資産家の一人息子が、19世紀末に明治政府の陸軍の騎兵将校になった。日清戦争(1894年)に従軍する前、家産を投じて馬を買い、新橋で名妓をあげて豪遊したという逸話の持ち主であった。イタリアに遊学してミラノのスカラ座で歌劇を聴いた。祖父はその時西洋風の交際術を見つけてきたようだ。日露戦争の頃には陸軍大佐になり、豪州へ軍馬の買い付けに行った。戦争後は陸軍を辞め、貿易業に転じ第1次世界大戦で儲けたが、その後の恐慌で資産の大半を失ったという。祖父は佐賀県令の妾腹の娘と結婚し、長男は帝国大学医学部を卒業して間もなく死んだ。長女は学院に通わせ佐賀の資産家で政友会の代議士に嫁がせた。次女(加藤周一氏の母)と末の娘は、雙葉高等女学校に通わせた。次女は埼玉県の大地主の息子で医者に嫁いだ。末の娘は会社員に嫁いだ。長女の夫は政友会が政権を取る県知事になりと急に羽振りがよくなったが、応援演説中卒中で亡くなった。次女の夫(加藤氏の父)は医者として成功もせずひっそりと渋谷で暮らした。末の娘の夫は肺結核で亡くなった。こうして祖父の家は次第に傾いていった。祖父の家は渋谷宮益坂の途中にあった。玄関の横の洋間は英国ビクトリア朝の様式をまねた作りであった。祖父は祖母と書生と3人の女中と共に住んでいた。偉ぶった主人にかしずく祖母と女中の姿は宗教的な儀式のようでもあった。庭の片隅にあった稲荷の祠のまえで手を打つのも儀式の一つであった。祖父には「女友達」が多かった。祖父はその頃西銀座にイタリア料理店を経営していた。祖父は家族でそのイタリアレストランに食事にでかけ、イタリア語かフランス語でやり取りしていた様子は、お稲荷さんに毎日手を打つのとは見違えったような祖父の姿を見た。そこの女主人も祖父の「友達」の一人だったようだ。父は外祖父を好きになれず、その「放蕩」を非難していた。それでも私は祖父の血を引いているのだろうか。イタリア料理店は子供にとって西洋そのものであった。祖父が口ずさむイタリア歌劇の一節、そこには感覚の別の秩序があった。20年後自分自身が西洋の地に立つと、幼少のころの世界を見出した。祖父の屋敷に登る坂道に長屋があって、その長屋がすべて祖父の持ち物で貸家であったが、私にとって何の関係もないので長屋に住む人々はなるべく見ないで過ごしていた。
(つづく)
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