ブログ 「ごまめの歯軋り」

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死と愛と孤独の詩人 「原民喜」

2020年01月06日 | 書評
民喜と貞恵

繊細な精神は過酷な運命を生きた 死と愛と孤独の文学  第4回

Ⅰ.梯久美子著 「原民喜ー死と愛と孤独の肖像」 岩波新書(2018年7月) (その2)

1.死の章

原民喜は日露戦争で勝った1905年11月父新吉、母ムメの5男として広島市中区幟町に生まれた。長男と次男は早世したので、3男の信嗣が長兄、4男の守男が次兄にあたる。その他に弟2人、姉2人、妹2人がいた。上の弟も4歳で亡くなっている。生家の原商店は1894年に創業した陸海軍・官庁御用達の繊維商で、軍服・制服・夜具・天幕等の製造・卸をやっていた。それ以来原商店は順調に業績を伸ばした。原商店は工場のほかに貸家を持ち1914年には合名会社となった。原家は裕福な実業の家となった。原爆が投下されたとき生家は爆心より1.2Kmの近くにあった。この家は父信吉が1908年に建てたが地震で隙間ができたので、新たに頑丈な家に作り替えたという。ほとんどが1階で2階部分は2間しかなかった。原は成人してから「自分の家は戦争成金なんだ」と自嘲気味に話した。原民喜の小説のテーマは、子ども時代の回想、妻との死別、被爆体験の三つに大別される。「幼年画」では主人公を敏感すぎる神経のために外界に怯える子どもとした。「小地獄」では恐怖心のために様々な幻想を見る子どもを描いている。少年期を描いた「死と夢」では幻想の世界に、昏く陰惨なイメージが加わり、自分の死体を見る自分が描かれてる。世界との断裂(断層)の感覚である。原民喜は小学生だった7年間で3人の家族を失った。1年生の時弟の6郎が4歳で亡くなり、5年生の時父が51歳で亡くなり、高等科1年生の時次姉のツルが21歳で亡くなっている。小説「昔の店」には父の死を境に世界が一変した様子が描かれている。それまでは自宅や店は心休まる安全地帯で彼にとって親密なものであった。このころを境に日向から日陰へ移されたような気持になったと書いている。学校から帰ると自分の部屋に引きこもり誰とも口を利かなくなった。そして家業に嫌悪の気持ちを抱くようになる。この小説の主人公はほとんど彼自身であった。まだ物語を構築するのではなく、自分の記憶と感覚を頼りに独特の自身の世界を描く作品の対象は身近な事への彼の心象の移り変わりである。子どもらしい衝動や喜びを忘れ、学校の授業にも友達との遊びにも全く興味を失った。父を失って父性的な威圧感や荒々しいことが苦手となり、青白い内向的な少年になった。短編集「幼年画」の1篇である「朝の礫」には弟の死が描かれ、死んだ弟の前で父が泣く姿に原少年は繊細な感情を見ている。父がガンの手術のため大阪の病院に入院したとき、父が妻に与えた手紙を読んで、父の孤独さに思いをはせている。この年齢で人の孤独と悲哀を深く感じ取る繊細な少年になったのである。小説「雲の裂け目」では、父が亡くなって1年ほどしたころから、庭の隅にある大きな楓が特別な存在に見え出したと語られています。父が死んだ部屋の前にあって、楓の木は親しい存在となり、彼は人より楓の樹に心を慰められるようになった。樹を父との媒介としてとらえているのである。中学校に入ってから原は学校の勉強に興味を失い、彼が声を出すのを教師も旧友も誰も聞いたことがない。原が次兄守男と二人で作っていた家庭内同人誌「ポギー」3号には、楓の詩がある。楓だけが彼の心と存在をすべて知ってくれるという内容である。散文詩集「小さな庭」に「かけかえのないもの」という1篇がある。妻が亡くなった後に書かれたもので、限り無い悲傷、悲しみ自体が慰めである。「空に消えたいのち、木の枝に帰ってくるいのち」への哀しみの歌である。広島被爆体験をへた戦後「鎮魂歌」に「自分ために生きるな、死んだ人達の嘆きのためだけに生きよ」と繰り返され「少年の僕は向こう側にある樹木の向こう側に幻の人間を見た」と。すべての樹に特別の意味を与えたのは、父との死別であり、その父を象徴する楓であった。妻が亡くなった後の俳句に「戦慄のかくも静けき若楓」という句があるが、「壊滅の予感」を感じさせる。小説「夏の花」ではこの楓は原爆によって「倒れた楓」となり、無残な懐かしい樹の最後であった。エッセイに「母親について」という文がある。兄弟姉妹が多くいて、3人も若死にしたなかで、母親の愛情は民喜だけに灌がれたのでない。民喜が13歳の時最もかわいがってくれた次姉が父親が亡くなった翌年腹膜結核で22歳でなくなった。この人から一番決定的な影響を受けていたと書いてある。1949年に書かれた小説「魔のひととき」に次姉の思い出が美しいおとぎ話のように書かれている。愛する死者は「聖別」される。父と姉、そして妻というかけがえのない愛情の対象をみな亡くしてしまった原が、脆く繊細な心を支えるために行った「聖別」であったろう。姉の死が承服できない民喜は、「遥かなところで僕の姉との美しい邂逅を感じることができる」という。民喜は姉から聖書を読んでもらって死後の再会を信じていたようである。次兄守夫と一緒に始めた家庭内同人誌「ポギー」3号(1920年)になかに「キリスト」という題の詩がある。この同人誌「ポギー」は12年間続き、原家の文化的土壌の豊かさが分かる。中学時代の原は誰とも口を利かず、運動はからっきしだめでみんなの笑いものでしかなかった。中学5年生の原は学校にはほとんど出ず、同級生の熊平武二、銭村五郎、長光太らが始めた同人誌「少年詩人」に原は詩を寄稿した。ここで原の文学回路が開かれた。原は読書に耽溺する時間を持つことができ、ロシア文学に開眼した。1924年原は慶応大学文学部予科に入学した。内向とデカダンスがせめぎあう東京での生活が始まった。

(つづく)


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