ブログ 「ごまめの歯軋り」

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死と愛と孤独の詩人 「原民喜」

2020年01月04日 | 書評
民喜と貞恵

繊細な精神は過酷な運命を生きた 死と愛と孤独の文学  第2回

序(2) 原民喜略年譜

明治38年(1905年)0歳: 11月15日父信吉、母ムメの間に五女七男(長男・次男は早世)の五男として広島市幟町(現 中区幟町)で生まれる。生家は、陸海軍・官庁御用達の縫製業を営む。父は1866年生まれ、日清戦争のとき繊維商「原商店」を創業。1914年合名会社に発展する。日露講和条約(ポーツマス条約)調印
明治45年(1912年)7歳: 広島県師範学校附属小学校(現 広島大学附属東雲小学校)に入学。6月19日弟六郎が4歳で死去
大正6年(1917年)12歳: 父信吉胃がんで死去。享年51歳。小学校6年生、 次兄守夫と原稿綴じの同人誌「ポギー」を作る。
大正7年(1918年)13歳: 広島高等師範学校附属中学校(現 広島大学附属中学校)の受験に失敗、 広島県師範学校付属小学校の高等科に進む。 6月24日慕っていた姉ツル腹膜結核で死去。享年21歳。
大正8年(1919年)14歳: 広島高等師範学校附属中学校に入学。国語が得意だった、クラスの会誌に「絵そら琴をひく人」という筆名で小説を発表。
大正9年(1920年)15歳: 中学2年生、家庭誌「ポギー3号」に「楓」「キリスト」他を寄せる。
大正10年(1921年)16歳: 中学3年生、家庭誌「ポギー4号」に短編小説「槌の音」を寄せる。
大正12年(1923年)18歳: 広島高等師範学校附属中学校4年を修了。大学予科の受験資格が与えられたため、5年に進級後はほとんど登校しなかった。 同人誌「少年詩人」に参加、詩作を始める。同人に熊平武二、末田信夫(長光 太)、銭村五郎らがいた。ゴーゴリ、チェーホフ、ドストエフスキーやヴェルレーヌ、宇野浩二、室生犀 星など文学に親しむ。 関東大震災・ソビエト連邦の成立
大正13年(1924年)19歳: 慶應義塾大学文学部予科に入学。この頃、熊平武二の影響から句作をはじめる。芝区三田の金沢館に下宿、同期に山本健吉、庄司総一、瀧口修三、厨川文夫、北原武夫らがいた。
大正14年(1925年)20歳: 「糸川旅夫」のペンネームで「芸備日日新聞」にダダ風の詩を発表する。
昭和元年(1926年)21歳: 同人誌「春鶯囀」創刊。熊平清一、熊平武二、長光太、銭村五郎、木下進、永久博朗、山本健吉らが参加した。資金難で4号で廃刊。 また、熊平武二、銭村五郎、長光太らと原稿綴じの同人誌「四五人会雑誌」 を創刊する。俳句、小説、随筆を発表。次兄守夫と原稿綴じの家庭同人誌「沈丁花」「霹靂」を作り、俳句を寄せる。 長光太、山本健吉らとマルクス主義文献を読み左翼運動にも関心を持つ。読書、創作にふけり単位不足で留年、学部進級が2年遅れた。
昭和4年(1929年)24歳: 慶應義塾大学文学部英文科に入学。主任教授は西脇順三郎。在学中はマルクス読書会に参加、日本赤色救援会など左翼運動に一時参加、酒やダンスにも傾倒した。 世界大恐慌
昭和5年(1930年)25歳: 慶応大学生の小原の指示で広島地区の救援オルグとして派遣される。
昭和6年(1931年)26歳: 広島の胡川清に日本赤色救援会の地区委員会を組織するよう働きかける。4月胡川は逮捕され、原も東京で逮捕される。その後運動から離れる。
昭和7年(1932年)27歳: 慶應義塾大学卒業。卒業論文は、「Wordsworth論」。港区の長光宅に寄寓する。ダンス教習上の受付の仕事につく。横浜本牧の身請けした女性と同居するが、逃げられカルモチン自殺を図る。千駄ヶ谷の明治神宮外苑のアパートに長光太と移る。原に実家から縁談が持ち込まれる。 満州事変
昭和8年(1933年)28歳: 1911年生まれの永井貞恵(文芸評論家 佐々木基一の姉)と見合い結婚。永井家は尾道で肥料商、米、酒造を営む。池袋のアパートに新居をもうけるが、 淀橋区(現 新宿区)柏木町の山本健吉宅の向かいに転居。井上五郎の同人誌「ヘリコーン」に参加。
昭和9年(1934年)29歳: 不規則な生活を不審に思われ、妻とともに淀橋署特高警察に検挙されるが、一晩で釈放される。山本健吉と絶交する。千葉市登戸町(現 千葉市中央区登戸)に転居。妻が病死するまで10年間同所に居住する。この時代が原にとって最も幸せな時期だったようだ。
昭和10年(1935年)30歳: 短篇集「焔」(白水社)を自費出版。妻と共に句誌「草茎」へ俳句を発表。俳号「杞憂」。
昭和11年(1936年)31歳: 母ムメ尿毒症のため死去。享年62歳。 この年より「三田文学」を中心に雑誌への作品発表が続く。「狼狽」「貂」「行列」 ニ・ニ六事件
昭和12年(1937年)32歳: 「幻燈」「鳳仙花」を三田文学に寄稿
昭和13年(1938年)33歳: 小説「不思議」「玻璃」「迷路」「暗室」「招魂祭」「自由画」「魔女」「夢の器」を三田文学に寄稿
昭和14年(1939年)34歳: 妻貞恵、肺結核(糖尿病を併発)を発病。千葉医科大学付属病院に入院するなど5年間の闘病生活を送る。作品数は次第に少なくなる。「曠野」「華燭」「沈丁花」を三田文学へ寄稿 欧州で第二次世界大戦起こる
昭和15年(1940年)35歳: 「小地獄」「青写真」「眩暈」「冬草」を三田文学へ寄稿
昭和16年(1941年)36歳: 「雲雀病院」「夢時計」
昭和17年(1942年)37歳: 船橋市立船橋中学校の嘱託英語講師となる。「面影」 「淡章」 「独白」を三田文学に寄稿
昭和18年(1943年)38歳: 「望郷」を三田文学に寄稿
昭和19年(1944年)39歳: 船橋市立船橋中学校退職。夏ごろより、朝日映画社脚本課嘱託となる。 9月28日、妻貞恵死去。享年33歳。リルケの「マルテの手記」を読み強い感銘を受ける。 「弟へ」「手紙」を三田文学へ寄稿、三田文学休刊
昭和20年(1945年)40歳: 妻を看病していた義母が帰郷する。2月4日広島市幟町に住む長兄信嗣宅へ疎開、家業を手伝う。 8月6日、長兄宅で被爆。爆心より1.2Kmの位置で被爆する。2晩野宿して8日より、次兄守夫の家族とともに広島市郊外の八幡村(現 広島市佐伯区)に移る。原爆被災時の手帳をもとに小説「夏の花」(原題「原子爆弾」)を執筆、佐々木 基一宛に原稿を送る。 ポツダム宣言受諾・終戦
昭和21年(1946年)41歳: 三田文学復刊。近代文学創刊。上京、大森区馬込東(現 大田区南馬込)の長光太宅に寄寓する。 慶應義塾商業学校・工業学校夜間部の嘱託英語講師となる。 「三田文学」の編集に携わる。 亡き妻との思いでを書いた「忘れがたみ」(三田文学)「雑音帳」(近代文学)「小さな庭」(三田文学)「冬日記」(文明)「ある時刻」(三田文学)「猿」
昭和22年(1947年)42歳: 長光太宅を出て中野の甥の下宿など居所を移す。 中野のアパートを移って、丸岡家が所有する能樂書林へ転居する。「夏の花」を「三田文学」6月号に発表。 慶應義塾商業学校・工業学校夜間部の嘱託を退職。三田文学の編集と創作に専念する。「吾亦紅」「秋日記」「廃墟から」「雲の裂け目」「氷花」を四季、三田文学に発表。
昭和23年(1948年)43歳: 神田神保町の能楽書林(丸岡明の自宅であり、当時の三田文学発行所)の一室 へ下宿する。遠藤周作と知り合う。「近代文学」の同人となる。 「夏の花」で第1回水上瀧太郎賞を受賞。「昔の店」を若草に、「愛について」「戦争について」「火の踵」を近代文学に「災厄の日」を個性に発表する
昭和24年(1949年)44歳: 能楽書林より、小説集『夏の花』を出版する。「三田文学」の編集を辞める。祖田裕子と知り合う。「壊滅の序曲」「魔のひととき」「死と愛と孤独」「火の唇」「鎮魂歌」を発表し戦後の創作活動が膏に乗る。 中華人民共和国成立
昭和25年(1950年)45歳: 武蔵野市吉祥寺に転居する。遠藤周作、祖田裕子と3人で多摩川でボートに乗って楽しい時間を得た。 日本ペンクラブ広島の会主催の平和講演会へ参加するため帰郷。遠藤周作がフランス留学に出発する。「美しき死の岸に」「讃歌」「原爆小景」「火の子供」 朝鮮戦争起こる
昭和26年(1951年)45歳: 3月13日、中央線の吉祥寺・西荻窪間にて鉄道自殺。享年45歳。 3月16日、佐々木基一宅で「近代文学」「三田文学」合同の告別式が行われる。葬儀委員長は佐藤春夫。「ガリバー旅行記」(主婦の友社)、「原民喜詩集」(細川書店)刊行される。 広島城跡に詩碑建立。(昭和42年に原爆ドーム東側に再建) 「うぐいす」(童話)「碑銘」「悲歌」「ガリヴァ旅行記」「心願の国」 「永遠のみどり」(小説)「誕生日」(童話)「死の中の風景」(女性改造)「死について」(日本評論)「原民喜詩集」(細川書店)「もぐらとコスモス」(童話)「屋根の上」「ペンギンの歌、蟻、海」(近代文学)「杞憂句集」(俳句研究)

(つづく)


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