ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 柳田国男 「海上の道」 角川ソフィア文庫

2018年05月16日 | 書評
日本民族と稲作文化を南西諸島との共通点から考察する 第9回 最終回

7) 稲の産屋

新嘗の嘗の字は、中国では秋祭を嘗ということを借りたものであると伴信友に「神社私考」に書いてある。しかし今の日本でいう「いなめ」という厳かな儀式と同じであったかどうかを問題としたい。物があって名があるというのではなく、いわば書物上の社会システムの問題である。人が学問によってはじめて知る前代のことである。嘗をもって表す我国の儀式だけは少なくとも民族固有のもので、遠い神代から連綿として記紀律令の時代まで継承してきた。それが果たして大陸で行われた嘗と同じであるかどうか、彼我の伝統を比較しなければわからない。「にいなめ」という日本語は万葉集では「ニフナメに我せを遣りて」とあり、書紀神代巻でも「ニハナへきこしめす時」と読ませ、新宮を「ニハナエノミヤ」と読ませている。古事記全巻でも「爾波那比」を正字としている。本居宣長が「ニイナメ」に統一したのは根拠がないという。古事記でも常陸国風土記でもともに、嘗の一字でもってニイナメを表している。嘗はまた新たなる穀物を食べ試みる意味をはじめから持っていた。本居説ではニイナメ新舐では新は形容詞、舐めるは動詞である。稲村、稲積の方言に、ニホ・ニュウがあるが、新嘗のニヒではないかと折口氏が言い出した。ニホが本来は刈り稲を積んでおくところ、「穂を拾うてミョウにまいらする」からミョウは野外の祭場であった。北九州市は「トシャク」、「トウシャク」という稲積の音読み、それより西南はコズミ、宮崎県霧島麓のでは刈稲を田に干し束に結わえてコズミに積んだ後トッワラという藁帽子を上にかぶせる。福島県会津では稲積をニュウ、上にかぶせる藁の覆いをボッチと呼んでいる。近畿地方では稲村をボウト、伊勢・尾張地方ではスズキ・スズミ・スズシと呼ぶ。北欧では穀霊信仰が流布しているようだが、アジア東南諸島にも穀母信仰がある。大体ニホ、ニフ・ニュウなどが産屋を表している。近畿では産屋に入ることをニブ入りという。お産で里方に還ることをいう。子供を親に見せに里帰りする広い意味で使われる。壬生部または乳部を御産屋に奉仕した人の部曲(かきべ)であった。古来多くの稲作民族の間に、間違いなく信仰行事の一致があって、いまなおそれを伝えている。柳田氏が言いたいことは「嘗」の漢字にあてられるアエ、ニエという日本語は、単純に食物の供進を意味し、それは我国のすべての祭祀に伴っていた条件である。ただ「嘗」の一字でもってニハナエ、ニハヒ、ニイナメと読むべきであったものを、念を入れて新という字を添えたばっかりに混乱させてしまった。西南諸島の間には稲の産屋ニホを意味する言葉が明らかに残っている。稲霊を寿ぐ言葉があった。ウガノミタマ、国頭地方にはイニマジン、沖永良部島にはマンジ、マジン、八重垣諸島にはシラという言葉があった。石垣にもシラに伴う季節儀礼が今なおある。宮古群島では穂積をシラと呼んでいた痕跡はありそうである。沖縄本島以北の稲作地帯では、稲のシラいう言葉はもはや残っていない。貯穀管理するマジンの方式が普及して消え去ったようである。人間の産屋をシラという言葉は今も生きている。妊婦をシラビトウと言い、産婦をワカジアラという言い方はもはやない。蚕のことを東北ではオシラサマと呼ぶ。養蚕はまだ普及していなかった時期、オシラ遊びという式目は年に三度ある農神の日であった。琉球列島の一部に稲の蔵置き場と人間の産屋とを共にシラと呼ぶ言葉が残っている。太陽をテダ(照)、生む育つものをシダ、シラといった。成長し大きくする意味のシトネル、種をスジ、種籾をスヂという。日本人の嘗の祭りがいわゆる稲の産屋の信仰を持っていたどうかは文献学的に定かではない。相嘗は相餐と同じ意味で神と人と同時に一つの食物を食べることである。嘗に該当する稲収穫後の祭典が、朝廷だけでなく普通の庶民でも行われていた。朝廷のことは「延喜式」に践祚大嘗祭の儀式が定められている。しかし翌年の種に関する儀式、すなわち稲の産屋の作法が定められていない。朝廷では稲作はしなかったためである。

(完)