ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 柳田国男 「海上の道」 角川ソフィア文庫

2018年05月13日 | 書評
日本民族と稲作文化を南西諸島との共通点から考察する 第6回

4) 根の国の話

肥前の下五島(大値賀島)の海岸に「三井楽」という岬がある。「万葉集」に出てくる「松浦郡美禰良久之崎」、または「続日本後紀」に出てくる「旻楽の崎」と同じだろうと思われる。後代の源俊頼の「算木奇譚集」のなかの「ミミラクの島」と同じだろう、「ミミラク」とは死者の国という意味で歌われている。しかしあの世のことは日本の古典では「ネノクニ」、「ネノカタスクニ」と呼ばれるのが常である。それが西の突端にあり外国への境界という意味なら理解できる。「根の国」という言葉は日本で「常世の国」という言葉で表現されるようになって廃れた。死後の世界を意味する「ヨミノクニ」、「ヨミジ」はまだ使われているが、「黄泉」という漢字を用いる様に地底に入るような印象を与えている。「根」が地下のことだという証拠はあるのだろうか。戦前には沖縄の故事・風習を伝える人がまだ居られたので研究が大いに進んだが、戦争中の犠牲者として古老が次々と世を去り遺跡は名ばかりになっている。根の国が死者の国でなかったことは、それぞれの本国に向かって遙拝の式「ネグミ拝み」とか、この島で宗家を「モトドコロ」、「ネドコロ」知呼ぶのはルーツの出発点という意味である。神の故郷「ニライ」、「ニルヤ」と呼ぶ海上の霊地の名は日本の根の国と同じ言葉であろうか。根屋をあらわす「ネリア」、「ニーナ」が竜宮に置き換えられている。八重島では「二―ラ」、「二―ラスク」を土の底という意味で使っていた。地の底を根の国という風に理解するのは本居宣長の影響が大きい。平田篤胤は月の世界を根の国と言った。「ミミラク」、「ミーラク」がもしあの世とこの世の境の島だとすると、どういう過程を経て根の国に落ち着いたのか。もともと日本には不思議と意味の取りにくい古い地名が多い。北韓道のアイヌ居住区のほとんどの地名は命名の動機が明白であるのに対して、理解に苦しむのである。「ミミラク」はその典型である。「和名抄」に地方の郡郷の地名にも理解不可能な地名が多い。命名法と国語のお話がまだ少し続くがネノクニに関係ないので省略する。稲の根元に関する言い伝えは各地各時代に変化しているが、微かな南北の一致もある。日本北部には大昔大師と言う人が天竺に渡って稲を盗んで狐に頼んで葦原に隠したという。天竺とはインドのことではなく天上のことである。旧暦霜月11月23日に稲祭すなわち大師講の始まりである。西日本では弘法大師が遣唐使の帰りに持ち帰った大麦の話がある。この話には犬が絡むが、上総国誌では鶴が稲を咥えて飛んできて地上に落とした。沖縄本島の話は慶長年間の記録によるが、ほぼ1年かかって鷲が稲を運んだことになっている。沖縄のおもろ草紙には、この人世を支え養う力を「ニライ」、「セジ」と呼んでいた。稲という穀物の根源が「ニルヤ」にあり、これを繁殖させて人間の力と幸福をもたらすという意味である。「八重山歴史」に「二―ラスク」は遠い昔の世の海上浄土をいう。「セジ」とは呼ばないがそれは国という制度が行き渡ったからであろう。古見の聞き覚えに、頭に稲穂を戴き出現された時は豊作で、出現無きときは凶作だったので、「世持神」と名付けて拝んだという。沖縄の地は高温多湿を除いては稲作に決して向いた土地ではない。耕作地は狭く、台風と高波の災害も多く、日本本土よりはるかに稲作には困難であった。稲がニライカナイの本国からもたらされたのは事実らしい。古見・久米と言う地名は米をもたらした偉人の名であることが「旧記帳」に書かれている。豊年の願いは、供物を古見三村から出し合い、祭の儀式を執り行った。それは「世話神」の役であったという。村の長老ワザオギであることが分かった。西表という島の古見がかっては南島文化の中心であったが、近世になって激しい盛衰を経験した。西表島には炭鉱もあって大いに栄えた。5つの村があり田は1870石、畑は97石、いえは1267戸あったが、1753年伊は767人に減少し、戦後の最近は8戸となった。人口激減の主たる原因は「マラリア」と対戦の影響である。アッメリカ軍は爆撃機からDDTを森林に散布したという。以上をまとめると、三井楽という言葉は南島のニルヤ・カナヤが、神代記のいわゆる根の国と、根本同じ言葉であり信仰であったが、同時にそれが海上の故郷であるがゆえに、島のために健闘した人々の安らかな休息の地を約束し、いろいろな幸せをもたらす精霊の往来する拠点でもあるという信仰となった。長く稲作という人の命を繋ぐ作物の栽培を繰り返し、毎年その成果を祝う古来の祭式があった。

(つづく)
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