作曲家の小山田圭吾氏が、障害者らに対する過去の暴行・虐待で東京オリ・パラ開会式のスタッフを「引責辞任」(19日)した問題。
小山田氏の当時の行為、その後それを反省もなく2つの雑誌で語った(1994、95年)ことが言語道断であることは言うまでもありません。
しかしそのこととは別に、小山田氏の辞任を当然とする論調の中には、賛同できない危険なものがあります。
小山田氏への批判が収まらないとみた加藤勝信官房長官は、19日の記者会見で、「政府としては共生社会の実現に向けた取り組みを進めている」「組織委において適切に対応していただきたい」と“小山田切り”を求めました。東京五輪がこれ以上批判を浴びれば菅政権にとって致命傷になりかねないという政治的思惑です。
一方、小山田氏の辞任は当然とする新聞の社説はこう述べています。
「人間の尊厳を重んじ、あらゆる差別の否定を掲げる五輪の式典に、こうした人物が関わることがふさわしいとは思えない」「まさかこんな悲惨な状況で迎えるとは予想もしなかった「平和の祭典」の幕開けである」(21日付朝日新聞社説)
「五輪憲章は、あらゆる差別を禁止している。東京大会は「多様性と調和」を理念に掲げ…小山田氏が担当者として不適任なのは明白だ」「組織委が、人権への配慮を欠く体質を根本的に改めなければ、五輪と国民の距離は広がるばかりだ」(21日付毎日新聞社説)
また、社会学者の大澤真幸氏は、こう述べています。
「小山田氏は雑誌で(「いじめ」を)武勇伝のように語っていました。その人が五輪開会式という国家的祭典の作曲を担うことになり、人の痛みが分からない人が「勝ち組」になるのかと怒りを抱いた人もいたのではないでしょうか」(19日朝日新聞デジタル)
こうした論調には共通性があります。小山田氏は五輪の理念(憲章)に照らしてふさわしくない、「平和の祭典」「国家的祭典」を担当するのは不適格だ、「五輪と国民の距離を広げる」ことになる、というものです。
ここにあるのは、五輪の美化・神聖化、あるいはそうあってほしいという願望です。そこには、東京五輪を「国家的祭典」として強行しようとしている菅政権との危険な共通性があります。
「あらゆる差別を否定」する「多様性と調和」の「平和の祭典」、などという五輪・東京五輪のスローガンが真っ赤なウソであることは、それが世界の紛争、貧困、格差、人権侵害を隠ぺいして行われる「先進諸国」主導の政治イベントであること、さらに、招致買収「疑惑」以降の東京大会をめぐる不祥事のヤマ、路上生活者の排除などを見れば明らかです。
「国家的祭典」であることは否定しません。しかしその意味は、「国旗」「国歌」に包まれ、「国家」がメダルの争奪戦で「国威」の発揚と「国民」の結束を図るという意味での「国家的祭典」ということです。そこにあるのは偏狭ナショナリズムであり、「先進諸国」の「国家戦略」です。
国家主義と大資本の商業主義、五輪ファミリーの利権にまみれた五輪はとうの昔に耐用年数を過ぎており、廃止すべきです。コロナ禍の東京五輪は、そのことを提起しているのではないでしょうか。
小山田氏の問題は、そうした五輪のウミ、宿痾の表れの1つであり、小山田氏が辞任したからといって五輪の問題はなんら解決へ向かいません。開会式が強行されようとしているいま、考えねばならないのは、五輪の存廃そのものです。