福山市人権平和資料館で「写真展 ヒロシマ・ナガサキ 『原爆と人間』」が開催されています(1日~31日)。
その中で1枚の写真(右)に目が止まりました。タイトルは「核の恐怖―沖縄」。写真に添付された文章です。
「墜落して爆発したB52はナパーム弾とボール爆弾を積んでいました。あれが、水爆パトロールのB52だったら…。
墜落した場所は核兵器が置かれているという知花弾薬庫からわずか二百五十メートルの地点。B52の墜落があと十分の何秒かのちだったら…。
核の恐怖はわたしたち沖縄と被爆者しかわからないのじゃないでしょうか。
(1968年11月19日未明、沖縄の嘉手納米軍基地でB52 爆撃機が墜落、大爆発。付近の住宅に大被害)」
「核の恐怖は沖縄と被爆者しかわからない」。
はたして今沖縄は、広島・長崎の被爆者と同じように、「核の恐怖」を実感しているでしょうか。
B52爆撃機の墜落は、沖縄「本土復帰」(1972)の4年前です。「復帰」以前、沖縄では米軍基地の核兵器貯蔵、さらに核兵器搭載戦闘機の出撃に対し、反対・抗議が高まりました。
これに対し、時の自民党・佐藤政権は「核抜き・本土並み復帰」というごまかしで、沖縄の反核世論の抑え込みを図りました。
「核抜き」とは真っ赤なウソだったことは、日米政府間の「密約」で明らかになりました。その内容はこうです。
「米国政府は…事前協議を行った上で、核兵器を沖縄に再び持ち込むこと、及び沖縄を通過する権利が認められる…さらに、米国政府は、沖縄に現存する核兵器の貯蔵地、すなわち、嘉手納、那覇、辺野古、並びにナイキ・ハーキュリーズ基地を、何時でも使用できる状態に維持しておき、極めて重大な緊急事態が生じた時には活用できることを必要とする」
沖縄に核兵器が貯蔵され、米軍がいつでも使用できる。沖縄は「復帰」前と同じく、いまも「核の島」になっている可能性が極めて大きいのです。
これに対し、現在の沖縄における「反核」の世論と運動は、あまりにも微弱ではないでしょうか。「反基地」が「反核」と一体となっているとはとても言えないのが現状ではないでしょうか。(ちなみに、2013年の「建白書」には「核」の文字は1つもありません)
原水爆禁止世界大会の開幕となる2日の国際会議で、日本被団協の藤森俊希事務局次長は、安倍政権の集団的自衛権行使容認について、「このまま立法や法改正を許せば、日本は核武装への道を進む可能性さえ生まれる」(中国新聞8月3日付)と批判しました。
いまや原発だけでなく、核武装・核兵器使用の危機さえ現実のものになろうとしているのです。
集団的自衛権行使で最前線基地とされる沖縄は、今あらためて、「核の恐怖」を捉え直す必要があるのではないでしょうか。
<介護メモ>
「目の前の命とつきあうことで…」
3日のNHK(Eテレ)「こころの時代」で、作家の落合恵子さんが、お母さんの介護について語りました。
落合さんは、お母さんのベッドの横に簡易ベッドを置きパソコンを持ち込むという生活を永年続けました。
インタビュアーが、「介護によって社会的活動が制約されることについてどう考えてきたか」という趣旨の質問をしました。私は身を乗り出しました。
落合さんは言いました。確かに制約はあった。例えば、アメリカのアフガン戦争に反対する集会で、呼びかけ人に名を連ねることを要請されたけれど、介護のために当日参加できるかどうかわからなかったので、名前は出さなかった。アフガンの人たちには申し訳なかった。しかし、としてこう述べました。
「目の前の一つの命とつきあうことで、海の向こうのたくさんの命と結び合うことがいつかある、と思ってきました」
落合さんの介護は実に7年間に及びました。私はまだやっと7カ月です。それでも私の胸の奥にはいつもこの質問と同じ問いかけがあります。
落合さんの言葉をかみしめたいと思います。