あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

眞崎甚三郎 ・ 暗黒裁判 二・二六事件

2020年11月22日 04時58分46秒 | 後に殘りし者

本記録は昭和三十年五月八日録音せし原稿を写したるものである。
右原稿は録音の為真に自己の手覚として記せしものにて、他人は之を読下し難き程粗末なものであった。
仍て今回之を何人にも明瞭なる如く清書した。
此の際原稿の意味を変えずして字句を修正したる所もある。
本記録は十月十日より始め、同十九日に之を終った。
昭和三十年十月十九日 ( 花押 )
維時これとき昭和三十年五月八日午前十時 妻信千代、勝、工藤、木村、山家君等集まれるを機として
一談話を試み、以て世の蒙を啓ひらく資に供したいと思う。
 眞崎甚三郎・大将
序言
眞崎は何故に弾圧を受けたるか、其の原因及び事情は頗る複雑であって、
何人にも直に之を理解し得る様に物語り、若くは記述することは難事である。
之を為さば恐らくは厖大なる記録となるであろう。
今日では既に各種の事件に就いては夫々の記録が出来ては居るが、其の多くは宣伝を目的とし、
故意に捏造し、或は一部局に偏し、全般を知らず、過誤が甚だ多いから此の点 読者の注意を要すべきである。
併し岩淵辰雄君は陸軍通の権威者で、私共より却って確かである。
同君の陸軍或は各種事件に関する著書は最も信頼すべきものである。
また橋本徹馬君の 「 天皇と叛乱将校 」 と云う著書は、得難き参考書と信ずる。
・・・リンク→
天皇と叛乱將校 橋本徹馬 
私が如何なる工合に弾圧せられたるか、若くは取扱われたるか、其の方法は実に卑怯未練で、
江戸の敵を長崎で撃つ位ならば まだしものこと、
今日私が之を口にしても、泣き言の様に聞ゆるから 私は之を述べたくない。
所謂 日本精神は当時全く失われて居た。
私には常に尾行を附け、光栄ある席か、或は目立つ場所には出さざる如く、
又 何等発言の機会なき様に皮肉の策を弄して居たのである。
彼の杭州湾上陸の柳川将軍を覆面将軍としたよりもひどかった。

私が弾圧を受くるに至りしことは、もとり私の不徳の致す処でるが、又一方他にも数多の重大なる理由がある。
私の不徳にも種々あるであろうが、私が自覚しありしことは、私の性癖として他に威張ることと、
他より威張らるることが、極度に嫌であったことである。此が色々の弊害を生じた。
友人川島大将は、威張ることが稍好きの方であったが、常に私に向って謂うて居た。
自分は君の真似は出来ないと。
同君は寧ろ ほめて居たが、何れかと言えば嫌う人の方が多かった。
( 市ヶ谷裁判にて米国検事ロビンソン氏は、私を尋問の際 行きがかり上、私の此の性癖を陳べたる処、
リンカーン崇拝者たる此の検事は、机を叩き 「 ア、其はリンカーンと同じ思想じゃ 」
と、大いに喜び、之を動機として私と大いに心易くなった )

弾圧を受けし他の理由としては、思想、政治、経済、軍事等諸方面に亘り、極めて錯綜したる事情があり、
一々之を明確に分離して説明し難いので、此等の中の主たるものを述ぶることとする。
二・二六事件以来 諸方面の友人知己より真相を記録して置く様に切に勧められ、
一部は書き残しあるものもあるが、記述は私の余り好む処でないから之を放擲ほうてきして置いた。
最近に至り特別の友人より真崎弾圧の真相を知る者が少ないから是非是だけなりともと切に勧められ、
私も余命幾何もないと感じ、又 二・二六事件と私との関係を余りにも誤認しある者が多いから、
真相を書き残す気になった。
従って今日の話も遺言の積りで、私の声を残すのである。
嘘偽と過誤多き歴史に、少しでも真相を残さんと欲するものである。
真崎弾圧の真相は、其の手先となって弾圧に従事した幕僚達も、真の意義を知らずして、徒らに踊った者が多い。
此等の説明にあたり、持永君は真崎弾圧の証拠物件を沢山所持して居ると、私は信じて居る。
又 各種事件に就いては、岩淵君の如き特に信頼すべき人の記録がある故、
私は前に述べたる如く 真崎弾圧の行われたる理由中、私にあらざれば知らざることにつき、
単にヒントを与える考にて各種事件其の他を説明しようと思う。

満州事変
先ず満州事変に就いて説明する。
昭和の初頃より国際情勢は、日本を孤立に追いやりつつありて、軍幕僚の一部には、日本国家を改造して、
ナチス張りの国防国策を建設せんとする気運が盛り上がりつつあった。
然れども実現には見込みはなかった。
丁度当時は中国特に満洲に於て張作霖父子二代に亘りて、排日の気勢漲り、我が同胞は悲憤慷慨の極に達し、
満鉄の従業員だけにてでも蹶起せんとする勢に迫った。

関東軍の幕僚は中央部幕僚の一部と連絡し、此の気運を利用して所謂満洲事変を起した。
即ち 理想の国家を満洲に作り、伊り逆に日本に及ぼし、日本を改造せんと欲して起したものである。
当時政府は此の真意を知らず、只徒らに之を抑ゆることに苦心し、不拡大を声明した。
軍首脳部に於ても此の方針を奉じて処理したけれども、第一線に於ては遠慮なく拡大し政府を悩ました。
私は満州事変を収拾すべく昭和七年一月 参謀次長の職を拝命し、着任するや間もなく上海事件が起り、
次いで 熱河討伐となった。
当時関東軍には北京天津をも一挙に占領せんとする企図があった。
曾てハルピン郊外で、馬占山討伐中、石原莞爾が私に洩らしたことがあった。
故に数次の制止をも肯かず、関東軍は長城の線を超越せんとする勢であった。
当時陸軍の準備として北支に兵を入れるる余力もなく、又 中国軍に対し極め手と云うものがなかったので、
動もすれば深田に足踏み込んだ様になる恐れりて、私も拡大を避ける方針であった。
偶々海軍も拡大に反対であり、天皇陛下も拡大を好ませられず、
或時は奈良侍従武官長を参謀本部に遣わされ、関東軍が、軍司令官の命令通り行動せざることを非難し、
大いに私を叱責せられたことがあった。
私は武官長に対し、既に余力を尽し、あらゆる手段を以て長城の線に停まる如く処置してあるから、
私としては、今や他に手段もなく、如何に御叱責を受け、又は処罰せらるるとも、
有難く頂戴しますと、答えしこともあった。
或時は 日曜に宮中に召され、関東軍が長城の線を越ゆる恐れあることを指摘せられ、私を責められた。
私は前に述べた様に既にあらゆる手段を尽し、有力なる使者も派遣し、
又場合によりては軍司令官の更迭をも促す如き含蓄ある私信電報を二回も発送しあったので、
事茲に至れば、私は自ら長城の線に立って身を以て止まる外 余す手段はなかった。
夫れ故に当時小田原に居られたる閑院総長宮殿下に、宮中より直接に伺候して、
即刻満洲行の許可を乞うた。
殿下は御一考の後、其は最後の手段なる故、今一寸待てと仰せられた。
兎角して居る内に、武藤関東軍司令官の徳望により塘沽に於ける停戦協定が成立し、一同安堵することを得た。

此の如く上海方面に於ては種々の議論ありしも、軍事外交の事情よりして、
私は一兵も残さず引揚ぐることとし、又 満洲方面も大体都合よく終了することを得た。
而して昭和七年七月十五日に拝謁し、
満洲は独立せしむるにあらざれば、治まらざることを私が上奏したることに基いて独立し、
政治、外交、軍事、経済も整えらるる様になったのである。
斯の如く 満州事変の拡大を私が許さざりしことが、陰謀家幕僚連に私が嫌われる様になった。
従来の同僚までが私に反対する様になった。
小磯、板垣等は 死ぬ迄、私の不拡大を避難して居た。
此が真崎排撃の最初の動機である。
此の点特別の注意を要する。
往年満洲独立の記念祝賀会が新京にて行われたことがあるが、
其の時満州事変関係者の主なる者は悉く参列したが、只私のみが案内せられなかった。

二・二六事件
日本が今日の様な哀れな状態に陥ったことに就いては、勿論色々の原因や大きな理由があることは言うまでもない。
併し 古今東西国家興亡の歴史を繙いて見ると、何処の国にも所謂宮中府中の重臣や権臣達の権謀術策が、
国家の大局を過った如く、日本の崩壊にも此の点が見逃せないのである。
私をして言わしむるならば、我が宮中府中の重臣権臣達が、只徒らにデマや宣伝に踊って、
例えば満洲事変に就いても、其の真因を究めようとせず、
況してや三月事件、十月事件、十一月二十日事件の真相に就いても、
袖手傍観して却って巧妙極まる陰謀や術策に陥って、取り返しのつかぬ今日の状態を招いてしまったのである。
私は今此処に三月事件、十月事件、十一月二十日事件等に就いて、詳細を語る暇もなく、
又其の必要もないと思うが、三月事件、十月事件共、其の計画の首謀者こそ異なれども、
クーデターを以て政権を取らんとしたる一大陰謀であって、私共の大いに反抗した処であった。
夫故に、此等事件以来は、事件関係者等は、真崎の存在が非常に邪魔になり、
眞崎排除の為にあらゆる機会が利用され、或は特に機械を作る様に計画された。
十一月二十日事件の如きは、真崎の責任問題を無理に作り上げ、
之を排除せんとする目的にてけいかくせられたる純粋の陰謀であった。

従って二・二六事件の如きも、只一途にデマと宣伝せられ、其の背後に眞崎ありと見誤り、
或は故意に眞崎ありと看做して、眞崎排除に躍起になったのは当然である。
比が一種の大陰謀であったのである。
私は世間で想像する程 二・二六事件と関係もなければ、寧ろ事件が突発するまで、
斯る無謀の計画が企てられて居たことを全然知らなかっただけに、
私はあの朝の事件突発の報は、全く寝耳に水であった。
然るに実に手廻しく、事件突発するや、其の背後に眞崎ありと宣伝し、
世間はおろか、宮中迄も斯く信ぜしめられたのであった。
彼の一念三ヶ月に亘る軍法会議に於て、徹底的に調査せられても何事もない。
若し少しでも関係があったら、私は決して助からなかった。
今調査全部について述ぶる訳にも行かぬが、当時当局では、青年将校があれだけ眞崎をかついだのであるから、
かつがれた眞崎も何か多少手を出したのであろうと疑深く、其の調査に約半歳を費し、
世界の法制史上未曾有のことまでして、即ち死刑の確定しあるものを執行せず、之を証人として、
三人を長い間残し、眞崎に関する何物かを、甘言を以てつり出さんとしたけれども、
無い物はどうしても出て来なかった。
彼の蹶起将校中私が知れる者は二人で、他は全く未知である。
而して何れも検察官の訊問に応じ、彼等は
「 私共は何も知らぬ。只眞崎と云う人は、正義感強くうそをつかず、実行力があると云うことを聞いていたからかつぎました 」
と、異口同音に答えている。

私は当時検察当局に言うた。
当局の如く風が吹いたら桶屋が儲けたと云う如き論法を用うれば、日本人は皆 二・二六事件に関係があると。
彼の二月二十七日の夕方 阿部、西 両大将の立会の下に、私が蹶起将校を説得したる事実は、
事件に関係ある者のなし能わざる処で、若し私が二枚舌でも使ったならば、直に拳銃一発を受くる状態にあった。
西大将も之を認め、私が関係無きことを承知した。
其の他 次の五項目により、私に関係なく起りしものなることを証明し得るのである。
一、本事件は当時裁判中なりし相澤中佐に同情ある者のなすべき事でない。
何となれば斯ることをなさば相澤を益々不利の状態に陥るからである。
然るに事実は相澤の崇拝者ばかりである。
仍って彼等は斯くすることにより相澤を救い出し得ると云う錯覚に陥りしにあらずや? 事実此の疑は十分にあったのである。
二、前東京憲兵隊長たりし持永少将の言によれば、二・二六事件の計画構想は、十月事件の儘である。
仍って十月事件に関係せし幕僚が二・二六事件に関係しあるにあらざるかとの疑問自然に起るが、
事実乃があったのである。
三、十一月二十日事件、即ち士官学校事件と同様に、二十六日昼頃大阪附近、夕刻小倉附近には謄写版刷にて
背後に真崎ありとの宣伝文を撒布しつつありしと云う。
実に手廻しが早過ぎる。之は予めの準備しありし疑がある。
四、平沼男爵の秘書竹内氏が津雲国利氏より聞きし処によれば、西園寺元老は之を予知して居て、
二十五日夜は静岡県警察部長の官舎に避けありしと云う。
何人が之を洩らしたるものか?
五、昭和十一年七月十日、磯部と私は対決せしめらるることとなり、私は先に入廷し、
磯部を待って居たが、間もなく磯部も大いにやつれて入り来り、私にしばらくでしたと一礼するや
狂気の如く昂奮して、直に 「 彼等の術中に落ちました 」 と言うた。
私は直ちに頷けるものがあったけれども、故意に、徐々に彼を落ちつけて、
術中とは何かと問い返したれば、沢田法務官は壇上より下り来りて、「 其れは問題外なる故 触れて下さるな 」
と 私には言い、磯部には 「 君は国士なる故そんなに昂奮せざる様に 」 と 肩を撫でて室外に連れ出し、
これだけで対決を終った。
何のことかわからぬ。私は不思議でたまらなかった。之で私が第一項に述べたこともわかる。

以上の外、昭和十二年十一月十七日、沢田首席検察官が刑務所に来り、私に告げた。
「 今少し御待ち下さい。何もありませんから、あなたの終始不変の主張は非常に有利で、
私共は感情で仕事をせぬから御安心下さい。もうすぐですから・・・・」 と。
同二十五日には長男秀樹が来訪した。此は種々の事情で、当時の情報通であった。
此が申すのに
「 今御父さんが刑務所を出る出ないは問題でない。
何日に出るかと云うことと、寺内陸相が責任を取り、何時罷めるかが問題となって居る。
去る二十三日には御父さんが帰るとて、家の周囲は新聞社のカメラ班にて一ぱいであった。
正月は内でやらせるそうです 」 と 内報してくれた。
他に二三の看守も同様のことを洩らしてくれたので、私は大いに待って居たが、
結局何時迄待っても何とも申して来ず、結局御流れになった。
後で聞けば、陸軍大臣より電話にて、停止命令が来たそうである。
而して遂に公訴提起となった。出獄後岩淵君に聞けば、
此の頃私が娑婆に居ると、陸軍に非常に都合の悪しきことがあったそあである。
此に於いて私は腐敗したる人間と話を交ゆるのがいやになり、予ねて研究修養しつつありし法により、
断食を決行する気分も起ったのである。
私が二・二六事件に関係なかりしことは十分に証明材料が、又外にも沢山あれども、
私が今語らんと欲することは、私の無関係なりしことの証明にあらずして、
何故に真崎は弾圧を受けたるやの問題なる故、之を本筋に戻すこととする。

国体明徴問題
私に対する弾圧は、前にも述べたる通り、思想、政治、経済、軍事等 錯綜せる事情よりして、
根強く、執拗に行われたのである。
甚だしきは政党自身 或は個人間の争の余波まで弾圧に転化せられた。
政治的に行われたるは、国体明徴問題に起因することが、最も甚だしかった。
昭和九年か十年と記憶するが、当時日本憲法の解釈に於いて、天皇機関説なるものが盛んに論議せられた。
此の説は美濃部博士の唱うる処にして、詳細のことは、私は今日と雖も知らないが、
要するに国家は法人にして天皇も一巡査も国家統治の機関としては、同一なりと云う如き説なりしやに記憶する。
此の説に対して当時 先ず 右翼方面より反対運動起り、終に貴族院に於いて菊池男爵が弾劾する所となり、
喧々諤々停まる所を知らず、在郷軍人団が之を支持し、物情騒然たるものがあった。
此の為 政府は前に一度声明をしたるものを、更にやり直しの声明迄もして弁明した。
此の声明が如何なる意なりしや私は記憶せず、又 材料を有せざれども、何となく曖昧の部分あり、
明確を欠きし処ありしやに思う。
機関説を葬り、国体を明徴にせよとの叫びは漸次強くなり、終に現役軍隊に及んで来た。
当時柳川第一師団長の如きは、中央で何とか処置して戴かざれば、軍隊は治まらぬと再三要望して来た。
仍って私は三長官と協議をした。
協議の結果、陸軍大臣が訓示するのが当然で、且つ適切ではあるが、大臣訓示は此の場合閣議を経ねばならぬ。
又 政府は既に二回も声明を出して、此の問題の取扱いに非常に困惑して居るから時間を要し、
一方其の状況は急を要するものがあった。
現役軍隊だけに対してならば、教育總監の訓示にても応急策としては可なりとして、
三長官協議の上、教育總監が立案し、三官衙の責任者が協議決定した。
私の案は教育總監の職責に鑑み、政治的法律的には毫も触れざることに特に注意し、
精神教育上之を戒むるに止め、四月四日に出して、之を上奏したのであって、所謂教育總監の国体明徴の訓示であった。
此の訓示が出ると、現役軍隊の騒はぴったり治まった。
併し政府は頗る困惑した様であって、岡田内閣は終に眞崎弾圧を以て最高政策の一項とするに至った。
此の事は当時風評もあったが、内大臣斎藤實子爵が望月圭介氏に語り、望月氏は勝田主計氏に伝え、
勝田氏は私と親交のありし為、私に告げた。決して道途の風説ではない。
又 私は昭和十年四月十日甲府市旅館 談露館にて、曾て参謀本部にて私の配下に属し、
当時甲府聯隊の大隊長たりし事情通の今田新太郎少佐より同様の諷示を受けたことがある。
政府が何とかして私を圧えようとして、如何に権力、人力、金力を用いたるか、
当時私は法廷にて弁明し、今尚証拠物件の一部を所持して居る。
当時荒木と私には尾行を附けてあった。
此が近衛公の知る処となり、後藤内務大臣は公より詰問せられ、尾行を止めたことがある。
此の事は公の承認を得て、私は法廷で之を明らかにして置いた。
又 昭和十年の末 千葉県四街道に住居する河村圭三元少将は、一夕私を現住所に訪ね来り、
中島今朝吾少将 ( 後の中将、憲兵司令官 ) は河村君を示唆しさし、荒木、眞崎の暗殺を企てて居る。
同君は中島少将に大いに其の非を語り置いたが、尚警戒せよと言うて来たことがある。
此が為 私は斯る憲兵司令官の訊問を拒んだこともある。

当時当局の考えを知る材料として、尚一つの挿話を加えておく。
満洲事変後行賞が始まった。
私の為には現在所持して居る勲章の授与を陸軍大臣は申請し、松浦人事局長、赤柴恩賞課長は、
此が為 賞勲局へ御百度踏をした。
然れども、賞勲局総裁 下条康磨氏は、之をどうしても承知しない。
而して曰く、「 あの人は国体明徴の訓示を下しているから 」 とて受け付けなかった。
( 之は松浦中将の当時私への直話 )
其の頃私は勲章を欲しくなってもいなかったので、交渉を止めて貰ったが、
まるで三長官協議して軍を治める為にやった事を
犯罪として取扱い、弾圧に従事した者は、御褒美を頂いて居る始末である。
林陸相も其一人である。
政府の斯る態度が、眞崎弾圧に最も有効に作用をなしたと、私は考えている。
斯くの如く 政府が周到なる準備を以て無理なる弾圧を行いし為、相澤事件なども起こったものと考える。

軍人政治家の野心
次に弾圧に予って力ありし者は、軍人にして政治的野心に燃えし宇垣氏であった。
此の人には現役将校の中央部の幕僚を除き、反対していた者が多かったが、
宇垣氏は此等反対将校の背後には荒木、眞崎ありと邪推し、政界財界の巨頭に、折に触れて、
座談的に巧妙に眞崎の悪宣伝を為した。
その為に元老、重臣等にも、眞崎は弾圧して然るべきものと思わしめた。
此の事は近衛公より直接私に再三聞かされた。
公は 「 宇垣の宣伝は大きくなりましたなー 」 と 申された。
公の眞崎起用は、斯くして常に潰された。
私は元来不肖不徳の者であるが、此は全く宇垣氏の邪推で、私の友人には斯くの如く性の悪い者は、一人も居らぬ。
私は調査の際、常に法廷でも述べて居た。
私は悪人と言われても可なり、古より其の人を見んと欲すれば、先ず其の友を見よと云うてある。
私は兎も角 私の友人は一人残らず、内地でも戦地でもビカ一に光って居る者ばかりである。
之は私の大きな誇りである。
宇垣内閣流産の時は、私は刑務所に在ったが、私の同僚は宇垣氏に同情し、これを助けた。
同氏が之を聞いて居ったら、内閣は流産しなかった。
之を流産せしめたのは、宇垣氏の信頼ありし同僚ではなかったか?
汝に出でたる者は汝に帰る。

事件関係者の言動
次に眞崎弾圧に影響せしものは、所謂三月事件、十月事件に関係せし将校の言動である。
此等の事件は表面的には隠蔽せられた重大事件であった。
勿論両事件の関係者は、何れも南陸相によって処分せられて居た。
従って処分が寛大に過ぎるとの非難はあったが、
後任の荒木陸相としては、此等の関係者を改めて処分し直すわけには行かなかった。
殊に一方 満州事変が勃発して居ったから、荒木陸相は内部の醜態を暴露するを好まず、
改過遷善の方針を採り、地方に散在せしめある者を逐次中央に復帰せしむることとした。
併し 此の中央復帰が、宮中関係其の他色々の事情ありて、早急に運ばなかったのである。
然るに 之を待ちきれない小磯、建川等が、荒木、眞崎は派閥人事をやると言って不平を鳴らした。
林陸相の時代でも、困ることは悉く真崎の責に帰した。
建川の中央入りは、宮中は勿論 陸軍省各局長、参謀本部各部長の好まざりし処なりしに拘わらず、
眞崎が承知せぬと吹聴して居た。私は大分迷惑した。
此等一味の不平組を巧みに捕えた者が、例の軍人政治家で、眞崎排撃に大なる力を得た。

( 最近元東久邇宮の著書を見れば、宮は眞崎と仲違いとなり、眞崎の為に地方に追いやられたように書いてある。
見下げ果てたる浅間式しきことである。
私は宮が皇族は軍人を辞すべしとして、駄々をこねられた時、
誠意を以て之を諌止した外に争論など一度もしたことはない。
又 私ほど忠勤を擢ぬきんでて、宮の為に縁の下の力持ちとなりて働いた者はないと信ずる。
地方転出については、私は切に御止め申したけれども、自分が東京に居るのがいやで、
熱烈に地方転出を志望されたのである。然るに斯く思われては、長嘆息も及ばない。
結局これも何人かの宣伝にかかられたものである )

幕僚の陰謀
中央幕僚が真崎排撃の挙に出でたる動機に、見逃すべからざる有力なる事情が、尚一つ存在する。
其れは彼等首脳者の一部が、或陰謀を企みありしことである。
前にもちょっと之に触れたが、私は満洲事変以来、彼等の一部が、中国に於いて何事か始めんとする臭いがあることを感じて居た。
中央幕僚は何か始むる為には、中央三官衙に於ける要職の少なくも課長級以上を同じ穴の狢を以て占めねばならぬ。
一人二人にて大陰謀を実行することはむずかしい。
併し少し言い過ぎの様にもあるが、当時の首脳部には、思想の動向など分る者は少かったが、
少しく注意して居れば、其の気配が分るものである。
私の教育總監時代迄は、三官衙の課長級以上の職員人事は、三長官の協議を要することになって居た。
仍って私の人事異動の際に、之に注意しあると、其の企図が直ちに窺がわれた。
斯る時には、私は之に反対した。
そうすると、陰謀家達は眞崎は統制を妨ぐると、大宣伝をなし、閑院宮殿下迄も信ぜらるる様になった。
而して三長官会議の際に、陰謀家達の謀略に乗り踊って、或る時 満面朱を注いで、
「 教育總監は事務の進行を妨害するか 」 と、私を叱責せられた。
私は予め此の陰謀を知って居たから、決して驚かず、沈着に厳粛に礼儀を尽して言上した。
曰く、「 私は卑賤の身ながらも忠誠心を失って居りませぬ。何故に妨害など致す意がありましょうか、
私は皇族の御長老であらせられる殿下の御意に副い奉ること出来ざること、今此処に身の置き所に苦しんで居ります。
併し 私は天皇陛下の教育總監であります。教育總監輔弼の責に任じて居ります。
今建軍の大綱が断ち切られんとして居りますのに、教育總監として斯る案に同意出来ません 」
と、断固として言い放ち、陸相に統制の基礎、根本方針の誤れることに対し痛棒を加え、顔色なからしめたことがある。
三長官会議に関する複雑なる記事は別にある故、此処には詳細に触れざることとするが、
此れ以来 皇族中にも、真崎は頑固なりとの非難起り、眞崎は統制を妨ぐるとて、弾劾は一層強くなった。

以上述べたる処により、大体頭脳明晰ならざる者と雖も、直ちに諾かるることと思うが、
支那事変の如きも、世には何も知らずして、所謂皇道派の者が起こした様に信じて居る者がある。
眞崎弾圧と共に、所謂皇道派に属する者は、其の末輩に至る迄追放せられたる後 始めて支那事変が起った。
是も特別なる注意を要することである。
即ち 支那事変は、何人等が起したるや明らかである。
之を今日尚誤りある為 やること為すこと なかなか軌道に乗らないのである。
( 清書の際に附記す。
彼の有名なる佐々弘雄氏は、昭和二十年十一月二十日より二十三日に亘ってと記憶しているが、
東京放送局より放送して曰く、支那事変は二・二六事件のボロ隠しなり、予は何時でも証人になると )

派閥問題
次に陸軍の派閥と云う問題に就いて一言して置かねばならぬ。
私は陸軍に派閥は皆無なりしとは云わぬ。
陸軍には出身地、出身校即ち普通の中学校、或は幼年学校、或は陸軍大学出身者、或は兵科別等により、
大小強弱の種々の軋轢を生じありしことは事実である。
併し世に所謂皇道派、統制派などと云う派閥はなかった。
之は何時の間にかジャーナリストがつけた名で、それが逆に派閥見たようになってしまった。
多人数の内には、或は誤って派閥の争いに陥りし者もありしやも知らぬが、
本は思想の相異であり、前に述べし通り各種の事情より起りありしも、其の大根源の明治維新に遡らねばならぬ。
明治維新は薩長土肥の四雄藩にて行われたと云うも、主なる者は薩長二藩であった。
此の二藩が協力の結果維新が成立したけれども、其の後 此の二藩の軋轢競争も甚だしかった。
而して此の両藩に特に文武両方面に有為の士が輩出し、所謂薩の海軍、長の陸軍と云う工合になり、
私等明治二十八年士官候補生として入営せし頃迄は、薩長人にあらざれば、軍人にあらずと云う様な勢であった。
斯の如くた他府県出身者は、此の争いの中にありて、種々の因縁により薩閥に近く 或は長閥に親しむ者も生じ、
或は中立的に行動する者もあった。
私個人としては、長州に神佑り、又親族もありて何等変りたることはなけれども、
江藤新平以来先輩は薩土と特に親交ある者 自然に多くなり、知らず識らずの間に薩閥に近くなっていたのである。
従って反長閥と身らるるに至り、少将の階級以後常に首の座に据えられた。
上原元帥、武藤元帥逝去後は、私は反長閥の巨頭と目され、弾圧のと手が特に強く厳しくなって来た。
湯浅内府迄も 手伝ったとは、近衛公の直話であった。

結言
以上 極めて簡略に私に関するヒントのみを述べしも、私が太平洋戦争と如何なる関係にありしや極めて明白であり、
又 市ヶ谷裁判の厳正なる調査にても戦争に全く無関係と云うことが明かなりしに拘らず、
私は追放に関する法律が失効して、自然解除となる迄追放解除にならなかった。
如何に私に対する弾圧が、辛辣で且つ深刻であったかが想像出来ると思う。
此は主として私の不徳の致す所とも思わるる。
何故なれば、私は悪いことはして居らぬと確信して居たから、攻撃を受ければ受くる程、意気益々昂がり、
天下の大道を闊歩したからである。
私は一時は非常に憤慨に堪えざりし時もあった。
凡そ人間にして有形無形公私両方面に亘りて、私の如く台所の隅々まで洗い出されて、
疵の出なかった者は、余り多くはあるまいと、密かに矜りを持って居る。
私には二・二六事件程、深刻なる教訓を与えたものはない。
人生の表裏、人間の本性、真の姿を明示してくれた。
私は親鸞聖人の教えが真であり、如何に有難きものか、一層明らかに、より分った。
私は御蔭で今日極めて平静に楽しく余生を送って居る。
曾て苦難の大なりしこと程、今日は其が、大なる愉快なる思出の種となって居る。
既往を思えば思う程、無限の感慨湧き出で来り、思想、文化、社会、軍事、政治当に亘り述べたきことあれども、
今日は此にて止め置くこととする。
以上病中動かぬペンを駆りつつ、書く気分の生じたる時に記し、
昭和三十年四月十日より始め、四月十七日に終る。

「 いまこそ言う----主役のメモ 」 特集文藝春秋  昭和三十二年四月五日