あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

眞崎甚三郎大將判決全文 (九月二十五日陸軍省公表)

2020年11月23日 05時37分48秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略4 皇道派の追放


眞崎甚三郎大將判決全文
昭和十二年九月二十六日当局談 ( 陸軍省正午発表 )

軍はニ ・ニ六事件の発生に鑑み禍根を将来に絶滅せんことを期し、
為に直接事件の関係者はもとより、いやしくも事件に関係ありと認められるもの、
或はこれに関し疑いありと認められるものは悉く検挙し、
その取調べの結果に応じ、これを東京陸軍軍法会議の審理に付した。
右軍法会議審理の結果についてはすでに数次に亘りその都度公表したところであるが、
いよいよ本日をもつて眞崎大将に対する判決言渡しを終り、
ここに東京陸軍軍法会議に於ける被告事件一切の処理を完了した次第である。

陸軍省發表
東京陸軍軍法会議においては かねてニ ・ニ六事件に関し
「 叛乱者を利す 」 被告事件として起訴せらりし真崎大将につき慎重審査中のところ、
本九月二十五日無罪判決言渡しありたり。
右判決の理由の要旨左の如し。
判決理由
公訴事実に基き審理の結果、
眞崎大将は 明治三十一年六月二十七日 陸軍歩兵少尉に任ぜられ、
爾来累進して昭和八年六月十九日陸軍大将に任ぜられ、
同十一年三月六日待命、同月十日予備役仰付られたるものなるが、
その間 各種の要職に歴任し その士官学校在職中においては、
国体精神 及び 皇室観念の涵養かんように努め、
学術併進等を主旨とする実行主義を指導方針の根本義となすほど、
鋭意生徒の訓育に盡瘁じんすいせるが
一面夙に我国内外の情勢を按じ、文武官民上下互に相対立して統制を欠き、
而も戦備国防の欠陥は外交上の支持に悪影響を及ぼすの虞おそれあるを憂い、
之が匡救の途は
一に国策遂行の為に必要なる気魄実力を具備せる 所謂協力内閣の実現に依るべしとなし、
若し此際誤つて軟弱不断の者 その局に当り、
いやしくも外交に懦弱なじゃくの態度を暴露せんか、
流血の惨を見ること無きを保せず、
国家の前途深憂に堪えずと断じたるものなる処、
予て本人を深く欽慕崇敬せる一部青年将校の間に、
所謂特権階級を打倒し、国家の革新を目的とする昭和維新の運動漸次濃厚と為り、
就中、陸軍歩兵大尉 香田清貞、同 村中孝次、陸軍一等主計 磯部浅一、
陸軍歩兵中尉 栗原安秀 等は 北輝次郎、西田税 等より 矯激なる思想の感化を受け、
所謂 昭和維新断行の為には非合法的手段 亦 敢て辞すべきに非ずとなし、
玆に同志 相結束して連絡会合を重ね、又 同志の獲得指導に努め、
陰に維新断行の機運促進を図り居たる折柄、
昭和十年七月本人が教育総監を免じ 軍事参議官に専補せらるるや、
村中孝次、磯部浅一等は此の更迭に付、頻に当局非難の気勢を挙ぐるに至り、
本人は之等の情勢を推知しながら其の頃屢々本人の許に出入せる陸軍少将 平野助九郎等に
總監更迭の内情を語り 且 痛く憤懣の情を表すと同時に、其の手続上、当局に不当の処置ありと力説し、
之に依り村中孝次、磯部浅一が当局を非難せる教育總監更迭事情等に関する不穏文書を頒布し、
為に青年将校同志の該運動、一層尖鋭化するに至れり。
次で同八月、陸軍歩兵中佐相澤三郎の陸軍省軍務局長永田鉄山殺害事件の勃発するや、
一部青年将校等は深く此の挙に感奮すると共に、教育總監更迭の背後に一部重臣、財閥等の陰謀策動ありと為し、
而も重臣等は超法的存在にして、合法的手段を以てしては目的の達成不可能なりとし、
国法を超越し直接行動を以て之を打倒し、
一部軍上層部を推進して国家を革新せんとするの運動、日に熾烈を加えたり。
斯くて昭和十年十二月頃より村中孝次、磯部浅一、香田清貞、栗原安秀 及び渋川善助等が
第一師団将兵の渡満前、主として在京同志に依り速かに事を挙ぐるの要ありと為し、
其の準備に着手し、相澤中佐の公判を機会に蹶起機運を促進せんとし、
特権階級に極度の非難攻撃を加え、又 相澤中佐の行動精神を宣伝し、
以て同志蹶起の決意を促さんとするや、
本人は同人等の間に瀰漫びまんせる不穏の情勢を察知しながら、
イ、昭和十年十二月、
 陸軍歩兵中尉 對馬勝雄の来訪を受けたる際、
 同人に対し、教育總監更迭問題に付ては尽すべき所を尽したるのみならず、
 同更迭には妥協的態度に出でず、最後迄強硬に反対せり。
 尚 自分は近来其の筋より非常の圧迫を受けて居るが、
機関説問題に付ては真面目に考慮するの必要ある旨を説き、
ロ、同月二十四日頃、磯部浅一 及び陸軍歩兵大尉 小川三郎と自宅に於て面接せし際、
 興奮せる態度を以て総監更迭に付、相澤中佐は命迄捧げたるが自分は其処迄は行かざるも、
 最後まで強硬に反対せし旨を告げ、
 次で小川三郎が国体明徴問題 及び相澤公判にして巧く運ばず、
 其の儘放置するが如き場合には血が流れるひともあるやも知れざる旨を述ぶるや、
 両名に対し確に然り、血を見ることもあるやも計らざるが、
 自分が斯く言えば青年将校を煽動するが如く認めらるる故 甚だ困る次第なりと語り、
ハ、同月二十八日頃、香田清貞より国体明徴問題等につき聴取し、
 青年将校の之に対する努力未だ足らずと難じ、
 又 憤懣の態度を以て教育総監更迭には最後迄反対せる旨を述べ、
 尚 相澤中佐の蹶起精神を称揚し深く道場の意を表し、
 同中佐の公判には統帥権問題に付証人として起つべき旨
 及 教育総監 陸軍大将 渡辺錠太郎が其位置を退くことになれば都合好く運ぶ旨を説き、
ニ、同十一年一月、相澤中佐の弁護人 陸軍歩兵中佐 満井佐吉に、
 教育總監更迭には最後迄反対せし旨 其の他 同更迭の経緯等につき述べ、
 又 当日の公判には喜んで証人と為る旨を告げ、
 次で翌二月同じ満井佐吉の来訪を受けたる際 同人より現在軍の蟠わだかまり、
 国家の行詰り等 甚しき為、青年将校の運動の激化する状況に付、之を聴取し、
ホ、同年一月二十八日頃、
 磯部浅一が本人を其の自宅に訪ね、
 教育總監更迭問題に付ては飽迄努力する旨を述べ、
 金千円 又は 五百円の資出を請うや都合する旨を答え、
 爾来 青年将校同志は、東京市内各所に会合を重ね
 実行に関する諸般の計画 及 準備を進める一方、
 陸軍歩兵大尉 山口一太郎 及び民間同志 北輝次郎、西田税、亀川哲也 等と連絡を執り、
 蹶起直後、亀川哲也は真崎 及び 山本英輔 等に対し、
 又 山口一太郎 及び西田税は夫々要路に対し蹶起の目的達成の為工作を為すべき手筈を定め、
 遂に昭和十一年二月二十六日払暁、
 村中孝次、磯部浅一、香田清貞、安藤輝三、對馬勝雄 及び栗原安秀 等が
 近衛、第一師団の一部将兵と共に兵器を執りて一斉に蹶起し、
 叛乱を決行する間に於て本人は、
一、昭和十一年二月二十六日午前四時三十分頃
 自宅に於て、予て ニ、三回本人を訪ね、
 青年将校の不穏情勢を伝え居たる亀川哲也の来訪を受け、
 同人より今朝青年将校等が部隊を率いて蹶起し、内閣総理大臣、内大臣等を襲撃するに付、
 青年将校等の為 善処せられ度く、
 又 同人等は大将が時局を収拾せれるる様希望し居れば、
 自重せられ度き旨懇願せられ、
 玆に皇軍未曾有の不祥事態発生したることを諒知し、
 之に対する処置に付 熟慮し居たる折柄、
 陸軍大臣よりの電話招致に依り、同日午前八時頃 陸軍大臣官邸に到り、
 同鑑定に於て、
1  磯部浅一より蹶起の趣旨 及び 行動の概要に付報告を受け、
 決起趣旨の貫徹方を懇請せらるるや
 「 君達の精神は能く判つて居る 」
 と答え、
2  陸軍大臣川島義之と村中孝次、磯部浅一、香田清貞 等 叛乱幹部との会見席上に於て
 蹶起趣意書、要望事項 及び 蹶起者の氏名等を閲覧し、
 香田清貞より襲撃目標 及び 行動の概要等に付 報告を受けたる後、
 同人等に対し、
 「 諸君の精神は能く判つて居る、自分は之よりその善後処置に取掛る 」
 と告げて官邸を出て、
ニ、同日午前十時頃参内したる際、
 侍従武官長室に於て陸軍大臣 川島義之に対し、
 蹶起部隊は到底解散せざるべし、此の上は詔勅の渙発を仰ぐの外なしと進言し、
 又 其の席に居合わせたる他の者に対し、同一趣旨の意見を強調し、
 三、同日夜、陸軍大臣官邸に於て前記満井中佐に対し、
 宮中に参内し 種々努力せしも却々思う様に行かざるを以て彼らを宥なだめよと告げ、
 、翌二十七日、
 叛乱将校等が北輝次郎、西田税より
 「 人無し 勇将眞崎あり、正義軍一任せよ 」 との霊告ありとの電話提示に依り、
 時局収拾を眞崎大将一任に決し、軍事参議官に会見を求むるや、
 本人は同日午後四時頃、陸軍大臣官邸に於て軍事参議官阿部信行、同 西義一 立会の上、
 叛乱将校十七、八名と共に会見の際、
 同将校等より事態収拾を本人に一任する旨申出で、
 且 之に伴う要望を提出したるに対し、
 無条件にて一切一任せよ、誠心誠意努力する云々の旨を答えたり。

以上の事実は、本人に於て其の不利な点に付否認する所あるも、
他の証拠に依り之を認むるに難からず、
然るに之が叛乱者を利せんとするの意思より出でたる行為なりと認定すべき証憑しょうひょう十分ならず、
結局本件は犯罪の証明なきに帰するを以て、
陸軍軍法会議法第四百三条に依り 無罪の言渡しを為せり。

河野司編 ニ ・ニ六事件 獄中手記遺書 から