あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

法廷

2020年11月02日 09時28分51秒 | 暗黑裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達

二・二六事件当時、私は、第十師団法務部長として姫路に在職していた。
事件終了後四日目の三月四日、私は陸軍省からの命令書を受け取った。
それは、緊急勅令により東京陸軍軍法会議を特設することになったので、至急上京、
右特設軍法会議法務官として事件処理の任務につけ、という趣旨のものである。
はじめ、地方から呼び集められた法務官は、私を含めて四人、他に東京在職の者を加えても僅か十名内外である。
陸軍省の方針では、それを一月半ほどで判決言い渡しまで、一気呵成に片付けたい腹であった。
とりあえず、法務官の数を二十数名に増員してもらい、まず予審の取調べにかかった。
代々木の陸軍刑務所の構内に、バラック造りの予審廷が設けられ、
各法務官は、予審官として 一人づつ被告人の取調べを進めた。
予審廷は、二十ほどの小部屋からなり、そこで、予審官は録事 ( 書紀 ) と同席し、
日曜祭日の休みもなく取調べを続け、
直接行動に参加した将校を全員と二、三 主要な下士官に対する予審を終ったのが四月中旬。
下士官と兵の大部分は、その所属部隊に留置されていたから、憲兵と検察官が手分けして各部隊に出向き、
一通りの捜査をしただけで、予審には回らなかった。
予審が終れば報告書に調書を添えて検察官に送る。
検察官は、予審抜きの捜査調書や予審経由の書類などを検討して起訴不起訴を決める。
常設軍法会議では、被告人が望めば、弁護人もつけられ、
又、法定刑一年以上の重罪犯には官選弁護人がつけられるし、
判決に不服があれば、上告することもできる。
だが、戦時又は事変に際し特設される軍法会議では、弁護人もつけられず上告も許されず、
又、一般傍聴も禁止することに定めてある。
私が予審で取調べたのは、
安藤、中橋、村中、磯部、北、西田 その他 約一年半の間に二十数名であった。
結局、向坂俊平首席検察官により、第一次に起訴されたのは、
直接行動に参加した将校以下百二十三名であった。
これは、とても一度にまとめて裁判できる数ではないし、
又 将校、下士官、兵、常人と それぞれ立場が違うので、
これを将校班一、下士官班二、兵の班一、常人班一の五組に分けることにし、
これらを裁く担任裁判官の組も五班に分けて編成された。
しかし、事実の認定、情状酌量などの点には 甚だしく差を生じてはいけない。
そこで五組の全裁判官が集まり、裁判に臨む心構えについて一貫する線を協議検討し、
統帥命令を紊乱した事実に焦点をあわせ、審理を進めることに決めた。
念の為に述べておんが、
これらの打ち合わせや、判決に対して、
軍の上層部やその他から 特別の干渉や指示を与えられたことは、一度もない。
すべて独立独歩の立場で裁判官の自主的な判断にまかせられていた。
それは、起訴された者のうち、下士官、兵の大部分が、
裁判の結果、無罪となり 又は 執行猶予の判決を受けたことによっても明らかにうなづけるだろう。
特設された東京陸軍軍法会議の法廷は、陸軍刑務所に隣接する代々木練兵所に、
法廷は五つ作られた。
各班一つの割合である。

法廷内の様子を図示すると上図のようになる。
審理期間中は、九時に、被告人たちが警査 ( 刑務所看守が兼務 ) に付き添われてに入廷、
昼食時に一時間の休廷があり、
午後四時か五時頃まで審理を続ける。
被告人は、多いところでは四十名も廷内にいる。
それに一人一人同じことを審問するのは時間的にも無駄である。
そこで、被告人たちの互選で代表者のみに応答させ、
異論のある場合のみ、挙手により、各被告人に発言させた。
あるいは、これでは被告人たちは、言うべきことも充分主張できぬことがあったと思う方があるかも知れない。
だが、彼等は軍人として教育された者であり、言うべきことは ズバズバ発言主張したし、
我々も充分に彼らの発言に耳を傾けたつもりである。
しかし、彼らの思想、信念はどうあれ、
事件が軍の命脈とする統帥の根本を破壊する軍規紊乱の最たるものであることは、覆うべくもなかった。
そして七月五日、十七名の死刑を含む第一次の判決が下された。
死刑判決を受けた者の中、村中、磯部の両名は、北、西田ら常人の審理と背後関係の追究のために、
処刑を延期し、なお審理を続けることにした。
これは、我々特に常人班担当裁判長 吉田悳少将などが、
事件の背後関係は軍上層部の一部にあると信じ、それを徹底糾明せんがためであった。
しかし結局 その試みは不得要領に終ったが・・・・。
七月十二日、第一次処刑が行われたが
その頃から、村中、磯部の両名は、蹶起の目的が失敗に帰したことを悔やみ始め、
特に磯部は、これまで深く信頼していた軍の上層部某々らが、平素の大言壮語を裏切り、
彼ら青年将校を見殺しにしたものと為し、いたく憤怒の念を抱き、屡々その意味の口吻を洩らしていたことを記憶する。
事件の背後関係が、不得要領に終ったといえば、こんなこともあった。
それは 蹶起部隊の最初の計画では、豊橋にあった部隊が、興津の西園寺公私邸を襲撃することに決まっていて、
万全の準備が進められていたが、事件の前夜、東京で亀川哲也が、相沢中佐の弁護人である鵜沢聡明氏を訪れ、
西園寺公の襲撃は中止になったから、蹶起後は、
「 青年将校らの最も信頼する、真崎甚三郎大将をもって後継内閣の首班に奏請し、事態を収拾するよう 」
 西園寺公に進言してくれと依頼した。
その使命を受け 鵜沢氏は、二十六日早朝五時頃、興津に到着したのだったが、
実際は、豊橋部隊の同志青年将校の一人が、襲撃のため軍を私兵化することを極力反対したため、
蹶起の直前に中止がきまっていたのである。
それなのに何故 西園寺公は いち早く退避したのだろうか。
これは事前に蹶起の秘密計画を知った者が、襲撃中止の事情を知らずに、
西園寺公に退避の進言をしたに違いないと判断され、背後関係糾弾のため取調べが進められた。
しかし、これもついに 裁判では的確な証拠を握ることができなかった。
人物往来/S・40・2
当時第十師団法務部長 伊藤章信 著
軍事法廷 なみだの判決 から