あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

間野利夫判士 手記 2 東京軍法會議 ・ 補註

2020年11月06日 09時34分55秒 | 暗黑裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達

補註
「 補註 」 は 週刊文春に前記手記が引用せられることになった際
執筆者の需めに応じてその時点において逐次記憶を辿って書き送り説明を加えたものである。

( 1 ) 裁判の評議
通常会議と言いますが--過半数によって決定します。
意見を述べるのは先ず法務官の裁判官から始まり、それからははん下級者から順序にしました。
当初の発言で一致する場合もあれば、別れる場合も多々ありました。
量刑についてばかりではありません。
理由の一句に至るまてです。
裁判官は裁判長を除いて四人ですから、二対二の場合もありました。
その際は、裁判長の意見によって決定すればよいのですが、私たちの班では、四人の間で熟慮・討議を求められ、
四人の意見が最終的に一致するまで待たれました。
この際、補充裁判官の意見も参考に述べさしました。
三対一の場合は既に一応決定したことになりますが、この際も慎重に右と同様の方法をとられました。
三対一の内容が最終的に一の方に合致したことさえあります。
誰も面子にこだわることなく、真剣に正しい判決に導くことは真剣に努力したものです。
そうして最後まで意見の一致しないままで決定されたことは一回もありません。
従って裁判長が自らの意見を述べて一同をリードすることはなく、
要点については詳細を求められるだけでした。
私は二、三回の場合において裁判長自身の意見に反する結論もあったのではないかと推察しています。
( 2 )
五・一五の時は普通の軍法会議でしたから、弁護人もありましたし、公開されていました。
特別弁護人として、たしか士官学校の現・元中隊長の二人が出たと思います。
その要旨が新聞に出たのを見て、 「 当時の一般の空気にあまえ、アマッチョロイことを述べている 」
と 憤りを覚え、「 是非を部分ごとに明らかにし、教育者の罪を謝し、弁護すべき点は弁護すべし。
こんなことで一体士官学校の教育をどうするか 」 と 憂慮し、上司に意見を申出ました。
当時私は教育総監部の精神教育班にいて軍隊用の精神教育資料の編集にあたっていましたので、
本然の任務に関したことでした。
右の弁護人は上司と十分打合せの上の筈です。
当時の士官学校長や幹事が誰であったか覚えていません。
事件そのものより、こういう流れが陸軍にあったことを浮彫りする材料にはならないかと思って・・・・、
二・二六事件裁判中にもこのことを考えました。
( 3 ) 「 統帥権干犯 」 ということについて
この言葉は昔からあり、軍の御旗ですが、
ロンドン条約締結、真崎大将の教育総監更迭を特に被告達は、「 統帥権干犯 」 として問題としたのです。
通常、統帥系統以外から 「 統帥権の独立 」 に介入することに用います。
統帥の根本を紊り、兵力を僣用したことは文字の意味からは、内からの統帥権干犯には違いありませんが、
慣用はしていません。
従って軍法会議は統帥権干犯と言わず、「 皇軍の僣用--私兵化 」 を用いました。
この点について、軍法会議は 「 皇軍の僣用 」 の表現にすべきか、他に適当な言葉があるかを論議したに過ぎません。
( 説明 )
①  小さいところでは 「 大阪のゴーストップ事件 」 で警察官が外出の兵を捕えたことを
「 統帥権干犯 」 として問題にしたこともあります。
②  内ゲバ的な用法はなかったようです。
( 4 ) 反乱の認定時期について
軍法会議は 「 いつからを反乱 」 と したかは大して論議するまでもなく 「 営門を出たときから 」 と判定しました。
( 次官通達にかかわりなく )
明らかに事件処理の過程において甚だしい矛盾撞着を見出します。
その件については勿論調査しましたが、
これは各当事者の行動の是非、当不当の問題であって、
それは別に責任を問うべく、
情状には関係があっても、軍法会議が進んで決定を下すべき範囲内ではありませんから、
必要な限りにおいて事実を記述したに過ぎません。
裁判では決行そのものが問題であって、その点の情状は判決文 に出ています。
これは裁判官にとって重大なことであったのです。
その後の状況はいささかも判決そのものには影響はありません。
----各裁判官とも心の奥底では 「 最後はかわいそうなことになった 」 という憐憫れんびんの情はあったでしょうが。
せめて軍人らしい最後をとげさしてやりたかった。----
一時はその気にもなったのに、上層部が腹中に毅然たる判断をもち得なかったために、
若い彼等の行動を迷わす結果となったことについて哀れを感じました。
しかし、彼等も自ら強調する統帥権の紊乱を、決行後自決によってお詫びする位の
もっと徹底した厳正な決意をしておくべきであった、と 彼等のために考えるのです。
多少の環境の違いはあっても河野壽のように、また、四囲の情勢は違いますが、終戦時の畑中のように。
( 説明 )
① 慨世憂国ノ至情ト一部被告人等カ其ノ進退ヲ決スルニ至レル諸般ノ事情トニ付テハ
     之ヲ諒トスヘキモノアリト雖モ・・・・
( 編集部註 )
尚、この点については、別のところで間野氏自身が真情を告白しておられる。
「 ・・・・中正を持したと自信する小生も --彼等の行動に全然無関係であり反対の観念をもつ小生も
世相革新の要に思いをいたすとき----殆んど総ての苟くもく血の気のある将校----判士も含めて----
も そうではなかったかと思います----彼等の総てを排撃することの出来ない心境にあったことを告白いたします。
そこで第一班判決の 「 ・・・・諒とすへきものあり・・・・」 という字句を入れたものです。
今にして思えば、もう少し別の表現をとった方がよかったと思いますが----この時は・・・・
全裁判官の脳裏に焼きついていたあの最後の陳述の情景が作用していたことを信じます 」
・・大谷啓二郎氏宛書書簡下書き
( 5 )
「 奉勅命令 」 は重大な条件について特に勅裁を仰ぐものです。
その命令の遂行----「 原隊に復帰せしめる 」 ためには、戦闘惹起の危険もあります。
犯罪性のない千数百名の兵----昨日までの友軍----を攻撃することになるのですし、
附近住民にも戦禍を及ぼす危険性があり、まことに重大なことです。
それがために勅裁を仰いだのです。
しかし、 「 奉勅命令 」 も一般の命令と本質的には何等異なるものではありません。
「 奉勅命令 」が出て、それに服従しなかった時から----伝達についても色々と問題がありますが----
始めて反乱軍になったとする方が、大臣告示や小藤大佐の指揮下に入れた命令などを説明し易いのですが、
このようなことにかかわることなく、事理上 上記の判決をしたのです。
この点をどう取扱うかについて論戦したことは記憶していますが、
藤井法務官を含めてわれわれ判士にとっては、事態は明らかで、ただ判決中の 「 罪となるべき事実の記述 」
において どう取扱うかを評議したに過ぎません。
要するに、陸軍大臣以下、司令官、隊長が未曾有の事件に遭遇して処置を誤った点があるのは多少はやむを得ないとしも、
どうも政治に慣れて、軍統率の根本精神が少しかげっていたのではないか?・・・・
この批判は当然甘受すべきです。
上層部のことは暫く措いても、例えば 「 兵に告ぐ 」 の文章のアマッチョロイサ ( 世間の好評は博しましたが )、
しかもそれをアナウンサーに放送させたことなど、如何に異常な事態とはいえ--
異常であれば一層毅然たる態度をとるべきであるにかかわらず、全く軍隊の統率を忘れたやり方です。
何故戒厳司令官自ら放送し諒々と説き聞かせなかったのか、全く軍人としておかしいことです。
( 説明 )
① 当局の混迷心は別として、世間の多くはこれを一種特別なものと取扱っているが、これは間違い。
( 6 ) 将校と兵士の 「 骨肉の情 」 について
そもそもが貧乏な兵の家庭に同情し、その原因を政治家資本家の私利私欲追究とし、
これ等を元兇としたのですから・・・・。
私をして言わしむれば、川辺、福山との共同研究において、
安藤を例にとって問題とし、この研究もガリして配布したと記憶していますが
----「 安藤は一応誠意のある立派な男 」 と 認めました。
しかし、その教育、統率には----指摘されたように----所謂親分乾分間のような面が顕著であった。
猛練習をしたあとで、私費をもってパンを買い、ウドンを運ばせて 「 オゴル 」 ことが度々であった。
--調書にも出ていました。
部下をかわいがる気持ちは理解できるが、これは真の軍隊教育の方法ではない--
私兵化するものであるとの見解です。
私も少尉の頃、枚方の火薬庫の衛兵として二十名位を率いて一週間勤務についたときなど、
粗悪な給食 ( 賄夫 ) にウンザリして、帰路二〇キロ余りの行軍中にパンなど買って共に空腹をみたしたことも時々あって、
気持ちはよく理解できるのですが、安藤の場合、度が過ぎていたようです。
そしてそれを兵をかわいがった一例と考えていたところに問題が存在すると思うのです。
( 7 ) 三人の共同研究について
私と川辺は将校班です。
それが下士官兵の服従の問題に手をつけたのは、一つには将校達の命令の責任問題ででもありますが、
狙いは命令服従については法務官をリードせよという意図を強くもって法務官の法理論に対抗すべく、
敢てドイツの陸軍刑法の原書まで引っぱり出し、陸軍刑法制定時の法律家の審議記録を読んで、
判士に任命された将校達の理論構成を助けよう、審理に当っての考慮すべき点を明らかにしようとしたものです。
勿論不徹底に終わっています。
それは私の皇軍における統率の研究がまだ完了していなかったことも因由します。
「 判士は法律の素人 」 は 事実ですから、法務官に押されることを心配したのです。
私は軍の統率の観点から東大聴講に際し、多少一般刑法理論などを勉強していたので、
「 法務官何するものぞ 」 という気概をもっていたのです。
片倉発言を遮った発言もこの知識からです。
『 昭和史発掘 』 では、「 法務官が裁判をリード 」 と 書かれましたが、
私は吾々判士がリードしたと自負しています。
私は今日でも吉田書簡のようには全部を具体的に発表する気はありませんが、
量刑についても然りです。
( 8 ) 判決について
苦悩の日夜を重ねて判決文の作成に参与した私は判決公判の際には静かな心境にあって被告達を見ていました。
裁判長が理由を読み、最後に主文を言渡した時には、
被告はじっと鋭く裁判長を見つめたまま一言も発することなく動揺もありませんでした。
ただ、死刑の求刑を受けながら それを免れた者の中の二、三には心なしか ほっとしたような表情を見たと覚えています。
私達将校班は構成メンバーが変わるたびに公判開始前に明治神宮に参拝し、
「 正しい裁判ができますよう、皇軍国家再出発の機縁となりますように 」
加護をお願いしました。
恐らく他の班も同様でしたことでしょう。
私たち将校班は第一次の公判において一七名の死刑判決をしました。
村中、磯部の両名はあとの北、西田の裁判を慮って執行が延期されたことは気の毒なことでした。
七月十二日--盆の前日--十五名の死刑が検察官立ち会いの下に執行されました。
場所は衛戍刑務所内の北端部です。
観音崎の要塞地帯内や色々の意見があったが、自己の発生を懸念して上記の場所に決定したと聞いています。
曹長から始まり一人が終ってから次の者が監房から呼び出されました。
銃殺刑ですから、後の順番の者の気持を考え、その銃声を紛らわすために隣接の代々木練兵場において
小銃隊による演習を行い空砲を発射した筈です。
全部の執行が終って、死体が納棺され遺族に引渡される前の時刻--十時頃でした--を見計って
私たち裁判官は、門外の天幕の中で引渡しを待っている遺族の前を通って中に入り、
三段に積み重ねられた十五の柩にお詣りしました。
誰が発案したかは忘れましたが、一同そうせぞるを得ない心境であったのです。
( 9 ) 週刊文春 「 昭和史発掘・裁判篇 」 の読後感
はからずも二・二六事件裁判に関する私の手記が昭和史発掘に引用せられることになって、
毎号関心をもって読みました。
その引用に伴なう解釈、批判については多少の不満がありますが、
一々それを反駁する必要もありますまい。
私の手記は事実を明らかにし、裁判は所管長官--陸軍大臣--の お膳立ての枠内ではあったが
「 良心に従って行った。陸軍省--幕僚達の意によって動いたものではない 」 ことを、
あくまで主張したいのです。
このことは随所に一応引用されているが、しかし当らない推測も見受けられます。
そのため、一、二の点に触れておきたいと思います。
一、山口一太郎の判決について
山口に対する法の適用量刑についての批判はたしかに尤もな点があります。
しかし 「 本庄大将の女婿ということを考慮したのか 」 は 全く不当な推測です。
関係裁判官の誰一人として本庄大将を意識していません。
最後に量刑の評議になった時、最初に発言することになっている法務官の裁判官は死刑、
私はこの裁判では正裁判官ではなかったが、発言を促されて、
無期 ( これは数には入らない ) 河辺判士は無期、あと二名の判士は死刑、
即ち三対一ですから、裁判長の意見にかかわらず、死刑が決定されたことになります。
記述のように、石本裁判長は一人でも異論がある場合には、自己の意見を言わず、
一般裁判官の間で時間をかけ、納得のいくまで再研究をさせられました。
河辺君と私は、なし得る限り罪は軽きをとることを信念としていました。
事前の関係、特に週番指令としての処置、態度は直接兵力僣用者よりも重い責任をとらしても決して不当ではないが、
しかし死刑にしなくても済むならばと考えたのです。
決して本庄大将の女婿を意識していません。
結局長時間の討論の末 無期と決定したのです。
不当の非難は甘受します。
ただ、それほど直接兵力使用を重視したのです。
二、北、西田の判決について
北、西田の判決に至る経緯は相当詳細に書かれていました。
吉田判士の研究と信念、反対意見の藤室判士もまた信念に従って行動した筈です。
たまたま、吉田氏の意見、行動は長官--幕僚達の意図に反したため事後は不遇であったのです。
石本裁判長も然りです。
三、真崎裁判について
判決直前の某日 磯村裁判長から電話で呼び寄せられてお宅に御伺いしましたところ、
真崎大将に対する法律の適用、量刑に関する意見を求められました。
私は考えるところを縷々申し上げたところ
「 同感だ。あとの二人との意見が違うが、もう一度説得してみよう 」
とのことでした。
それが判決公判の直前であっただけに、また理由は反対意見の法務官が起草済であって、
一部の修正はしたでしょうが、結局、執筆者が指摘されたようなチグハグなものになったのです。
以上限度を越えて敢て書きましたが、
これによって、二は長官の意図に副うた判決になったものの、その過程に種々の問題があり、
一、三の判決は完全に長官--幕僚達--の意図に反することになったことが明白となったと信じます。
これでもなお、世人は裁判官はロボットであったとされるでしょうか。
以上の記述によって 二・二六事件裁判の真相を理解して頂けたら幸いであります。
昭和四十六年六月二十四日
間野利夫 識

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松本清張編
二・二六事件=研究資料Ⅰ
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