あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

戒嚴司令官 香椎浩平 「 不起訴處分 」

2020年11月12日 05時25分11秒 | 暗黑裁判・幕僚の謀略4 皇道派の追放

法律一點張りの頭で萬事を律せんとして、
皇國本然の姿を忘れたる者共の仕業なり。
義乃君臣情父子
ぎはすなわちくんしんじょうはふし、
此が日本の國體の精華に於ける情緒である。
此無比の肇國ちょうこく精神に基きて、大御心を拝察し奉り、
以て夫の事件を処理したのである。
・・・香椎浩平

思い出すさえ忌々しい。
昭和十一年十月七日、
東京軍法會議 匂坂法務官の名を以て、出頭通知狀なるもの舞ひ込み來きたったのだ。
曰く
「 辱職被告事件につき相尋ね度儀有之候條、昭和十一年十月八日午前九時、
當軍法會議に出頭相成度候也 」
なるもの之也。速達にて郵送し來る。
予は實に心外千萬の感じを抱ひた。
引退前、已に告訴者あることは承知しありし故、あっさり聞取るのであろうと考へたし、
川島前陸相 及び 安井少將へも、電話にて打合せることもせなかった。
・・・告訴者・・・
特設軍法會議の豫審段階で被告の栗原安秀、磯部淺一、村中孝次の三名が香椎戒厳司令官
( 川島元陸相、荒木・眞崎大將、山下奉文少將等を含む ) を 叛乱幇助罪で告發した。
でも腑に落ちぬのは辱職の文字。
・・・辱職・・・
陸海軍刑法に於て、軍人の特別任務に違背する不名誉の行爲をした罪を辱職罪という
八日朝、寸時で歸って來ることを言ひ殘して、定刻出頭して見れば、
匂坂の態度は、派閥關係等を聞き、又 統帥關係に深く立入って聞く。
例へば、彈を撃たせぬことと、軍隊の戰備のことが喰い違って居るではないかとか、
第一師團がぐずぐずして居て何等戰備を整へて居なかったではないかなどと問ひ、
中にも
「 あなたは戒嚴司令官として何の手柄をもして居ないではないか。奉勅命令に由って事が収まったんだ 」
と 云ふに至って、甚だけしからぬ事と感じた余は、励声疾呼れいせいしっこした。
「 勿論、事態の一段落は御稜威の然らしむる処である。
東京市長の官舎の宴に招かれて、予は答辭にも、自分は之をはっきり言明した。
乍去、御稜威の下、具體的行動に由り事態に処するのが吾人の職務であり、
予は眞に國家を救ひ、陸軍を救ひ、徴兵令を救ったと確信する。
ゼネラル香椎の名は世界に傳へられたと、海外通信で承知して居る。
君等が法文の末に拘泥して予を罪せんとするならば、何をか云はんや、だ。
唯 予は快く服罪せぬまでのことだ 」
と、且つ 怒鳴り 且つ 睨み付けた。
こう云ふ場面の中、予を収容する積りならんと豫想よそうせざるを得なかった。
正午になった。
食事しよふと云ふ。
此処でか、と問へば、歸宅されても宜しと云ふ。
即ち、急ぎ歸宅して要點を物語り、本日は収容さるゝやも知れぬ。
就ては子供達は少しも臆する処なく通學せしめよ。
又 家は計畫通りに堂々と建築を進めよ。
予に一點の疚やましき事なし、と 云ひ聞かせ、匆々そうそう昼食を濟まして、再び軍法會議に出頭す。
午後は、法務官の態度一變、頗る物腰靜かに應待す。
予は之を以て、唯 手を代へて、予の心の油斷に乗じ彼の探索に便し
且つ 引き掛けんとするものか、とも考へた。
其中そのうち、彼云ふ。
閣下を前にして失礼ですが
「 人物を観察するんですな、腹を見るのです。どーも事件の正體がわからないで困って居ます 」
などと云へり。
而して雑談的に種々のことを問答しつつ、尚ほも予の罪をでっち上げんとするものの如し。
予は依然、収容を覺悟しありしに、夕刻打切りと聞ひて、意外の感を以て引取った。
一應の聞取りは、予に對しては當然と思ひあるに、余りの辛辣さに、此時以來予は、
當局のやり方に不快の感を深くせざるを得ない。
そうして次の様な考が起って來た。
㈠  元來、戰は勝つにあり、戰の方法が如何に合理的なればとて、負くれば罪死に値す。
㈡  勝ちて而して其の手段方法の巧拙善惡は、戰史として研究するは必要也。
  然れども、畢竟ひっきょう之れ戰史研究の範囲内に止まるべきもの也。
㈢  鎭定手段の、統帥事項に關し、其運用に關する事を、文官たる法務官が、本科將校の立會も無くして、
  微細の點に至るまで聞き糾ただすが如きは不都合千萬也。
㈣  若し統帥關係を、法文の末に亘って事後論難するが如き惡例を貽のこすならば、
  將來戰場に立向ふ軍人は、一切六法全書に從ひ行動せざるべからざるに至らん。
其結果、遂には負けても理屈が通れば可なりと云ふことになるやも知れぬ。
欧州人は、防御手段に遺憾なければ、要塞を開城しても、所謂力盡き矢折れたる不得已やむえざる事柄として、
勇士扱ひさえするなり。一歩でも如此かくのごとき風潮に染まば、皇軍の特色を如何せん。
㈤  予に對したる如き態度を依然改めずんば、將器將材は將來養成の道を絶たるゝに至る可し。
人間味ある指揮統帥は全く顧みられざるに至るであろう。
㈥  夫れ戰爭は錯誤の連續なり。之れ戰史の一般に認むる処とす。
  それにも拘はらず、否 萌り之を覺悟して、如何なる錯誤の蔟出にも拘はらず、一意終局の勝利を目指して、
不撓不屈、最後迄努力して好結果を獲得する如く、吾人は養成せられて居る筈だ。
予に對する取調べは全く之に反して居る。
・・・蔟出・・・群がり出るの意
㈦  狡兎盡良狗煮らぬ
  日本も愈々支那式になりつつあるのか、嗟呼ああ
法文の末に拘泥して取調べを不當に行ふことを、特定人に丈け行ふことは不公平の極なり。
前段の観方をするも、不得已やむをえずと云ふ可し。
・・・狡兎盡良狗煮らぬ・・・
悪賢い兎が死ねば猟ができなくなり 不用となった良い猟犬も煮て食われる、
敵が亡べば不用となった功臣も誅せられるという意。
史記、越世家 「 飛鳥盡良弓蔵、狡兎盡良狗煮
㈧  陸軍省、參謀本部を一時叛亂軍占領されたる醜態に關し、何とかして其責任でも戒嚴當事者に轉嫁せんとするのか。
㈨  予の身分の取扱上の不手際を糊せんとするにはあらざるか。
  嫉妬心も亦手傳へるならんとさへ考へざるを得ぬ。
事件鎭定直後、參謀長が、閣下の名聲は歴史上永遠に殘りますね、と云ひしことは、
恐らく安井少將一個人の考のみにありしを、多數の將校が之を思ひ、
中には嫉視するに至ることも亦、不得已やむおえざることならん乎

取調べは、兎も角 一段落ならんと思ひしに、何ぞ圖らん、
十月廿四日、匂坂 復また來たり、
此度は恭うやうやしき態度なりしも、予の事件中の手帳借用方を申込む。
予は此処は太っ腹に出づる時と考へ、言下に快諾したり。
彼は證文と引替へに持ち行けり。
越へて十一月十四日夜、又々 出頭を促し來る。
予は痛憤の情を抑へ、徐々に心構へを整へて、十五日定刻出頭す。
匂坂は、聞取書を作成すと称して、事件前に満井中佐に會はざりしやと問ひ、
斷じて其事なしと答ふけれども、中々承服せず、しつこく反問す。
又、事件を知りしは何時か、何故電話にて指揮命令せざりしや、
師團や警視廳に情況を更に確かむることをなさざりし理由如何、
出動迄の時間が長過ぎるにあらずや、其間何をして居たか、
午前八時頃より午後三時迄は何の命令も出さざりしは何の爲乎、
第一師團の態勢は不都合と思はぬか、
何故命令せぬか、
宮中に參内せしは何故か、
參内時間長きに失せずや、
山下少將と會見し何を語ったか、
參内の途中時間を費やすこと多きに失せずや、
大臣告示の文句が手帳に記入せられある処、其時間等が食違へる如し、後より書き直したるにあらずや、
叛軍を統帥系統に入れたるは不都合ならずや、
何故逮捕せざりしや、
荒木、眞崎大將の關係如何、
偕行社に眞崎大將を訪ふたるは何故か、
司令官は叛軍を初め庇護し、後 之へ彈壓を加へたる如く變身せしにあらずや、
との意味合ひを以てする訊問等、微に入り細を穿うがち、皮肉を極めて剔抉てっけつせんとするに似たり。
十六日も過ぎ、十七日の午前中を費やせり。
此の間 余りのクドクドしさに、予は堪忍袋の緒を切らして叱り付けた。
「 同じことに何で繰り返し繰り返し聞くのか。何の目的かわからぬではないか 」
すると匂坂は にやりと薄笑ひした如き口元にて
「 いや、目的は分らぬ方が宜しいです 」
と、あわてた様に云ふ。
要するに此度の聞取は、
㈠  予の指揮、怠慢ならざりしか
㈡  事件を豫知しあらざりしか
㈢  叛軍に通じあらざりしか
㈣  右 ㈡、㈢の爲め、作爲したることなきか
㈤  眞崎大將と通謀したるにあらざりや
が、主要の調査点なりしやの感ありき。

以上の狀勢に基き、予は収容せらるゝことあるやも知れずと、又々豫想せざるを得ざる立場に置かれたり。
由って予は、若し果して然る場合には、國軍の根本的立直しに乗り出す爲、
陸軍出身以來見聞し 體驗せる処を洗ひ洒し 陳述論難して 余力を殘ささらんことに臍ほぞを固め、
思ひを練って、爾後の時日を經過した。
乍去、心は悠々として少しも憂憤などのことなく、飽くまで剛健壯快に過ごし、
十一月末には伊勢大廟にも參拝し、正月も何のわだかまりなく迎へたり。
元氣は正義に立脚する、正義は實に強い。
昭和十二年一月十七日朝、書留郵便に依り、匂坂の名を以て、不起訴處分の件 通知を受く。
曰く
「 被通知人に係る辱職等被告事件は、昭和十二年一月十五日、不起訴處分
 ( 陸軍軍法會議法第三百十條告知 ) を爲したるに付 通知す 」
之なり。
或は曰ふ、
死刑囚たる磯部、村中に告訴せしめたるものなり、と。
軍法會議の内容、特に磯部等の告訴狀等が外聞に洩れ、書ものが政党首領等に手交されたりとか。
斯かる状態から考へれば、中央當局の内幕、愈々以て奇々怪々の感なくんばあらず。

香椎戒厳司令官
秘録二・二六事件事
から