間野利夫判士手記
この手記は昭和三十九年二月、友人藤田清君の勧めに従って
某週刊誌に投稿のために書いたものである。
しかし時期を逸したため掲載されず未発表のままに終わった。
・
その眞意は諒とするも・・・・
( 二・二六事件裁判の眞相 )
間野利夫
F君!
君の御慫慂しょうようにもかかわらず、書くことを拒んできた私ですが、
近頃のように、二・二六事件に関して多くの著書が現れ、
その裁判が云々せられるのを見ますと、
このあたりで一度裁判の真相を発表しておく必要も感ぜられ、資料皆無のため、
日時や順序など間違うかも分かりませんが、記憶をたぐり出しながら、短文をまとめてみます。
話の順序として、まず軍法会議について予備知識をもっていただかなければなりません。
元来、軍の裁判というものは、一般の裁判と大変違っているのです。
陸軍には陸軍刑法、海軍には海軍刑法があり、その裁判をすすめるための法律としては、
一般の場合の裁判構成法と刑事訴訟法の代りに、陸軍軍法会議、会議軍法会議があって、
各々その軍の構成及び行動に適合するように、法律が作られていました。
しかも平常の場合と、戦時事変の場合によって差異があり、
前者の場合には成るべく一般社会の裁判に近づけようとしていますが、
なお軍の性質上特異なところがあります。
後者の場合には随分と禁止的制限の緩和がありまして、裁判の様式も簡単となり、
一刀両断的な感じを受けます。
二・二六事件の裁判に際しては、緊急勅令によって、
事変に準じ、臨時に東京陸軍軍法会議が特設されたのです。
特設軍帽会議になりますと、弁護人は許されません。
公開、非公開は、一般の場合でも、勿論裁判長の権限ですが、
事件勃発の契機となった相沢事件の公判は経緯に鑑みても、あの環境では公開などしたら、
社会不安をいやが上にも増大したことでしょう。
軍法会議の構成は一般の場合、
判士と名づけられる兵科四名、法務官 ( 軍に於ける法律の専門家で陸軍文官です ) 一名
計五名が裁判官となります。
特設の場合、判士 ( 将校 ) 二名とすることが出来る規定になっていました。
公判には検察官が列席します。
この検察官である法務官と裁判官である法務官とは区別して置いて下さい。
これが混雑するものですから、間違った論議が出て来ることにもなるのです。
二・二六の場合、軍法会議は右の五名の構成をとっていましたが、
真崎大将の場合には大将二名が判士になりました。
軍の裁判のことですから、判士は被告より下級のものであってはならないのです。
そして被告の階級が兵であるとか、下士官であるとか、佐官、将官であるとかに従って、
佐官何名、尉官何名などと、判士の階級人員も規定されているのです。
軍紀がきびしく、上下の階級を重視する軍として必然のことです。
二・二六の場合、直接行動者は免官になっていましたが、なお大体右の規定を尊重していました。
・
さて、いよいよ本題に入りましょう。
最も恐れられた撃ち合いも起らず、下士官以下は原隊に引きあげて隔離収容せられ、
将校などは衛戍刑務所に拘禁されてから、早速取調べ開始され、
これが為めに全国の師団から法務官数十名が東京に集められました。
陸軍省の法務局が検察陣の本拠となって、尨大な調書が作成され、ガリ版やタイプで複写されていきます。
軍法会議によれば、軍では検察官の調べだけで、起訴不起訴の定まるものもあれば、
更に予審官が調べてから、それの決定するものもあり、この点一般の刑事訴訟法とは違うのです。
この間、前記の緊急勅令が発せられ、陸軍人事局では無色透明の判士の人選に苦心していたのです。
あとから聞いたことですが、中央部の人達は皆 激務がある上に、あとで論議の的にされることですから、
多くの人はしり込みしたようです。
当時私は兵器本廠に席だけおいて、二年前から聴講生として東大に通学していました。
私の任務は 「 軍の統率 」 に関する研究です。
私はそれを主として心理学、教育学、社会学的に究明し、法律的にもその裏付けをしようと企てていました。
・
事件の当日の二月二十六日は、雪を踏んで登校しましたが、予定の講義が休講になりましたので、
午前中できりあげ、途中どうも様子が変なのを訝いぶかりながら、西萩窪の自宅に帰りました。
夕刻、近所に住む軍人の友人から事件の概要をきいて驚き、
軍人の心得として、席だけでも置いている兵器本廠に電話しましたところ、
宿直将校の応答がチグハグで結局 「 出て来ても仕方がない 」 との返事でした。
あとで知ったのでしたが、陸軍省と道路を隔てた隣にある兵器本廠もまた占拠されていたのです。
翌日同じく聴講中の同僚と共に麹町にある研究上関係の深い邱育総監部まで行きましたが、
抗議中の私たちは全然用事はなく、大学の講義も大体終りだったので、
それから後は、友人から情報をきき、憂心をいだきながら自宅に籠って、
静かに事件の前後処置と関係の深い自分の研究に没頭していました。
ところが、三月二十六日頃だったでしょうか、陸軍省からの速達によって呼び出され、
四月二日 行ってみると、大会議室には、将校や法務官が大勢集まっていました。
そこで私たち二十数名ばかりの将校は判士に任命され、
数名の法務官と共にこの歴史的大事件の裁判に当たらされることになったのです。
事件当時の川島大将に代わった寺内陸軍大臣の訓示は、
要するに、
「 未曾有の大事件を起こした陸軍の責任を説き、
軍の将来を憂え、公正なる裁判によって軍の秩序の恢復をはかれ 」
と 云うな意味のものでした。
私は任命の瞬間、大津事件の裁判長・児島惟謙を想起して、ひそかに心に誓いました。
一同は直にくだんの軍人会館に運ばれ、そこで当局者から事件の概要を聴くことになりました。
その説明に当たった数人の中の一人は、陸軍省の課員少佐で、所謂統制派のチャキチャキでしたが、
その説明というものは、行動者に対する批判非難の言辞が多く
「 全員死刑だ、背後の北、西田こそ元凶だ 」
と 云うような激越な意見にまで脱線しましたので、私は決然立って
「 裁判官に対する説明は客観的事実のみにとどめるのが至当ではないか、
判決を示唆しさする如きことは慎んでもらいたい 」
という意味のことを述べて抗議しました。
「 若い大尉が生意気な!」
という 憎悪の視線を一部から受けているのを感じて、私は一層覚悟を固めた次第です。
説明会は夕刻に終りました。
裁判に関する係は陸軍省の兵務課が主任でしたが、その課員は
「 世間も昂奮しているし、裁判官に雑音が入っても悪いから、本日から軍人会館に宿泊して貰いたい 」
と云う。
「 いま急にそう言われても困る。本日は一応帰宅して宿泊の準備を整え、明日から 」
と 云うことになりました。
各地から呼び集められた法務官は、既に渋谷の衛戍刑務所近くの旅館に分宿していたのです。
裁判官たちの事務所としては、当時新築されたばかりの未使用の陸軍省医務室があてられました。
そうして日中はそこで研究し、夕方宿舎に帰りました。
私たちは、文部省の前を少し入ったところにある 「 霞ヶ関茶寮 」 とか云う静かな新築の旅館で、
罐詰生活を送ることになったのです。
・
最初 五ケ班が作られました。
当初の受持ちは、
第一班が直接行動部隊の将校及び部隊の中に入りこんだ関係者、
第二 第三班が下士官及び兵、
第四班が行動に加わった所謂常人、
第五班が直接行動隊外にあった稍々間接的と見られる軍人、及び常人だったと記憶しています。
私は第一班で、第一、第二班の判士たちが同宿でしたが、
私は気の合ったほぼ同年配の川辺、福山の両大尉と共に、毎夜深更まで原則的研究をしていました。
三人は真剣でした。
それは一方にはこの三人が自由な時間をもち得たからでもあります。
福山大尉も私より一年遅くれて東大に学んでいましたし、
川辺大尉は航空本部の本来の仕事は殆んど全部放擲ほうてきして裁判に専念出来るようにして貰えたのです。
他の判士達は調書などを研究していましたが、
大部分の人達は陸軍省や参謀本部の繁忙はんぼうな現職をもち、
裁判準備のみに没頭することが困難な事情にありました。
当時私たちの最大の関心事は軍の将来でした。
勿論、国家の現状、政治的な革新も、血気の私達にとっては内心の大問題でしたが、
軍人として、特に当面の裁判官としては、
軍の秩序団結の恢復こそ、与えられた任務に伴う最大の問題であったわけです。
その見地からすれば、問題は命令服従の関係に帰着します。
勝手に軍隊を使用したもの、その命令に従って行動した部隊を如何に処置すべきかです。
徴兵制度の下に義務兵役に服する一般の兵、志願して軍隊に留った下士官、
しかも大部分は中隊長や中隊幹部の命のままに動いたものです。
一部には日頃から相当革新的思想を有し、
或は出動に当っての訓示や激励によって積極的行動に出たものもありましたが、
その思想といっても、つまりは日常の教育指導によるものであってみれば、
大いに考えなければなりません。
軍に於て命令服従の関係に疑念が残ったならば、弾丸雨飛の間に於て ものの用に立ちません。
それ故に、
「 上官の命を承ること実は直に朕が命を承る義なりと心得よ 」
と、軍人の金科玉条とした勅諭に訓えられていますし、
教育内容そのものはまた、命令と同様の重みをもたせてあったのです。
私たちは陸軍刑法制定当時の審議の記録に遡り、
更に刑法大家の著述をあさって議論をかわし、一つの結論を得る毎に、それをガリ刷りにして、
他の全裁判関係者たちに配って共同研究の材料を提供しました。
この研究に当って、法務官たちの考えは大体に於て、
「 不正の命令は命令に非ず」 という傾きが強かったようです。
この点 実際に部下を教育し指導した判士たちの意見とは差があったようです。
判士たちの間に於ても、細部の点ではなかなか結論の出ないこともありました。
しかも事件は未曾有のことです。
悩み続けました。
私は下士官兵の裁判には直接関係しませんから、詳しく述べることは差し控えますが、
裁判の結果は起訴されたものの中 下士官四十数名、兵三名が有罪 ( 大部分執行猶予 )になりました。
塀の有罪者は直接殺人の弾丸発射したものの中、特別に積極的行動の顕著なものでした。
判決をした裁判官にも恐らくなお多分の胸、のしこりはあったでしょうが、
この判決は世人も大体納得したようでした。
・
準備研究も終り、検察側の控訴提起もあって公判を開いたのは四月下旬以降からであったと思います。
法廷は代々木練兵場の一隅、衛戍刑務所の高い煉瓦塀に近い所にバラック二棟を急造し、
一棟を各班の控室に、一棟を四室に仕切って法廷としました。
その周囲を有刺鉄線の高い塀で囲い、入口には衛兵所が出来ました。
更に開廷日には機関銃をもった部隊が、その周囲を警戒するという厳重さでした。
勿論刑務所内には収容直後から地方から憲兵が多数派遣されていました。
私の所属する第一班が公判を開いたのは比較的遅く、五月上旬であったかと思います。
本来ならば、一つの軍法会議が全被告を同時に裁判すべきでしょうが、
それでは裁判は何年続くか見当もつきません。
しかも各々のグループに分離することを、反って適当とする面もあり、このように処置せられたのですが、
私の直接関与した限りは、実際に当っても支障は無かったようです。
公判は型のように、一段高いところに裁判官が裁判長を中央にして着席し、
一端に検察官が、多端に録事 ( 裁判書記のこと ) が 列席していました。
被告席は代々木の原の上に白砂を敷いているのですから、文字通り 「白洲 」 であった訳です。
六尺腰掛を二列に並べて、それに三人ずつ着席することになっていました。
その後方に警査が二、三人立ち、外部は憲兵が警戒するという情景でした。
・
法廷の秩序の維持は裁判長の責任であり、またその権限に属することです。
余談ですが、
「 被告たちが昂奮の余り乱暴でもしないだろうか、
『 幕僚ファッショの裁判官 』 などと敷きつめた砂を投げ、
或は腰掛でもふりげはしないだろうか 」
これは警査を出す衛戍刑務所側の心配だったらしいです。
勿論のこのようなことは杞憂で、彼等が乱暴を働くなどと心配する方が間違っているのですが、
当時色々と、右翼や、行動将校に同調する青年将校が被告を奪回に来ると云うデマも飛んでいたようで、
そのような情勢なればこそ、前述のような法定外囲のものものしい警戒配置だったことと併せて、
如何に社会一般に不安の気が充満していたかが想像されましょう。
・
私達の前に直接行動の元将校たちが入廷して来ました。
免官された香田元大尉以下は平服から階級章などをとった姿で、大体従来の古参順に着席し、
村中、磯部など事件前早くも免官になっていた者はその後方に、
今泉少尉のみ軍服姿でした。
最古参の香田も私より二期若く、全員始めて見る顔でした。
最初顔を合した時は、一同蒼白で思いつめた顔をしていましたが、
独り 林元少尉のみは座席につくときビョンビョンと腰掛をとび越えるなど、
無邪気というか、豪胆というか、一瞬思わず一同の緊張を弛めました。
胸に勲章一箇をつけ、軍刀を帯び、第一装の軍服に威儀を正した私たちの顔もまた緊張のため硬直していたことでしょう。
・
先日九州の片田舎にも佐分利信の映画 「 叛乱 」 が 来ました。
いやなものではないかと思って、躊躇しましたが、見た人の話をきいて出かけました。
この法廷の場面が最初に出ましたが、俳優裁判官や被告の顔を見て、何だか変な気持ちになりました。
顔付がチグハグです。
しかし場面の進行につれ、彼等の性格が如実に演技されていて、場面に引き入れられ、思わず涙しました。
序に申しますが、立野信之著 「 叛乱 」 も よくかけていると思います。
「 歴史小説 」 といわれていますが、事件の遠因から経過に到るまで、大体よく事実を書いていると思います。
裁判関係の記録でも入手したのではないでしょうか。
内容について、多少異論はありますが。
・
弁論の指揮は裁判長の任ですが、細部の訊問は大体、裁判に慣れた法務官が代わってしました。
行為そのものについては、検察官の読み上げた控訴状の内容は大部分直ちに肯定されました。
しかしその動機、精神について それから数十回被告人の陳述が続いたのです。
私達は連日 或は 隔日位に代々木に通いました。
・
公判の様相について話を進めましょう。
大事件のあと、あの荒涼とした刑務所に独居して、自分たちの行動のあとを振り返ってみれば、
千々に心の乱れる時もあったことでしょう。
いよいよ法廷に立ったときは、
すっかり達観して死を待って居るかの如く至極簡単に淡々と陳述する者もありますし、
せめて裁判官にでも昭和維新の理念をたたきこんでやろうとするかの如く熱烈に陳述する者もあり、
神がかり的にその信念を縷々述べる者もありました。
又多少行き過ぎを自認した発言をする者も二、三ありました。
非公開なのは彼等の心残りであったでしょう。
法廷には時たま裁判事務に直接関係のある兵務課員の一、二人や
他の法廷を受けもつ裁判官の傍聴を許しましたが、
その他は許さず、憲兵隊の切なる希望も裁判長はこれを拒否しました。
段々と暑気を加えてくるバラックの法廷、窓硝子も閉めきったままで審理を続けました。
同じ調子で綿々と述べられるとき、ふと練兵場の遠くでする演習の空砲など耳に入ることもありましたが、
開廷中は、被告も裁判官も緊張しきっていました。
たしか第二次は裁判された新井が先年公刊した著書の中で
「 裁判官中ニヤニヤ冷笑して居る者があった 」
と 憤慨して書いて居たと記憶しますが、これは全くの誤解で川村少佐は顔面神経痛があり、
緊張すると一層甚だしくひきつるので、それが笑いに見えたのでしょう。
彼等は政財界、重臣の腐敗、幕僚ファッショを衝きます。
それを調べずして裁判は出来ないと主張します。
しかし私達第一班の裁判官は諸方面の秘密書類など調査はしましたが、
誰一人として、証人の喚問する必要を認めませんでした。
その必要あればわが軍法会議は何人の干与をも受けず、独自の見地で、その権限を行使した筈です。
軍隊の使用と殺人の行為は明白な事実です。
私は軍の裁判に於ては、主観主義をとらず、客観主義をとっていました。
当時の私の研究の一つの結論でもあったのです。
行為を起こした意志、動員は情状であり、それを軽視するのではありませんが、
軍成立の根本を揺るがす問題について、
客観的事実を重視することは間違っていないと、今でも確信しています。
私たちも暗黙の裡に、彼等の指摘する情勢については憂を同じくするところもありましたが、
軍法会議は指定された被告人につき、公訴事実に関して取り調べ、
陸軍刑法に照らして判決するのが任務ですから、そこに限界があり、
陸軍刑法の適用を判断するに必要とする以上の資料を集め
或はそれによって政治的効果を期待するようなことは、裁判官のなすべきことはありません。
彼等が勝手に部隊を引き連れて行動に移ったとき、現行の陸軍刑法を変えない限り、
その条文に照らして、既に 「 反乱 」 であったのです。
彼等は満州事変に於ける林朝鮮軍司令官の独断越境を引例して
「 陛下の御意図に副う独断用兵 」
で あったと、主張しました。
しかしこの度の場合 天皇は事実の示すように、この事件を絶対に御許しになっていませんでした。
よし独断と言い得たところで、独断は自らの責任に於てなすべきことが、軍の教典に教えるところでした。
私たちは、間違ったら、腹を切れと教え込まれていました。
責任者は潔く責任をとらねばなりません。
彼等もそれを否定していたのではありませんが、
事件の経過中そり行動を混迷に陥らしめたのは事件勃発後の陸軍の長老、
責任当局者のとった処置が甚しく適切を欠いたことに原因します。
最高責任者にその人を得なかったことが、最大の原因であることを否むことが出来ません。
平素指揮系統を重んじた軍でありながら、テンデバラバラの発言をなし、処置命令が一途に出ていないのです。
軍の外のことに対する問題ならば、命令一下、日頃の組織訓練にものを言わせて、
迅速適格な処置ができたでしょうが、自らの軍の中から未曾有の大事件が起きたのですから、
無理もなかったとも弁解しておきましょうか。
しかし、そこにはまた事件は事件として別に後に責任を問うとして、
この際革新的な前後措置をとられることを期待する気持ちが陸軍将校一般に強かったことが影響していないでしょうか。
何しろ実弾をもった一千余の部隊です。
一歩誤れば大変なことになる。
何んとしても、これは避けなければならない。
そこで、行動将校を刺戟しないことに最大の考慮を払ったために、
この間第二次裁判の被告となった山口の働きなどに部隊長が引きまわされ、
動かされて一時旧部隊長の指揮下に入れて糧秣を給与する等のことも起こりました。
・
ここで一言 「 奉勅命令 」 のことに触れなければなりません。
これは私たちから見れば、特別のことではないのですが、
世間では 「奉勅命令 」に反したから 「 反乱 」 になったのだと、今でも考えているように思われます。
それも無理はありますまい。
「 勅令下る。軍旗に手向ふな 」
という趣旨のビラが撒かれ、アドバルーンがあがる。
この時将校と下士官兵とを判然と分けて下士官兵を対手としたのでした。
「 兵に告ぐ 」
の アナウンサーはその後 有名になりましたが、
その内容の文句と、放送局のアナウンサーによってそれを告げたことに関しては、
私は当時、軍の統率の見地から、戒厳司令部に対して甚だしく失望を感じたことでした。
問題の 「 奉勅命令 」 とは、確かな文面は覚えていませんが、
要するに
「 選挙部隊を速やかに原位置を撤去して原隊に帰らしめよ 」
という意味のもので、
閑院宮参謀総長に代って杉山参謀次長が充裁を受け、戒厳司令官に命令したものです。
別の処置を願い、断乎たる処置を自己の責任に於てすることを躊躇していた戒厳司令官に
最後の決断を促す手段でもあったのです。
従って選挙部隊が平穏に撤去しない場合には
戒厳司令官はその周囲に配置した隷下の兵力を用い、
砲火銃剣をもってしてでも、撃ち退けよということになります。
今まで軍であったものを、軍が討伐しなければならなぬと云う重大事件ですから、
特に勅を仰いだのであって、重大な作戦用兵には常に奉勅命令が出ているのです。
しかし軍の命令は本質から言えば、平素の上官の命令と何等異るところはありません。
若しそうでないとしたら、軍紀の確立は到底出来るものではありません。
「 早く退らぬと いよいよ撃つことになるぞ、奉勅命令が出たのだから 」
と 最後の決心を促すために、危険を顧みず行動将校にを説きに廻った将校もいました。
或る者はそれを聴いて信じ、一部は偽りとし、
一部は拒否して聴いていないようです。
「 奉勅命令は正式に受けていない。よって反乱とは何事だ 」
というのですが、
彼等には直接勅命が発せられるわけのものでもなく時既に正式伝達を云々する部隊でもなかったのでした。
しかし 上述のような事態で、思うだに不びんな状態に陥られたのでした。
「 幕僚の謀略 」 と 悲憤するのは当たりませんが、若い彼等です、同情すべき点も多々ありました。
訊問も証拠調べも終って、いよいよ検察官の論告求刑がありました。
その内容は峻烈なものでした。
軍法会議は弁論を閉じる前、最後に被告に対し、陳述の機会を与えるべきことを規定しています。
裁判官は相談して、一人一人別々にこれを聴くことにしました。
休憩の後直ちに始めました。
昼食、夕食のための短時間を除いて、悲壮な彼等の最後の陳述を聴いたのでした。
電燈がつきました。
依然として続けました。
法廷内外の警戒の責任者は 「 責任がもてない 」 と 言って、中止を要請しましたが、
聴取を打ち切ったのは、夜も更けた十時頃でしたろうか。
彼等の言葉は救国の念願のみでした。 リンク→昭和維新・反駁
判決言渡しの時の彼等の眼差しとともに、今でも折にふれてその情景を想起して涙を催します。
その行動には くみすることは出来ません。
行動に移る過程にも落度はあります。
しかし、それは彼等のみの責任ではありません。
その救国の真意は汲まざるを得ません。
裁判官は鳩首評議しました。
判決理由書も何回書き改めたことでしょう。
一字一句もゆるがせにしなかった心算です。
そして最後に
「 慨世憂国の至情とその進退を決するに至れる諸般の事情とに付ては之を諒とすべきものありと雖も 」
云々と書き入れたのです。
量刑に関して、これに関係した一判士は先日新聞紙上にとんでもない談話を発表しました。
それが沈黙を続けてきた私の重い口を開かしめる重要な契機となったのです。
いやなことですが、これは触れざるを得ません。
「 どうせ死刑になるのなら潔く死なせてやろう。
その代わりに同じ将校でも、ひきょうな連中はせいぜい無期にして死刑にしてやるまい 」
と、いかにも大時代的な言葉です。
私はその行為を判定して、首魁、謀議参与、群集指揮、諸般の職務従事などを区分し、
情状を酌み、陸軍刑法の条文に照らして夫々量刑しました。
軽きをとったことは勿論ですが、奇妙な論理で、死刑を無期に、無期を死刑にしたなど、とんでもないことです。
いつもの豪傑流の脱線の方言であって欲しいと念願しています。
「 ひきょう者 」 とは 何人を指したのでしょうか。
一、二の者から行動の行き過ぎを反省した言葉が特に最後の陳述に述べられましたが、
それを卑怯者とは、余りにも過酷です。
・
七月五日に判決を下しました。
彼等は一言も発しませんでした。
ただその眼は輝いて 「 後を頼む 」 と 言っているように、私には思えました。
その日は久し振りに自宅に帰りました。
その夜八時頃でしたか、陸軍省の自動車が裁判長石本大佐の命令で私を迎えに来ました。
陸軍大臣はその日の午後判決を奏上した筈です。
裁判長は、或は 「 死一等を免ぜられる、というようなことでもあったら 」 と 思ったようですが、
夜は更けていくばかりでした。
当時の石本大佐は陸軍省の軍事課長 ( 註・正確には八月一日付 ) でしたから、
政治的な考慮から、万一の期待をもったのでしょう。
まことに公正な立派な方でした。
七月十二日 私たちが死刑の判決をした十五名の中、村中、磯部の両名は
後に行われる北、西田の裁判に必要ありとしてあとに残され、
あとの十三名は他の班で死刑を判決された渋川、水上の両名とともに刑務所内で刑を執行されました。
私たちの班の裁判官はその日の午前十一時頃でしたか、
刑務所傍の天幕に待つ遺族たちに気兼ねしながら門を入り、
寝棺に収められ、三段に重ねられた十五の亡骸に深く頭を下げました。
外に出ますと、広い代々木の原には、この時、演習の部隊もなく、妙に静まりかえっていました。
右の裁判集結と前後して、第二、三、四班の裁判も終って、その軍法会議は閉鎖され、
大部分の判士達は帰任しました。
検察陣は相かわらず向う側で、次の公訴提起を準備しています。
・
第一班も少し人員が入代って、間もなく第二次の裁判にとりかかりました。
それから第三次、第四次と、いつしか悪夢の昭和十一年を送って、新しい年を迎え、裁判は進行していました。
この間、一番末席の川辺大尉と私は、交互に補充裁判官となりましたが、相変わらず終始法廷に出ました。
北、西田の裁判は第五班が担当し、私は時々その公判を傍聴したに過ぎず、
勿論裁判官たち個々の意見、評議の模様は承知しませんので、
多くを書くことを差控えたいと思います。
この両名の裁判はまことに困難なものでした。
最近新聞や週刊誌に載った二・二六事件裁判に対する不信も主としてこの裁判に関する疑問から発して、
全般に推し及ぼしているところに問題があると思います。
結局この両名も昭和十二年八月中旬頃、先に判決を受けた村中、磯部の両名と同日に処刑されました。
裁判官たちは帰任して、残るは川辺大尉と私の二人になりました。
その頃は真崎大将の裁判が準備されていました。
この際は裁判官は最小限の構成で、大将二名と法務官一名の計三名でした。
現役の大将は何れも事件処理に関係があり、後備役の大将二名が臨時召集されて、
裁判にあたることになったのです。
そして私たち二人は助手兼副官の役目を仰せつかりました。
赤坂の第一師団司令部校内の小さい建物が空けられ、そこが裁判官の詰所になりました。
間もなく川辺大尉は伊太利留学の為め去り、私は独りぽっちになって、両大将の御用を務めました。
法廷は同じ司令部の常設法廷が使用されました。
事件の直接契機となった相沢公判の行われた法廷です。
多くの高官たちと共に証人に申請すべしとして、盛んに画策の的になった当の真崎大将は、
今や事件終末の裁判に、被告として同じ法廷に立たされたのです。
運命の人物です。
傍聴人も軍法会議法の規定によって、被告より下級の者の入廷は禁ずることが出来ることになっています。
私は勿論入廷しませんでした。
三人の裁判官の意見は対立しているようでした。
私は裁判長の自宅に度々呼ばれました。
この裁判が証拠不十分、無罪の判決をもって、終結したのは九月下旬だったでしょうか。
詰所のあと片付けまでやらされて、この苦しい役目から私が放免されたのは、
一年七ヶ月余を経た十月末のことでした。
・
以上で裁判の経緯は一応御話ししたことになります。
しかしこれで筆を擱くことは出来ません。
「 暗黒裁判 」 という問題に答えなければなりません。
たしかに厚いカーテンの彼方、厳秘の密室でなされた裁判です。
それを暗黒というなれば、まことに然りですが、こと裁判に関する場合、
それは、行政府の威力をもって法を枉まげ、或は枉げさして行われたことを意味しましょう。
或はソ連のベリヤ裁判に於けるように、裁判それ自体政敵打倒のための形式に過ぎない場合が
「 暗黒裁判 」 の名に該当しましょう。
そうだとすると、一言なきを得ないのです。
ことに嘗ての一判士が検察陣の横暴を説き証人の喚問を妨げたと称し、
北、西田の裁判に際し、
素志にかかわらず
「 陸軍部内の圧力に勝てずに死刑を判決した 」
と 発表しているに於て殊に然りです。
最初に述べましたように、検察官は長官の決定によって公訴を提起するのです。
長官とはこの場合陸軍大臣です。
陸軍大臣の意図に副うて、検察陣の方針が定められることは当然のことです。
検察官は各人独立ではありません。
上長の指揮を受けるのは当然です。
公訴を提起したのは、検察陣が罪ありと認定した結果で、それが峻烈であったことは、
当時の軍当局として自明の成行きでした。
裁判官も陸軍大臣によって任命されました。
しかし一たび軍法会議を構成した以上、拠るべきは軍法会議法のみです。
裁判官は軍人として階級、新旧の上下はあり、裁判長には法廷の指揮など特別の権限はありますが、
評議の場合、階級の上下はその発言力に何等関係がありません。
ただ、軍法会議法は、各裁判官の意見発言の順序を規定しています。
第一は法務官、判士は下級者から順次に裁判長に到るのです。
何人も意見発表を拒み、その順序をあと廻しにすることは出来ません。
私たちの関する限り、最初の相違した意見をそのまま決をとって定めることはしませんでした。
回を重ねて論議をつくした後に始めて決定しました。
常に各人が大体同意し得る線に落付きました。
事実の認定については論議を重ねる間に自ら帰結点が見出されましたし、
理由書の一字、一句に数回の評議を重ねたこともあります。
量刑の場合、採決すれば事は明瞭ですが、妥当の線を出すには、神に祈念せざるを得ませんでした。
私たちの班では互の意見を十分傾聴し、それを玩味して裡れば、虚心坦懐それを容れ、
過誤なからんことを期しました。
一人の意見が最終に全員の意見となったことさえあります。
この点石本大佐と代わった若松中佐も正しい裁判長であったと、敬服しています。
----参謀本部の課員だったと思います。
裁判に際して、各班は相互に必要な資料を与え、意見を述べ合いましたが、
裁判官の評議の次第は相互に秘密を保っていましたので詳しくは知りませんが、
北、西田担当の裁判官たちの意見は甚だしく岐れていたように推測されました。
その裁判長であった吉田悳大佐----裁判進行中に少将に進級したと思っています----
が 陸軍次官、阿南兵務局長にあてた文章が先般某週刊誌で問題にされていました。
私は当時そのようなことがあったことを耳にしていましたし、発表された文章は真実のものと考えます。
その内容は大体
「 北、西田は裁判着手前には、事件背後の元兇であると考えていたが、
いざこれを裁判官として調べ、法に照らすということになると、外部で考えるようではない。
現在の自分の事実認定は軍当局の認定と相違する。
自分の意見を述べるから参考意見あらば提供して欲しい 」
ということです。
陸軍大臣が極刑を示唆したこともあったでしょう。
あったとしたならば、このことはもとより正しくありません。
このような事実が一応あったとして、最後の決定が意見不一致のまま、票決の形式をとって定められたか、
或は全員一致したかは問わず、一部の裁判官は納得しないまま自分の考えを抑えて、
遂に極刑の判決を成立するに至らしめたのでしょうか、
或は他の意見に聴いて、自己の判断を最終的に自ら決定して、あの判決を成立せしめたのでしょうか。
私は、後者であったと、先日まで推測していたのでしたが、前述の通り一判士はこの判決に関して
「 陸軍内部の圧力には勝たなかった 」
と 話しています。
若し記事の誤りでなければ、圧力に屈した人は、
一人で 「 暗黒裁判 」 の汚名を背負って貰わなければなりません。
四周の 「 雑音 」 を却け、自己の良心を貫徹した大部の裁判官の、
よく甘受し得るところではないのです。
大分長くなりました。
四周の雑音----私は敢て雑音と申します----について私の意見を述べて、
筆を擱くことにしましょう。
・
事件は軍隊の使用、中央官衛の占拠、現役大将を含む高官の殺人です。
あまつさえ、自分達の職場を若輩によって占拠せられ、
陸軍省の職員は偕行社に、参謀本部の者は軍人会館へと行かされた身にとって、
常日頃、彼等の行動に反対的であった将校は勿論のこと、中立無色の者も憤激を覚えたことは当然の成行です。
多少同情的であった者でも、部外者の参加、介入を知って、その焦燥をそれ等のものに怒として投げかけたことも、
あり得る人間の心理でしょう。
事件は事件として、この際政局の転換を期待するもの、その中にもそれを直接の目的とするものもあり、
中には事件の悪化を避けるための方便的に、それを口にする者もなきにしもあらずという状態です。
各人各種の事件観処理草案を疲労と焦燥によってかき乱されて、
異常な雰囲気を醸成していたことは容易に推察されることではありませんか。
天皇の御意志は常になく当初から明確に御示しになっていたようです。
この場合輔弼をまつまでもなかったようです。
変革の望みは消えて、あとは唯 平穏な収拾を所期するのみです。
陸軍は政府及び一般世論の冷い眼に囲まれました。
陸軍当局者の方針が、責任者の厳罰に決定したのは当然の成行きで、
それは検察陣の控訴状、更に論告に明瞭に示されています。
当局が裁判に関し合法的処理をなし、非難の余地なからしめようと配慮し、
裁判官の人選にも後くされのないようにと、一応の考慮を払ったことは或る程度認めてもよいでしょう。
しかし裁判長はもとより、多くの判士は陸軍省、参謀本部の課長や課員、部員でありましたから、
穏健、中正の人を選んだ心算とは言え、前述の部の雰囲気を体験した人であります。
そして繁忙な現職の処理、指示のため、屢々自席に帰れば、当然、裁判が周囲の話題になって、
所謂雑音が耳に入ってたことでしょう。
現職関係の上官から、判決を示唆する言辞があったと言うならば、
私は否定する資料をもちません。
次のようなこともありました。
たしかに兵務課からだったと思いますが、模造紙半截位に印刷し、
「 参考、事件関係背後一覧表 」 とか 題したものが配布されたことがあります。
兵務課は軍の軍紀関係事項、従って憲兵隊も管掌していましたから、
多分その方面で作成されたものでしょう。
私は 「 余計なことをする 」 と、例の潔癖から憤慨しましたところ、
石本裁判長から
「 なーに、そうむきになることはないよ。見るだけ見とけばいいじゃないか。
判断は我々自身でするのだから 」
と、たしなめられたことを想い出します。
裁判官たる法務官は、元来検察官と同僚です。
しかも、一般社会に於て検事、判事としているのに対し、法務官は検察官となり、予審官となり、
又 裁判官となるのについては、管轄する長官の命によるものです。
一般に、検察陣の見解に同調的であったとしても、
その経歴からする、ものの考え方の類型性を併せて考慮すれば、
これまた自然のことと謂わなければなりません。
以上のような次第で、或種の圧力があったことは前提してもよいでしょう。
但し大津事件に関して伝えられるような程度の、行政府の裁判官に対する策謀乃至圧迫が、
この際もあったとは、絶対に考えられません。
陸軍当局者は、世の非難に対し、又軍内部の禍根を残すことを虞れて、臆病だったようです。
私たちが慎重評議の結果作製した、第一次裁判の判決理由が、要点を削除して発表されたことは、
私たち裁判官の憤激したところですが、それも、この臆病というか、或は慎重というか、
そのような態度の致す結果であって、非公開のまま判決を申渡した軍法会議としては、
それ以後のことは、法律的に権限の及ぶことではなかったのです。
暗黒裁判か否かを決するのは、最後には、裁判そのものに於ける裁判官の態度一つにかかっていたのです。
「 裁判官は弁解せず 」 という教訓もあるそうです。
軍も崩壊し、軍法会議法も死滅した今日でも、各裁判官の発言、評議の内容などについて、
秘密を守ることは、道義上当然のことでしょう。
しかし裁判進行の様相、裁判官としての心構え、心境を述べることは、
この際元裁判官も認めて下さるだろうと思います。
厚いカーテンをおろしたままでは、揣摩憶測をはびこらせ、誤解不信を増すのみです。
私は、中味を変えていません。
可能な限りに於いて薄いカーテンにとり代えた心算なのです。
・
次の頁 間野利夫判士 手記 2 東京軍法会議 ・ 補註 に 続く
松本清張編
二・二六事件=研究資料Ⅰ
から