あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

西田税 「 家族との今生の別れに 」

2021年08月04日 11時32分49秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)

 
西田税 
獄中の感懐

西田は逮捕されてから、銃殺されるまで約一年半、
陸軍衛戍刑務所に収容されていたが、その間、多くの詠草を残している。

秋深きかの山かげにきのこなど  尋ねし頃のなつかしきかな
母思ひはらから思ひ妹思へば  秋の夕べに風なきわたる
これは死刑を求刑された十月二十二日の日付がある。

越えて十一月十九日の手記には俳句や和歌を書きつけている。
むさし野に雁ないてゆくねざめかな
愚かなるわれ故辛き起伏の  妹を思へばいとしかりけり
悲しみの使徒の如くに老いのこる  母は悲しもひたにおろがむ
これも同じ頃の歌であろう、
母を思い、妻を思う切々たる真情を吐露している。
故郷の母は如何にと恋ひわぶる  ひとやの窓に秋の風吹く
蹌踉そうろうと別れてゆける妻添ひの  母の面影忘れえぬかも
秋風や幸うすきわが妹子が  よれる窓辺の思はゆるかも
妻子らをなげきの淵に沈めても  行くべき道と思はざりしを

この年の十二月四日、監房訪問の際、所長手渡すと付記された紙片に、
次の三首の和歌が書きつけてある。
たはやめのいもが世わたる船路には  うきなみ風のたたずあれかし
ふる里の加茂の川べのかはやなぎ  まさをに萌えむあさげこひしも
神風の伊勢の大宮に朝な朝な  ぬかづけるとふ母をおろがむ

西田は能書家として知られている。
世を慨き人を愁ふる二十年  いま落魄の窓の秋風    天心猛生
西田は遺墨の署名は たいてい 「 天心 」 と 号しているが、
まれに 「 西伯処士 」 とも署名している。
郷里の南東部に広がる平野と、そこに悠大な裾野を広げて聳そびえる山陰一の鐘状火山、
大山 ( 一七一三メートル ) が指呼のうちにのぞまれる。
その地域一帯が西伯郡である。
朝夕大山をのぞんで育った西田は、懐旧の情を托してこの名を号としたものであろう。

かの子等は あをぐもの涯にゆきにけり
涯なるくにを日ねもすおもふ

昭和十一年七月十二日、
青年将校たち十五名が天皇陛下万歳を叫び、
「 みんな撃たれたらすぐ陛下の前に集まろう 」
と 元気よく話しながら、無残に銃殺された日、
少し離れてはいても、
そのかすかな声やざわめきは西田の監房にも響いてきたのであろう。
彼はやるせない思いをこの歌に托した。
終日法華経を誦していたといわれる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

翌十二年八月十日、
東京の弟正尚から、
いよいよ近い内に判決が下るという知らせで、博は内密に上京した。
六十八だというのに、事件以来めっきり衰えのめだってきた母に、
兄の死刑の判決が近いことを知らせるに忍びなかった。
しかし、気配でそれを悟った つね は、
店の仕事を嫁の愛にまかせて
十五日の汽車に乗り、
十六日には陸軍衛戍刑務所の面会所に現われて、みんなを驚かせた。
税は急に衰えのめだった母に気をつかい、
「 お母さん、泣けるだけ泣いて下さい。
汽車の別れでさえつらいものですのに、
いよいよ お母さんとは幽明境を異にするわけです。
どうか泣けるだけ泣いて下さい 」
と 言って自分の袂からハンカチをとり出して、母の手に渡した。
しかし、つね は 泣かなかった。
昔の武士の母のように端然として、
言葉少なに返事しながら、眸ひとみは食い入るようにわが子の顔をみつめていた。
「 十五日から十八日まで、母を先頭に初子、姉弟 それに同志の人々は、
毎日 面会に通いました。
しかし、すでに生きながら、涅槃の境に這入っていた弟から、
かえって面会にきた私たちが慰められ、激励されて泣くことが多かったのです 」  ( 村田茂子 )
「 十八日面会に行ったら、兄はきれいな頭を剃っていた。
それを見た瞬間、死刑は明朝だと知った。
スーと頭から血がひくように感じた。
涙がとめどなく出て止まらない。
兄が慰めるように 『 正尚、こんな句はどうだ。夏草や四十年の夢の跡 』 と言った。
『 兄さん、それは 』 と、言ったまま絶句した。
芭蕉の焼き直しですよとは言えなかった。
泣いている弟をいたわる死んで行く兄の最後のユーモアだったとは、
ずっと後に気がついた 」 と、これは末弟正尚の追想である。
また 家にいる博には、米子弁まるだしで、
「 昔から七生報国というけれど、わしゃもう人間に生れて来ようとは思わんわい。
こんな苦労の多い正義の通らん人生はいやだわい 」 ( 村田茂子 )
と、しみじみ語った。
この頃は、もう一ケ月も前から日支事変が起きており、
いよいよ戦火が拡大してゆく様相を示していた。
獄中の西田もこれをよく知っていた。
「 軍閥が政権をにぎったから、もう駄目だ。
奴らはこんな大きな戦争を起して、後始末に困るだろう。
自分で始めたんだから自分の手で始末をつけねばならん。
それが奴らのような下積みの庶民の心を踏みにじる奴にはようできんだろう。
元も子もなくしてしまう馬鹿な奴らだ 」 ( 西田愛 )
と 吐きすてるように話していた。
その後の経過は彼の予見どおり、ついに日本を滅ぼす破目になってしまった。
初子や博に自分の形見分けの品物をさしずしたあと、
涙をうかべている肉親の顔を脳裏に深く刻みこむように、
一人一人、じっと見つめながら
「 こんなに多くの肉親を泣かしてまで、こういう道に進んだのも、
多くの国民がかわいかったからなのだ。
彼らを救いたかったからだ 」
と 言って、金網越しに暖かい自分の手を一人一人に握らせ、握りかえしていた。    ( 村田茂子 )
死刑執行の近いことを知った西田は、
十五日には最も親しく信頼している姉茂子に、
十六日には妻初子に、それぞれ遺言状を書き残している。
初子にあてた手紙は、 « 西田はつ 回顧 西田税 3 あを雲の涯 » を参照

ここでは姉茂子にあてた遺言状を紹介する。
平素の修練未熟、玆に非常の場合に立ち到り、
嘸々さぞさぞ御驚嘆の御事と恐察、不悌、何とも申訳無之次第に御座候。
只本年春御上京、御面謁の砌 みぎり、一応申述候通り、何事も天命時運、
此度の儀も、私境涯に於て止むを得ざるに出でたものにして、
又 一面より見れば、好個過分の天与の死所死機なりしものに有之候。
然る処、七十年辛労の後、又復 今日のことに遭会して、老母の心中如何なるべきか。
断腸此事に候。
願くば此上とも姉妹兄弟、相和し 相依り、
夫々康福奉養、老母の残年をして更に心安からしめ給はむことを。
初子は小弟十二年来の真個の好半身、宿縁の愛妻、誠に不憫に堪えず候。
殊には同じき未亡の涯分、何卒私とも思召されて、修正後愛撫御懇情相願度候。
後事要々の件は夫々申残し候。
諸般について、初子 博 等より伝達せしむべく候。
本日は故秀善兄の御命日に当り候。
万懐殊更に深きもの有之候。
姉上様には、故兄の遺児の為に至重の御身、何卒一層御自愛御健祥にて、
一家御繁昌の程奉祈上候。
私、何事も貢献する所なくして終り、故兄に対しても慚愧此事に候。
御詫申上候。
万懐、滾々こんこんとして尽きず候も、如何ともするなし。
是れにて生前最後の御訣れ申上候。    泣血頓首
昭和十二年八月十五日        税
御姉上様  膝下
白い封筒の裏には 「 於東京衛戍刑務所  西田税 」

表には 「 村田しげ子様 」 とあり、西田の処刑後、刑務所の係官から本人に手渡された。

十七日には

「 残れる紙片に書きつけて贈る 」 として 「 最後によめる歌八首 」
を 書き残している

限りある命たむけて人の世の  幸を祈らむ吾がこころかも

あはれ如何に身は滅ぶとも丈夫の  魂は照らさむ万代までも

国つ内国つ外みな日頃吾が  指させし如となりつつあるはや

ははそばの母が心腸はらわた  断つ子の思ひなほ如かめやも

ちちのみの父らまち給ふ風きよき  勝田ケ丘のおくつき所

うからはらから世の人々の涙もて  送らるる吾は幸児なりけり

君と吾と身は二つなりしかれども  魂は一つのものにぞありける

吾妹子よ涙払ひてゆけよかし  君が心に吾はすむものを

・・・須山幸雄著  西田税 二・二六への軌跡 から


西田税 ・ 母 つね 「 世間がいかに白眼視しても、母は天寿を完する 」

2021年08月03日 11時28分22秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


西田税 

判決の知らせを聞いた実母つねの心境

税が大変世間を騒がせて相すみませんでした。
税は
少年時代から全然変わった子供で
絶対に無口で必要以上の口をきかず
啓成校から米中に進み広島幼年学校入り
陸士に進んで 騎兵少尉となりましたが
どうしたものか 突然兵籍を脱してしまひ
大正十三年か大正十四年四月三日の夜
郷里を発って東京へ行ったのでした。
思へばこの時 既に
税の心中には大きな変革が起こってゐたのでせう。
何故兵籍を脱したか本人以外は誰も知らずにゐたのでした。
税が今日のやうになったのは長兄英文の感化によるものと思ひます。
英文は米中卒業後病のため充分成績をあげることができなかったのを悲しみ
税だけは自分の代わりに思ひ通りに教育させてくれといひ
一切英文が独断で幼年学校にも入れたものでした。
その英文は二十一で死亡したのですが
その時の遺書に
「 自分は病気で斃れたが税はきっと天皇の御役に立つでせう 」
と ありました。

税には昨年十月面会したが委しいことは語ってくれず
「 いかなることがあっても決して驚いてはならぬ 」
と いったので
私も
「 お前の気持ちはよく知っている
世間がいかに白眼視しても母は天寿を完する 」
と 申し渡しておきました。
本人は兄の遺志を体して御国のためにやったでせうが
税のしたことは果して国家のためだったでせうか。
税の心中を思ふと私の心も乱れ勝ちです

因伯時報 ( 昭和12年8月16日付 )


西田税 ・ 悲母の憤怒

2021年08月02日 11時24分27秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


西田税

悲母の憤怒

昭和十二年八月十九日、
午前五時三十分、
西田税は
東京代々木の陸軍衛戍刑務所内に特設された執行場において銃殺された。
行年三十七歳。
北一輝、村中孝次、磯部浅一 といっしょである。
同日朝、死刑執行を言い渡した塚本刑務所長に対して、静かにこう言っている。
「 大変お世話になりました。ことに病気のため、非常に御迷惑をかけました。
入院中、所長殿には夜となく、昼となく忙しい間を御見舞 ( 刑務所註、主として勤務監督なるも見舞と見て感謝す )
に 来て下さりまして、感謝に外ありません。
現下陰悪なる情勢の中の御勤務で、お骨折りですが、折角気を付けて御自愛を祈ります。
皆様によろしく 」
いよいよ刑架前にすわると、
看守に対し
「 死体の処置をよろしくお願いします 」
と、落ちついた態度で撃たれたのである。

北、西田の両家は、処刑の前の晩から、
北家の応接間に合同で祭壇を設け、両人の写真をかざり、たくさんの生花と茶菓を供え、
みんな喪服に着がえて祭壇の前に座った。
北家では、一輝の母リク、妻すず子、養子大輝、
西田家では、母つね、妻初子、長姉由喜世、次姉茂子、弟博、正尚、
その他両家の親戚の人々、
岩田富美夫、中野正剛ら同志の人々
が、六十人余りつめかけ、刻一刻と死期の迫る獄中の北、西田を思って一睡もしなかった。
中でも とりわけ西田を敬愛し、期待し、信頼していた母親のつねは、
平静に座しているものの胸中には あふれるばかりの憤怒の炎があった。
  夜もすがらありし昔の思ひ出を
  くり返す間も夜半の秋雨
と、この夜あけに詠んでいる。

朝六時すぎ、
「五時五十一分絶命されました 」
と 憲兵が知らせにきた。
一同は つね を先頭に、衛戍刑務所さしまわしの車で、遺体の引取りに向った。
門前に新聞社の人が数人つめかけていたが、入門できないでいた。
一同は刑務所の裏門から入ったが、
刑務所側はひどく敬意のこもった態度で、丁重に遺族たちを迎え入れた。
数人の僧侶が静かに読経するなかで、遺族たちはそれぞれの肉親に最後の対面をした。
西田は平素とかわらない静かな表情をしていた。
額の銃弾のあたった所は白布で巻いてあったが 血がにじんでいた。
手は縛られた跡もなく、清潔に身体をふいて、白衣を着せ、
寝棺の中にていねいに納められていた。
係官は御遺体に不審な所があれば何でも聞いて下さいと、
弟の博に言ったが不審な所はなかった。
妻の初子は、
「 額の血が流れて顔にかかっていたので拭おうと思ったけれど、
女の体はけがれているようで、気後れがして、とうとう手をふれませんでした 」
と 語っている。 ( 『 妻たちの二・二六事件 』 ) ・・・リンク→西田はつ 回顧・西田税 (三) あを雲の涯
刑務所の中でも、火葬場に向う車の中でも、
つね は一言も口をきかず 一滴の涙も流さなかった。
必死に堪えている風であった。

落合の火葬場では
村中、磯部、北、西田 四名の遺骸を一度に焼いたが二時間で終った。
ここにも同志の人々が四、五十人供をしてきて、
お骨を拾わして下さいといって、まだ熱い遺骨を競うようにして 丁寧に拾った。
西田の遺骨は分骨して、
東京に残す箱は妻の初子が、郷里の墓地に埋葬する箱は弟の博が捧げもって、
北家にひきあげたのはもう昼すぎであった。

北家の応接間の祭壇に安置された 北、西田の遺骨に香をたいていた つね は、
黙然としてしばらく座っていたが、突然 伏して腸はらわたをふりしぼるようにして泣いた。
堪えに堪えて、堪えぬいた涙である。
かたわらで黙ったまま、頬をつたう涙をぬぐっていた中野正剛は、
つね のやせた肩に手をかけて
「 お母さん、泣かれる気持はわかりますが、泣いてはいけません。
貴女は後世に名の残る子供を生んだお方です。
不肖 中野が生きている限り必ず西田君を世に出します。 絶対に出してみせます 」
と、力強い声で慰めた。
しかし、その中野正剛も、
それから六年後の昭和十八年十月二十七日、

時の首相 東條英機の圧政に憤怒し、
悲壮な割腹自殺をとげたことは周知のとおりである。
…リンク→落日の序章 ・1 『 中野正剛の自刃 』

最愛の子を、
しかも無実の一庶民を法をふみにじって銃殺した陸軍に、
つね は やり場のない憤怒をいだいたであろうことは想像にかたくない。
  一九いく空の東こちも南も晴れよかし  命捧し北と西田に
  蓮の葉にしばし宿りし玉露も  一九夜をまたで法のりのうてなに
この日、
つね は こう詠んでわが子の霊前にささげた。
田舎町の仏具商の未亡人としては、ずばぬけた教養と識見の持主であった。
これは必死の思いを歌に托し、
とおい虚空のわが子の霊によびかける悲母の歎きであった。
  老ぬればいつか嵐の誘ふらん  逝きしみたまに逢ふもなつかし
この時、つね は 六十八歳、
余命は永らえたくはないが 非業の死を遂げたわが子を思うたびに、
断腸の思いにかられては歌を詠んだ
  初雪や胸のつららの夢思ひ  いつかはとけん老のからだに
しかし、つね の憤怒の思いはついに溶けることなく、
昭和十七年八月十四日、七十三歳でこの世を去った。
「 母の口惜しさは、年ごとに強まったように思います 」
と、村田茂子は ある日の つね の思い出を語る。
日支事変が膠着状態に陥った頃だから、昭和十三・四年頃であったろうか。
ある日、後続の妃殿下が伊勢神宮にお詣りになった。
婦人会の幹部であった茂子は、奉迎準備にかり出されていたが、
おりから遊びに来ていた母を、一目拝ませてやろうと、飛んで帰った。
「 妃殿下がもうすぐお着きですよ、一緒に拝みましょう 」
と、声をかけたが、つね は 返事をしない。
二度目の催促に
「 わしゃ行かん、見たくもない 」
と、顔を真赤にして吐きすてるように言った。
つね は 若い時から皇室崇敬の心は篤く、
新聞に出た皇室の写真すら、下におかないように子供たちに言い聞かせていた。
その昔の母の姿を思い浮べ、茂子は 今更のように、
母の心の傷跡の深さを知った。

須山幸雄著  西田税 二・二六への軌跡 から


あを雲の涯 ・ 二十二烈士

2021年07月27日 09時48分10秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


かの子等は
あをぐもの涯にゆきにけり
涯なるくにを日ねもすおもふ
                        ・・・西田税

あを雲の涯

二十二烈士
目次

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       01 
あを雲の涯 (一) 野中四郎
      02 
あを雲の涯 (二) 香田淸貞 
       03 あを雲の涯 (三) 村中孝次 
         04 あを雲の涯 (四) 磯部淺一 
         05 あを雲の涯 (五) 安藤輝三 
        06 あを雲の涯 (六) 澁川善助 
         07 あを雲の涯 (七) 河野壽 
        08 あを雲の涯 (八) 竹嶌繼夫 
        09 あを雲の涯 (九) 栗原安秀 
       10 あを雲の涯 (十) 對馬勝雄 
      11 あを雲の涯 (十一) 中橋基明 
  12 あを雲の涯 (十二) 丹生誠忠 
    13 あを雲の涯 (十三) 坂井直 
      14 あを雲の涯 (十四) 田中勝 
       15 あを雲の涯 (十五) 高橋太郎 
   16 あを雲の涯 (十六) 安田優 
    17 あを雲の涯 (十七) 中島莞爾
   
18 
あを雲の涯 (十八) 林八郎 
 19 あを雲の涯 (十九) 水上源一 
  20 あを雲の涯 (二十) 相澤三郎 
    21 あを雲の涯 (二十一) 西田税 
   22 あを雲の涯 (二十二) 北一輝

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あを雲の涯 (一) 野中四郎

2021年07月25日 09時41分22秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


天壌無窮

遺書

迷夢昏々、萬民赤子何の時か醒むべき。
一日の安を貧り滔々として情風に靡く。
維新回天の聖業遂に迎ふる事なくして、曠古の外患に直面せんとするか。
彼のロンドン會議に於て一度統帥權を干犯し奉り、又再び我陸軍に於て其不逞を敢てす。
民主僣上の兇逆徒輩、濫りに事大拝外、神命を懼れざるに至っては、怒髪天を衝かんとす。
我一介の武弁、所謂上層圏の機微を知る由なし。
只神命神威の大御前に阻止する兇逆不信の跳梁目に余るを感得せざるを得ず。
即ち法に隠れて私を營み、殊に畏くも至上を挾みて天下に號令せんとするもの比々皆然らざるなし。
皇軍遂に私兵化されんとするか。
嗚呼、遂に赤子御稜威を仰ぐ能はざるか。
久しく職を帝都の軍隊に奉じ、一意軍の健全を翹望して他念なかりしに、
其十全徹底は一意に大死一途に出づるものなきに決着せり。
我將來の軟骨、滔天の氣に乏し。
然れども苟も一剣奉公の士、絶體絶命に及んでや玆に閃発せざるを得ず。
或は逆賊の名を冠せらるるとも、嗚呼、然れども遂に天壌無窮を確信して瞑せん。
我師團は日露征戰以來三十有余年、戰塵に塗れず、
其間他師管の將兵は幾度か其碧血を濺いで一君に捧げ奉れり。
近くは満洲、上海事變に於て、國内不臣の罪を鮮血を以て償へるもの我戰士なり。
我等荏苒年久しく帝都に屯して、彼等の英霊眠る地へ赴かんか。
英霊に答ふる辭なきなり。

我狂か愚か知らず
一路遂に奔騰するのみ

昭和十一年二月十九日
於  週番指令室
陸軍歩兵大尉 野中四郎


野中四郎  ノナカシロウ                
陸軍歩兵大尉
歩兵第三聯隊第七中隊・中隊長
明治36年10月27日生  昭和11年2月29日 自決
陸士第36期生
陸軍少将 野中勝明の四男


野中大尉・自決直前の遺書
實國國父勝明ニ對シ 何トモ申シ譯ナシ
老來益々御心痛相掛ケ罪 萬死に價あたい
養父類三郎、養母ツネ子ニ對シ嫡男トシテノ努メ果サス 不孝ノ罪重大ナリ
俯シテ拝謝ス
妻子ハ勝手乍ラ 宜シク御頼ミ致シマス
美保子 大変世話ニナリマシタ
◎ 貴女ハ過分無上ノ妻デシタ
然ルニ 此ノ仕末御怒り御尤モデス
何トモ申シ譯アリマセン
保子モ可愛想デス    カタミニ愛シテヤツテ下サイ
井出大佐殿ニ御願ヒシテ置キマシタ

歩三、歩一  位置図

[ 野中さん ]
ビルディング式の歩兵第三聯隊の兵営に、一寸目につかぬ低地がある
営門を這入ると、
西はずっと開けて青山墓地が見渡され、右手はあの巍然たる建物である
だから営門を這入るや直ぐその左手に、
こんな低地があろうとは余程勝手を知ったものでなければ、わかる筈がない
桜の老樹の植わった台端から斜に径を下りると、その低地に陰気くさい、
三十坪程の平家があり、入口には将校寄宿舎と書かれた木札がかかっている
若い青年将校の独身官舎で、兵営内でもおのずから別天地をなしている
昼間はひっそりとして誰もいないが、夕食が済む頃になると、俄然賑やかとなる
廊下を通る足音で、直ぐかれは誰だと判断がつくほど、みんな親しい仲である
隊務にかまけて草むしりなど一向に気づかぬ連中とて、
この宿舎の近辺はと角雑草が伸びがちだが、
中にたった一人、日曜等の暇をみては、
誰にも云わず黙々と、この伸びた雑草を片づけている人があった
年長者の野中という中尉で、かれは滅多に外出することもなかった。
そして居住室の誰からも、「野中さん」 「野中さん」 と 尊敬されていた
・・新井勲著 日本を震撼させた四日間 から

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あを雲の涯 (二) 香田淸貞

2021年07月24日 09時35分14秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


遺詠
ひたすらに君と民とを思ひつゝ
  今日永へに別れ行くなり
  昭和拾壱年七月十二日
  丗四才  香田淸貞

父への遺詠
殊更に笑ひたまへる父君の
  心の中ぞおし計られけり
  昭和拾壱年七月十一日
  長男  香田淸貞


妻への遺詠
ますらおの猛き心も乱るなり
  いとしき妻の末を思へば
我を我とて育て上げけり諸共に
  いとしき妻の力なりけり
  昭和拾壱年七月十二日
  夫  香田淸貞


香田淸貞  コウダ キヨサダ
陸軍歩兵大尉
歩兵第一旅団副官
明治36年9月4日生    昭和11年7月12日銃殺
陸士第37期生  村中孝次、大蔵栄一、菅波三郎 は同期


妖雲未霄萬民
憂赤誠未通而
殉大道
南無妙法蓮華經
昭和拾壱年七月十二日    香田淸貞

「 わたしは生死を超越する修練には随分苦労しました。
日蓮宗を信仰しましたし禅にも入門しました。
しかしどれにも生死の問題を解決することができませんでした。
ところが、ここに入ってわずかしかたちませんが、
不思議と生死の問題を解決し得たように思います。
わたしは野中亡きあと同志の先任者となっていますので、
彼らとともに立派に死んでいける自信がありますから、
この点はどうか安心して下さい 」
・・・大谷啓二郎著 二・二六事件  から

南無妙法蓮華經
蹶起ノ主意
一、蹶起ノ主意書ニ示セル通リナルモ或ハ傳ハラサラン、
 大意ハ天日ヲ暗クスル特権階級ニ痛棒ヲ與ヘ、國体ノ眞姿ヲ顕現シ、
國家ノ眞使命ヲ遂行シ得ル態勢ニナサンコトヲ企図セルナリ。
二、行動ノ概要
二十五日夜ヨリ二十六日朝ニ亙リ、歩一第十一中隊ニ在リテ諸準備ヲナス。
二十六日午前四時三十分、首相官邸ニ於テ大事決行中ノ栗原部隊ヲ横ニ見ナガラ、
陸相官邸ニ至リ陸相と会見、上部工作ヲナス。
正午過、陸軍大臣告示ヲ山下少将ヨリ伝達ヲ受ク。
二十六日夜、宮殿下ヲ除ク軍事参議官全員ヲ集メ交渉ヲナス。
同夜ハ同邸ニ在リ。
二十七日、戦時警備令下令セラレ其ノ部隊ニ入ル。

次イデ戒厳令下令セラレ同部隊ニ入リ、小藤大佐指揮官トナリ、
 麹町地区守備隊トナリ完全ニ皇軍トシテ認メラレル。
二十七日 午前、戒厳司令部ニ至リ司令官ニ交渉セリ。
二十七日夜、陸相官邸ニ於テ、真崎、西、阿部ノ三大将ト交渉ス。
二十七日夜ハ、小藤支隊命令ニヨリ宿営ス。余ハ鉄相官邸ニ宿営セリ。
二十八日、陸相官邸ニ至ル。午前九時頃第一師団司令部ニ至リ、第一師団長ト交渉ス。
二十八日夜ハ山王ホテルニ在り。
二十九日同ジ。
二十九日正午過、陸相官邸ニ至リ、午後六時頃代々木ニ至ル。
三、奉勅命令ハ誰モ受領シアラズ。
四、安藤大尉ハ維新ノ大詔ノ原案ヲ示サレタリ。
五、軍幕僚並ニ重臣ハ、吾人ノ純真、純忠を蹂躙シテ権謀術策ヲ以テ逆賊トナセリ。
六、公判ハ全ク公正ナラズ、判決理由全ク矛盾シアリ。
七、父ハ無限ノ怨ヲ以テ死セリ。
八、父ハ死シテモ国家ニ賊臣アル間ハ成仏セズ、君国ノタメ霊魂トシテ活動シテ之ヲ取リ除クベシ。
 昭和十一年七月十一日
 父  香田淸貞
 清美殿
 茂  殿
子供等ヨ、母上ノ云フ事ヲヨク聞キ、立派ナ人ニナッテ呉レ。
父ハオ前等ノ父トシテ、決シテ恥カシクナイ父デアルゾ。
母上ヲ大事ニ孝行ヲシテ呉レ。
< 註 >  この遺書は処刑前日、
最後の面会の際、家族にひそかに手渡されたものである。
・・二・二六事件 獄中手記・遺書 河野司 編 から

呈  忠勝
南無妙法蓮華經
昭和十一年七月十一日
一人ノ兄  香田淸貞

泣くな
悩むな
与愛之妻  冨美子
南無妙法蓮華經
昭和十一年七月十一日
全霊ヲ以テ愛セシ夫  香田淸貞
氣に病むな
吾は御身と
共に在り

与妹  清野
南無法蓮華經
昭和十一年七月十一日
一人ノ兄  香田淸貞

國體擁護者
臣子之大道也

母ニ仕ヘテ至孝ナレ
与吾愛子  茂  常ニ母ガ血ニ泣キシ苦労ヲ思ヘ
南無妙法蓮華經
昭和十一年七月十一日
汝ガ厳父  香田淸貞

八紘一宇者
祖宗之遺訓也

母ニ仕ヘテ至孝ナレ
常ニ母ガ血ニ泣キシ苦労ヲ思ヘ
与吾愛子  清美
南無妙法蓮華經
昭和十一年七月十一日
汝ガ慈父  香田淸貞

天ニ仕ヘテ貞女タレ
夫婦ノ和合ハ國家興隆ノ基
 ( 以上ハンカチ五枚 ) 

最愛の妻の苦労を思ふ時
猛き心も千々にしだしる
『 苦しさも 共にしのばん 
  國のため只誠ある  道をまもりつゝ

  昭和十一年七月十一日  冨美子 』
御主人様
何事も國のためなり
いざ
共に 誠の道にいそしみ行かん

 ( 以上妻の手紙に認めあり )

殊更に笑ひ
たまへる父君の
心の中ぞ
おし計られけり
昭和十一年七月十一日
長男  香田淸貞

子供まで
まうけし身にて
母上に
甘へ甘へて
甘へ通せり
昭和拾壱年七月拾弐日
長男  香田淸貞

すこやかに玉の
子供を産めよかし
子供に優る
宝はなし
昭和十一年七月十二日
兄  香田淸貞

我を我と育て上げけり 諸共に
  いとしき妻の力なりけり
ますらおの猛き心も乱るなり
  いとしき妻の末思へば
身はたとい歸らぬ旅に上れ共
  心は常に汝か邊にあり
子供等は我が身の代り 悲しくば
  子供を抱け我が身と思ひて
昭和十一年七月十二日
夫  香田淸貞

父上様  皆様
最後ノそばハ實ニうまかつた
父上様
不肖ハ父上様ノ
子供ニ恥ヂナイト云フ自信ヲ以テ
死ニマシタ
昭和十一年七月十一日
香田清貞


非理法權天
至誠貫徹
盡忠報國
爲子供等  昭和拾壱年七月十二日
 父  香田淸貞

呈  義雄様
非理法權天
昭和拾壱年七月十一日
香田淸貞

呈  向様
至誠通天
昭和拾壱年七月十一日
香田淸貞

非理法權天
至誠通天
  昭和拾壱年七月十一日
  香田淸貞

呈  岡末夫之妻
昭和拾壱年七月九日  香田淸貞
一家和合者國
家興隆之基也
家門之繁榮者
忠道之果也
南無妙法蓮華經

冨美子
泣クナ  悩ムナ 氣ニ掛ケルナ
強ク雄シク 子供等ニ生キヨ
一念ヲ思ハバ
即チ 余ハ常ニ汝ノ心ノ中ニ
嚴然トシテ生キテアリ
南無妙法蓮華經
昭和拾壱年七月九日
香田淸貞

呈  吉原の 伯母様
死生天命
死而護國ノ神ト爲ルベシ
昭和拾壱年七月十一日
香田淸貞

呈  垂井君
昭和拾壱年七月九日  香田清貞
國體之擁護者臣子之
大道也八紘一宇者
祖宗之遺緒也男児須參
大道一誠以計國家之興隆
南無妙法蓮華經

捧  岡沢家
我がためにみまかりにし
岡澤を
涙にぬれて伏し拝みけり
至誠震撼天地
ひたすらに君と民とを思ひつゝ
今日永へに別れ行くなり
昭和拾壱年七月十二日
香田淸貞
( 以上 白紙一六枚 )

國體之擁護臣子之大道也
八紘一宇者祖宗之遺訓
昭和拾壱年七月十二日
三十四才  香田淸貞

ひたすらに君と民とを思ひつゝ
今日永へに別れ行くなり
昭和拾壱年七月十二日
丗四才  香田淸貞
( 以上 唐紙二枚 )


父の最期の菓子だ
喰べよ子供等 
昭和拾壱年七月十二日

父  香田淸貞

或る看守が私達に香田さんの夫人との面会の様子を話してくれた。
香田さんは面会を終って部屋の中に入るなり、手で顔を掩って泣きくずれたそうである。
残された家族の苦しみを思うとき、まさに断腸の思いであったのであろう。
・・・池田俊彦 著  生きてる二・二六  から

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あを雲の涯 (三) 村中孝次

2021年07月23日 09時26分09秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


嗚呼十有五烈士
懐十五士涙潸々  放聲
名尚如存
噫周日前臨刑晨  唱和國歌祈聖壽
皇城頭期爲一魂  從容就死鬼神泣
遠雷砌獄舎漸昏  宛似英魂呼両人
昭和十一年夏

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
蹶起将校の公判が始まった四月二十八日から七月十二日の処刑まで、
看守たちに涙雨といわれたほど多かった雨も、
処刑が終ると手の平をかえすように上がって天気がよくなった。
が 詩にあるように一日 突如黒雲低く垂れて天地晦冥、
ただでさえ暗い監房のうちいよいよ暗くなるとみるまに、

獄舎の屋根瓦をかきむしるような落雷をまじえた豪雨になって、
稲妻の閃光が縦横に房内を駈けめぐったことがある。

それは処刑日からかぞえて、初七日にあたる日のことだったのである。
初七日と知っていた村中孝次は 「 死而為鎮護国之忠魂 」 と大書して、
その前に端座し、
処刑十五士のために法華経を誦していた。
天気が急変したのは、ちょうどその法華経第二巻を誦しおわったころだったという。

村中孝次はこのとき、十五士のうちの一人が、しばらく湯河原で避暑し、
一週間後に東京へ帰ってきて活動を開始するといっていたことを思いだし

「 十五士雷雲に乗じて帰り来たる 」
と感応して
「 嗚呼十有五烈士 」 の詩を口吟したという

・・・末松太平著 私の昭和史 から 


村中孝次  ムラナカ タカジ
陸軍歩兵大尉
昭和10年 「 粛軍に關する意見書 」を発表、免官
明治36年10月3日生  昭和12年8月19日銃殺
陸士37期生 香田淸貞 大蔵榮一 菅波三郎 と同期


死而化鎭護國家之忠魂

一、嗚呼 十有五烈士
十五士ヲ憶ヒ 涙潸々タリ
聲ヲ放ッテ名ヲ呼ベバ 尚存スルガ如シ
噫 周日前刑ニ臨ムノ晨
國歌ヲ唱和シテ聖寿ヲ祈ル
皇城ノ頭一魂ト爲ルヲ期ス
從容死ニ就キ鬼神泣ク
遠雷砌ニシテ獄舎漸ク昏シ
宛モ英魂ノ兩人ヲ呼ブ二似タリ

七月一九日、今日は香田兄等十五士の初七日なり
午前入浴場より刑場を見る
十一月事件にて入所中、毎日運動をなせる刑務所東北角の一隅なり
以前と趣を異にして赤土が堆まれあり、
 噫 相澤中佐 外 十五士の鮮血はこの赤土に濺がれあるか
夕刻遠雷砌りになり四邊暗澹たり、即ち一詩を賦して口吟微吟して悲しむ
嗚呼盡忠無私、至情純情、十五士今や亡し
然れども余には呼べば答へる感をなさしむ

七月十二日を想起するに、涙新なるものあり
余と磯部氏とは全夕、同志と一緒なりし獄舎より最南位にある一新獄舎に移さる
十二日朝、十五士の獄舎より國家を齊唱するを聞き、次いで萬歳を聯呼するを耳にす
午前七時より二、三時間軽機關銃、小銃の空砲音に交りて、拳銃の實包音を聞く
即ち死刑の執行なること手にとる如く感ぜられる
磯部氏遠くより余を呼んで 「 やられてゐますよ 」 と 叫ぶ
余 東北方に面して坐し 黙然合掌
噫  感無量
鉄腸も寸断せらるるの思あり
各獄舎より 「萬歳」 「萬歳」 と叫ぶ砌りに聞ゆ
入所中の多くの同志が、刑場に臨まんとする同志を送る悲痛なる萬歳なり
磯部氏 又叫ぶ
「 私はやられたら直ぐ血みどろな姿で陛下の許に參りますよ 」 と
余も 「 僕も一緒に行く 」 と 叫ぶ
嗚呼 今や一人の忠諌死諌の士なし
余は死して維新の招來成就に精進邁進せん

後に聞く
この朝 香田兄の發唱にて 「君が代」 を齊唱し、
 且 「 天皇陛下萬歳 」 「 大日本皇國萬歳 」 を 三唱したる後、
 香田兄が
「 撃たれたら直ぐ陛下の御側に集まらう。爾後の行動はそれから決めやう 」
 と 言ふや、
 一同意氣愈々昂然として不死の覺悟を定め、從容迫らず些かも亂れたるなく、
 歩武堂々刑場に臨み刑に就きたりと
今や 「 死而爲鎮護國之忠魂 」 と 大書したる前に端座して、
 十五士の爲め法華經二巻を讀誦し終るや
 遠雷変じて閃々たる紫電となり、豪雨次いで沛然たり
十五士中一人が
 「 暫らく湯河原で避暑し、一週間後に東京に帰って活動を開始しやう 」 
 と 言ひたりといふ
十五士雷雲に乗じて帰り来るか
前詩を口吟して英魂を慰めんとするに涙又両頬を伝って声を發する能はず

 昭和11年7月19日 村中孝次 大尉
 丹心録から


 遺言
一、維新ノ爲メニ戰フコト四周星  今信念ニ死ス
 不肖ノ死ハ即チ維新斷行ナリ
男児ノ本懐事  亦何ヲカ言ハン
一、不肖等ハ武力ヲ以テ戰ヒ勝ツベキ方策ハナキニアラザリシナリ
 敢テコレヲ爲サゞリシハ不肖等ノ國体信念ニ基クモノナリ
身ヲ殺シテモ  至尊ヲ強要シ奉ルガ如キコトヲ慾セザリシニヨル
一、今後ニ於ケル静子及法子ノ身上及生計ニ關シテハ
 村中宇野両家ノ親戚一同ノ後髙庇に俟ツ       (マツ)
コノ事ハ慎ミテ千願万望シ奉ル
一、事ニ當リ 成ルベク静子ノ自由意志ヲ尊重セラレタシ
一、静子及法子を速カニ分家セシメラレタシ
一、遺品ノ處分ハ静子ニ一任ス
一、從來ノ運動ニ關スル文章類ハ成ルベク保存ヲ望ム
一、法子ノ恙ナキ生長ヲ祈ル                 (ツツガナキ)
 余りニ重大ナル希望ヲカケ過重ノ負担ニ苦シムガ如キ結果に陥ラザル様注意セラレヨ
一、静子及法子ニ対シテハ生前全ク盡ス所ナシヲ謝ス  (ツクス)
 今後精神的ニ朗カニ気樂ニ暮ス様祈ル
 右遺言ス
 昭和十一年七月十一日
 静子殿
 親戚御一同様



静子殿        孝次
一、四年余の契りは餘りにも短くはかないものだつた。
 而もこの四年の日子は殆ど國事に全努力を傾倒して家を顧みず、君を忘れたかのやうであつた。
君と樂しみ落付いて暮した日時、十指を屈するにも足りない位であらうか。
幾度か居所をかへ境遇は幾變遷した。
君は辛酸苦勞を嘗めるために僕に嫁した様なものだつた。
一、顧みて何の辭を以て君に謝してよいかわからない。
 僕一個は本懐を遂げて死ぬので、
 未だ生きる丈生きて國家國民のために盡したいのは勿論だが
尚以て冥すべし。
未だ若い君をして永い將來を寡婦として過ごさせる始末になつたことは、
 實に言ふに忍びない悲痛な思ひで、
 君をこの悲惨な境遇に陥入れたことについては
何とも謝すべき言葉がない。
運命と思って呉れ給へ。
一、四年半の間よく盡して呉れた、君の温かい勝れた優しい人格につゝまれて、
 非常な悲境と困難な苦闘の中にあつてよくこれに打ち克つことが出來た。
今回の事件を世に誇り得る時機が來たならば、これに与つた僕の功績の一半は君に捧げる。
僕は元來非常に憂鬱な性であつたが、君と一緒になつて以來人生を樂しむことが出來た。
僕が國事に奔走して家を忘れてゐたのは、君や法子を愛してゐないからだと思ふかも知れない。
僕は君が非常に好きだつた。
君を何人よりも愛してゐる。
ただ僕の性格としてそれを殊更に表現しなかつた。
僕は夫婦愛といふものは淡々として而も離れ難いものだと思つてゐる。
愛情を表現し合はなければ相互の情意が通じない様では、
未だ夫婦一體の道に達してゐないものであると思ふ。
僕は夫婦は一體と思ひ、その一體観は得てゐる様に思つてゐる。
それは愛といふもの以上であらう。
(中略)
僕が愛情を特に表現しなかったので、君は不満に思つてゐたかも知れないが、
僕の夫婦一體観の信念と又僕が殊更にその様な表現をすることを好まぬし
さういふ術にも疎い男だつたことを理解して、諒として貰ひ度い。
君を熱愛してゐることは僕の爲はらぬ情だ。
今國事に奔走して家を離れてゐても、
維新成就の暁は早く身を引いて共白髪を楽しみたい
と常日頃思つてゐた。
今や空し。
生前何等君に盡さず苦しい悲しい思ひをさせることのみだつたが、
死後は必ず君と法子とのためにつくす。
僕の霊魂は君の體内に生きて行く。
維新のため國家のためにつくさんとする精神は、同志一體魂の中に生きて、
必ずや維新の實現を見るであらう。
又 救世濟民の念願を果たさなければ斷じてやまない。
が、僕の霊魂は君の體内に宿る。
未來永劫に一緒でゐやう。
君に宿ることによつて法子の將來を護つて行かう。
僕の夫婦一體の信仰を信じて呉れ給へ。
一、百萬言を費やすも意を盡す能はず。 察せられよ。
 今後二、三年の辛酸に堪へられよ。
世人が決して遺族を放置するが如きことなかるべし。(以下略)
  とも白髪たのしむ日まで國のため
  盡さばやとて家を忘れき

二月二十五日、夫は菅波三郎の家へ行くと言い
「 しばらく留守にするからね 」 と言いおいて出かけて行った。
いつもの小旅行と同じさりげない様子であった。
しかしその二、三日前、夫人に貯金通帳と生命保険の証書を出させ、黙って見ていた。
この日、出かける支度が整ってから、村中は座敷に坐り込み、立ちがたい風情で、
「僕は陛下のお光を妨げる者を芟除するのがつとめと考える。
自分としてはそうしか生きようがない・・・・」 と 呟いた。
日頃夫がよく口にする言葉であったのと、汽車に乗るものとばかり思って
夫の外出仕度を急いだ妻は 「 あなた、時間大丈夫ですか 」 と 思わず言葉をはさんだ。
夫はこのあとに何を言うつもりであったのだろうか。
聞きそびれてしまった。
村中は立ちながら、数え年四歳の娘に 「 お土産はなにがいいの ?」 と 聞いた。
子供は無邪気に 「 ハンモック 」 と 答えた。
目立つといけないから見送るなと言われて、母娘は台所の桟越しに手を振って送った。
振返って眼でうなずいた夫は、そのまま足早に立去った。
村中が提げた鞄には、軍服一揃いと長靴がしまわれていた。
陸軍を逐われた男には着る機会のないはずの軍服である。
辛酸に堪えられよ
妻たちの二・二六事件 澤地久枝 著から

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あを雲の涯 (四) 磯部淺一

2021年07月22日 09時22分36秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


辭世
國民よ國をおもひて狂となり
  痴となるほどに國を愛せよ
三十二われ生涯を焼く情熱に
  殉じたりけり嬉しともうれし
天つ神國つみ神の勅をはたし
  天のみ中に吾等は立てり
わが魂は千代萬代にとこしえに
  嚴めしくあり身は亡ぶとも


磯部淺一   イソベアサイチ
陸軍一等主計大尉
「 粛軍に關する意見書 」 を発表し 免官
明治38年4月1日  昭和12年8月19日銃殺
陸士38期生  安藤大尉と同期


C、
天皇陛下は靑年將校を殺せと仰せられたりや  
嗚呼
秩父宮殿下は靑年將校は自決するが可
最後を美しくせよと仰せられたりや
嗚呼
天下一人も吾人の志を知るものなく
吾人のいのちを尊重し且つ救助せんとしたるもののなかりしや
陛下に死諫する忠臣出でて吾人の忠義を上奏するの士はなかりしや
六十になつても七十になつても命のおしい將軍ばかりか川島腹を切らざるや
嗚呼
靑年將校の精神は可なるも
行動はわるし 刑せずてはかなふまじと云ふのは荒木、眞崎も然りき、満井佐吉すら然りき、
吾人に同情し吾人に理解ある士が
最初に於て精神はよきも行動を全部認めてはいかん一應は刑を受く可きだなど稱して
一歩 否一分を譲歩したる爲に今や精神もわるし行動もわるし
全部認める事は出來ずと云ふことになり千歩萬里の譲歩となれり
「 絶對に我が國體に容れざる 」
と云ふ判決文を
國體不理解者 反國體者 天皇機關説的國體観信奉者等によりて奉られたる吾等は
日本人として不幸の最大なるものならずや
吾人は今や完全なる反亂者となれり國賊なれり
その初め
精神を認められ行動をも認められたる國家の尊皇義軍が
一分の譲歩否一厘の譲歩をしたる爲に
遂ひに百歩千歩の敗退を見、忠臣より國賊に義軍より反徒にテン落したり
吾人に同情し吾人に理解あるの士が一分の否一厘の後押しをして呉れたら
國家は昭和十一年に國賊反徒を出さざりしものを
・・・ 獄中手記 (3) 磯部菱誌 七月廿五日 「 天皇陛下は青年将校を殺せと仰せられたりや 」 

八月一日    菱海入道
何にヲッー!、殺されてたまるか、死ぬものか、
千万発射つとも死せじ、断じて死せじ、死ぬることは負ける事だ、
成仏することは、譲歩する事だ、死ぬものか、成仏するものか
悪鬼となって所信を貫徹するのだ、
ラセツとなって敵類賊カイを滅盡するのだ、
余は祈りが日々に激しくなりつつある、余の祈りは成仏しない祈りだ、
悪鬼になれる様に祈っているのだ、
優秀無敵なる悪鬼になる可く祈ってゐるのだ、
必ず志をつらぬいて見せる、
余の所信は一部も一厘もまげないぞ、
完全に無敵に貫徹するのだ、
妥協も譲歩もしないぞ
・・・磯部淺一 獄中日記


・・・ 獄中からの通信 (1) 歎願 「 絶対ニ直接的ナ関係ハ無イノデアリマス 」 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「 俺は女の一番豪えらいのは西田さんの奥さん 其次は お前だと思って居るよ 」
・・・磯部淺一 ・ 妻 登美子との最後の面会 ( 昭和十一年八月十六日 )


謹みて御礼を申し上げます
平素大変に御世話になりました御會ひして御礼を申し上げる事の出来ぬのが残念です
何處のドイツが何と
云いたつて 先生は
偉大です       ( 先生・・西田税 )
そして先生の思想信念と私共の思想信念は絶対に正しく正義です  大義です 
私はこの
正しい強い不可侵の信念に生きています死ぬではありません在天の神様に召される
のです 悲しんで下さい
ますな  私は寔にゆかいです
私は少年時代から何事をしてもに勝ちました
如月雪の日にも勝ち 今も全勝しています
此の次も必す勝ちます
乱筆御礼
 
さよなら

・・・磯部淺一 発 西田はつ 宛 ( 昭和十一年八月十六日 ) 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
義父は昭和二十六年、七十六歳で他界いたしました。
義父の死後、義父が生前大切にしていた手文庫を開けてみましたら、
磯部さんからの遺書と思われる達筆で書かれた毛筆の封書と、
一通の電報が沢山の書類と一緒に入れてありました。

電文は
『 イマカラユキマス、オセワニナリマシタ、イソベ 』
とあり、発信は渋谷局となっていましたから、
処刑直前に奥さんにでも言いつけて打ったものと思われます。
御生前の凛凛しかった磯部さんの姿を思
い浮かべ、
電文をうつ 奥さんの心中を推しはかって
思わず泣き伏してしまったことを覚えております。 ・・松岡とき ( 松岡喜二郎の長男省吾の妻 )


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あを雲の涯 (五) 安藤輝三

2021年07月21日 09時13分23秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


國体を護らんとして  逆徒の名
  万斛の恨み  涙も涸れぬ
ああ天は
  鬼神  輝三


辞世
一切の

悩みは消えて
極樂の夢
十二日朝 安藤

  尊皇討奸
尊皇の義軍やぶれて寂し 
  春の雨
心身の念をこめて  一向に
  大内山に  光さす日を
國体を護らんとして  逆徒の名
  万斛の恨み  涙も涸れぬ  ああ天は
      鬼神  輝三

昭和11年 ( 1936年 ) 七月十二日
安藤輝三 大尉 の辞世である

我はただ万斛の恨と共に
鬼となりて生く
旧中隊長 安藤輝三
昭和十一年七月十一日
( 歩三の第六中隊員に宛てて )



< 註 >  「 体ト共ニ 家族ニ渡シ下サレ度シ  安藤輝三 」
 と認められた 血にまみれた封筒の中に、
松陰神社の御札と一緒に四枚の手紙に書いた絶筆が入っていた。
「 十二日朝直前  輝三 」 と署名してあるので、処刑直前に認めたとみられる。
半紙にとび散った血痕は、処刑時懐中にしていたため印されたもの。


君國ノタメ
捧ゲ奉ル
我コソ不滅ナリ
心安ラカナリ
( 死ト共ニ )
七月十二日朝  輝三


安藤大尉  アンドウ  テルゾウ 
陸軍歩兵大尉

歩兵第三聯隊第六中隊長
明治38年2月25日生    昭和11年7月12日銃殺
陸士38期生  磯部淺一 と同期

尊皇の義軍やぶれて 寂し  春の雨
心身の念をこめて 一向に             オモイ    ヒタブル
大内山に光さす日を

傲然屹立 ・・安藤大尉に相応しい

公判ハ非公開、辯護人モナク ( 證人ノ喚請ハ全部却下サレタリ )
發言ノ機會等モ全ク拘束サレ裁判ニアラズ捕虜ノ訊問ナリ、
カカル無茶ナ公判無キコトハ知ル人ノ等シク怒ル所ナリ

判決ノ理由ニ於テ全ク吾人ヲ民主革命者トシテ葬リ去レリ、
又コトサラニ北一輝、西田ト關係アル如クシ、又改造法案ノ實現云々トシタリ

万斛ノ恨ヲ呑ム
當時軍當局ハ吾人ノ行動ヲ是認シ、マサニ維新ニ入ラントセリ、
シカルニ果然、
二十七日夜半反對派ノ策動奏功シ、奉勅命令 ( 退去命令 ) ノ發動止ムナキニ至ルヤ、
全ク掌ヲ返スガ如ク 「 大命ニ抗セリ 」 ト稱シテ討伐ヲ開始シ
( 奉勅命令ハ我々ニ傳達サレズ )、全ク五里霧中ノ間ニ下士官兵ヲ武装解除シ、
將校ヲ陸相官邸ニ集合ヲ命ジ、
憲兵及他ノ部隊ヲ以テ拳銃、銃劍ヲ擬セシメ山下少將、石原大佐等ハ自決ヲ強要セリ、
一同ハソノヤリ方ノアマリニ甚シキニ憤慨シ自決ヲ肯ンゼズ
( 特ニ謂レナキ逆賊ノ名ノモトニ死スル能ハザリキ )、今日ニ至レリ

叛軍ナラザル理由
(一) 蹶起ノ趣旨ニ於テ然リ
(二) 陸軍大臣告示ハ吾人ノ行動ヲ是認セリ
(三) 天皇ノ宣告セル戒嚴部隊ニ編入サレ、
 小藤大佐 ( 当時歩一聯隊長 ) ノ指揮下ニ小藤部隊トシテ麹町地區警備隊トシテ任務ヲ与ヘラレ、

二十七日夜ハ配備ニ移レリ
(四)  奉勅命令ハ傳達サレアラズ
(五)  尚、附加

二十六日スデニ大詔渙發ニ至ラントシアルモ内閣ガ辭表ヲ出シテヰルカラ副署ガデキヌタメ、
マダソレニ至ラヌト伝ヘラレ、
又 二十八日正午頃、
詔勅ノ原稿ヲ当時ノ軍事課長村上大佐ヨリ余ハ示サレ 「 ココマデキテヰルノダカラ 」 ト聽ケリ、
而シテ今ニ至リテ曰ク、
陸相ノ告示モ戒嚴部隊ニ入レタ事モスベテ説得ノタメノ手段ナリト強辯シアリ、
陸軍大臣ノ告示ハ宮中ニ於テ軍事參議間會合ノ上作製セラレタルモノニシテ、
陸軍大臣告示トシテ印刷配布、布告サレタルモノハ
コレニ二通アリ

(一)  蹶起ノ趣意ハ天聽ニ達シアリ
(二)  諸子ノ行動ハ國體ノ眞姿顯現ノ至情ニ基クモノト認ム
(三)  軍事參議官一同ハ軍長老ノ意見トシテ從來此ノ點不充分ナリシヲ以テ今努力ス、
 閣僚モ亦同ジ意見ナリ
(四)  此レ以上ハ大御心ニマツ
(五)  皇軍相討ツ勿レ
 トアリ、
「 陸軍大臣ヨリ 」 トアルモノハ
第二項ノ行動ノ代リニ 「 眞情 」 トアリ、ソノ他二、三異ル所アルモ大同小異ナリ、
コレヲ説得案ト稱シアルモ、
一モ説得ノ内容ヲナシアラズ、軍長老ガ軍ノ總意トシテ是認セルコトハ明ラカナリ、
又戒嚴軍隊ニ蹶起部隊ヲ編入セル命令ノコトハ
「 謀略ノタメノ命令 」 ハ斷ジテ存在スルモノニアラザルナリ
( 此ノ点ハ極ク最近ニ至リ軍一部デ問題トナシアルガ如シ )
判決ノ理由ニ於テハ 「日本改造法案 」 ノ實現ヲ期シ、
トナシ、右ニ 「 法案 」 ヲ以テ 「 日本國體ト絶對ニ相イレザルモノ 」 ト記セリ、
( 此ノ点ハ吾々ガ公判ニ於テ然ラザル点ヲ強調セルトコロナリ )、
而ル時ハ結局吾人ノ今回ノ擧ハ、「日本國體破壊の暴擧 」 ナリトノ結論ニ陥ル、
然ラバ 「 精神ハヨイケレドモ行動ハ惡イ 」 ト云フコトガイハレルカ、
又陸軍ノ總意トシイ陸相ノ告示ニヨリ布告サレタル
「 諸子ノ行動 ( 又ハ眞意 ) ハ國體ノ眞姿顯現ノ至情ニ基クモノト認ム 」
ト云フ項ハドウナルノカ
嗚呼我々ハ共産党ト同ジニ取扱ハレテヰルノデアル、
軍當局ハ北、西田ヲ罪ニ陥レンガタメ無理ニ今回ノ行動ニ密接ナ關係ヲツケ、
両人ヲ民主革命者トナシ極刑ニセント策動シアリ、( 軍幕僚ト吾人トハ對立的立場ニアリ )
吾人ヲ犠牲トナシ、吾人ヲ虐殺シテ而モ吾人ノ行ヘル結果ヲ利用シテ
軍部獨裁ノ ファッショ的改革ヲ試ミントナシアリ、一石二鳥ノ名案ナリ、
逆賊ノ汚名ノ下ニ虐殺サレ
「 精神ハ生キル 」 トカ 何トカゴマカサレテは斷じて死スル能ハズ、
昭和維新ハ吾人ノ手ニヨル以外断ジテ他ノ手ニ委シテ歪曲セシムル能ハズ
何故ニ戒嚴令ガ解ケヌノカ、何故ニ兵隊ハ外出サヘデキヌノカ、
我ニ前島ヲ會ハセルコトヲ恐怖スル原因ハドコニアルノカ
軍ガイカニ戰々兢々トシテ而モ虚勢ヲ張ッテヰルコトヨ、
( 栗原君ノ如キハ士官學校在校中ノ弟トサヘ會ヘヌデハナイカ ) 徹底的彈壓デアル、
又當時 「 大命ニ抗セリ 」 トノ理由ノモトニ即時、
吾人ヲ免官トナシテ逆徒トヨベレハ
「 勅命ニ抗セザルコト明瞭ナル今日ニ於テ如何ニスルカ 」
〈 註 〉
前記遺書の上部に書かれたものを左に列記する。これらはすべて房子未亡人が保管されていたものである。

「 憲兵ハイクラ親切ニシテクレテモ、全然氣ヲ許シテハイケナイ 」
「 將校ニモ色々アルガ若イモノ、下級ノモノ程信頼デキル 」
「 現在ノ特權階級ハ全部敵ダ 」
「 海軍ノ伏見宮殿下ニ對シ奉リ、一同感激シテヰマス 」
「 小笠原長生子ニモ感激シテヰマス 」

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あを雲の涯 (六) 澁川善助

2021年07月20日 09時05分12秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


四つの恩
報い盡せぬ嘆こそ
此の身に残る
憾なりけり


我不愛身命
但惜無上道
昭和十一年七月十一日
澁川善助  残 

澁川善助 の遺詠である


澁川善助  シブカワ ゼンスケ
陸軍士官学校卒業目前にて退校処分を受ける
( 39期生 ) 末松太平大尉と同期

明治38年12月9日生  昭和11年7月12日銃殺

七月十二日 ( 日 )  朝、晴
今朝執行サレルコトガ昨日ノ午後カラウスウス解ツテ夜ニ入ツテハツキリ解ツタ。
一同ノ爲メ 力ノ及ブ限リ讀經シ 祝詞ヲ上ゲタ。
疲レタ。
今朝モ思フ存分祈ツタ。
揮毫キゴウハ時間ガ足リナクテ十分出來ナカツタ。
徹夜シテ書イタガ、家ヘノ分、各人宛ノハ出來ナカツタ。
「 爲報四恩 」 ヲ家ノ分ニシテ下サレバヨイト思ヒマス。
濟ミマセンデシタ。
最後マテ親同胞ニ盡スコトガ出來マセンデシタ。
遺言は平常話シ、今度オ目ニカカツテ申上ゲマシタカラ別ニアリマセン。
一同
君ケ代合唱
天皇陛下  萬歳三唱
大日本帝國 ( 皇國 ) 萬歳三唱
シマシタ。
祖父上様ノ御寫眞ヲ拝見シ、御両親始メ皆々様、
御親戚ノ方々ニモオ目ニカカレテ嬉シウ御座イマシタ。
皆様、御機嫌ヤウ。
私共モ皆元氣デス。
浩次、恵三、代リニ孝行盡シテクレ。
絹子 元氣で辛抱強ク暮セ、
祖父上様や父上様、母上様ニヨクオ仕ヘシテオクレ。
五之町ノ皆様、御許シ下サイ。
此ノ日記 ( 感想錄 ) ハ絹子ニ保存サセテ下サイ。
 百千たび此の土に生れ皇國に
  仇なす醜も伏しすくはむ
・・・澁川善助 『 感想録 』 

絹子ハ殊ニ不憫ナリ。
苦勞ト心痛ノミサセテ、喜ブ様ノコトハ何一ツ シテヤラザリキ。
濟マヌ。
諦メテ辛抱シテクレヨ。
雨降れば淋しからめと己が身は
濡れそぼちつゝ訪ひくれしかも
現世に契りし

縁淺けれど
心盡しは
とはに忘れず
昭和丙子猛夏
最後の面會了りて佑
爲絹子    善助光佑

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あを雲の涯 (七) 河野壽

2021年07月19日 08時55分55秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)




辞世
あを嵐
過きて
静けき日和かな
昭和十一年三月五日
於熱海    河野壽
瀬戸軍医殿

 
河野壽  コウノ ヒサシ
陸軍航空兵大尉
所沢飛行学校
明治40年3月27日生  昭和11年3月6日 自決
陸士40期生  竹嶌継夫中尉 と同期

国民に告ぐ
壽 儀

時勢ノ混濁ヲ慨なげキ皇國ノ前途ヲ憂ウル余り、
死ヲ賭シテ此ノ源ヲ絶チ
上 皇運ヲ扶翼シ奉リ
下 國民ノ幸福ヲ來サント思ヒ遂ニ二月二十六日未明蹶起セリ。
然ルニ事志ト違ヒ、大命ニ反抗スルノ徒トナル。
悲ノ極ナリ。
身既ニ逆徒ト化ス。
何ヲ以テ國家ヲ覺醒セシメ得ヘキ。
故ニ自決シ、以テ罪ヲ闕下に謝シ奉リ、一切ヲ清メ國民ニ告グ
皇國ノ使命ハ皇道ヲ宇内ニ宣布シ、
皇化ヲ八紘ニ輝シ以テ人類平和ノ基礎ヲ確立スルニ在リ。
日清、日露ノ戰、近クハ満州事變ニヨリ
大陸ニ皇道延ヒ極東平和ノ基礎漸ク成ラントスル今日、
皇道ヲ翼賛シ奉ル國民ノ責務ハ重且大ナリ
然ルニ現下ノ世相ヲ見ルニ國民ハ泰平に慣レテ社稷ヲ願ス、
元老重臣財閥官僚軍閥ハ天寵ヲ恃ンテ専ラ私曲ヲ營ム。
今ニシテ時弊ヲ改メスンハ皇國ノ將來ハ實ニ暗然タルモノアリ、
國家ノ衰亡カ内的ニ係ルハ史實ノ明記スル所ナリ
更ニ現時ノ大勢ハ外患甚タ多クシテ
速カニ陸海軍ノ軍備ヲ充實シ、外敵ニ備ユルニ非ンハ、
光輝アル歴史爲ニ汚辱ヲ受ケン事明ナリ、
軍縮脱退後ノ海軍ノ現狀ハ衆知ノ事ニテ、
陸軍ハ兵器資材ノ整備殊ニ航空ノ充實ヲ圖リ、
至急空軍を獨立セシメ列強空軍ト對立セシムルヲ要ス。
右 軍備充實ノ爲ニハ國民ノ負担ハ實ニ大ナルモノアランモ、
非常時局ニ直面シ皇道精神ヲ更生シ以テ喜ンテ之ノ責務ニ堪ヘ、
又 政ヲ翼賛し奉ル者ハ國家經濟機構ノ改革ヲ斷行シ、
貧ヲ援ケ富ヨリ献セシメ以テ
國内一致團結シ皇事ニ精進サレン事ヲ祈ル
今自決スルモ七生報國盡忠ノ誠ヲ致サン
昭和十一年三月五日
於  熱海衛戍病院分院
元  航空兵大尉
河野壽


陸軍大臣閣下
一、蹶起自決ノ理由別紙遺書ノ如シ
二、遺書中空軍ノ件ニ關シテハ
      特ニ迅速ニ處置セラレスハ國防上甚タシキ欠陥ヲ來サン事ヲ恐ル
三、小官引率セシ部下七名ハ小官ノ命ニ服従セシノミニテ何等罪ナキ者ナリ
   御考配ヲ願フ
四、別紙遺書 ( 同志ニ告ク ) ヲ 東京衛壱成刑務所ノ同志ニ示サレ更ニ同志ノ再考ヲ促サレ度シ
     尚ホ 在監不自由ノ事故
      特ニ武士的待遇ヲ以テ自決ノ爲ノ餘裕ト資材ヲ附与セラレ度ク伏シテ嘆願ス
昭和十一年三月五日
於  熱海衛戍病院分院
元  航空兵大尉
河野壽
陸軍大臣閣下

同志ニ告グル
全力ヲ傾注セシモ目的ヲ達シ得サリシ事ヲ詫ブ。
尊皇憂國ノ同志心ナラスモ大命ニ抗セシ逆徒ト化ス。
何ンソ生キテ公判廷ニ於テ世論ヲ喚起シ得ヘキ。
若シ世論喚起サレナハ却ツテ逆徒ニ加担スルノ輩トナリ不敬を來サン
既ニ逆徒トナリシ以上自決ヲ以テ罪を闕下ニ謝シ奉リ
遺書ニ依リテ世論ヲ喚起スルヲ最良ナル盡忠報國の道トセン
寿  自決ス  諸賢再考セラレヨ
昭和十一年三月五日
於  熱海衛戍病院分院
元  航空兵大尉
河野壽
同志元将校一同

この遺書三通は、
自決前日、病院を訪れた所沢飛行学校副官に、死後における善処方を委嘱してあった。
弟はその遺書がそれぞれの宛先に、確実に伝達されることをくれぐれも依頼し、
副官もまた確約を与えたという。
私もこの三通を確認し、全文を複写して手許に残した。
本分は三月六日熱海分院に来院した飛行学校川原教官に托して学校に持ち帰ってもらった。
その後、それがいかに処置されたかは知る術がなかったのを遺憾とする。
国民に宛てた遺書は ぜんぜん発表されなかったのはもちろん、
同志に宛てた遺書も、獄中の同志に渡された形跡はまったくない。
このことを見ても、弟が自決前に心魂を尽して書き残したこれらの遺書は、
その後の願すも空しく、当局の手に握りつぶされてしまった。
私はその後、この三通の遺書を謄写して近親と関係有志に送ったが、
その一部が当局の手に入り、
当時のいわゆる 「 怪文書 」 として追及され、
以後その頒布を厳禁されることとなった。
(・・・河野司 )
河野寿の遺書(昭和一一年三月五日日記)
私の二・二六事件 河野司 著から

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あを雲の涯 (八) 竹嶌繼夫

2021年07月18日 08時52分43秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


遺詠

喜びの久しく玆に積り來て
千代に八千代に榮へ行くらん


志ばしして
人の姿は消へぬるを  唯捧げなん皇御國に
 昭和十一年七月爲平石大兄
 竹嶌繼夫

回顧生前空漠々
一超直入如來地
 昭和十一年七月八日爲平石大兄
 竹嶌繼夫

三十年間如朝露                      

一超直入如來地                     
 昭和十一年七月                       
 竹嶌繼夫               

一黙如雷
臨命終
 
竹嶌繼夫   


竹嶌繼夫  タケシマ ツグオ
陸軍歩兵中尉
豊橋教導学校
明治40年5月26日生  昭和11年7月12日 銃殺
陸士40期生  河野壽大尉 と同期

『 死を前に控えて 』 


竹島さんの感想文は
刑務所の中で刑務所長の塚本氏がプリントして我我に見せてくれたことがある。
私は竹島産の素直な心の美しさに関心したが、塚本氏も余程感激したものと思う。
その時のものと、ここにある遺書は違うが、
この遺書を見て私はその気持ちに共鳴するものを覚えた。
竹島さんは事件に参加したことに悔いを抱いていた。
他の人と違って事件そのものの過誤を認めていた。
それでも私はその素直な心情の美しさに心を打たれた。
あの法廷に於ける竹島さんの静かな姿が目に浮かんでくるようであった。
竹島さんはすべての過誤も悔恨も忘れつくして、
悟りの境地に歩を進めていた。
私は涙に溢れて仕方がなかった。
・・・池田俊彦  生きている二 ・二六  から

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あを雲の涯 (九) 栗原安秀

2021年07月17日 08時46分34秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


遺詠
君が爲捧げて 輕きこの命
  早く捨てけん 甲斐のある中

七月七日        双安生

道の爲身を盡したる丈夫の
 心の花は高く咲きける
七月十日        安秀


栗原安秀  クリハラ ヤスヒデ
陸軍歩兵中尉
歩兵第一聯隊
明治41年11月17日生    昭和11年7月12日銃殺
陸士41期生 對馬勝雄 中橋基明 と同期

第一師團は滿洲駐箚の爲今年三月末か四月に出發する
滿洲へ行けば、私共の居る間に、
日蘇か日支か、或は蘇支と日本との戰爭が始るやうに思ふ
此の場合英米佛が向ふに加はる
殘念だが私共は犬死しさうだ
死んでも日本が救はれればよいが……
どうせ死ぬなら國内で死に、國民を國家を醒めさせたい
かくした方が國を救ひ得るやうに思へる
それで國内で死ぬことに決めました
・・2月20日、齋藤瀏少将に その決意を語る


維新革命家トシテ余ノ所感

昭和十一年七月初夏ノ候、余輩靑年將校十數士 怨ヲ呑ミテ銃殺セラル
余輩 ソノ死ニツクヤ從容タルモノアリ、
世人 或ハ コレヲ目ニシテ天命ヲ知リテ刑ニ服シトサン。
斷ジテ然ラザル也
余 萬斛ノ怨ヲ呑ミ、怒リヲ含ンデ葬レタリ、
我魂魄 コノ地ニ止マリテ惡鬼羅刹トナリ 我敵ヲ馮殺セント欲ス。
陰雨至レバ或ハ鬼哭啾々トシテ陰火燃エン。
コレ余ノ惡霊ナリ。
余ハ 斷ジテ成佛セザルナリ、斷ジテ刑ニ服セシニ非ル也。
余ハ 虐殺セラルタリ。
余ハ 斬首セラレタルナリ。
嗚呼、天  何故ニカクモ正義ノ士ヲ塵殺セントスルヤ
ソモソモ今回ノ裁判タル、ソノ殘酷ニシテ悲惨ナル、昭和ノ大獄ニ非ズヤ
余輩靑年將校ヲ羅織シ來リ コレヲ裁クヤ、余輩ニロクロクタル發言ヲナサシメズ
豫審ノ全ク誘導的ニシテ策略的ナル、何故ニカクマデサント欲スルヤ
公判ニ至リテハ僅々一カ月ニシテ終リ、ソノ斷ズルヤ酷ナリ
政策的ノ判決タル眞ニ瞭然タルモノアリ。
既ニ獄内ニ禁錮シ、外界ト遮斷ス、何故に然ルヤ
余輩ノ一擧タル明に時勢進展ノ樞軸トナリ、
現狀打破ノ勢滔々タル時コレガ先駆タル士ヲ遇するに極刑ヲ以テシ、
而シテ粛軍ノ意ヲ得タリトナス
嗚呼、何ゾソノ横暴ナル、吾人徒ニ血笑スルノミ、
古ヨリ 狡兎死而走狗烹 吾人ハ即走狗歟
余ハ 悲憤、血涙、呼號セント欲ス。
余輩ハカクノ如キ不當ナル刑ヲ受クル能ハズ。
而モ戮セラル、余ハ血笑セリ。
同志ヲ他日コレガ報ヲナセ、余輩を虐殺セシ幕僚を惨殺セヨ。
彼等ノ流血ヲシテ余ノ頸血ニ代ラシメヨ。
彼等の糞頭ヲ余ノ霊前ニ供エヨ
余ハ冥セザルナリ、余ハ成佛セザル也。
同志ヨ須ク決行セバ余輩十數士ノ十倍ヲ塵殺スベシ。
彼等ハ賊ナリ、亂子ナリ、何ゾ愛憐ヲ加フルの要アランヤ
同志暇アラバ余輩ノ死所ニ來レ。
冥々ナル怨氣充満シアルベシ。
余輩ガ怨霊ハ濺血ノ地ニ存シ、人ヲ食殺セン
嗚呼、余輩國家ノ非常ノ秋ヲ座視スルニ忍ビズ、
可憐ナル妻子ヲ捨テ故旧ト別レ、挺身ココニ至レリ。
而モソノ遇セラレルコノ狀ナリ、何ゾ何ゾ安心立命スル能ハンヤ
見ヨ、彼等腐敗者流依然トシテ滅ビズンバ
余即チ大地震トナラン、大火災トナラン、又大疫癘、大洪水トモナラン、
而シテ全國全土盡ク荒地トナラン
嗚呼、余輩ノ呼號ヲ聞ケ、
汝等腐敗者流ノ皮肉ニ食ヒ込ムベシ、汝等ノ血液を凝固セシムベシ
同志ヨ、
余輩ハ地下ニアリテ猶苦悶シ、地上ニアリテ猶吐血シアリ、
余輩ノ吐キシ血ヲ以テ彼等ノ墓標トナサン。
見ヨ、暗黒の夜、青白ノ光ヲハナテルハ吾人ノ忿霊ナリ。
吾人ハ
・・・ 栗原中尉 『 維新革命家として余の所感 』

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あを雲の涯 (十) 對馬勝雄

2021年07月16日 08時38分20秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)

 
遺詠
日は上り 國の姿も明るみて  昨日の夢を笑う日も來ん
昭和十一年七月十日    草莾微臣  對馬勝雄
皇位天皇之神格也  地上最高天与使命也  至愛至誠不可侵
昭和十一年七月十日    草莾微臣  對馬勝雄

辞世
ひと粒の種はくさりてよろづの  實を結ぶこそ誠なれけれ
昭和十一年七月十二日    邦 刀
大君にささげし命うちきよめ  いのりつづくる時をもたなん


豊橋の駅の別れの名残りと
 吾子をのぞけば眠り居りけり
« 註 »
對馬千代子夫人記
二月二十六日、私が静岡日赤病院に入院のため、なにも知らずに送られて、
豊橋を後にしました。これが最後の別れとなりました。

きたか坊やよ悧口な坊や
たつた一つで母さんの
つかひにはるばる汽車の旅
お々  お手柄 お手柄
父より
昭和十一年七月八日
好 彦さんへ
« 註 »
對馬千代子夫人記
私が一月十六日出産後、病床にありましたため、最後の面会に行かれず、
祖母に連れられて好彦が上京致しました折に・・・・・・


對馬勝雄  ツシマ カツオ
陸軍歩兵中尉
豊橋教導学校
明治41年11月15日生  昭和11年7月12日銃殺
陸士41期生  栗原安秀  中橋基明 と同期

一、六月二十九日差入多謝。
二、箱ニ入ツタ子供ノ食フモノハ必ズシモ欲シクナイ。
 併シ今度御苦勞ダ。
何ダカ近ク出獄スル様ナ氣ガスル。
三、陸軍ノ空氣モ一般ノ空氣モ變ツテ來タノデハナイカ、
何デモトニカク國體ヲ明徴ニシテ呉レナクテハ困ル。
四、天皇=最高神=天与ノ最高使命=全體=誠=絶對唯一。
 此ノ原則ヲ宗教、哲學、道徳、何ニデモアテハメテ見ヨ、ソレハ事實ダ、
コレヲ奉ズルハ臣下天來ノ使命デ全生命デアル。
薩摩氏ニ見セヨ。   (・・・薩摩雄次氏)
天皇=國體デアル=主權=信。
コレガ分ラヌカラ皆迷ツテヰルノダ。

一、實ハ二十九日夕、書クヒマガナクテ、アレダケシカ書カナカツタノデアル。
二、最近、眞崎閣下トノ關係ガナカツタカ調ベラレタ。
 眞崎閣下ヲ疑ツテヰルノデアラウトモ思ハレル。
モウ當局モイイ加減目ザメタラヨササウナモノダ。
我等ハ絶對不動ノ正義ヲ保持シテヰル。
我等ノ仆シタ敵ガ幕府ノ中樞ナリシコトト、我等ハ尊皇ノ唯一ノ目的ノタメニ起ツタコトサヘ分レバ、
無罪ハ分明ダ。
シカモソハ實際デアル。
三、色々心配ヲカケテスマヌガ、永イコトハナイ。
 神様ノ仰セノ通リダ。
七月三十日ハ明治天皇崩御ノ日デアルカラ、維新ノ大號令渙發ニフサハシイ日デアル。
否、然ルべき日ト祈ツテヰル。
林サン狀況変化ナイカ注意シテ下サイ。  ( 註、林昌次看守 )
栗原ナドニモ安心ヲ与ヘタイ。
« 註 »
チリ紙に鉛筆で書かれたもので、後に掲げる手記と一緒に林昌次看守によって、
對馬對馬中尉の妹宅へ届けられたものである。
なお、文中の三に、維新の大号令渙発云々とあるのは、
彼等が蹶起の目的の一つとしてその実現を強く望んでいた
維新大詔の渙発についてふれたものである。


願ハクバ至急奏上セラレタシ ( 伏見宮殿下ニ願ヒ奉ル )
神ノ實在
一切ノモノノ本源ハ神霊デアル。
神トハ 「 命 」 ノ一字ガヨク之ヲ説明して盡シテヰる。
命ハ 「 ミコト 」 「 マコト 」 デアル。
言霊ノ眞義ヲ開展スリバ一切解決ス。
初メニ事 ( 意義 用 ) アリ、言之ニ伴フ、真ノ事ハ 「 マコト 」 ナリ  ( 誠、忠、信、實 )。
「 マコ ト」 ノ人ハ即 「 命 」ナリ。
命ハ使用ナリ、物ニ於テハ用ナリ、其物ノ存在ノ目的、存在ノ意義是ナリ。
一切ノモノニ用ナキハナシ、用ナキモノハ人ガ未ダ其用ヲ發見セザルノミ。
用ニハ本末アリ、
例ヘバ無生物ハ生物ノ用ヲナス。
植物ハ動物ノ用トナルベク、動植物ハ人間ノ用ニ供セラル。
故ニ動物ト人間ハ不同ナリ。
人間ハ天皇ノ御用ニ立ツモノナリ。
尤モ人間ノ用ハ 子ハ親ノタメ、妻ハ夫ノタメニアリ、
親ハ子ノタメ、夫ハ妻ノタメニアリトモ言フベシ。
天皇ノ御使命ハ億兆ノ父タルニアリ。
以上ノ用又ハ使命ハ本然ノモノナリ。
是用又ハ使命ガ、天來ノ神其物ナルヲ示スモノナリ。
而シテ天皇ノ御使命ハ天皇ノ御神格ニシテ、
地上億兆ノ人類トシテハ最高ノ神トシテ仰ギ奉ルベク、
天皇ハ祖宗ノ威霊ニ対シ御使命ヲ負荷シ給フ。
而シテ 天皇ガ地上ノ最高神即最高ノ御使命を天來本然ニ具有シ給フハ神勅ニ明カナリ。
天皇ハ人類ノ祖ナリ。
サレバ神勅を奉ジ皇位ヲツガセラルレバ、萬世一神タリ。
使命ハ過去現在未來ニ一貫ス。
使命ノ存スル所、人ヲシテ必ズ神意ニ從ハシム。
例ヘバ八甲田山雪中行軍ニ遭難セル山口大隊ノ如シ。
祭リハ使命 ( 霊 ) ヲ祭り、使命ヲ將來ニツギ行フヲ言フ。
政 ( マツリゴト ) 是ナリ。
我等ハ尊皇即チ我タル心境ニテ蹶起セリ。
コノ心境ニ至ルハ一朝一夕ニアラザリキ。
決シテ尊皇を後ヨリ冠シタルニアラズ。
尊皇即チ生命ナリキ。
然ルヲ公判ハ毫モコレヲ審議セズ。殘念至極ナリ。
君臣、父子、夫婦ハ天与ノ別ニシテ離ルベカラザルモノナリ。
是ノ君臣ノ一體ナルガ國體ノ精華なり。
サレバ國體トハ神霊ノ謂ナリ。

神靈( 天皇ト臣民ト使命一體タル ) ハ至高ノ信なり、誠ナリ、正、善、美、眞ナリ。
霊ニ和荒二魂アリ。
和魂ハ 「 マツロフ 」 ナリ、荒魂ハ 「 マツロハス 」 ナリ。
文武ノ大權ニシテ本體ハ信ナリ、正ナリ。
大權干犯ハコレニテ判斷セラルベシ。
勅諭ノ前文ニ國體保護ヲ延ベラレ、後文ニ誠ヲ延ベラル。
共ニ同一ノモノナリ。
人ノ最高至純ノ使命尊皇ハ、至純ノ正義ナリ、至誠ナリ。
キリストノ愛、佛ノ眞如、之ナリ。
故ニ 「 命 」 ハ時間、空間ヲ超越シ且時間的空間的ノ統一ヲ有ス。
最高ノ使命ハ最高ノ統一ナリ。
命ハナホ、運命、宿命、天命、大命、命令等、本來ノ實在タルヲ示セリ。
大命ハ天命ナリ、之ヲ吾人ノ使命トス。
以上皇學ノ本義明カナレバ、吾人ノ行動ノ正義ハ極メテ明カナリ。
昭和維新ハ以上ノ闡明せんめいニアリ。

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あを雲の涯 (十一) 中橋基明

2021年07月15日 08時27分39秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


永別
五月雨の 明け往ゆく空の 星のごと

  笑を含みて 我はゆくなり
いざともに まだ見ぬ道を 進みなん
  御空の月日 しるく照せよ
身は竝に 消えゆくとも永く 我が霊は
  残りて國に なほ盡さなん
國のため いたせし赤き 誠心は
  風のたよりに 傳へらるらん
身は此処に 消ゆくとも永く 我が霊は
  残りて國に なほ盡さなん
憂き事の かゝらばかゝれ 此の我が身
 鏡に清き 心やうつらめ
春寒み 梅と散りなば 小春日の
 菊の花咲く 時も來つらん
三十歳の はかなき夢は 醒めんとて
 雲足重く 五月雨の降る
身を捨てゝ 千代を祈らぬ 益荒夫も
 此の世の幸は これ祈りつゝ
今更に 何をか言はん 五月雨に
 唯濁りなき 世をぞ祈れる
今此処に 世をば思ふと すべなきも
 なほ心にする 黒き浮き雲
大宮の 御階の塵を 払ひしも
 なほぞ残れる 心地こそすれ
降りしきる 五月雨やがて 晴れゆきて
 宮居の空は 澄みわたるらん
昭和拾一年七月十一日  中橋基明

絶筆
只今最後の御勅諭を奉讀し奉る
盡忠報國の至誠は益々勃々たり
心境鏡の如し
七月十二日午前五時

 
中橋基明  ナカハシ モトアキ 
陸軍歩兵中尉
近衛歩兵第三聯隊
明治40年9月25日生  昭和11年7月12日銃殺
陸士41期生  栗原安秀 對馬勝雄 と同期

吾人は決して社會民主革命を行ひしに非ず。
國体反逆を行ひしに非ず。
國の御稜威を犯せし者を払ひしのみ。
事件間、維新の詔勅の原稿を見た將校あり、
明かに維新にならんとして反轉せるなり、
奸臣の爲に汚名を着せられ 且つ 清算せらるるなり。
正しく残念なり。
我々を民主革命者と稱し、我々を清算せる幕僚共は昭和維新と稱するなり。
秩父宮殿下、歩三に居られし當時、國家改造法案も良く御研究になり、
改造に關しては良く理解せられ、
此度蹶起せる坂井中尉に對しては御殿において
「 蹶起の際は一中隊を引率して迎へに來い 」
と仰せられしなり。
之を以てしても民主革命ならざる事を知り得るなり。
國體擁護の爲に蹶起せるものを惨殺して後に何が残るや、
來るべきは共産革命に非ざるやを心配するものなり。
日蘇會戰の場合果して勝算ありや、内外に敵を受けて如何となす。
吾人が成佛せんが爲には昭和維新あるのみ。
「 日本國家改造法案 」 は共産革命ならず。
眞意を讀取るを要す。
吾人は 北、西田に引きづられしに非ず。
現在の弊風を目視し 之を改革せんとするには、軍人の外非ざるを以て行ひしなり。
< 註 >  文中、維新の詔勅の原稿を見たる将校あり、というのは安藤輝三大尉のことである。
 また、秩父宮殿下が坂井中尉に対して 「 蹶起の際は一中隊を引率して迎へに来い 」 と言われたとあるが、
坂井中尉はこれについて何も書き残していないので、確める術はない。
殿下との連絡将校であった坂井中尉がふと話したことが、おそらく中橋中尉に強く印象づけられたのであろう。

最後に
何度も面会に來て戴いてこんなに嬉しい事はございません。
終に臨んで大した御苦労をおかけ致しました、誠に感謝に堪へません、有難うございました。
たつた一つ戴けなかつたものも 今戴いて少しやせたかも知れません、満足です。
只今 非常に朗らかです、御安心下さい。
好きな歌が獨りでに口から出て來ます。
皆々も元気で気強うございます。
夜もすつかり更けました、外はほんとに静かです。
遙かに御宅を拝しました。
心眼でもつて家の中迄良く分ります。
誠に忝い事です。
御礼申上げます。
御心配遊ばしますな。
私は元気で行きます。
これで最後の御別れの言葉とします。
最期の面會の時、
後を振りかえって見られた母上様、おしげ叔母様、高ちやんの顔が目に浮びます。
ではさようなら。
朗らかに徹夜です
七月十二日午前三時      もとあき
母上様  御許に

永の御別れに際しまして
最後の時が参りました。
三十年間の御慈愛に對しましては何と申上げてよいか、言語を持ちません。
廣大無邊の御恩にはただひたすらに感謝の意を捧げるのみであります。
考へて見まするに、我國に於ては何時も忠孝は一本であると存じます。
恩愛の鎖をたち切って、國の爲に殉じました事故、
世の所謂、先立つ不孝と異りまして、例へ先立ってもそれが忠の爲でありますから、
これは孝であると思ひます。
鳥羽伏見 ( 鳥羽伏見の戰 ) が、蛤御門 ( 蛤御門の戰 ) に變りました事は、一つの運命ではありますが、
時代はこれを忠孝一本の大道に合致せしめると確信致して居ります。
日本人は皆、天皇に忠を、國に報ゆるが爲に生れて來たものと思ひます。
大義をかざし一片のやましき処なし。
神佛照覧、國の爲、君の爲に殉じました事故ことゆえ、御安心の程願上げます。
しかし大楠公の七生報告の言語は御満足でなかつたから、
其の時代の事を切に切に御心配の上の御語と存上げます。
大楠公の御心持が良く分る様な気が致します。
顧みますれば、三十年の生涯決して短いとは言へません。
此の間の色々な事が思出されました。
父上様につれられ動物園に行きました當時の樂しかつた事が眼に浮びます。
鎭海の海の事も思ひ出しました。
皆麗しい懐しい思出であると共に、有難い御恩をひしひしと感ずる次第であります。
これから色々と御恩返しを仕様と思つて居つたのでありますが、
之は小孝かも知れません、今度の事は今に大孝となると確信して居ります。
どうか私は居りませんでも、何時迄も北満に元気に活躍して居ると御思召下さい。
私の分迄も、
天皇陛下萬歳
を 唱えて下さる様 最後の御願ひを申上げます。
終りに臨み 御厄介になりました皆々様によろしく御伝への程願上ます。
ご両親様 及び 御一同様の御幸福を末長く御守り致します。
これを以て御別れの辭と致します、有難うございました。
くれぐれも御嘆き遊ばされませぬ様に。
昭和十一年七月十日記之      基 明
御両親様

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