平出隆さん、『猫の客』

 『猫の客』の感想を少しばかり。

 “―― 稲妻小路の猫だもの。
 目の前を過ぎるのを指して、妻は讃えるようにいったりした。” 20頁
 
 出会えて嬉しい、とても好きな作品だった。本当に、青白い小さな稲妻が駆け抜けたようで、残光がいつまでもとどまればよい…と。移ろう季節ごと、見事な景観の庭園を鋭角的に遊びまわり、月光をまとう白い珠のようだった、忘れがたい猫の姿。そして、その自由で本然な魂を尊び愛惜した夫婦の姿に、静かに胸をうたれた。

 抱かせることはおろか啼き声一つ聴かせぬ隣家の飼猫を、おとないのあるがままに招き入れ、愛おしく思いをかけるようになった夫婦の悲喜を描く。古い屋敷の敷地内で離れを借りる作者夫婦と、チビと名付けられたほっそりした猫との出会い。やがてチビのための出入り口を作り、ダンボール箱の居場所を作り…と、夫婦の生活にチビの存在は欠かせなくなっていく。
 どこか神秘的で、決して媚びることない猫の無垢。その小さな命を慈しみ誉む夫婦の、恋しさと諦めの間で揺れうごく様は、歯痒くひしひしと切なかった。もうまるでうちの猫みたいだ、いっそ攫ってしまおうか…と思いつめる二人が、やはりうちの猫ではない…と知らされる件の哀感は、読んでいて身を捩りたくなる心地だった。

 出会いがあり、別れがあり、それから後…という流れも素晴らしい。そして、移ろう季節ごと、母屋の庭園の美しい眺めや年中行事を織りこんでいく澄んだ文章は、いつまでも読んでいたかった。

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松浦理英子さん、『奇貨』

 『奇貨』の感想を少しばかり。

 “私の性癖を鮮やかに解析したのが七島である。” 23頁

 とても素晴らしかった。冒頭から見事に引きこまれ、巻きこまれた。隅々までぴりっと張り詰めていて、それでいて滑稽だったりほろ苦かったりする読み心地は、心憎いものだ。
 この主人公の男は一体どうしたものか…と、読んでいるこっちまで途方に暮れそうになるが、それもまた堪らない。ぶっ飛んでいる、ということとは微妙に違う、あまり馴染みない思念が渦巻いているのを読むのは面白かった。そしてそこに、少しずついじらしさの混ざってくる具合が何とも言えない。可哀想に…と思わせる匙加減が絶妙だった。
 
 語り手でもある作家の本田は、年の離れた10年来の友人でレズビアンの七島と、今は一緒に暮らしている。短命に終わるかと思った同居は、かれこれ3年続いていた…。性的偏りが風変わりなだけで(受け、ということだが)、こんなにパートナーに不自由するものか…と思いつつ、でもそれ以前に同性とは友達にもなれないとか、恋人とも女同士のように付き合いたいとか、そんな自分を観察して私小説を書いている…とか、本田の人物造形は周到に面白過ぎる。
 一方、シェアメイトの七島もすごくいい。観察眼が鋭くて恋人が出来難く、恋愛関係の恨みにまみれていても、常に誇り高く雄々しい七島。そんな彼女を陰から讃えていた本田が、性を含まない強い愛着を抱くようになっていく過程に読み応えがある。気持ち悪くてみっともなくて、本田さんよかったじゃん…とちょっと思った。


 「変態月」も凄くよかった。女子高生二人が自転車で連れだって、13歳の後輩の告別式へと向かう場面から物語は始まる。小学校を卒業するまで少しく親しかったその少女は、S川の土手で殺されていたのだ。そして犯人が思いがけない人物だったことから、事件の波紋も意外な方へと広がっていくことに…。
 同じバレー部で仲の良い、順子と鏡子。どこかで踏みとどまろうとする彼女たちのゆらぎに、胸が甘苦しく疼いた。

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フリオ・リャマサーレス、『無声映画のシーン』

 『無声映画のシーン』の感想を少しばかり。

 “問うべきは死後に人生があるかどうかではなく、死ぬ前に人生があるかどうかである。” 12頁

 とても素晴らしかった。“母が死ぬまで大切にしまっていた”30枚の写真から、あらためて丹念に紡ぎ直された、鉱山町オリェーロスの物語。僅かな手がかりから記憶を呼び戻し、縺れた糸をほぐし縒りを正しながら思い出を手繰るその筆致…だが、少し物足りないくらい恬淡としていると、始めは感じた。一つところに留まらず、話はどんどん移っていってしまう。でも、そうして描かれた数々のエピソードがモザイクとなり繋がって、往年の町の姿を蘇らせていく様に、いつしか胸をうたれていた。失われて久しい遥かな時間たちが、こうして創造し直されていくと言うことに、ひたひたと静かな感慨が溢れてくる。
  そして序の中の、“想像力とは発酵熟成した記憶にほかならない”というポルトガル作家の言葉の意味を、ゆっくり噛みしめたくなった。

 町はずれの映画館、写真の中の六歳のまなざし、炭鉱の仕事で肺を蝕まれた坑夫たち、支払日の賑わいと見世物の一座、死を待ち続ける元坑夫、オートバイに乗せてくれたタンゴ…。もう、疾うから、生者に混じり亡霊たちがさ迷っていた鉱山町の、華やかな彩りには乏しい眺めが目の前に拡がるけれど。
 もうどこにもいない人々、どこにも残らぬ場所…と思えば、息を吹き返された彼らの人生の悲哀も諦念も、死も、別れも、少年の憧れも、全てがほろほろと沁み入るように懐かしい。

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