大庭みな子、『王女の涙』

 文庫の表紙としてはこれは飛び抜けた美しさだ…と、しばし見惚れた。 
 まるで、女の裸足が今まさに、草木の上に踏み置かれんとしている須臾の間に、勝手に植物の蔓が巻き付いてしまったようにも見られる。はっとしてカバーのソデを確かめると、版画家柄澤齊さんの名前があった。  

 『王女の涙』、大庭みな子を読みました。
 

〔 女の美しいものも、醜いものも――それから、かぐわしいもの、むっといやな匂いの両方を〈王女の涙〉の花の香は持っていたのであろう。女はそういう香りを嗅ぎ分けられない。 〕 6頁

 さして目立つ華やかさのある花ではないのに、夜になると挑撥的な香りを撒き散らす〈王女の涙〉。主人公桂子の夫が、死の間際まで気にしていた花でもある。その、嫌悪感とない交ぜになったような執着の裏には、いったいどんな想いが秘められていたのか…。

 古めかしい門と、香りのある木が多く植わった立派な庭のある、昔ながらの屋敷に住む吉野親子。その敷地内にあるのは、小柄で老けこんだ吉野八郎と、妖しく狂おしげなかぎろいを漂わせた娘の笛子の暮らす古い日本風な家屋と、貸家にしている長屋三軒である。そして大井桂子は、その庭から流れてきた〈王女の涙〉の香りに導かれるようにして、その貸家の住人になることに…。それからその家で起こることの数々を、彼女は目の当たりにするのであった。 
 去り逝く死者たちは一人秘密を呑みこんだまま、詳らかにはされぬ謎を残していった。残された生者たちの思いは謎の周囲をぐるぐる回り、いつしか蔓のように死者たちの思い出のよすがに絡まっては離れ、いつしかまた絡まり合っている。

 大まかに言ってしまえばこの作品において、死者たちが残していった謎は二つあると思う。その一つは笛子が言うように、その吉田家の庭にて二人もの人間が、妙な死に方をしていることである。物語はこの謎と、その二人の死に深く関わりがあると思われる女性への、笛子の深い憎しみと復讐の念を中心にして、底の知れない渦を巻きながら結末へと押し流されていく。
 そしてもう一つの謎というのは、もっと密やかな謎である。主人公桂子の胸の内にだけわだかまった、亡き夫が残していったささやかな謎。それは誰にも明るみにはされないまま、だからこそこの作品の中において、“秘密”というもの本来の持つ力を帯び、物語全篇の底流となっている。

 長く故国を離れていた桂子の、今の日本に感じる相容れなさと空しさに近い思い。戦争から帰ってきて自分の妻から、「人の肉を食べたんじゃないかしら」と言われた吉野八郎の心の傷。大人の思惑に振り回されて、それでも抗おうとしていた少年明の痛ましさ。そして、夏生という女性は本当に、笛子のいうようにまるで毒婦の如き女だったのだろうか…という疑問。 
 焦点を変えれば更に思いの尽きない、味わい深い作品であった。〈王女の涙〉とは、サクラランのことであるらしい。

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